第6話
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少女は、ずっと遠い場所に住んでいた。
少年は、彼女が毎朝何時に起きるのか知っていた。
苦手な食べ物も知っていた。
怒っているときは、わざと文字数を少なくすることも知っていた。
嬉しいときは、語尾がいつもより少し軽くなることも。
けれど、それ以外のことは何も知らなかった。
家の扉を開けたあと、最初に誰と顔を合わせるのか。
食卓のどこに座るのか。
「大丈夫」と言うとき、本当に大丈夫なのか。それとも、ただそう答えることに慣れているだけなのか。
ときどき少年は考えた。
――もし、いつか本当に彼女の暮らす場所に立つことがあったら。
自分は、本当の彼女に気づけるのだろうか。
そのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。
少女からメッセージが届いた。
「しばらくしたら、そっちに行くことになった」
少年は画面を見つめた。
そして初めて思った。
遠い場所も、ある日突然、近くなることがあるんだ。
――『』
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その夜、七海は八海が送ってきたばかりの新しい原稿を読み終えた。
「うーん……」
イヤホンの向こうから、わざと引き延ばした声が聞こえてきた。
八海はペンを握ったまま、なぜか少し緊張した。
「どうだった?」
「日本語は、かなり上達したと思う」
「本当?」
「うん。少なくとも今回は、八海が言わなかったら、たぶん外国人が書いたって分からないくらい」
八海の目がぱっと明るくなる。
嬉しそうに口を開いた。
「よかった……」
「そんなに嬉しい?」
「もちろん」
「日本語が上手くなったって褒めただけなのに」
「それでも大事だから」
七海は少し笑った。
「じゃあ、私の教え方がよかったってことで」
「うん。七海のおかげ」
「そんな即答しないでよ。ちょっとくらい『自分も頑張った』とか言ってもいいんだよ?」
「七海がいなかったら無理だったよ」
電話の向こうで、マウスを握っていた七海の手が止まった。
「……えへへ」
二秒ほどしてから、続きを話した。
「でも、日本語以外でもう一つ気になったことがある」
「何?」
「ちょっと不思議なんだけど……」
少し間を置いた。
「八海の書く主人公って、なんでみんな家庭があんまり普通じゃないの?」
八海のペンが止まった。
「そうでもないと思うけど」
「そうだよ」
七海はきっぱり言った。
「今回の男主人公は、お父さんとほとんど話してない」
「一つ前のヒロインは、ずっと家に帰りたがってなかった」
イヤホンの向こうから、マウスホイールを回す音が聞こえてきた。
七海は、さらに前の作品まで戻ったらしい。
「もっと前のやつも……もう家を出てるのに、お母さんから電話が来るたびに緊張してた」
八海は何も言わなかった。
七海の声が少しゆっくりになる。
「でも、一つ好きなところがあるよ」
「何?」
「最後には、みんな誰かと出会うところ。帰ってくるのを待ってくれる人がいたり、手を掴んでくれる人がいたり、『ずっと一緒にいよう』って言ってくれる人がいたり」
電話の向こうで、七海はベッドにうつ伏せになっていた。
ノートパソコンのカーソルは、ある一節のそばで止まったまま。
その部分を二度ほど読み返した。
「八海って、こういう展開を書くの好きだよね」
八海は机へ視線を落とした。
しばらくしてから、ようやく口を開く。
「たぶん、書きやすいだけだと思う」
「そう?」
「うん」
七海はそれ以上聞かなかった。
「でも」
「ん?」
「私みたいな子には、たぶん本当の意味では分からないんだろうな」
八海は少し眉をひそめた。
「七海みたいな?」
「うん」
七海は何でもないことのように言う。
「両親もいるし、兄弟も多いし。家の中はずっと賑やかだから」
少し間を置いた。
「たぶん、幸せな家庭って言うんだと思う」
「たぶん?」
「え?」
「今、七海『たぶん』って言った」
電話の向こうが、一秒だけ静かになる。
けれど次の瞬間には、七海の声は急に明るくなっていた。
「八海、今は私の言葉遣いまで拾うようになったの?」
「七海だって前はやってた」
「先生の特権です」
「ずるい」
「語学の先生はずるくていいの」
八海もつられて笑った。
イヤホンの向こうで、またマウスをクリックする音が聞こえてくる。
それから七海は、いつもの軽い調子に戻った。
「はい、じゃあ小説の続きね。次の段落、ここも一個ちょっと不自然な言葉があるんだけど――」
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その日の夜。
寮の部屋は、もう大きな照明が消されていた。
八海はベッドに横になっていた。イヤホンは枕元に置かれ、スマートフォンの画面もとっくに暗いた。
向かいのベッドから、ときどきルームメイトが寝返りを打つ音だけが聞こえた。
それでも、さっき七海が言ったことは、ずっと頭から離れなかった。
両親がいる。兄弟も多い。家の中は、いつも賑やか。
たしかに、自分とはまるで違う家庭に聞こえる。
少なくとも、八海がこれまで思い描いていた「幸せな家庭」というのは、そういうものだったのだろう。
なのに、どうして七海は――「たぶん、幸せな家庭」
なんて言ったんだろう。
八海は長いこと暗闇を見つめていた。
そして初めて、ちゃんと知りたいと思った。
七海の言う「家」って――いったい、どんな場所なんだろう。
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それから、一週間ほど経った。
八海はそのあとも、ときどき七海の言葉を思い出していた。
もちろん、もう一度聞いたりはしなかった。
ただ、以前なら気にも留めなかったことまで、今はつい少し考えてしまうようになっていた。
だから、その日の午後。
七海から届いたメッセージを見たとき、八海は数秒間、ただ画面を見つめていた。
「八海」
「中国に行くことになった」
すぐに、もう一件。
「えへへ」
八海は勢いよく顔を上げた。
膝が机の縁にぶつかり、上に置いてあったペン立てまで小さく跳ねる。
「中国?」
「うん」
「いつ?」
「来週」
八海は日付を確認した。そのまま、すぐに電話をかけた。
呼び出し音が一度鳴ったかどうかというところで、七海が出た。
「早っ!」
「だって、七海が急に中国に来るって言うから」
「ただの旅行だよ」
「誰と?」
「家族」
八海は一瞬、間を置いた。
「家族旅行?」
電話の向こうで、七海は枕に顎を埋めた。
「うん」
その声は、さっきまでより明らかに低い。
八海は背筋を伸ばした。
「七海……行きたくないの?」
「……そんなに分かりやすい?」
「声、変わったから」
「八海、最近どんどん嫌なやつになってる」
「なんで?」
「どんどんずるくなってるから」
七海はため息をついた。
「別に、中国に行きたくないわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「ただ……また旅行か、って」
「また?」
「うち、近い国にはよく行くんだよね」
七海は指を折りながら数え始めた。
「韓国も行ったし、東南アジアも何回か行った。中国だって、何年か前の話を抜きにしても、去年の冬に来たばかりだし」
八海は一瞬固まった。
「ちょっと待って」
「ん?」
「じゃあ前に僕が話した……えっと……」
「てんしん」
「あ……ごめん。じゃあ、七海が天津の名物とか知ってたのって、前に来たことがあったから?」
「やっと気づいたね」
「ネットで見たって言ってなかった?」
「『知ってる』とは言ったけど、どこで知ったかまでは言ってないよ」
「……」
「八海ってほんと騙されやすいね」
聞き慣れた笑い声がイヤホンの向こうから聞こえてきて、八海は呆れたようにため息をついた。
「じゃあ、今回はどこに行くの?」
「最初は北京。それから、ほかにも何か所か」
「北京?」
八海は少し間を置いた。
手はもう無意識にマウスへ伸び、地図を開いている。
検索欄に「北京」と打ち込んだところで、ようやく自分が何をしているのかに気づいた。
電話の向こうで、七海はその反応を見透かしたように言う。
「近いでしょ?」
「天津からなら……たしかに遠くはない」
そう答えたあと、部屋の空気が一瞬だけ静かになった。
北京。近い。
その二つの言葉が初めて並んだとき、八海の頭に浮かんだのは、故宮でも万里の長城でもなかった。
七海だった。
毎日、イヤホン越しにしか声を聞けない相手。
七海が本当に北京まで来るなら、もうただ画面の向こうにいるだけじゃない気がした。
「八海?」
「あ」
「ぼーっとしてた?」
「してない」
「嘘」
八海は言い返さなかった。
少ししてから、もう一度聞く。
「でも、七海がそんなに行きたくないなら……どうして断らないの?」
電話の向こうが、急に静かになった。
数秒してから、七海が口を開く。
「またそれ」
「何が?」
「八海の『嫌なら断ればいい』理論」
「理論ってほどじゃないでしょ」
「八海にとってはね」
声には、少し笑いが混じっていた。
「もう旅行の予定は全部決まってるの」
「でも――」
「飛行機も取ってあるし、ホテルも予約してあるし、向こうでも迎えてくれる人がいるし」
七海は少し間を置いた。
「みんな、私が行くって知ってる」
「だから?」
「だから、行くのが普通でしょ」
あまりにも自然に言われて、八海は逆に何も返せなくなった。
「……七海」
「ん?」
「本当は行きたくないって、家の人に言ったことある?」
電話の向こうからは、すぐには返事がなかった。
数秒して――
「ないよ」
「なんで?」
「なんで言うの?」
今度は八海が黙った。
七海は、この話題を少し面倒に感じたのかもしれない。
次に口を開いたときには、もう声はいつもの軽い調子に戻っていた。
「それに、中国が嫌なわけじゃないし。冬に行ったときも結構楽しかったよ。北京だって美味しいものいっぱいあるでしょ?」
「ある」
「じゃあ問題ないじゃん」
七海はそのまま次々と言葉を続ける。
けれど、八海はずっと何も言わなかった。
それから数日。
七海は旅行の予定表を送ってきた。
画面いっぱいに、びっしりと予定が並んでいる。
午前は何時に出発。
昼はどこで食事。
午後はどこへ行く。
夜は何時にホテルへ戻る。
一行、また一行と続いていた。
八海は二度も下へスクロールして、ようやくその日の予定の終わりまでたどり着いた。
「これ、全部家の人が決めたの?」
「うん」
「七海が自分で行きたいところは?」
「うーん……」
少ししてから。
「まだ考えてない」
「えっと……」
「どうしたの?」
「なんでもない……北京の冬、かなり寒いから、服は多めに持っていったほうがいいよ」
「うんうん」
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出発前日。二人はいつも通り電話をしていた。
電話の向こうでは、開いたスーツケースがベッドの半分以上を占領していた。
その周りには、服や充電器、いくつかの収納袋が散らばっている。
イヤホンの向こうからは、ファスナーやビニール袋、ハンガーがぶつかる音が何度も聞こえてきた。
「これ、持っていくかな……」
「何?」
「コート」
「もちろん」
「でも、もうスーツケースいっぱいなんだよね」
「じゃあ、ほかを一つ減らせば?」
「でも、ほかのも必要だし」
「じゃあ仕方ないじゃん」
「八海うるさい」
「七海が聞いたんでしょ」
「独り言だったの」
「……」
八海が黙ると、イヤホンの向こうからすぐに、七海が堪えきれず笑う声が聞こえてくる。
しばらくして、八海がふいに聞いた。
「何か、僕にできることある?」
口にした瞬間、自分でも少し唐突だったと思った。
七海のほうも一瞬止まった。
「できること?」
「うん」
「たとえば?」
「……僕も分からない」
八海はパソコンの画面を見つめた。
「七海、中国に来るんでしょ。何か困ることがあったら……僕、手伝えるよ」
無意識にマウスを動かしていたが、画面に映っているのはずっとデスクトップのままだ。
「交通とか、観光地とか……あと、分からないことがあったら、たとえば……翻訳とか?」
そこまで言ってから、自分でも少し余計だった気がした。
家族がここまできっちり旅行の予定を組めるのなら、そもそも八海の助けなんて必要ないはずだ。
「大丈夫だよ」
七海は服をスーツケースに押し込みながら答えた。
「こっちはもう全部決まってるし。それに家族も中国に知り合いがいるから、必要なことはもう全部手伝ってもらってる」
「そっか」
八海は俯く。
なぜか、少しだけ気持ちが沈んだ。
考えてみれば、当たり前のことなのに。
七海は旅行で中国に来るだけだ。八海に会いに来るわけじゃない。
まして、天津にいる大学生の自分が、彼女の旅行を心配する必要なんてない。
「でも――」
七海がふいに言った。
八海は顔を上げた。
「ん?」
「本当に一つ、あるかも」
電話の向こうが静かになる。
さっきまで聞こえていた荷造りの音まで止まった。
「八海にしか、手伝ってもらえないこと」
八海は一瞬固まった。
「何?」
七海はすぐには答えなかった。
数秒してから、ゆっくり口を開いた。
「一日、私を連れ出してよ」
スマートフォンを握る八海の手が止まる。
「……え?」
「そのままの意味」
イヤホンの向こうで、また服を畳む小さな音が聞こえ始めた。
七海は、まるで明日どのコートを着るか話しているみたいな軽い口調で続ける。
「予定の合間に、私がこっそり抜け出すの。それで八海が別のところに連れてって、夜になったら戻る」
「待って」
八海は思わず遮った。
「七海」
「ん?」
「自分が何言ってるか分かってる?」
「もちろん」
「家の人は知ってるの?」
「知ってたら『こっそり』にならないでしょ」
「そういう問題じゃない!」
七海が笑い出した。
「八海、声変わった」
「そりゃ変わるよ」
八海は椅子から勢いよく立ち上がる。
二秒ほどして、また座った。
「なんで急にそんなことしたいの?」
「急に?」
「うん」
「別に、そんな急でもないと思うけど」
「……」
「ただ」
七海は少し間を置いた。
「たまには、自分で一日の予定を決めてみたいなって思っただけ」
八海は何も言わなかった。
その理由自体は、ごく普通に聞こえた。
「それに」
イヤホンの向こうで、途中まで閉めかけていたファスナーの音がふっと止まる。
「私がいなくなったら、さすがに気づくでしょ」
七海はすぐに続けた。
「心配されたら、そのときはすぐ戻ればいいし」
八海の表情が、少しずつ変わっていった。
「……七海?」
「ん?」
イヤホンの向こうが静かになった。
八海の頭に、ふと一つの言葉が浮かぶ。
けれど、それを日本語でどう言えばいいのか、どうしても思い出せなかった。
「七海って……」
「ん?」
「その……」
眉を寄せた末、八海は諦めて中国語に切り替えた。
「闹别扭?」
<拗ねてるの?>
電話の向こうが一秒ほど静かになった。
「分かんない」
「えっと……」
次の瞬間、七海が堪えきれず笑い出した。
「あはははっ! こういうときに限って日本語出てこないの、ほんとバカ!」
「七海」
笑い声が少しずつ収まっていく。
「……機嫌悪いの?」
「私、今笑ってたけど……」
「家のこと?」
長い沈黙のあと。
七海は、小さく答えた。
「うん」
八海はさらに何か聞こうとした。
けれど、その前に七海が口を開く。
「もう、そんなに聞かないでよ」
イヤホンの向こうで、またファスナーを閉める音がした。
まるで、さっきの一言まで一緒にスーツケースへ押し込んでしまうみたいに。
「一日だけだよ? それに八海、日本語の練習したかったんでしょ? 無料の美少女日本語教師が北京まで来てあげるんだよ。いらないの?」
八海は答えなかった。
その瞬間、なぜか妙な既視感があった。
――自分が書いた物語だ。
家族旅行の途中で、一人の少女がこっそり抜け出す。
そして知らない街で、主人公と出会う。
乗る電車を間違えて。
雨に降られて。
最後には二人で川辺まで歩いていく。
あのとき、自分でもかなり気に入っていた台詞まで覚えている。
「もう少し遠くまで行こう……一緒に」
その物語は、もちろん最後にはちゃんといい結末を迎えた。
あの頃、胸が苦しくなるような恋愛映画を見て、何日も引きずっていたから。
だから、今度は正反対の話を書いた。
何があっても、最後には必ず幸せになる物語を。
あのときの八海は、そんな展開をロマンチックだと思っていた。
けれど今。イヤホンの向こうにいる相手が、本当にほとんど同じことを口にしている。
それなのに、八海は少しも笑えなかった。
「じゃあ私、一人で寂しくさまようしかないのかなー……」
七海はわざと語尾を伸ばす。
八海は目を閉じた。
「七海」
「ん?」
「あまりいい考えじゃないと思う」
「知ってる」
「……家の人、心配するかもしれないし」
「たぶんね」
「それに、土地勘もないでしょ」
「だから八海が必要なんだよ」
「……」
「八海がいれば、迷子にはならないでしょ?」
八海は口を開く。断ろうとした。
それが、どう考えても正しい答えのはずだった。
けれど、また七海のあの言葉が浮かんだ。
「八海にしか手伝ってもらえないこと」
断ろうとする言葉が喉元まで上がったのに、どうしても口から出なかった。
胸の奥に、何かがそっと触れたような気がした。
もう一つ、あまり認めたくない考えもあった。
北京。天津からなら、そう遠くない。
何度も何度も声を聞いてきた相手が――本当にそこにいる。
八海も、七海に会いたかった。
それに……。
――七海は、自分を必要としている。
彼女を助けられるのは、自分だけだ。
その考えが浮かんでしまった以上、最初からなかったことにはできなかった。
八海は長いこと黙っていた。やがて、小さくため息をついた。
「……分かった。いいよ」
電話の向こうが一瞬静かになった。
次の瞬間――
「やった!」
電話の向こうで、七海はベッドへ飛び込んだ。
「八海、最高!」
「でも、先に言っておくけど」
「ん?」
「その日のうちに絶対戻ること」
「分かってるって」
「スマホの電源も切らない」
「分かってるって」
「それから――」
「八海、うるさい」
「七海!」
「あはは、分かった分かった」
七海の声がいつもの調子に戻ったのを聞いているうちに、八海の強張っていた肩からも、少しずつ力が抜けていった。
――もしかして……本当に、いい考えなんじゃないか?
通話が切れると、さっきまで聞こえていたファスナーの音も、ビニール袋の音も、七海の声も全部消えた。
寮の部屋には、パソコンのファンが低く回る音だけが残っている。
八海は机の前に座っていた。スマートフォンの画面はもう暗くなっていた。
それでも、八海はさっきと同じ姿勢のままだった。
しばらくしてから、パソコンを開く。
そして、もう長いこと触っていなかったフォルダを探した。
何ページか見ていくうちに、ようやくその小説を見つけた。
最終更新日は、もう何年も前だった。
八海はファイルを開いた。
内容は、記憶に残っていたものとほとんど変わらなかった。
少女は家族のもとを離れ、少年は彼女と一緒に見知らぬ街を歩いていく。
二人は夜の街を走っていた。
八海はその数行を、長いこと見つめた。
やがて、ゆっくりとパソコンを閉じた。
明日から、あの物語が本当に起きるような気がした。
でも、どう考えたって、これはいい考えじゃない。
――そんなことは、もちろん八海にも分かっていた。
さっきだって、本気で断ろうとしていた。
それでも、最後には彼女の頼みを受け入れた。
七海が来るから?
やっと会えるから?
それとも――
八海は、それ以上考えなかった。




