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扉をほんの少しだけ開け、顔だけを廊下に出して左右を見る。
薄暗い廊下には誰の姿もなかった。
(廊下に異変はない……ようだな)
心の中でそう呟き、俺はいつもよりずっと重たく感じる扉をゆっくり開いた。
キィ……と音が鳴る。
たったそれだけの音なのに、今はやけに心臓に悪い。
(とりあえず隣の部屋の確認か)
俺の部屋は角部屋で、廊下の片側にしか部屋がない。
だからまずはすぐ隣の部屋だ。
足音をできるだけ殺しながら隣の部屋の前まで行き、インターホンを押す。
ピンポーン――
静まり返った廊下に、間の抜けた電子音が響く。
押してから、ふと気づく。
(……いや、出てきたら何て言うんだよ)
少し慌てたが、結局インターホンの向こうから返事はなかった。
じわりと嫌な汗が背中に滲む。
(大丈夫だ……落ち着け……)
自分に言い聞かせる。
昨日のゴブリンのことを思い出すだけで、心臓が嫌な音を立てる。
けどここでビビって部屋に引きこもっていても何も分からない。
(とりあえずさらに隣の部屋も確認しよう)
もう一つ先の部屋まで行き、同じようにインターホンを押す。
ピンポーン――
やっぱり返事はない。
「まずいな……」
思わず声が漏れた。
留守なだけかもしれない。
そう思おうとしたけど、何かが引っかかる。
人の気配がなさすぎるのだ。
息を潜めている感じもしない。
物音一つしない。
まるで最初から誰もいないみたいだった。
嫌な予感が脳裏をよぎる。
(とりあえず階段の踊り場まで行くか)
このマンションは廊下の踊り場から外が見える。
俺の部屋の窓からは隣のビルの壁しか見えなかったが、あそこなら街の様子が分かるかもしれない。
俺は足音を忍ばせながら廊下を進む。
いつもならすぐの距離だ。
なのに今日はやけに長く感じる。
実際いつもよりずっとゆっくり進んでいる。
警戒しながら歩いているせいで、たぶん普段の倍くらいは時間がかかっていた。
そしてようやく踊り場へたどり着き、俺は慎重に外を見た。
その瞬間、足が止まった。
「……嘘だろ……」
ぽつりとそれだけが口から漏れる。
目の前には、崩壊した世界が広がっていた。
遠くの建物の窓ガラスは割れ、ビルからは薄く黒い煙が上がっている。
道路には何台もの車が放置され、電柱は途中で折れ曲がり、信号機は斜めになってぶら下がっていた。
近くのコンビニもガラスが割れていて、店内の棚が倒れているのがここからでも見える。
踊り場から吹き込んでくる一月の冷たい風が頬を打つ。
その冷たさだけが妙に現実的で、逆に頭が追いつかない。
世界の終わり?
地震?
戦争?
ドッキリ?
それともいまや古典になった異世界転生? 転移?
考えがまとまらない。
どれだけ立ち尽くしていただろう。
俺は立って居られなくなり、その場に座りこんだ。
昨日の朝までは、少なくとも普通の世界だったはずだ。
クソ上司にイラつきながら会社に行って、面倒くせえと思いながら働いて、それでも一応日常だった。
それが一晩で、こんな終末みたいな景色になるわけがない。
だが目の前の光景はどう見ても現実だった。
そして何より嫌なのは、人が見えないことだった。
道路にも、歩道にも、ベランダにも、人の姿がない。
俺はしばらくその場で周囲を見回したが、やっぱり人影は見当たらなかった。
その時、ふと両親の顔が浮かぶ。
(お父さんとお母さん……大丈夫か?)
実家は大阪にあり、就職と同時に東京に引越して来ている為、すぐに様子を見に行ける距離でもはない。スマホもネットも死んでる今、連絡の取りようもない。
胸の奥がじわっと重くなる。
こういう世界になった時、真っ先に心配する相手がいるってのは、ありがたいことなのか苦しいことなのか分からない。
(とりあえず俺が今生きる事を考えよう。)
彼女はいない。
まあ童貞だし……
そこはまあ問題なかった。
こんな状況で「恋人が無事か」みたいな心配をしなくて済むのは、不幸中の幸い……なのか?
いや、普通にちょっと虚しいな。
高校の友達の顔も何人か頭に浮かんだが、すぐに消えた。
元々そこまで深い付き合いがあったわけじゃない。
卒業してからは連絡も取っていないし、今さら安否を気にするほどの仲でもなかった。
薄情かもしれないが、正直どうでもよかった。
今の俺にそんな余裕はない。
(……確認しないと駄目だな)
このまま上から見ているだけじゃ何も分からない。
俺は意を決して階段を下りることにした。
一段ずつ、足音を殺して下りていく。
昨日の夜は死にかけるほどボロボロだったはずなのに、体は妙に軽い。
足取りも安定しているし、呼吸もほとんど乱れない。
(やっぱり、あの身体能力向上のせいか?)
頭の片隅でそんなことを考えつつ、一階まで下りる。
一階のエントランスの床には、チラシや新聞が散らばっていて誰かが片付けた様子もない。
そのまま慎重に外へ出る。
昼間のはずなのに、妙に世界が薄暗く見えた。
実際に暗いわけじゃない。人の気配がなさすぎて、景色から色が抜け落ちたように見えるだけだ。
周囲を警戒しながらゆっくり歩く。
近くの駐車場には車が乱雑に止められたまま放置されていた。
運転席のドアが開いたままの車もある。
けど中に人はいない。
道路の端には買い物袋が破れて、中身が散乱していた。
ペットボトル、カップ麺、菓子パン。
そんな日常の品がアスファルトの上に無造作に転がっているのが、逆に気味が悪かった。
「誰も……いないのか?」
呟いてみるが、返事はない。
しばらく周辺を歩いてみたが、やっぱり人影は見当たらなかった。
どこかに隠れているのか、逃げたのか、それとも――そこから先は考えたくなかった。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
このままじゃまずい。
「情報なし、人もなし、食料は有限……か」
頭を整理するように口に出す。
昨日までなら腹が減ればコンビニに行けばよかった。
喉が渇けば自販機で飲み物を買えばいい。
けど今は、その当たり前がいつまで通用するのか分からない。
原因も分からない。
怪物がどれだけいるのかも分からない。
電気や水道がこのまま使えるのかも怪しい。
「……とにかく食料だな」
なんだかよく分からないが、まずはそこだ。
こういう時に困るのは結局、食い物と水だ。
腹が減れば頭も回らなくなるし、まともな判断もできなくなる。
それに、避難所がちゃんと機能しているなら、そこに人が集まっているかもしれない。
生存者を探すなら、まずはそこを確認するべきだろう。
しばらく考えた末、俺は一度部屋に戻ることにした。
今のままじゃ準備不足すぎる。
街の様子を見たことで、逆にはっきりした。
部屋に戻ると、まず鍵をかける。
それから椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……よし、整理しよう」
頭の中で、やるべきことを並べる。
一つ、能力の確認。
二つ、装備を整える。
三つ、今後の方針を決める。
「ステータス」
呟くと、例の半透明の画面が目の前に現れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
名前・弘前 一篤
レベル・1
パッシブスキル・身体能力向上(1)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
相変わらず説明不足にもほどがある。
「せめて詳細くらい出ろよ……」
スキル名を指で押してみても反応はない。
睨みつけても変化なし。
本当に親切設計ゼロのクソゲー仕様だった。
けど、身体が軽くなっているのは間違いない。
試しにその場で軽くジャンプしてみる。
「……お?」
思ったより高く跳べた。
いや、かなり高い。普段の俺ならこんなに浮かない。
次に腕立て伏せをしてみる。
十回。
二十回。
三十回。
まだ余裕がある。
「マジかよ……」
社会人になってからろくに運動もしていない俺が、こんなに動けるわけがない。
どう考えても、あのスキルの影響だ。
さらにキッチンにあった冷蔵庫を持ち上げてみると、これも普段よりかなり軽く感じる。
超人になったほどじゃないが、昨日までの自分と違うのは明らかだった。
「少なくとも、多少は戦える……のか?」
そう呟いた瞬間、昨日ゴブリンにボコボコにされた記憶が蘇る。
「……いや、過信は禁物だな」
レベル1で調子に乗って死ぬとか、初心者の雑魚すぎる。
俺は装備を見直すことにした。
革ジャン、ジーパン、ブーツ。
動きやすさは微妙だが、防御力は多少マシだろう。
武器は包丁一本では不安だったので、浴室にかけてあったアルミの物干し竿を手に取る。
少し頼りないが、振り回せばそれなりには使えそうだ。
さらにリュックには残りの資材を詰め込めるだけ詰め込む。
「……見た目は完全に不審者だな」
鏡の前に立つ。
革ジャンに包丁、物干し竿、リュック。
終末世界を生き延びる主人公というより、職質されたら終わる危ない男だった。
だが、今さら見た目を気にしている場合じゃない。
俺は机の上にメモを置き、簡単に今後の方針を書き出す。
・避難所の確認
・食料の調達
・人がいるかの確認
・危険なら即撤退
書いてみると、意外とやることはシンプルだった。
「……やるしかないか」
怖くないわけじゃない。
むしろ、めちゃくちゃ怖い。
外には昨日みたいな怪物がまたいるかもしれない。
いや、いる前提で考えた方がいい。
でも、部屋に閉じこもっていても状況は好転しない。
この世界が本当に変わってしまったのなら、俺も変わるしかない。
ただの会社員だった昨日までとは違う。
少なくとも今は、自分で動かなければ誰も助けてくれない。
俺は深呼吸を一つして、玄関へ向かった。
ドアノブを握る手に、じんわり汗が滲む。
「まずは食料……それから避難所で生存者確認だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、覚悟を決めて、崩壊した世界への扉を開けた。
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