フランス篇 中章&断章 2
「勝利の日だ」
掲げ。仰ぎ。見よ。
勝利の日だ。
「素晴らしいこと。「ええ、これは「素晴らしいこと」
唸る。唸る。人の。人の波が唸る。手には茨の冠の男の首。そして、血にあったのは‥‥‥。
パリジャン‥‥‥。
思わずに、吐き気が喉を超える。吐き出した先にあったのは、その顔たちだった。
『ああ、失敗』
『失敗』
『失敗した』
こちらを憐み、煽る。悍ましき声の群れ、夢の中とは言え、思わずつばを飲み込んだ。ため込んだ言葉を吐き出す。
「去れ。おぞましき者どもよ。お前たちの時代は終わったのだ」
『あなたがいるでしょう』
『いる限り』
『そう、終わらない』
「去れと言っている!!」
夢は晴れる。汗びっしょりに起き出した。
パリジャンの‥‥‥いや。バチカンの慈悲に感謝をしている。そんな自分がある。
きっと。
きっと一人でなければ。
今日。私は。狂っていたのかもしれない。
寝付いてから、1時間もたっていない。でも、夢に落ちるのが怖かった。
『案ずることなんてないわ』
『その身にゆだねれば、貴女の願いも夢も解決するだろう』
『私たちは、あなたを心配しているの。眠りにつきなさい』
うるさい‥‥‥
忌まわしきジャンヌダルクどもめ。
『一心同体よ。』
そういうところが。神経を逆なでする。
その瞬間だった。部屋の隅に、なぜか猫の気配を感じた。それと同時にそこに居て欲しくはない声も聞こえた。
「眠りの精霊。バースト。我らの主の聖別により、バステトの聖名を得る。
その名は、受け継がれよ。
無き主は言われた。
眠りの奥に悪魔あり。
眠りの扉に守護者あり。
悪魔の名は、ヒプノス。
人に眠りを強いるもの。偽りの永遠を与えるもの。
守護者の名はバステト。
人に目覚めを与えるもの。見えぬ未来を見せるもの。
人は、悪魔に魅入られし時には、永眠に導かれ。
人は、守護者んに導かれしときには、朝に起きるものである。
ゆえにだ。
ジャンヌダルク。
まだ、彼女には、目を覚まし朝に起きなければならない使命がある。」
舌打ちの音が聞こえた気がした。
同時に、あれほどに苛んでいた。声の群れは、沈黙に沈んだ。
警戒するようにしばらくの間こちらを見ていた小さな猫は、静かに部屋の隅に移ると毛づくろいをしている。
背中の汗が引くまでには長い時間がかかる。
荒れた呼吸が整うのには、それ以上の時間が。
だが、今は、それどころではないだろう。不埒な乱入者。を見据えて、
深く深呼吸し、静かに安堵した。
「女性の部屋にノックもなく入るなんて。バチカンは‥‥‥紳士ではないわね。」
「そもそもジャンヌダルクは、女性ではないからな。バチカンにおいては、聖人の一人となっている。聖人とは、つまり天使に告ぐ叙位だ。
つまり、お前は、女性ではない。ジャンヌダルクという存在だ。」
冷たい。確かに冷たく突き放した物言いだが。それでも、その冷たさが必要になるときもある。そんな、ものにでも、そんな異端審査のような絶望にでもしがみ付きたいときもある。
「こっちを、ジャンヌダルク。としてみてくれて助かるわ」
当然だ。とでも言うように、パリジャンは肩眉を上げた。
「ミセス。どんなに強靭な精神を持っていようと。人間は、一人では祈ることしかできない生き物だ。
だが、祈り、願い。空を見上げ、地に目を向けてきたからこそ。今という時代がある。
ミセス。あなたは、本来ならば今に生きるべき隣人だ。
だが、貴方の境遇には、十分なほどの同情する。」
ふっと息を吐いた。フォルサエらしい。
そして、彼らしい回答だ。
「ところで、あとどれくらい眠れるの?」
「パリに着くまでだ。」
今度こそ……今度こそ。眠れそうだ。
1940年11月20日
「ふむ。」
相手が、首を上げ、何か警戒したような表情を見せたことに、私。白洲次郎は少し驚きを感じた。
「どうされました」
「いや、どうも、こうも。な。これは、異なるものが、巴里に入ってきた。そう感じる次第で。」
すでに、夜は深まろうとする時刻。囲碁盤を挟んで2人の男が座っていた。一人は、ロイヤル・ワラントの精神を体現化したような、サエズ・ロウで仕立てたスーツが身に張り付いた壮齢の男、もう一人は、着流しでありながらも、どこか、血の匂いが零れ落ちてきそうな老齢の男だった。
「そのような事実がわかるとは……正にすさまじいな。それは、幕末から斬ることを修めてきた剣鬼の業のなせるものか?それとも、師範の言う斬ることへのあくなき執念のなせる業か?」
「そのような大したものではないわ。誰でもわかる。今宵の巴里は、少しばかり騒がしい。
国を身体と見るのならば、都市は臓器。そして、そこにつながるすべからくの網は、血管とみるがいい。
今日。超えてきたな。」
静かに、石を置く音が響いた。いままで、空白であった盤の南西に白石が置かれた。
「天元への道がひらきましたな」
「そうよ。白洲は、これに何を打つ?」
ゆっくりと黒石を手に取る。少し手の中で弄んだ。勢は揺るがず、命は手中にある。ならばこそ、打つべきは。
カッ。
石が鳴った。
素が答えであらんとするために。
ほうっと、剣鬼の唇が離れた。浮かんだ笑みは、月明りに照らされ、得に得も知れない空気をここに作り出す。凛と張った。などと言えば少し格式もあるだろうが。
血なまぐさく、そして、ただただ、気高い。
それを、もし言葉で表すのならば、しあいという言葉が妥当であろう。否、彼にとっては、終わったことであろうことから、そう呼ぶのも少し滑稽であろうか。
それを、考ええるのは、私が顔を上げることが出来た時からだ。
よもや、打った方が、汗する結果になるとは。
黒石から指を離せたのは、たっぷり半瞬立ってからのことだった。
碁盤から浮かび上がったのは、自分の無自覚のせいか、それとも。
「良い差し筋だ。慶喜公を思い出させる。そして、あの日のことも」
剣鬼は笑い、碁盤に白石を返した。
投降。
だが、それを額面通りに受け取る私ではない。ばらばらと落ち、音を立てるそれが盤上の意志に混ざるまでじっくりと目を話すことなく見ていた。
「さて。」
バンっと襟元を締める音が聞こえた。
驚き、首を上げてみた。
着ているものは、変わらずに、着流しであったはずであるが、今は、裃にそでを通した武士がそこに居るように感じた。
自然とそれは、相対するを強要する所作となる。だが、そのことはむしろ心地よい。
「特務機関の言う、中世の英雄の再来。そして、うわさに聞く、ナチスの超人兵団。その真髄を見せてもらうするか。白洲の方。」
頷く。白洲次郎が、この長期にわたりパリを含むヨーロッパに対座しているのは、表向きは、ドイツとの交渉と、ハー二型に乗せるダイムラーエンジンのテストであったが、本来の目的はほかにあった。
剣鬼は、その表情を見て、笑みをこぼした。笑う。ただそれだけが、こんなに攻撃的な表情になる人物を、白洲次郎は知らない。
「さて、どちらを斬るべきか‥‥‥まもなくわかるだろう。」
夜が明ける。死んだように静かに流れていた巴里の夜が……確かに明ける。夜明けとは、必ず何かを確かにするものである。
それが、いかなるものであろうと、この2人は受け止める腹であった。




