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家を出たあと、俺は素早く廊下を進み、そのまま階段を下りてエントランスへ向かった。
さっき外の様子を見に行った時より、明らかに動きがスムーズだ。
まだ戸惑っている部分はあるが、この異常な環境にも少しは慣れてきたのかもしれない。
それとも、やはりあの身体能力向上とかいうスキルの影響なのか。
どちらにせよ、今は動ける方がありがたかった。
家からコンビニまでは、普通なら徒歩で十分くらいの距離だ。
だが、今の街を普通の感覚で歩く気にはなれない。
俺は物陰に隠れながら、できるだけ気配を殺してコンビニまでの道を進んだ。
道中、何度かゴブリンの姿を見かけた。
一匹でふらふら歩いている奴もいれば、二匹、三匹で固まっている奴らもいる。
しばらく物陰から観察していると、どうやらゴブリンはそこまで頭が良くないらしい。
急に走り出したかと思えば、落ちている空き缶を蹴って遊びだしたり、仲間同士で押し合ったりしている。
知能だけで言えば、小学生の低学年より低いかもしれない。
だからといって侮れる相手じゃない。
昨日の戦いを思い出す。
あの小さい体のどこにそんな力があるのかと思うほど、ゴブリンの腕力は凄まじかった。
頭が悪くても、力が強くて数までいるなら、それだけで十分脅威だ。
(知能が低いってのは、逆に厄介かもしれないな……)
話が通じる可能性が最初からゼロってことだからな。
俺はできるだけゴブリンと戦闘にならないように注意しながら進み、三十分ほどかけてようやく目当てのコンビニへたどり着いた。
(……何も近くにはいないようだな)
コンビニの周囲をしばらく警戒し、近くに怪物の気配がないことを確認してから、俺は慎重に店内へ侵入して中を見渡す。
「……やっぱりか」
食料品や生活必需品は、あらかた持ち出された後だった。
棚はところどころ空になっていて、倒れているものもある。
おにぎりや弁当はすでに傷み始めており、とても食べられそうにない。
電気も止まっているのか、店内は薄暗く、冷蔵ケースも沈黙したままだった。
俺はため息を飲み込みながら、残っていたカロリーバー、チョコ、ペットボトルの水なんかをリュックに詰めていく。
多くは持てない。
だが何もないよりは遥かにマシだ。
俺は食料をリュックに詰めながら、この世界の違和感を考えた。
(おかしい……)
いや、怪物が出てきた時点で、もう十分おかしい。
そんなことは分かっている。
だが、それとは別の違和感があった。
家からここまで来る途中、放置された車や、外から見える家々の様子を確認した。
けれど、どこにも人の気配がなかった。
人気がなさすぎる。
世界が崩壊したのが昨日のことだとしたら、ここまで一気に無人になるものなのか?
家に立てこもる人間がいてもいいはずだし、逃げ遅れて助けを求める声がどこかから聞こえてもおかしくない。
また、これだけ怪物がいるなら、怪物と争った人の死体などもあると思うが……
納得できないものを感じながら、俺が思考を巡らせていた時だった。
店の外から、聞き覚えのある嫌な声がした。
「グギャ……」
俺の全身が一気に強張る。
「グギャ!」「グギャッ!」
一匹じゃない。
俺は息を殺し、割れたガラス越しに外を窺った。
そこにはゴブリンがいた。
一匹、二匹、三匹……五匹。
「うわ……マジかよ……」
思わず悪態が漏れる。
五匹のゴブリンが群れになって、道路の真ん中をうろついていた。
笑い声みたいな気味の悪い声を上げながら、少しずつこちらの方向へ近づいてくる。
(無理無理無理、戦えるわけねえだろ)
一匹ならまだしも、五匹だ。
今の俺が突っ込んだところで、袋叩きにされて終わりだ。
俺はすぐに店内の棚の陰へ身を隠した。
鼓動がうるさい。
息をする音すら大きく感じる。
(頼むから入ってくるな……頼むからこっち来るな……)
昨日の夜の記憶が蘇る。
顔を殴られた感触。
地面に叩きつけられた痛み。
口の中に広がった血の味。
気づけば、物干し竿を握る手に汗がにじんでいた。
ゴブリンたちはしばらく店の外をうろついていた。
今のところ、中に入ってくる気配はない。
だが、一匹がふいにこちらを向いた気がして、心臓が止まりかける。
その瞬間だった。
ーーゾクリ、と空気が変わった。
さっきまでの冷たいだけの風とは違う。
何か大きなものが近づいてくるような、圧のようなものが周囲を満たす。
ゴブリンたちも異変に気づいたのか、一斉に動きを止めた。
次の瞬間、白い影が道路の向こうから現れた。
(……は?)
思わず声が漏れそうになるのを必死に堪える。
それは、狼だった。
ただし、普通の狼じゃない。
雪みたいに真っ白な毛並み。
巨大な体。
銀色にも青にも見える不思議な瞳。
四肢はしなやかなのに、一歩踏み出すだけで周囲の空気が震えるような存在感がある。
神話とかゲームに出てくる、フェンリル。
そんな言葉が真っ先に頭に浮かんだ。
「グ、グギャ!?」
ゴブリンの一匹が叫ぶ。
だが次の瞬間、白い狼は地を滑るように動いた。
速い、なんてもんじゃなかった。
目で追えたと思った時には、五匹のゴブリンの体がまとめて吹き飛んでいた。
アスファルトに打ち付けられ、ぐしゃりと嫌な音を立てる。
さっきまで五匹で群れていたゴブリンたちは、一瞬で地面に転がっていた。
(……え、強すぎない?)
呆然としながら心の中で呟く。
昨日一匹であれだけ苦戦した相手を、まるで雑魚みたいに蹴散らした。
レベルが違うとか、そういう次元じゃない。
白い狼――フェンリルらしきそれは、ゴブリンの死体を一瞥すると、ゆっくりとこちらを向いた。
その瞬間、背筋が凍る。
目が合った。
明らかに、こっちを認識している。
(やばい……)
逃げるか?
でも無理だ。
あんな速度の相手から逃げられるわけがない。
体が固まる。
すると白い狼は、ゆっくりこちらへ近づいてきた。
コンビニの割れた入口の前で足を止め、その銀色の目でじっと俺を見る。
獣に見られているというより、何かを見抜かれているような感覚だった。
そして――
「おーい。お前さん、ちょいとこっちへ来なさいな」
フェンリルは、人好きのするような穏やかな声でそう呼びかけてきた。
あまりにも自然に喋ったせいで、逆に頭が追いつかない。
狼が喋った。
しかも妙に年寄りくさいというか、親しげというか、とにかく想像していたのと全然違う。
言葉が出ず固まっていると、白い狼は続けた。
「なーに、取って食いやせん。安心しなさい」
いや、安心できるか!!
そう思ったが、ここで隠れていても意味はない。
すでに気づかれているし、どうせ逃げ切れる相手じゃない。
俺は覚悟を決め、震える足でフェンリルの前に姿を現した。
「驚かせてすまんね。ちょっと聞きたいことがあっての」
「聞きたいこと……ですか?」
「そうじゃそうじゃ。いや何、このあたりから普通じゃない力を感じ取ってな」
「はぁ……」
俺は何が何だか分からず、気の抜けた返事をしてしまう。
白い狼はそんな俺を見て、少し困ったように眉?を寄せた。
「どうやらお主の中から、本当に僅かじゃが、我らに似た力を感じるんじゃ。何か心当たりはあるかの?」
「力っていうと……最近、レベルアップって現象が起きて、少し力が強くなったというか……」
心当たりと言えば、それしかない。
白い狼はその言葉を聞くと、少しだけ考え込むように黙った。
「なるほどのう……この世界には、特に干渉などしておらんかったようじゃが……」
フェンリルはそう言うと、しばらく考え込むように黙ってしまう。
どうやら、俺に危害を加える気は本当にないらしい。
だったら、と俺は思い切って尋ねた。
「あの、教えてください。なんで急に怪物なんかが現れたんですか? レベルアップって何なんですか? この世界は元に戻るんですか?」
一気に聞きすぎたかもしれない。
だが、目の前の存在なら何か知っていてもおかしくない。
白い狼は「お?」と少しだけ目を丸くしたあと、すぐに苦笑するような声音で答えた。
「おお、すまんすまん。少し考え込んでおったわい」
それから、空を一度見上げてから続ける。
「この世界が急にこうなった理由までは、ワシにも分からん。所詮、ワシはこの世界から見れば部外者じゃからの」
部外者。
その言葉が妙に引っかかった。
「部外者?」
「うむ。まぁ、こうなったからには何か理由があるんじゃろうが、ワシがそこへ首を突っ込む筋合いはない」
「じゃあ、なんでここに……」
「ただ近くが急に騒がしくなったんでな、少し覗きに来ただけじゃ」
どういうことなのか、さっぱり分からない。
この世界のことを知っているようでいて、どこか距離がある。
まるで、自分の庭を見ているんじゃなく、たまたま他人の庭を覗きに来たみたいな、そんな感じだった。
「結局、この世界は元に戻るんですか?」
俺が一番聞きたかったことを、もう一度尋ねる。
白い狼は少しだけ考えるように目を細めた。
「うーむ。それに関しても、分からんとしか言いようがないのう。よその事情に勝手に口出しするわけにもいかんし」
「そんな……」
何か知っているくせに、肝心なことは教えてくれない。
不干渉を貫くつもりらしい。
俺が唖然としていると、フェンリルは静かに口を開いた。
「すまんが、今回のことはワシが立ち入れる話でもない。
お主らには納得できんじゃろうが、受け入れるしかなかろう」
その言葉は淡々としていたが、どこか本当に申し訳なさそうでもあった。
「まぁ、ワシはもう少しこの辺をぶらついたら帰るわい。
時間を取らせてしまって悪かったの」
そう言って、目の前のフェンリルは会話を切り上げる。
「あ、ちょっと待って! まだ聞きたいことが――」
咄嗟に引き止めるが、俺の言葉が終わる前に、目の前の白い巨体はふっと姿を消していた。
「は?」
風だけが吹き抜ける。
そこにはもう、何もいなかった。
「いったい何だったんだ……」
ぽつりと呟く。
考えてみたが、結局あいつが何者なのかも分からなかった。
ただ一つはっきりしているのは、今の状況になった原因は何かあるらしい、ということだ。
もしかしたら、今の会話がこの世界の真相へ近づくヒントになるのかもしれない。
「まぁ、まずは生き残ることか」
俺はそう呟き、リュックの中身を確認する。
結局、集められた食料は三日分ほど。
心もとないが、ゼロよりは遥かにマシだ。
世界の謎は深まるばかりだが、腹は減るし、怪物も出る。
だったら今やるべきことは一つしかない。
次の目的地、避難所へ向かうことだ。
俺は物干し竿を握り直し、静まり返った街へ再び歩き出した。
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