第13話 噂の女
偽造証明書一味の摘発から半月ほど経つと、青山の名前は、カルドナの一部界隈で、ちょっとした知られ方をするようになっていた。
大々的に英雄視されているわけではない。むしろ青山自身は、目立つことを注意深く避けていた。それでも、市場で買い物をしていると、見知らぬ商人から「あんたが例の」と声をかけられることが、少しずつ増えていった。
「証明書の一件、聞いたよ。用心深い人がいるってのは、こっちとしても心強い」
「うちの品も、一度見てもらえないか。おかしな取引を持ちかけられて困ってるんだ」
青山を頼ってくる相手の多くは、悪気のない、ごく素朴な相談者たちだった。契約内容がどうにも腑に落ちない、取引相手の言動に妙な引っかかりを覚える――そういった、ちょっとした違和感を、誰かに確認してほしいという類の相談が、次第に舞い込むようになっていた。
青山は、それら一つ一つに、丁寧に向き合うようにしていた。頼まれれば契約書に目を通し、疑わしい点があれば指摘し、判断がつかない場合は、無理に結論を出さず、裏取りの方法を助言する。報酬を求めることはほとんどなかったが、その代わりに、街の人々との間に、少しずつ信頼と呼べるものが積み重なっていった。
ある日には、露店を営む初老の女性から、こんな相談を受けたこともあった。
「実はね、遠方の卸業者から、破格の値段で反物を大量に仕入れないかって話が来てるんだよ。今だけの特別価格だって言うんだけどねぇ」
差し出された取引の条件書に目を通した瞬間、青山の中で小さな引っかかりが生じた。前払いの割合が異様に高く、しかも品物の受け渡しは「後日、改めて」としか書かれていない。
「失礼ですが、この卸業者とは、以前にも取引をされたことが?」
「いいや、初めての相手だよ。でも、紹介してくれたのが、懇意にしてる仲買人でね」
「その仲買人の方は、この卸業者と直接、取引をされたことがあるかどうか、確認は取れていますか」
女性は、そこで初めて言葉に詰まった。
「……そう言われると、聞いたことがないねぇ」
「一晩、判断を置かれることをお勧めします。前払いの比率が高すぎますし、受け渡しの時期も曖昧です。少なくとも、仲買人の方に、直接取引の実績を確認されてからでも、遅くはないかと」
女性は青山の言葉に何度も頷き、結局その日のうちに取引を見送る決断をした。数日後、同じ卸業者から声をかけられていた別の商人が、前払いの代金だけを持ち逃げされたという話が、街に広まった。女性は青山のもとへ、菓子折りを持って礼を言いに来た。
こうした小さな出来事の積み重ねが、青山という人間の評判を、少しずつ形作っていった。「あの人に見てもらえば、危ない話には引っかからずに済む」――そんな言葉が、いつしか街の一部で交わされるようになっていた。
もっとも、青山自身は、この変化を手放しでは喜んでいなかった。
(評判というのは、諸刃の剣だ)
前世でも、青山は似たような経験をしたことがある。誠実な仕事を積み重ねれば、それだけ社内での信頼も評価も高くなる。だが、その評判こそが、時に判断を鈍らせる罠にもなり得る。「自分は見抜ける」という過信が、あの契約の日、青山の目を曇らせた一因だったことを、青山は忘れていなかった。
名前が知られることと、実際に見抜く力があることは、必ずしもイコールではない。青山はその線引きを、常に自分の中で意識し続けていた。
ある日の午後、青山はギルドで受けた依頼の帰り道、行きつけになりつつある食堂に立ち寄った。カウンター越しに料理を頼むと、隣の席に座っていた商人風の男が、ふと話しかけてきた。
「兄さん、噂の青山さんかい」
「……ええ、そうですが」
「いやなに、俺も先日、ちょっと危ない取引を持ちかけられそうになってな。あんたの話を聞いて、慎重になったおかげで助かったよ」
男は上機嫌に酒を呷りながら、世間話のついでのように続けた。
「そういえば、あんたみたいに"目端が利く"人間っていうと、思い出す話があってな」
「――と、言いますと」
男の口ぶりには、単なる噂話以上の含みがあるように感じられた。青山は自然な流れを装いながら、話の続きを促した。
「王都の方で、名の知れた"仲介屋"がいるらしいんだよ。エリス、とかいう女でな。どんな難しい取引でも、あっという間にまとめ上げちまうって話だ」
「仲介屋、ですか」
「そう。ただな、まとめ方が、あまりに鮮やか過ぎるって話もあってな。羨ましがる商人もいれば、どこか胡散臭さを感じてる連中もいる。俺は直接会ったことはないが……何でも、相手の欲しいものを、まるで心を読んだみたいに言い当てるらしい」
その言葉に、青山の中の何かが、静かに反応した。
(相手の欲しいものを、心を読んだように言い当てる――)
優れた交渉術と言えば聞こえはいいが、その言い回しには、青山にとって聞き覚えのある響きがあった。地面師詐欺においても、詐欺師たちは決まって、被害者が心の底で望んでいるものを的確に見抜き、それを差し出すという手口を使う。信頼できる人物を演じ、都合の良い条件を提示し、相手の警戒心そのものを解いていく。
「その方は、今も王都に?」
「さあ、そこまでは俺も知らんよ。ただ、噂じゃ最近、王都から離れて、あちこちを飛び回ってるって話も聞くな。……なんでだ、興味あるのか」
「いえ、少し」
青山は言葉を濁しながらも、内心では、その情報を丁寧に記憶の中へ仕舞い込んでいた。
「まあ、俺が聞いた話じゃ、悪い噂ばかりでもないんだけどな」
男は、思い出したように付け加えた。
「困ってる商人を助けたとか、潰れかけてた店を立て直してやったとか、そういう美談も一緒に流れてくる。だからこそ、余計に掴みどころがねぇんだよ。詐欺師なのか、それとも本物の敏腕なのか、聞く相手によって、まるで評価が違う」
「――それは、確かに」
善意と悪意が、同じ人物の噂として、混在したまま語られている。青山にとって、それは決して珍しい話ではなかった。地面師詐欺の主犯格たちも、被害者からすれば言語道断の犯罪者であると同時に、別の場面では愛想の良い、如才ない人物として振る舞っていたはずだ。人は、立場によって、同じ相手にまるで違う評価を下す。
名前と、大まかな特徴。仲介屋としての鮮やかすぎる手腕。善悪入り混じった評判。王都を離れて活動しているらしいという情報。それだけでは、まだ何一つ確かなことは言えない。だが、青山の中の警戒信号は、静かに、しかし確実に灯り続けていた。
食堂を出た青山は、夕暮れの街並みを歩きながら、これまでの半年足らずの出来事を、ゆっくりと振り返っていた。
地面師詐欺で全てを失い、トラックに轢かれて命を落とし、この異世界に転生した。ロウレル村での孤立、村長ムテンとの出会い、聖女ミレイアの一件、フォルカーとの旅、カルドナでの新生活。そして、偽造証明書の一味の摘発。
振り返れば、決して穏やかとは言えない日々だった。だが、その一つ一つが、青山の中に確かな経験として積み重なっていた。誰かを盲目的に信じることも、逆に全てを頑なに拒絶することもなく、自分なりの距離感を模索し続けてきた日々だった。
ふと、宿への道すがら、ギルドの前を通りかかった青山に、レイナが声をかけてきた。
「青山さん、ちょうど良かった。実は、上の方から話が来ていて」
「話、というと」
「ギルドとして、こういった相談ごとに専門で対応する立場を、正式に設けようという動きがあるんです。まだ検討段階ですが、青山さんに、その役目を担っていただけないかって」
思いがけない申し出だった。青山は少し考えてから、慎重に答えた。
「ありがたいお話ですが、少し考えさせてください。まだ、自分の中で判断がついていないので」
「もちろんです。急ぐ話ではありませんから」
レイナはそう言って、柔らかく微笑んだ。
その申し出を、青山は決して軽んじたわけではなかった。むしろ、自分のこれまでの原則――即決せず、保留を恐れない――を、こんな場面でも自然に実践できていることに、青山は静かな手応えを感じていた。
名声というものは、時に人を焦らせ、冷静な判断を狂わせる。だからこそ、良い話が舞い込んだときほど、これまで通りの慎重さを崩さない。それが、地面師詐欺の教訓から青山が学んだ、揺るぎない姿勢だった。
宿への道すがら、青山はふと、旅立ちの朝に村長ムテンから贈られた、粗末な布の外套に手を触れた。ロウレル村を出てから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、あの村での孤立と、ここカルドナでの評判の変化との落差に、青山は妙な感慨を覚えずにはいられなかった。
(ミレイアの一件では、村人たちから距離を置かれた。だが今度は、同じように"疑うこと"を貫いた結果、街の人々から信頼を得ている)
結果だけを見れば、正反対の評価だった。だが、その根底にある青山自身の姿勢は、何一つ変わっていない。証拠のないまま騒ぎ立てることはせず、確かな根拠が積み上がった時にだけ、言葉にする。その一貫性こそが、時に孤立を招き、時に信頼を生む――そのどちらに転ぶかは、周囲の状況や、相手の受け止め方次第でしかない。
(自分の姿勢そのものを、結果によって変える必要はない)
青山はそう、改めて自分に言い聞かせた。ロウレル村での経験は、決して無駄ではなかった。むしろ、あの孤立の記憶があったからこそ、今の評判に浮かれすぎずにいられるのだと、青山は思っていた。
(この街での生活も、少しずつ形になってきている)
だが同時に、青山の中には、漠然とした予感もあった。カルドナという街での小さな出来事の数々は、恐らく、この異世界における自分の物語の、ほんの序章に過ぎないのだろう、という予感だった。
王都という、まだ見ぬ大きな街。そこで囁かれる、鮮やかすぎる仲介屋の噂。そのどこかに、自分がこれから向き合うべき、より大きな何かが潜んでいる気がしてならなかった。
夜の帳が下り始めたカルドナの街を歩きながら、青山は静かに、拳を握りしめた。
誰も信じない。だが、目を逸らしもしない。
その姿勢を貫いた先に、一体何が待ち受けているのか。青山自身にも、まだその答えは見えていなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
――この物語は、まだ始まったばかりだということだけは。




