イギリス篇 中章 10
ご友人の手がゆっくりと止まり、そこからコインが零れ落ちた。
ゆっくりとそれは……机に零れ落ち……やがて、止まった。
静かな一幕であった。
我らの父より迎え入れよと、命ざれたそのご友人は、ゆっくりと資料から顔を上げた。
その表情は――少し、焦燥して見えた。
「ああ、ありがとう。知るべきことを知ることができた。貴君に、時間をかけさせた。
すまなかった。
このことは、もしかしたら一般書庫でも確認できたかな?」
そのご友人は、何か安心したように見えた。
ただ、なににと問うことは禁じられていた。
「いえ、小官が知る限り、一般書庫にこれに関する事実はありません。この事実は、知る由もないことです。」
「だろうな。
ここに来るのも、久しくて。懐かしい。あの頃は、皆が、世界の終わりを感じながら。皆が、それぞれの位置で、できることを行っていた。貴君も、そうだったか?」
「ええ、あなた方の噂は聞き及んでいました。」
ゆっくりと、偽竜騎兵は立ち上がった。知りたかった――そのすべてを知った。そういう顔をしていた。だが、その顔。ただ、目と口元は笑っていなかった。
「あの頃と同じように……皆必死になっている。
私は……貴官の苦悩に理解を示す。」
「……あ、ありがとうございます。」
思わず頭を下げかけたその動きは……手一本で止められた。
「貴官は、任務に則り。ただ忠実に動いただけだ。気にしなくていい。俺程度のに下げるような安い頭ではないはずだ。大事にすることだ。
貴官は……。
兄貴の最期。
看取ったのだろう。それだけで、十分だ。
今は……何も教えてくれなくていい。」
竜騎兵ドゥルニルは、第二次ヤルヌ会戦の前、あのリヨンの森に敷かれたあまりに厳重な防衛網。その中にただ、置き去りにされた。問題は、それの意図を問うことなど、最早できないことだ。
協商国家連合は……10発の重擲弾。無数の機関銃座。そして、時代錯誤の大砲まで持ち出して。
英雄を皆に望まれた通り、伝説にした。
漸くドゥルニルは、真に死した伝説となり、協商国家連合へ最後の抵抗を見せたドイツ兵の心のよりどころになる。そういうシナリオだった。その死の時期と前後して、ヒュルトゲンの森たる、メルルも。参謀本部のアドバイザーという位置から引いている。おそらくは、身の危険危険……否、失望を。それを、感じたのだろう。
ライン会議は、その後に第一次世界大戦に自らでは参加はしていない。
無理やり舞台に立たされた役者の退場。それは……いや、退場させるにしても何らかの方策はあったのでは。それは思う。
ゆっくりとご友人は立ち上がった。
「すまなかったな。思い出させてしまって。」
「いえ、貴方様ならば……これは、出過ぎたことでした。
出口にご案内いたします。
よろしいですか。」
口に手を当てた。
それすらも、まるでわかったように、頷くのを確認して、そっと目隠しを当てた。その手を引き、ゆっくりと部屋を後にする。机の上の資料は、明日にでも片付ければいい。
ドアが閉まる。風が起こる。ページが捲れ。偶然コインに敷かれていた糸に触れる。糸は滑る。それが、角度を持つ。ゆっくりと、コインが机の下に堕ちた。
落ちた。落ちて。
床に跳ねて、唯に……光りて。光があった。
「少しは……ましな道具はなかったのかよ」
そこにいたのはシュレッターだった。いつもの装備ではあるが、小銃も携帯していない。ゆっくりと視線を這わせ、頭を上げる。天井には、書籍が積み上がり、悍ましき秘されるべき歴史が、シュレッターを見下していた。
「これは、これは。暴きがいのありそうな部屋で。」
1940年12月18日 16:42 ベルリン図書館特別閲覧室
まず向かったのは、さっきまで、読まれていたはずの、閲覧台だ。そこに置かれていた資料。それに目をとした。
「ジャックポットだ。ブレンド。」
あったのは、ウルティマの死後、超人が戦場に顕れ始めた1916年からの戦死者リスト。視線を上げると目の前にあったのは、1914-1915年の死亡者リスト。1915年。リストを逆引きにする。1915年10月20日から1915年11月20日までの1か月間。
すべての戦争を過去にした。その戦場は。そう云われた。
地獄とは何か?問われたのならば、そこである。そう称された。
第一世界大戦の最も悲惨な戦場が、第二次ヤルヌ会戦。であるのならば、最も絶望的な戦場。それこそがそこである。参戦したたった10人のイギリス軍の超人に10万もの将兵と20万の補助戦力。そして、人類の全てをつぎ込んだ難攻不落の陣地と称されたその場所は、瓦礫と血の池に沈んだ。
その陣地の名はノイバーベルク。
神聖にして不可踏な山脈を意味する陣地。
イギリスの上陸作戦に対抗するために、フランスのカレー海岸に築かれた、戦場の芸術であった。
その一人一人の名前に眼を通していく。
その名前は、意外と早く見つかった。
「アーデレーナ・ヒルデガルド・シュリーフェン。やはり……ここにいたのか」
無機質な文字の群れに、シャッターが下りる。
使命は終わった。そう思った時だった。不意に、声が聞こえたような気がした。
「ほら、坊は、また見落としているよ」
「何を見落としているっていうんだよ。ちゃんと見てるだろう?」
その人は、ゆっくりと目を閉じて首を横に振った。そして、ゆっくりと指を滑らせる。
「坊は、なんで、この人物がそうだって思ったんだね?」
その絵は、よく観たことのあるテーマの絵だった。
『十人長の論弁』
ローマ帝国の内乱をテーマにした絵画で、とらえられた十人長(部隊の隊長)が、罪の告発に対して否定の弁明をしている絵である。告発者に罪を読み上げられている、目を見開いた哀れな男。その哀れな男の両肩を押さえつけている2人の男と、告発者の隣に立ち告白書に左手を添える女性。
この中の十人長は誰か?といわれ、俺は、即座に、その哀れな男だと答えた。
それに対して、その人が言ったことだった。
「この題は、十人長の論弁だ。弁明ではない。弁明であるのならば、坊の言うことが正しいんだけどね」
それを聞いて、はっと思った。目の前の絵には、多くの意味があることを。もう一度注意深く見た。そう、見落としていたのは……。
「上出来だよ。坊。」
答えは、そこにあったそして、
「そうだ、これを証明しないと……じゃないとだめだ」
おそらく、これだけの証言と証拠、それでも行動するだろう。ボスは……そういう男だ。だが、それでは足りない。
「だが、どうやって」
少しの真実を暴き出した。後に小さな穴が開いた。そこからのぞき込んだ。先には、真実の山脈が、その狂気が。目の前に立ちふさがっている。知らずと生唾を飲み込んだ。
そっと、戦死者名簿を震える手で、もとの位置に戻した。
手が震える。
悦びと嬉しさで。
これを存分に使うことができる喜び。体全身を電撃のように駆け巡っている。
久しぶりに。だからこそ、引くつもりはなかった。できうることを徹底的に付き合ってやる。
「探求の為に、為すべきことを、為せ……か。やってみるよ」
小さな誇りを胸に、その狂気に立ち向かう。そう決めた。




