断章 8
1914年 19:44 バッシ―通りから裏路地に入る
「主よ‥‥‥我を助けたまえ」
静かに聖句を口に出し、ワイングラスになみなみと注がれた水に口をつける。
奇跡を信じてはいけない。
主とは、縋るものではなく、地に自らの足を着け、両手をもって祈るものだからだ。
『無駄なことをしている』
『そうそう、無駄無駄』
『——だって、あなたの神は、この世界のどこを探していもいないのだから』
体と脳を這いまわる、汚らわしい50の魂。その呼称を私は知ってる。だが、唱えるべきではないと知っている。
我らとの祈りにくみしえない。決して隣人にならざる者。
我らにとっての、真の異端。
大きく息を吐く。しかし、まともな店が、まだこの街にある。そんなことを考えたことはなかった。
パリは堕ちた。
ドイツの手に。
それでも、この街がまだ息をしていられるのは、この戦争の終わらせ方を皆が思い描いていないからだろう。そう、戦争を始めるのは、たった一人の意志と銃弾があればできる。だが、それを終わらせるには多くの意志が、もしくはとんでもない暴風が必要になるだろう。
クリスマスまでに戦争が終わるなどと、考えている民はいない。
焼き尽くし。奪いつくし。そして、当たらにまかれた罪科は、この地を大きく変えるだろう。
『それでこそ、私たちの願いが叶う』
『あなたたちの負け』
『私たちの勝利。勝利。
勝利の先にこそ、我らの神。その祝福があらん』
その戦争の地獄を望むものがある以上は、この地獄は‥‥‥永劫に続くだろう。
水をあおるように飲み込むと、ウエイターをしている小さな子を呼んだ。
「同じものをちょうだい」
「ええと、それでいいのですか」
店の喧騒の中、驚いたようにこちらを見るその子。私は、ただ神に祈った。この子の行く末に、神の加護があらんことを。
「ドイツに勢いがある今。早めの降伏を行い、残された時間をフランスの復興に当てるべきだ。そして、ドイツの志願兵として戦場で闘う。この勢いならば、中央同盟国の勝利は固いだろう。」
「馬鹿なことを言うな。通称国のイギリスに義勇軍としてはせ参じて、その武力でパリ解放を行うのが賢いやり方だ」
「お前らは、フランスの魂を。忘れたのか?レジスタンスとして活動するのが、‥‥‥」
喧噪は、静まることを知らない。そんな中、確かに何かの足音。聞こえたような気がした。
「来た。」
小さな声で、レジスタンス君たちは、一斉に窓の外を確認する。それことすら気が付かずに、降伏派と義勇軍派閥は、言い争いを続けている。
「どうぞ」
その子が水を運んでくる。テーブルに置かれた水が。水面が波立っている。何かが近づいてきている。
『——汚らわしい。汚点よ』
同調し、吐き捨てるように重なり合う50の声に、内心で返す。ええ、そうね。
でも、その言葉は、お前たちの方がよっぽど、似合うわね。
ジャンヌダルクども。




