イギリス篇 中章 9
「いいかい、坊。よく聞きなよ。目だけで、とらえようとするのではないんだ。まずは、掌に眼を生じさせるように意識を持っていく……。うまいよ」
訛りの強い英語が聞き取れるようになるまで、1週間。坊なんて、少し恥ずかしい言葉で呼ばれることになれるまでに1か月。そして、まるで掌を通じて光以上の何かを見れるようになるまで、そこから3か月を要した。
「指の先でも見れるようにするんだ。これは、私のやり方じゃないけど、坊ならばきっとできるよ。ほら泣いている暇があるんだったら、これでも見てごらん。……うん?これは、ハムレットだって。ああ、そうか。あんたには簡単すぎたか」
その人は厳しいながらも、ユーモアがあった。今で思えば、その人の辛さは、想像を絶するものがある。自らの主が病に倒れ、その看病をしながら、俺という人間に……ただ、皆から嫌われ怖がられる俺に。そして、何人なのかもわからない俺に。その答えを、手とり足とり教えていたのだから。
「最後の晩餐……の白黒写真。変なのが映り込んでいるけど」
「当たり。ここまでよく頑張ったね。」
その人のことを、最初に教養がないなんて思ったのは間違いだった。深く深く、探求の末に身に着けた教養は、とても強かった。
とても。強かった。
だからこそ、最後の日に見せた表情は……。
「坊――いえ。
私たちの……。元気に過ごして。」
静かに頭を地面に着くほどに下げて。俺の前から消えてしまった。
俺は、まだ何も返していないのに。
俺は、貴女に何も返していないのに。
「目が覚めたか?」
まだ暗い夜。不意に感じたのは……悍ましき気配だった。ブレンドと祝杯を挙げた。そこで記憶は途絶えている。いつの間に、シーツの間に入ったのだろう。それを考える間すら見出すことはできなかった。
それは、闇の中で確かに哂った。
「八翼と獣に従って逃げ出した神々と国津神。残されたものは嘆きと苦しみを味わった。
だが、逃げないものたちもいた。
それは、残すことに未来を託した。
私も……そして、彼女たちもそうだ。ゆえに、祝福した。
その成果が、お前というわけだ」
ぞっとする笑みだった。声色から察するに女だろう。だが、違和感がそれを拒否した。その気配は、闇の中で確かに輝いていた。安寧をもたらしながらも血を好むのだろう。その姿は、それを感じさせるに十分すぎた。
「これから起こることを、お前は――何一つ恐れるな。
お前が起こすことを、振り返るな。
犠牲を問うな。
進め。進め。進め。
お前の手で印す真実の先に道ができる。」
おそらくそれは、微笑んだ。ぞっとするほど冷たい太陽の微笑みだった。ゆっくりと手に持った剣を掲げる。
「真実の道の先に。太陽は昇る。」
その女性は、大男でも十握はある剣を掲げた。不意に、まだ真夜中のはずなのに、その先に太陽が見えた。
「――」
それは、誓約だった。
1940年12月17日 未明
「ゥっ!!」
思わず、シーツをはねのけて起き上がった。全身から出る汗は、暖炉の熱がもたらしたものではないだろう。祝杯と言いながら、ブランドと共に、エールをジョッキで3杯一気に明けた。自分が、酒に弱かった思い出したのはそれから後だった。
そこまで思い出したが、そこから先は、何も覚えていない。
さっきのは夢だったのだろうか、黒髪のとても美しい女性が見えた。ただ、手には十握りの剣を携え、腰に桃を撒いていた。不思議な格好の女性だった。
そして、どこか、あの祖父の召使の醸し出す雰囲気にも似ていた。
まだ暗い部屋の中。月明りに照らされて、ブレンドは暖炉の近くで椅子にブランケットを掛けて静かに寝息を立てていた。
その様子は、休息しているというより、まるで新たな戦いに向けてただ瞳を閉じている。
兵士の様でもあった。
いよいよ明日の夕方。決行となる。怖れがあるかと問われれば。それは、当然のようにある。まだ、俺は何も知らない。金の穂の天秤のことを何も知らない。金の目を光らせている将兵たちを何も知らない。今の任務で、それと鉢合わせする可能性がある。
未知への恐怖と共に、既知への恐怖もこみあげてくる。
もし、できなかったらどうすればいいのだろうか?もし、発見されてしまったら、どうすればいいのだろうか?もし、もし、もし。
不安な心を鎮めるために、手をサイドテーブルに伸ばす。手慣れたものが、手中に納まる。愛用のライカ。今という時間を作り出した。立役者であり、狂言回しでもある。
最初は冷たい鉄の塊の様だったライカ。その冷たさが自らの手にある熱と同じくらいになるまでほぐれるのを待つと、ゆっくりとファインダーをのぞきシャッターを切った。
この相棒と共に、困難に挑む。その先にあの日の俺に、探求を命じたあの女性の姿を感じた。




