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断章 7

 お前は帰らなかった。それは、わかり切ったことだ。

 だからこそ、おれは帰るのだろう。


 呼び鈴が成る。あの頃と同じように。

 あいつが、塹壕の底で嬉しそうに鳴らしたそれのように。ただ、呼び鈴が成る。


「ああ、聞こえている。」


 鶏肉のステーキを切り分けながらただ、鷹揚に応えた。

 おそらくは雄鶏。筋に沿い、ざくざくと切り分け、そして、口にほおばった。筋肉の間よりじわっと漏れ出たるは、それと混じったスープ。どこからが肉の味で、どこからがスープの味か。など問うも愚かなこと。

 口の中にありさえすればいい。それは、目的を達するのには必要なことだ。


 口に含んだ瞬間、ドアの開く音。

 おそらく、彼だろう。この場に、それ以上にふさわしいものなど……存在しようはずもない。


「お食事中でしたか。」


「まあな。伝言だろ。

 話してくれ。


 あいにく、食事というものに貪欲でね。この通り、カトラリーを手から離せないのだ。」


 後ろ向きにカトラリーを掲げる。

 気配。彼、ナチスの鍵十字と黄金の穂の天秤を抱く彼。其は、あきれた表情すら見せずに、対面に座る。


「私は……わが父に。文字通り命を救われたものです。」


 ――ずるい奴だ。そう感じた。こちらが口を開くことをためらうような時。その反論を封じている間に、自分の境遇語りを行うとは。実にひどい。そして、爽やかな奴だと。いう。そう、矛盾するような矛盾しえない感情を抱かざる負えないそういう感情をこの胸中に抱かせる。そんな人物だった。


「わが父は、……復活を……いえ、違いますね。

 わが父の望んだのは、彼の方が望んだ正しき世界。それが、成し遂げた世界。

 そのものです。


 光あれと言い生まれた世界。

 それが、やがて行き着く先。

 隣人を踏みにじることが当たり前の世界になる。

 隣人を信じないことが当たり前の世界になる。

 

 わが父は……そうなることを。そうなってしまうことを忌避していました。


 だからこそ、世界が一つであったことを知る者たちに……自らの首を垂れて、乞うたのです。



 貴方にならば、わかる。そう言っていました。」

 



 馬鹿げたことだなどという気などなかった。

 お前は、ただ信じていた。お前は、ただ一人わかっていた。

 お前は、総統ではない。お前は、英雄などではない。お前は、優秀な伝令兵ではない。お前は、兵士などではない。お前は……。お前は。

 ――。馬鹿な奴だ。


 ただ、芸術を愛する。ただの人間であって良かったはずの人間だ。俺は、お前の絵を見てそう思った。



 お前は、間違えてなどいない。お前は、兵士のように、命令をただ聞くだけの歯車ではない。お前は、歯車を動かすための部品などではない。お前は、歯車と部品がかみ合う事を待つ監督のようなものではなく……期待するようなものではなく……お前は。お前なのだ。


 言えなかった。その神秘に飲まれるその絵から漂う。淦色の黄金の気配。そこに魅入られ。そこに取り込まれた。



 おれが、言えれば、もしかしたら。おれが、言えていれば。もしかしたら。

 だからこそ、思ってしまったのだ。

 

 どうであれ、これこそが、おれが、背負うべきものだと。


 呑み込む。ああ、これ以上は食しようがない。ただ、それを悟らせなくてもいい。それを口から出す必要はない。

 ナプキンを取り、油に汚れた口を拭った。

 もう、考える時間は……猶予たる時間は静かに終わりを告げていたのだ。


「貴君に問う。あいつは、どうなりたいのだ?」


「私に、わが父の御心は知れません。ですが……」


 対面の人物が、大きく息を吸うのを感じた。そう。大きなことをするときには、大きな動作が必要になる。彼は。彼の責に沿うところで、自らの心を出さないといけないくなったのかも――しれない。

 彼と彼の父の心の間で。


 雄鶏のステーキは冷めていく。それを感じながらも、彼の言葉。それが聞きたかった。その中には、お前の心以外にも、彼の本心も混じっているのだろう。


 だからこそ、聞きたかった。


「私は、貴方様が嫌いです。わが父の寵愛を受けておきながら。大事な時にその側にいない。私は、貴方様がおそばに居れば。

 もし――。

 もし――。

 もし――。

 もし、あの時に、貴方様がお近くに居れば。

 

 そう感じない日々はありませんでした。」


 ゆっくりと冷たく冷えた孤独な肉を口に運んだ。味気ないぱさぱさの身と冷たく冷え切ったスープは、‥‥‥口の中のみならず、心をも冷やしていくようだった。


「……人間は化け物になる。

 それは、人間とは、自分と同じものを傷つけなければ生きていくことのできない。

 化け物だからである。

 そう知りながら、我が父は、貴方に救いを求めていました。


 だからこそ……」


「それは違うぞ。

 あいつが、もしそうであるのであれば……。


 お前が、ここに来る意味などない。

 違うか?」


 ゆっくりと、暖かい息が肺の奥から出で来る。

 安心してしまった。ただのゆえに、おれは。安心してしまったのだ。


 お前は歯車にも、そして、それ動力として動く機械にもなり切れなかった。

 お前は。おまえであり続けた。

 そうだろう。



 食事を続ける。おれのサイドテーブルに、割られた封蝋を再度閉じられた封筒が置かれている。

 内容は解っている。

 おれは少しは解っているつもりだ。

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