第5話
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少年は本を開いた。
一ページ目、二ページ目、三ページ目……文字はまるで頭に入ってこない。
机のそばに置いたスマートフォンは光らなかった。今日約束していた勉強の時間を待っているだけだと、自分に言い聞かせた。
だから、別に特別なことじゃない。
さらに十分ほど経って、少年はスマートフォンを手に取った。
チャット欄の最後のメッセージは、昨日の「おやすみ」のままだった。
『今日は勉強しないの?』
そう打ち込んだ。
数秒そのままにしてから、一文字ずつ消した。
……ただの勉強だ。
わざわざ急かす必要なんてないだろう。
――『』
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最初のうち、二人は毎日の通話をまだ「勉強」と呼んでいた――少なくとも、本人たちはそう思っていた。
七海が八海の発音を直し、八海が七海の中国語を直す。
一つの単語をめぐって十何分も言い合いになり、結局どちらも相手を納得させられないこともあった。
ただ、そのうち、チャットに出てくるものが少しずつ増えていった。
七海はトレーをテーブルに置く。
もう箸を手に取っていたのに、ふと食堂の中を見回した。
そして箸を置き、スマートフォンを取り出した。
カシャ。
数秒後、その写真は天津へ送られた。
「学校の食堂」
写真には、白いトレーと長いテーブル、それから遠くにぼんやりと人影が写っていた。
続けて、日本語のボイスメッセージを送る。
七海はわざとゆっくり話しながら、入口から順に説明していった。
右には何があるのか。左には何があるのか。
どこで食器を取って、食べ終わったトレーをどこへ返すのか。
八海は写真を開き、少し拡大した。
「七海はいつもどこに座るの?」
送信してから、八海自身が一瞬固まった。
――これ、日本語の勉強と何の関係があるんだ?
しばらくして、七海は写真の上に小さな丸を描いて返してきた――窓際の隅だった。
「ここ」
「一人?」
「たまにね」
「じゃあ、窓の外は何が見えるの?」
少し間が空く。
「八海、今日は質問多くない?」
そこでようやく八海も気づいた。
「ごめん」
「また謝った」
そのあと、七海はもう一枚写真を送ってきた。今度は窓の外だった。
木。塀。さらに向こうには、ぼんやりと通りが見えた。
「これでいい? 八海」
八海は二枚の写真を見比べた。
「うん、これでいい」
その日の夕方、今度は八海も自分の大学をぐるりと歩いた。
歩きながら写真を撮り、そのたびに説明も送る。
ちょうど授業が終わったばかりで、校舎の前ではまだ多くの学生が外へ出てきていた。
食堂には夕食を待つ列ができている。グラウンドのほうからは、何度もバスケットボールが地面を叩く音が聞こえてきた。
図書館の前を通ったところで、八海は少し足を止めた。
「ここ、夜は人が多い」
さらに進むと、毎日寮へ戻るときに通る交差点が見えてくる。
「ここをまっすぐ行くと食堂」
八海はずっとボイスメッセージを送り続けた。
しかも全部、日本語で。
七海は聞き終えてから、三十秒ほど黙った。
「八海」
「ん?」
「私、中国語を勉強してるんだけど?」
「……うん」
「なのに、なんで八海は最初から最後までずっと日本語なの!」
「僕も練習したいから」
「ずるい!」
七海はしばらく文句を言っていた。
そのあと、さっき送られてきた写真をもう一度開いた。
「さっきの交差点、八海は毎日通るの?」
「うん」
一枚前の写真に戻した。
「じゃあ、その隣が食堂?」
「そう」
「寮は?」
「もう少し先」
「小説を書くのもそこ?」
八海は少し間を置いた。
「うん。寮の机で書いてる」
「そっか……」
七海はそれ以上聞かなかった。けれど、次の日の夜、通話が始まると、七海はふいに言った。
「八海、今日もあの机の前に座ってるでしょ?」
八海は反射的に周りを見回した。
「なんで分かるの?」
「勘だよ」
電話の向こうで、七海は腕の上に顎を乗せていた。声はどこか得意げだった。
不思議なことに、それからというもの、八海も七海から「学校にいる」とメッセージが来るたび、自然とあの窓際の席を思い浮かべるようになった。
一度も行ったことなんてないのに。
もう、彼女がどこに座っているのか知っていた。
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二人の言葉をめぐる言い合いも、だんだん増えていった。
その中でいちばん長引いたのが、「随便」という中国語の言い方だ。
「『何でもいい』って意味じゃないの?」
「そういうときもある」
「じゃあ合ってるじゃん」
「でも、そうじゃないときもある」
「なんで?」
「たとえば、何食べたいって聞かれて『随便』って答えても、本当は何でもいいわけじゃないことがある」
「じゃあ、なんで『随便』って言うの?」
八海は口を開いた。
「それは……」
さっき書いたばかりの「随便」という言葉を、しばらくじっと見つめた。
そして最後には、ペンを置いた。
「……何でもいいから」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
「八海、全然説明になってない!」
その日は、「中国語と日本語、どっちのほうが理不尽か」という言い争いにまで発展した。
七海は、自分でまとめた中国語のノートを写真に撮って送ってきた。
読み方が複数ある漢字、類義語、助数詞……数えきれない。
「証拠!」
八海も負けじと、日本語の助詞についてまとめたノートを四枚送り返した。
七海はそれを見たあと、一言だけ返した。
「これはいじめ」
その日、二人はもともと九十分勉強するつもりだった。
けれど、本当に勉強していたのは、おそらく四十分くらいだ。
――そのことは、どちらも指摘しなかった。
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そのうち、何かを共有することさえ、「勉強」ということにしてしまえるようになった。
ある日、八海は食堂でかなり微妙な味の料理に当たった。一口飲み込んだあと、眉をひそめたまま、しばらく皿を見つめる。
そして、ほとんど無意識にスマートフォンを手に取った。
――もちろん、写真を撮って七海に愚痴るためだ。
「今日は中国語の単語を一つ覚えよう」
七海からはすぐに返事が来た。
「何?」
「难吃。」
「……なんで料理の写真付きなの?」
「分かりやすいから」
「八海、ただ文句言いたいだけでしょ!」
八海はその一文を見たまま、二秒ほど止まった。
それから、さっきの皿を黙ってもう少し遠くへ押しやる。
最初はただ――七海なら、たぶん面白がると思っただけだ。
それだけだった。どうして真っ先に彼女が浮かんだのかなんて、考えたことはなかった。
七海も同じだった。
ある日の午後、彼女はいったん鞄にしまったテスト用紙をもう一度取り出した。
いちばん上には、赤い点数が書かれている。
七海はそれを一度見てから、スマートフォンを取り出して写真を撮った。
「今日の中国語教材」
八海は画像をじっと見つめた。
「これ、どう見てもテスト用紙でしょ」
「漢字が書いてあるから、中国語教材でもあるの」
「屁理屈」
「その言葉、覚えたんだね!」
「……ぼ、僕えらい?」
数秒後、八海はもう一度点数に目をやった。
「すごくいい点取ったね」
七海はすぐには返事をしなかった。
三十秒ほどして――
「うん」
さらに、もう一件。
「実は学校でも、もう何回も褒められたけどね」
八海は少し首をかしげた。
「じゃあ、なんで僕に送ったの?」
入力中。
消える。
また表示される。
最後に七海が送ってきたのは――
「中国語の練習だから」
八海は不思議そうに画面をしばらく見つめたが、それ以上は聞かなかった。
いつからだったのか。
一日の中で起きたことを、二人はだんだん自然に相手へ話すようになっていた。
別に、どれも大したことではない。
先生の授業が長引いた。
今日の食堂は、すごく長い列ができていた。
コンビニに変な新しい飲み物が出ていた。
ただ、道端でやけに太った猫を見かけた、なんてこともあった。
七海から送られてきた写真では、その猫が自動販売機の横にべったり寝そべっていて、お腹が地面につきそうになっていた。
「食べすぎじゃない?」
「猫に嫉妬しないで」
……
七海が「この漢字、何回書いてもきれいに書けない」と愚痴ることもあった。
八海が夜遅くに「やっと書き終わった」と送れば、向こうから「お疲れさま」と返ってくる。
――ただ、それだけだった。
けれど少しずつ、一日の中にそういうやり取りがないと、どこかおかしいような気がするようになっていった。
その感覚が初めてはっきりしたのは、八海が丸一日姿を見せなかった日のことだった。
その日は午前中ずっと授業が詰まっていた。
昼にはクラスメイトに捕まって、グループ課題。
午後になると、スマートフォンの充電まで切れた。
夜、寮へ戻ったときには、画面は完全に真っ暗だった。
八海は鞄を椅子の背に放り、そのまま真っ先に充電ケーブルを差し込んだ。
数秒後。
ようやく画面が点く。
1%。
その直後、チャットアプリの通知が次々と表示された。
一件目。
「おはよ」
二時間後。
「まだ授業中?」
午後。
「八海先生、今日は行方不明?」
さらにそのあと。
「まさか日本語の先生に捕まった?」
そして最後。一時間前。
スタンプもない。冗談もない。
ただ――
「八海?」
八海の指が、画面の上で止まった。
指先が震えて、止まらなかった。
最初は何気なくメッセージを送って。
そのあと何度もスマートフォンを開いて。
それでもずっと返事が来なくて。
そんな七海の姿が、はっきり想像できてしまった。
胸の奥に、罪悪感が一気に押し寄せた。
「今見た。ごめん!」
八海はすばやく文字を打った。
送信してから、それだけでは足りない気がした。
続けて説明しようとしたところで、七海のほうに――
入力中。
消える。
また表示される。
それを何度か繰り返したあと、届いたのは一文字だけだった。
「そう」
八海の胸が少し沈んだ。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「八海、いつになったらその癖直るの」
「何が?」
「なんでもない」
一分後。今度は直接、電話がかかってきた。
八海はほとんど反射的に通話ボタンを押した。
「七海、今日は――」
「分かってるって」
七海の声は、文字で見るよりずっと落ち着いていた。
「スマホの充電切れてたんでしょ?」
「うん」
「じゃあ仕方ないよ」
「ごめん」
「……」
電話の向こうで、七海が小さくため息をついた。
八海がまた説明しようとした、そのとき。
「八海」
「ん?」
「次の日忙しそうなら……先に一言言って」
電話の向こうで、七海は膝を抱えてベッドの端に座っていた。
言い終えてから、無意識に部屋着の袖口を指先でつまんだ。
「いい?」
声は小さかった。
八海は一瞬、目を瞬いた。
「うん」
すると七海は、それ以上この話を続けたくないみたいに、すぐ今日覚えた中国語の単語について文句を言い始めた。
八海はその話を聞きながら、視線だけをもう一度、最後のメッセージへ落とす。
「八海?」
人を心配させることなんて、決して嬉しいことじゃない。
そんなことは分かっていた。
それでもなぜか、胸のどこかでずっと宙に浮いていたものが、少しだけ下りてきたような気がした。
――七海が、自分を探していた。
そう気づいた瞬間、八海の中に、あるはずのない安堵まで少しだけ生まれた。
けれど、その考えはすぐに押し込めた。
それ以上、考えないようにする。
そのあと、今度は七海が一晩まるごと姿を見せなかったとき、八海は、自分だって彼女と大して変わらないことに気づいた。
日本語の授業はいつも通り終えた。ノートもいつも通りまとめた。
それでもその夜、何度スマートフォンの画面を点けたか分からない。
九時。
十時。
十時半。
七海のアイコンはずっと変わらなかった。
二度、「今日は電話しないの?」と打ち込んだ。
そして二度とも、全部消した。
――七海は、毎日必ず電話してくれると約束したわけじゃない。
十一時近くになって、ようやくスマートフォンが震えた。
「今帰ってきた……疲れた」
八海はほとんどすぐに返信した。
「帰ってきたんだね」
送ってから、自分でも少し驚いた。
七海のほうも、数秒返事がなかった。
「うん。帰ってきた」
その日は電話をしなかった。
それでも八海は、その一文を見て初めて、本当にスマートフォンを脇へ置いた。
一か月も経たないうちに、二人はもう「今日は勉強する?」とわざわざ確認することがほとんどなくなっていた。
時間になると、どちらかが自然に「今日?」と送る。
もう片方は、たいてい「うん」と返すだけ。
そのあと、電話がかかってくる。
日本語を勉強するときもあれば、中国語を勉強するときもあった。
けれど、それ以上に多かったのは――途中から勉強のことなんてすっかり忘れて、いつの間にか別の話をしている時間だった。
ある日、通話を切ったあと。
八海はノートを見た。
二時間も話したのに、書いてあるのは半ページにも満たない。
しばらく黙ってから、自分に言い聞かせた。
――少なくとも、会話と聞き取りの練習にはなった。
それと同時に、二人が知っていることもどんどん増えていった。
八海は、七海の昼休みがだいたい何時なのか知っていた。
苦手な野菜も知っていた。
朝に句点一つだけ送ってくる日は、たいていまだ完全に目が覚めていないことも知っていた。
急かされるのが嫌いなことも。
「面倒くさい」とよく言うくせに、結局やるべきことはきちんと終わらせることも。
七海は、八海の一限がない曜日を知っていた。
小説を書き始めると、すぐ時間を忘れることも。
緊張すると、急に話し方が丁寧になることも。
それから、「ここの日本語、ちょっと変かも」と一言送れば、
十分以内には必ず、「どこ?」と返ってくることも。
二人とも、覚えようとして覚えたわけではなかった。
ただ、ある日ふと気づく。
いつの間にか、こんなに知っていた。
けれど。知っていることが増えるほど、それまで気にも留めていなかったところが、逆に目につくようになっていった。
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七海は、あの夜のことをずっと忘れていなかった。
八海は言った――自分が本当に小説を書くのが好きなのか、分からない。
それに、どうしてよりによって日本のライトノベルなのかという問いにも、結局ちゃんと答えなかった。
七海は、それから一度も自分から聞かなかった。
けれど、八海が送ってくる小説を読むたびに、どうしても、あの夜、話を避けるようにしていた八海の声を思い出してしまう。
ある日、とうとう我慢できなくなった。
「八海」
「ん?」
その日の勉強はもう終わっていた。
それでも、二人ともまだ電話を切っていなかった。
七海はベッドにうつ伏せになり、枕元の髪を指先で時々くるりと巻く。
「この前の話」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
それだけで、八海が何のことか分かったのだとすぐに気づいた。
「……うん」
「八海、本当に話してくれないの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、いつ?」
八海は答えなかった。
七海はしばらく待った。なぜか、胸の奥が少しつかえる。
「ずっと放っておいても、勝手になくなるわけじゃないでしょ」
「……」
「八海が話してくれるなら、もしかしたら私――」
そこで少し言葉を止めた。
「少しくらい、力になれるかもしれないし」
電話の向こうは、まだ静かなままだ。
七海は無意識にスマートフォンを強く握った。
「八海?」
ようやく、イヤホンの向こうから声が返ってきた。
さっきまでより、ずっと丁寧な話し方だ。
「七海が聞きたいなら……話してもいいです」
七海は固まった――それは、聞きたかった答えではなかった。
「……私が聞きたいから?」
「うん」
「だから八海は話すの?」
「いや、ただ、七海が気にしてるなら――」
「もういい」
七海は言葉を遮った。
ずっと指に巻きつけていた髪も、その拍子にほどける。
電話の向こうが、すぐに静かになった。
思っていたより強い言い方になってしまって、自分でも一瞬戸惑った。
「七海?」
「なんでもない」
「怒った?」
「怒ってない」
「ごめん」
七海は目を閉じた。
――まただ。
聞いたのは、自分のほうだった。
八海が明らかに続きを話したくなさそうなのも分かっていた。
それなのに、いざ「七海が聞きたいなら……話してもいいです」と言われたら、少しも嬉しくなかった。
「八海」
「ん?」
「私、無理に話してほしいわけじゃない」
「分かってる」
「全然分かってない」
その言葉のあと、二人とも黙った。
結局、先に口を開いたのは七海だった。
「今日は……もうこのくらいにしよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れたあとも、七海は長いこと画面を見つめていた。
本当に、八海の力になりたかった。
けれど、さっきのあの瞬間。自分は本当に、八海のことを気にかけていたんだろうか。
七海には、急に分からなくなった。
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翌日の夜、八海はいつもの時間に日本語のオンライン授業を開いた。
七海からメッセージは来ない。
八海からも送らなかった。
19:35。
授業はもう始まっていた。
19:42。
同じ例文を、もう三度目まで巻き戻して聞いていた。
19:48。
ノートはまだ真っ白なままだった。
八海はしばらく教材を見つめていたが、単語は一つも頭に入ってこない。
結局、先にスマートフォンを手に取ったのは八海だった。
「今日は勉強する?」
一分ほどして――
「うん」
電話が繋がった。二人とも、昨夜のことには触れなかった。
七海はいつも通り八海の発音を直し、八海もいつも通り七海の中国語を直した。
ただ、最初の十数分だけは、二人ともいつもより少し丁寧な話し方をしていた。
その空気が崩れたのは、七海が助数詞を一つ間違えて、八海が思わず笑ってしまったときだった。
「ちょっと!」
「ごめん」
「笑わないで!」
「七海が自分で間違えたんでしょ」
「それでもだめ!」
気づけば、二人の話し方はもういつもとほとんど変わらなくなっていた。
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そして彼もまた、七海が口にしないことを、少しずつ気にするようになっていた。
ある日、七海が電話の向こうで愚痴をこぼした。
「明日、また出かけなきゃ」
「どこに?」
「ご飯」
「行きたくない?」
「そんなに分かりやすい?」
「七海、声がもう違うよ」
電話の向こうで、少し間が空いた。
それから、七海はすぐに笑った。
「でも、もう予定入ってるし」
八海にはよく分からなかった。
「じゃあ、行きたくないなら断ればいいじゃん」
電話の向こうが急に静かになった。
「……断る?」
「うん」
「なんで?」
今度は八海が固まった。
「だって、七海は行きたくないんでしょ?」
「でも、もう予定入ってるし」
「予定入ってても、行かないって言えばいいんじゃない?」
七海はすぐには答えなかった。
数秒して、ようやく小さな声で言う。
「何でもそんな簡単にはいかないんだよ」
「でも――」
「八海は私のこと、何も知らないじゃん」
言い方は、決して強くなかった。
それでも、八海は一瞬黙った。
電話の向こうで、七海も言ってから何かに気づいたらしい。
スマートフォンの縁に置いていた指が、少し止まった。
「ごめん。そういう意味じゃなくて」
「大丈夫」
今度は、八海もそれ以上聞かなかった。
けれど、電話が終わってからも、そのことをずっと考えていた。
――自分は本当に、七海のことをちゃんと知ろうとしたことがなかったのかもしれない。
それから八海は、以前より七海のことに気を留めるようになった。
だからこそ、それまで見落としていた細かいことにも気づき始めた。
ときどき、七海はかなり遅い時間になってから部屋へ戻ってくる。
どこへ行っていたのか聞いても、
「家の予定」
としか言わない。
あるときは、電話の途中で、ドアの向こうから小さなノックの音が聞こえた。
その直前まで、七海は笑いながら八海の発音を直していた。
けれど、その音を聞いた瞬間、少し動きを止めた。
「ちょっと待って」
スマートフォンが少し遠ざけられた。
八海には、七海がドアのところで何か二、三言話している声が、かすかに聞こえるだけだった。
「続けよ」
戻ってきたあとの声は、さっきよりだいぶ静かだった。
別の日には、七海が「明日疲れそう」とこぼしたこともある。
八海はメッセージを送った。
「じゃあ、早く寝る?」
返ってきたのは――
「無理。明日の朝、もう予定入ってる」
そんなことになるたびに、八海は少し悩んだ。
自分は本当に、七海がどんな人なのか、ほとんど分かっていない。
だからこそ――
「……もっと知りたい。七海が何を考えてるのか」
それからも、二人は変わらず電話を続けた。
七海は八海の小説について聞き、八海も七海がときどき口にする「予定」のことを気にするようになった。
聞きすぎれば、相手が話したくないところに触れてしまうこともある。
気まずいまま電話を切ることもあった。
それでも翌日になると、いつもの時間に、どちらかから一言届く。
「今日?」
もう片方も、たいてい同じように返した。
「うん」
そして、電話が繋がる。
日本語。中国語。
ときどき、昨日話しきれなかったことも。
二人は相変わらず、それを言語交換と呼んでいた。
どうして毎日、同じ相手と勉強するのか。
そのことだけは――
どちらも、真面目に考えたことがなかった。




