第7話
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少女は湖のほとりに立っていた。
風は強く、雪が髪に落ちては、すぐに水へと変わっていく。
少年は数歩離れた場所に立っていた。
「戻って」
少女は動かなかった。
ただ、薄く氷の張った水面を見つめる。
「もし……」
少女は小さく笑った。
「だったら、もう少し遠くまで行ってもいいのかな」
少年が答える間もなく、少女はふいに一歩前へ踏み出した。
水面が割れる。
音は、とても小さかった。
少年は目を見開いた。
次の瞬間――
――『』
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その日の北京に、太陽は出ていなかった。
朝からずっと、空はどんよりと曇っている。
八海は五時過ぎには目を覚ましていた。
――目覚ましは六時にセットしていたのに。
しばらくベッドの上で天井を見つめていたが、結局そのまま起き上がった。
洗面を済ませて戻ると、机の上には昨夜のうちに用意しておいたものが並んでいた。
身分証、モバイルバッテリー、イヤホン、乗車券。充電ケーブルまで、きれいにまとめて脇へ置いてある。
スマートフォンの画面には、何度直したのか自分でも分からない予定表が表示されたままだった。
何時に北京へ着くか。駅からどの地下鉄に乗るか。どこで乗り換えるか。
書店は何時に開くか。昼は何を食べるか。午後はどこへ行くか。
そして、夜は何時までに七海を送り届けなければならないか。
八海はその表を数秒見つめた。
かなり頼りになりそうだと思った。
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駅を出た瞬間、冷たい風が襟元から入り込んでくる。
空は灰色がかっていて、道端には数日前に降った雪がまだ少し残っていた。
歩いている人の多くはマフラーを巻き、帽子を深くかぶっている。
八海は地図を確認しながら、向こうから歩いてくる若い女の子を、つい一人ひとり見てしまっていた。
何人か見たところで、少し不安になる。
――本当に、七海だって分かるのか?
何度も電話はした。写真だって見ていた。
けれど、実際に会ったことは一度もない。
しかも七海は、写真を送ってくるとき、まともに顔を見せたことが一度もなかった。
顔が半分だけだったり。マフラーで隠していたり。
一度なんて、頭のてっぺんしか写っていなかった。
あのおかしな写真を思い出して、八海は俯いた。
それでも、口元は少し緩んだ。
……普通、そんな写真送るか?
待ち合わせの書店に着くと、八海は予定より十数分早く入口の前に立った。
人通りは多かった。一度見回す。
――いない。
もう一度見る。
やっぱり、いない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
八海は俯こうとして。まだ画面を見る間もなく――視線が先に、一人の姿に止まった。
すぐ目の前。
本当に近いところに、一人の少女が立っていた。こちらを見上げている。
淡い色のマフラーを巻き、帽子の下から少しだけ黒い髪が覗いていた。
思っていたより、ずっと背が低い。
それに、想像していたよりも――なんだか、ずっと小さく見えた。
八海は固まった。
少女はぱちりと瞬いた。そして、口元をふっと緩めた。
唇の端から、小さな八重歯が覗いた。
「八海?」
その声を聞いた瞬間、画面の中にいた見慣れた相手と、目の前にいる見知らぬ少女の姿が、ふっと重なる。
八海は口を開いた。
「……七海?」
「正解」
七海は顔を上げたまま、二秒ほど八海を見つめた。
どれくらい固まっているのか確かめるみたいに。
「ご褒美に十点」
「ちょっと待って」
八海はまだ頭が追いついていなかった。
「七海……その……」
「ん?」
「写真で見るより……」
そこで言葉を止めた。
七海が目を細めた。さらに半歩、八海のほうへ近づく。
彼の目を見るには、少し顎を上げなければならなかった。
「何?」
「なんでもない」
これ以上は言わないほうがいいと、直感が告げていた。
七海は数秒、じっと八海を見る。
「八海、今私のこと背が低いって言おうとしたでしょ」
「言ってない」
「嘘」
「本当に言ってない」
「日本語が上手くなったら、嘘つくのも上手くなるんだね」
八海は何も言い返せなかった。
会う前まであった緊張は、七海の数言でかなり薄れていた。
最初のうちは、すべて普通だった。
少なくとも、八海はそう思っていた。
「まずここに行く」
八海はスマートフォンを七海に差し出した。
画面には、きれいに整理された予定表が表示されている。
時間、場所、乗り換え方法。昼食や滞在時間まで、それぞれ別の欄にまとめてあった。
七海は一度下へスクロールした。まだある。
もう一度。まだある。
「午前中にここまで回って、十二時十五分に昼ご飯。それから一時四十分の地下鉄に乗って――」
七海は画面を見たまま、何も言わなかった。
八海はそのまま説明を続けた。
「この時間なら、たぶんそこまで混まないと思う。それで午後は――」
「八海」
「ん?」
「これ、今日の予定?」
「うん」
「全部?」
「だいたい」
七海はもう一度表を見た。
「地下鉄に乗る時間まで書いてあるの?」
「そのほうが分かりやすいから」
「昼ご飯も決めたの?」
「口コミ見た」
「何時に出るかまで?」
「夜は七海をちゃんと送り届けないといけないし」
七海は俯いたまま、何も言わない。
八海は瞬いた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
七海はその予定表をしばらく見つめていた。
そして顔を上げたときには、もういつもの表情に戻っていた。
「八海って、頼りになるね」
八海はなぜか少し嬉しくなった。
だから午前中は、そのまま八海の予定通りに動いた。
観光地へ行って。
食べて。
写真を撮って。
地下鉄に乗って。
八海は少し時間が経つたびに、スマートフォンでルートを確認した。
「あと十五分」
「次の地下鉄、ちょうどいい」
「この先を曲がる」
観光地の入口で並んでいるあいだにも、次の移動経路を確認していた。
七海はずっとついてきていた。
ただ、あまり話さなかった。
午後。ある場所を出たところで、七海がふいに足を止めた。
八海の服を軽く引っ張る。八海も立ち止まった。
「八海」
「ん?」
「次のところ、行かなくてもいい?」
八海は一瞬、きょとんとした。
「なんで?」
「疲れたから」
言葉が出なかった。
七海は八海の前に立っていた。
騒ぐわけでもなく、文句を言うわけでもなく、ただごく普通に言った。
「もう行きたくない」
八海はスマートフォンへ目を落とした。
次の予定。その次の予定。それぞれの滞在時間まで、全部書いてある。
ふと、数日前に七海が言っていた言葉を思い出した。
「もう予定は決まってるの」
「だから、行くのが普通でしょ」
八海はしばらく画面を見つめる。
それから、電源ボタンを押して画面を消した。
「じゃあ、行かない」
七海は一瞬固まった。
「本当に?」
「うん」
「予定表は?」
「閉じた」
「八海、ずっと準備してたでしょ?」
「……それは言わないで」
七海が笑った。
「惜しくなった?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、どうするの?」
八海はスマートフォンをポケットへしまう。
「七海、行きたくないって言ったでしょ」
「うん」
「じゃあここからは、七海が行きたいところに行こう」
七海は数秒、固まっていた。ずっと張っていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
両手をコートのポケットに入れて、小さく返事をした。
「うん」
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午後になると、雪がちらつき始めた。
最初は細かな雪だった。歩いていると、それが雪なのか、風に混じった雨粒なのかも分からないくらいだった。
けれど、しばらくすると少しずつ雪脚が強くなった。
雪の粒が七海の手袋の上に落ち、すぐに小さな水滴へ変わる。
七海はしばらくそれを見つめた。
「雪降ってきたね」
「うん」
「北京って、よくこんなふうに降るの?」
「冬はたまに」
「天津は?」
「降るよ」
「じゃあ八海、普段雪だるま作ったりする?」
「しない」
「つまんない」
「大学生がなんで雪だるま作るの?」
「大学生は作っちゃだめなの?」
「……だめとは言ってないけど」
七海は笑った。目を細め、マフラーで顔の半分を隠しているのに、口元から小さな八重歯が覗いている。
八海は気づかないうちに、二秒ほど余計に見つめていた。自分が少し長く見すぎたと気づいて、慌てて視線を逸らした。
予定表どおりに動くのをやめてから、二人はむしろゆっくり歩くようになった。
道端に何か売っていれば立ち止まる。
七海が見たことのない食べ物を見つければ尋ね、八海が中国語で説明する。
「……スワンヤンロウ?」
「涮羊肉」
<羊肉のしゃぶしゃぶ>
七海が言い間違えれば、八海が直す。
八海の日本語の発音がおかしければ、七海も同じように立ち止まって直した。
言葉の勉強は、まだ続いていた。
ただ、もう完全に「授業」ではなくなっていた。
むしろ、会話の中からいつでも一つ言葉を拾ってくるような感じだった。
「これ、なんていうの?」
「糖葫芦」
「たんふーるー?」
「ぷっ……」
七海はすぐに頬を膨らませた。
「八海、今笑ったでしょ?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「七海だって、さっき僕の日本語笑ったじゃん」
「先生はいいの」
「また特権?」
「うん」
歩いているうちに、雪は目に見えて強くなっていった。
八海が傘を開くと、七海はごく自然にその下へ入ってくる。
傘はそれほど大きくなかった。
八海は少し高めに持ったが、七海は傘の縁を見上げた。
「高い」
「え?」
「まだ雪入ってくる」
八海は仕方なく、傘を少し下げた。
そのぶん、二人の距離もさっきより近くなる。
しばらく歩いたところで、七海がふいに顔を上げた。
「八海」
「ん?」
「『相合傘』って知ってる?」
八海は黙る。
七海が横目で見た。
「知ってる?」
「……知ってる」
「どこで覚えたの?」
「勉強」
七海は顔を少し横に向け、八海を見る。
傘の縁は低く、二人の距離はさっきよりずっと近かった。
「アニメでしょ?」
八海は答えなかった。
七海はすぐに笑う。
「やっぱり」
寒さのせいなのか。
マフラーの上に見える七海の頬も、少し赤くなっていた。
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夕方、二人は湖のほとりまで来ていた。
七海が写真を見てきれいだと言ったので、二人で急きょ立ち寄ったのだ。
湖の周りには、もう観光客はほとんどいなかった。
ベンチの端には薄く雪が積もり、岸に近い水面には薄い氷が張っている。
水の上を渡ってくる風は、街中よりずっと冷たかった。
二人は並んで座った。
間には、少しだけ距離がある。
七海がスマートフォンを一度見る。
最初、八海は気にしなかった。
少しして、また見る。
さらに数分後。やっぱり、見ていた。
八海はようやく口を開いた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
七海はすぐに口元を少しだけ緩めた。
けれど、スマートフォンは手に持ったまま。しまおうとはしなかった。
「どうやら、全然気づいてないみたいだね」
八海は何も言わなかった。
さらにしばらくして。ようやく、スマートフォンの画面が明るくなった。
七海はすぐに視線を落とす。八海も、ついそちらを見た。
家族のグループチャット。
届いていたのは、一言だけだった。
「夕食は七時」
七海はその文字を数秒見つめた。
親指が画面の端で止まる。返信はしなかった。
それから、ふいにスマートフォンを八海のほうへ向ける。
次に口を開いたときには、もういつも日本語を教えるときの声に戻っていた。
「八海」
「ん?」
「この単語、いつも読み間違えるよね」
スマートフォンをこちらへ向けた。
「七時」
八海は何も言わなかった。
七海が自分で読んだ。
「しちじ――初級の単語なのにね」
それから、八海を見た。
「ほら」
八海は、それでも読まなかった。
七海の、スマートフォンを持った手が空中で止まる。
一秒後、何事もなかったように、また手元へ戻した。
「どうしたの? 今日は授業しないの?」
「七海」
「ん?」
「……なんでもない」
七海は俯いた。画面には、まださっきのメッセージが残っている。
しばらくして、小さく言った。
「どうやら、私の大脱走作戦は失敗みたいだね」
声は小さかった。冗談みたいな言い方だった。
けれど、少しも笑えるような冗談ではなかった。
三十分後。七海はまたスマートフォンを見る。
雪はさっきよりはっきり降り始めていた。
空も、もうかなり暗くなっている。
そこで八海は、ようやく本当の意味で気づいた。
七海は今日、ただ一日自由に過ごしたかったわけじゃない。
夜になって。スマートフォンが、ようやくもう一度光った。
今度は家族のグループチャットではなかった。どうやら、旅程を担当している人からだ。
「七海様、本日ご自身で行動される場合は、安全に十分ご注意ください。明朝八時にロビー集合です。遅れないようお願いいたします」
七海は読み終えても返信しなかった。そのまま画面を消した。
そして立ち上がる。八海が顔を上げた。
「七海?」
七海は背中で両手を組み、湖のそばに立っていた。
つま先から、岸辺の薄い氷まではそう遠くない。
風がマフラーを後ろへ吹き、雪が少しずつ髪や肩に落ちていた。
「いっそ、明日も戻らないでいようかな」
八海は固まった。
「え?」
七海は振り返らなかった。
ただ、湖面を見つめている。
その瞬間。八海の頭に、一つの光景が閃いた。
少女。湖のほとり。
一歩、前へ。薄い氷。冷たい水。
考えるより先に、八海は勢いよく立ち上がり、七海の手を掴んでいた。
「えっ――!」
七海がびくっとした。
「は、八海?」
八海自身も固まる。
数秒してから、まるで熱いものに触れたみたいに、慌てて手を離した。
「ごめん」
「どうしたの?」
「僕……」
八海は湖のほうを見る。顔色は少し悪かった。
「前に書いた話を、急に思い出して」
七海は瞬きをした。
「小説?」
「うん」
「どんな話?」
八海は黙った。
「ヒロインが……湖に飛び込む」
七海は一秒ほど固まった。
それから、なぜか笑い出した。
「じゃあ八海、私が飛び込むと思ったの?」
「思ったわけじゃない」
「じゃあ何?」
「ただ……急に浮かんだだけ」
「ひどい」
「どこが?」
「私、そんなに危なそうに見えた?」
「さっきはちょっと」
七海は口元を押さえたまま、しばらく笑っていた。
肩まで小さく震えている。
ようやく落ち着いてから、途切れ途切れに口を開いた。
「でも、覚えてるよ」
「ん?」
「その男の子、最後はちゃんと助けたんでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ、いいじゃん」
「どこがいいの」
八海は眉をひそめた。
「風邪ひくでしょ」
「……」
七海は数秒、八海を見つめる。
今度は笑わなかった。
ただ、目元だけが少しずつ柔らかくなっていった。
「八海って、やっぱり変」
そう言って、人差し指で八海の脇腹を軽くつついた。
八海の体がびくっと跳ねた。
「何するの?」
「本当に八海か確認」
「どういう意味?」
「小説の中の人なら、本当に風邪ひいたりしないでしょ」
八海は一瞬きょとんとした。
そのあいだに、七海はもう背を向けていた。
「行こ」
「どこに?」
「分かんない」
七海は少し間を置いて、振り返る。
「今日は『七海が行きたいところに行く』んでしょ?」
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夜はもうかなり冷え込み、雪もさっきより強くなっていた。
七海は、すぐにはホテルへ戻ろうとは言わなかった。
二人はしばらく、コンビニの近くで休んでいた。
ガラス越しに、暖かい黄色の明かりが漏れている。
自動ドアはときどき開き、そのたびに暖気と案内音が一緒に外へ流れてきた。
二人は店の外、壁際に並んで座っていた。
手元には、それぞれ買ったばかりの温かい飲み物。
外の雪は、どんどん密になっていった。
けれど、どちらも先には口を開かなかった。
やがて、七海がふいに言う。
「八海、今日の電車何時?」
「……」
八海は答えなかった。
七海はすぐに察した。
「何時?」
「かなり遅い」
「何時?」
「十一時過ぎ」
「へえー」
七海はわざと長く伸ばした。
「まだ時間あるね」
八海はなぜか少し不安になった。
「何するの?」
七海は八海を見る。
「八海、今夜もう少し一緒にいてくれる?」
八海は止まった。
「七海が必要なら……」
ほとんど考える前に、言葉が口から出ていた。
七海は一瞬黙り、視線を落とす。
「やっぱり」
口元がわずかに引きつった。
「何が?」
「なんでもない」
七海は立ち上がった。
「行こ」
「どこに?」
「とりあえず、休めるところ探そ」
ホテルのフロントに着くと、七海は覚えたばかりの中国語で口を開いた。
「请问……还有房间吗?」
<すみません……まだ部屋はありますか?>
発音はまだ完璧ではなかった。
八海は反射的に直そうとしたが、言いかけてやめる。
フロント係がキーボードを打つ音が、やけにはっきり聞こえた。
八海は隣に立ち、両手をコートのポケットに入れていた。
けれど、どう立っていれば自然なのか、ずっと分からなかった。
七海は話し終えると、振り返った。
「どうだった?」
「何が?」
「中国語」
「……聞き取れたよ」
「聞き取れただけ?」
「もう十分上手かったよ」
「じゃあ、やっぱり何かおかしかったんだ」
八海は呆れたように言った。
「今そこ気にする?」
七海は小さく首を横に振っただけで、それ以上は何も返さなかった。
結局、取ったのは一部屋だけだった。
八海はその隣に立ったまま、最初から最後まで、どこかおかしいような感覚が消えない。
けれど、もし今ここで――
「七海、やめよう」
そう言ったら。
七海は、どうなるんだろう。
その考えが浮かんだ瞬間。
八海は、それ以上考えたくなくなった。
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部屋の暖房はよく効いていた。
入ってきたときにはまだコートに残っていた雪も、すぐに小さな水滴へ変わっていく。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
ガラスには、部屋の明かりが映っていた。
七海はコートを脱ぎ、窓際に腰を下ろす。
けれど八海はすぐには座らず、七海から数歩離れたところに立ったままだった。
急に、二人とも何を話せばいいのか分からなくなった。
先に口を開いたのは七海だった。
「八海」
「ん?」
「今日の私、わがままだった?」
八海は少し考えた。
「ちょっとだけ」
七海は明らかに一瞬固まった。
二秒ほどしてから、小さく笑った。
「認めるんだ」
「だって、本当にちょっとだけ」
「じゃあ、明日も戻らなかったら?」
八海は答えなかった。
七海はそのまま続ける。
「明後日も戻らなかったら」
「ずっと、このままだったら」
部屋には、暖房の低い作動音だけが響く。
七海は八海から視線を逸らさなかった。
「八海も、一緒にいてくれる?」
八海は答えなかった。
「七海」
「ん?」
「僕が残ったら、七海は嬉しい?」
七海は一瞬きょとんとして、それから頷いた。
「もちろん」
「……じゃあ、残るよ」
七海は固まった。
窓の外へ目をやり、手を伸ばしてガラスに触れる。
冷たさに、すぐ指先を引っ込めた。
七海は引っ込めた自分の手を見つめた。
指先は、ガラスの冷たさでまだ少し痺れている。
数秒、黙った。
そしてもう一度顔を上げたときには、いつもの笑顔が戻っていた。
「八海、理由は聞かないの?」
「ん?」
七海は立ち上がり、八海の前まで歩いてきた。
顔を上げて、八海を見た。
その高さではさすがに不便だと思ったのか、人差し指を曲げて、八海に向かって軽く手招きした。
「もう少し低くして」
「え?」
「高すぎる」
八海は少し迷ってから、腰を屈めた。
次の瞬間。七海が耳元まで顔を寄せる。
温かい吐息が、耳をかすめた。
「だって私……」
一言ずつ。
暖かな吐息と一緒に、耳の奥へ届いた。
「八海のことが、一番好きだから」
心臓が、ひどく速く鳴った。
「そばにいて」




