第4話
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少年は食卓のそばに座っていた。テーブルの上には、三人分の茶碗と箸が並んでいる。
少年は俯いたまま、真ん中に置かれた空の茶碗を見つめていた。
「今日、お母さん帰ってくる?」
父親は答えなかった。少年は今度は向かい側を見る。
「じゃあ、お父さんは明日もいる?」
今度も、返事はなかった。
窓の外では、雨がどんどん強くなっている。
少年は少し考えてから、その空の茶碗を自分のほうへ少し引き寄せた。
「大丈夫」
少年は笑った。
「誰かが帰ってきてくれれば、それでいいから」
――『もし明日も、誰も帰ってこなかったら』
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鞄のキャスターが地面を転がっていく。
ゴトン、ゴトン、ゴトン。
陳汪瑶は俯いたまま、両手で伸ばしたハンドルを握っていた。
ハンドルが手のひらに食い込み、少し痛い。
鞄は、思っていたより重かった。
けれど、前を歩く女の人はとても速い。
陳汪瑶は鞄を引きながら、小走りでついていくしかなかった。
景色がふっと揺れた。
学校の門の前。
生徒たちが次々と校門から出てくる。
笑いながら話している子もいれば、親に手を引かれて歩いていく子もいた。
父親がそこに立っていた。
母親もいた。
二人とも何かを言っている。
声は大きい。なのに、何を言っているのかはまったく聞こえなかった。
ただ、口だけが動いている。
一人がもう一人を指さす。
もう一人が鞄を掴む。
次の瞬間――ドン。
鞄が父親の手から飛び、母親の体に激しくぶつかった。
本が地面に散らばった。
筆箱も落ちて開き、何本かのペンが近くにいた人の足元まで転がっていった。
陳汪瑶は、その場に立ち尽くす。
泣かなかった。
ただ、地面に転がった何本かのペンを見つめていた。
景色がまた暗くなる。
「陳瑶」
父親が彼の前にしゃがみ込んだ。
声はとても優しかった。さっきとは、まるで違っていた。
「你知道爸爸为什么和她分开吧?」
<どうしてお父さんがあの人と別れたのか、分かるよね?>
陳汪瑶は父親を見つめ、それから頷いた。
「汪瑶」
母親が彼の手を握っていた。目元は少し赤かった。
「你以后不会变成他那样,对吧?」
<あなたはこれから、あの人みたいにはならないよね?>
陳汪瑶は、また頷いた。
頷く。
頷く。
ただ、頷く。
いつからだったのかは分からない。
ただ、彼はもう、そうして頷いてさえいればよかった。
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八海は勢いよく目を開けた。
部屋は暗い。
カーテンの隙間から、ぼんやりとした光がわずかに差し込んでいた。ほかのベッドも静まり返っていて、動く気配はない。
エアコンだけが低い音を立てて動いていた。
呼吸が少し速い。胸のあたりにも、何かがのしかかっているようだった。
しばらくしてから、八海はようやく手を伸ばし、枕元のスマートフォンを手探りで見つける。
画面が明るくなった瞬間、反射的に目を細めた。
【02:47】
手の甲が頬に触れたとき、ひやりとした。
そこで初めて、頬が濡れていることに気づく。
八海は一瞬固まり、今度は枕にも触れた。そこも湿っていた。
「……什么啊。」
<……なんだよ>
声は少しかすれていた。
八海は体を起こし、そのまま背を預ける。
ルームメイトたちは眠ったままだ。部屋に残っていたのは、エアコンの低い運転音だけだった。
八海はスマートフォンを操作する。指が少し止まった。
やがて、奥に隠していたフォルダを開いた。
【未投稿】
スマートフォンの冷たい光が、指先を照らしていた。
フォルダの中に入っているものは、それほど多くなかった。
書きかけの原稿がいくつか。タイトルだけの文書がいくつか。それから、ファイル名だけでもずいぶん昔のものだと分かるデータがいくつか。
八海はゆっくり下へスクロールしていく。そして、その年が画面の中央に来たところで止まった。
【2015】
ファイル名はどれも簡単で、少し幼さがある。
けれど、開きはしなかった。ただ、その年だけを長いこと見つめていた。
八歳。あの頃は、まだちゃんと小説を書き始めたわけではなかった。
ただ、ノートにまとまりのないことをいろいろ書いていただけだ。
今日はどこへ行った。
今日は誰が迎えに来た。
今日は父親が何を言った。
今日は母親がまた何を言った。
一言だけの日もあった。
まともな一文にすらなっていない日もあった。
どうして、物語を書くようになったんだっけ。
八海は目を閉じた。
もうずっと思い出していなかった光景が、ゆっくりと浮かんできた。
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あの頃、彼はまだ学校に通っていた。
隣の席の子が鞄から一冊の本を取り出し、何気なく彼の机の上に置いた。
角は少し折れ曲がっていて、中にはどこでもらったのか分からないレシートまで挟まっていた。
表紙には、駅のホームで黄色い線の内側に立つ女子高生が描かれている。
「给你。」
<ほら>
「什么?」
<何?>
「小说啊。」
<小説>
タイトルは長く、当時の彼にはどこか文学的な響きもあって、最後まで覚えてはいなかった。
――ただ、日本のライトノベルだったことだけは覚えている。
「为什么给我?」
<なんで僕に?>
「看完了。你不是老在本子上乱写东西吗?感觉你也会喜欢。」
<読み終わったから。お前、いつもノートに何か書いてるだろ? 好きそうだと思って>
陳汪瑶は本を開いた。
最初は適当に眺めていただけだ。けれど、気づけば止まらなくなっていた。
物語はかなり入り組んでいた。
主人公とヒロインは喧嘩もした。離れたこともあった。すれ違いもした。
二人の家庭も、ぐちゃぐちゃだった。
家に帰りたくない人がいた。ちゃんと愛されているのに、誰を信じればいいのか分からない人もいた。
陳汪瑶はゆっくり読んだ。
ところどころ、二度読み返した。
けれど、本当に心に残ったのは、そういう入り組んだ展開ではなかった。
最後、夕日が沈んでいく中で――二人は家へ帰る道に立っていた。もう、どちらも背を向けて離れたりはしない。
二人は笑いあう。そこで、物語は終わった。
その夜、陳汪瑶はベッドに横になってからも、ずっとその光景を思い浮かべていた。
ずっと、ずっと眠れなかった。
不思議なことに、少しも苦しくはなかった。
むしろ、胸のあたりが少し温かかった。
まるで――あんなことが自分の身に起きたわけではないのに、それでももう十分だったみたいに。
次の日、彼はその本にブックカバーをかけた。
三日目、机の引き出しのいちばん奥にしまった。
四日目、本はなくなっていた。
陳汪瑶は引き出しの中を二度探した。
なかった。
今度はしゃがみ込み、机の下に積んであった問題集を一冊ずつ引っ張り出す。
それでも、なかった。
最後に、父親へ聞いた。
「那本书?」
<あの本?>
父親はスマートフォンを見たまま、少し考えた。
「被你妈扔掉了吧。」
<お前の母さんが捨てたんじゃないか>
ごく自然な口調で、。顔すら上げなかった。
「她不是一直觉得这些东西影响学习吗?」
<前から、そういうのは勉強の邪魔になるって言ってただろ>
陳汪瑶はその場に立ったまま、何も言わなかった。
最初に湧いたのは、怒りではなかった。悲しみですらなかった。
――本当に?
父親の顔を見る。何かを読み取ろうとした。
けれど、何も分からなかった。
もし母親に聞いたら?
たぶん、また別の答えが返ってくる。
眉をひそめて、こう言うかもしれない。
「肯定是你爸弄丢的。 」
<きっとお父さんがなくしたんでしょ>
どちらが本当なのか。
分からない。
だから、陳汪瑶は結局、何も聞かなかった。
「……哦。」
<……そう>
それだけ答えた。
父親は、それで話は終わったと思ったらしい。実際、彼もそれ以上口にしなかった。
その日の夜、陳汪瑶は昔自分が書いていたノートをもう一度引っ張り出した。
紙は少し皺になっていた。
最初のページには、八歳の頃に書いた歪んだ文字が並んでいた。
鉛筆の文字は、こすれてかなり薄くなっているところもあった。
彼は長いこと、それを見ていた。
そのあと、なぜか分からないまま、その一部を一文字ずつスマートフォンに打ち込んだ。
たぶん、ただ――紙に書いたものは、ある日突然なくなることもある。
スマートフォンの中に残しておけば、そのほうが少し安全な気がした。
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八海はもう一度目を開けた。
スマートフォンの画面は、まだ2015年のファイルを表示したままだった。
寮の部屋では、相変わらずエアコンの音しか聞こえない。
まるで、さっきまでのことなど何一つ起きていなかったみたいだった。
八海は、それでもそのファイルを開かなかった。
あのライトノベルのタイトルが何だったのかは、もうよく覚えていない。
けれど、一つだけ、ずっと覚えていることがあった。
物語って、こんなふうに書いてもいいんだ。
自分と同じように、どこへ帰ればいいのか分からない人でも、誰かと出会える。
誰かに引き止めてもらえる。素敵な人生を送ることだってできる。
そして最後には――本当に、いい結末を迎えることだってできる。
それから、八海は少しずつ書く量を増やしていった。
ただの書きつけだったものが短い物語になり、その物語は少しずつ長くなっていった。
登場人物には名前がついた。世界には設定が生まれた。
ときどき、自分の言葉が、別の誰かの口から出てくることもあった。
八海は、どこか欠けた家庭を何度も書いた。
自分がどこへ帰るべきなのか分からない主人公も、何人も書いた。
けれど最後には、彼らは必ず誰かと出会う。
誰かが待っていた。誰かが、ここにいていいと言ってくれた。
そういう物語を書くことが本当に好きなのかどうか、八海には今でもよく分からない。
ただ、ずっと昔。
彼は、こんなふうに信じたことがあった。
もし現実の未来がどんなものになるのか分からないなら、せめて物語の中の誰かの未来だけでも、先に書いてしまえばいい。
自分には手に入るかどうかすら分からない人生を。
八海はスマートフォンを見つめた。長いことそうしてから、ようやく画面を消す。
暗闇が戻ってきた。
スマートフォンを枕元へ戻し、寝返りを打って目を閉じた。
今度は、長いあいだ眠れなかった。
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【翌日・東京20:38/天津19:38】
電話が繋がってから、七海はずっと待っていた――八海が、昨夜言いかけたままになっていた話を自分から切り出すのを。
「八海、今のもう一回読んで」
「え?」
「『旅行』。さっき、長音になってなかったよ」
「あ……うん」
八海はもう一度読み直した。
「りょこう」
「うん。今のほうがずっといい」
七海が教材を一ページめくった。紙の擦れる音が小さく聞こえた。
「次は――」
電話の向こうで、八海はペンを握ったまま、すぐには書かなかった。
もう十分も経っている。それなのに、七海はまだ何も聞いてこない。
八海はノートへ目を落とした。
さっき出てきた単語のうち、覚えているのは二つだけだった。
昨夜、自分は確かに約束した。
――明日。
七海に全部話すと。
だから、電話が繋がったときからずっと、どこから話せばいいのか考えていた。
両親のことか。
あの本のことか。
それとも、もっと昔のことからか。
もし七海に聞かれたら、どう答えれば、適当に答えていると思われずに済むんだろう。
「八海?」
「あ」
「また聞いてなかった?」
「聞いてた」
「嘘」
七海の笑い声が聞こえてきた。
「今日、昨日よりぼーっとしてない?」
八海はノートを見つめたまま、少し迷った。
「七海」
「ん?」
「昨日のこと……」
電話の向こうが一瞬静かになる。
八海は無意識にペンを握る手に力を入れた。
けれど、返ってきたのは、七海の小さな「うん」だけだった。
「昨日、どうしたの?」
「その……」
そこで言葉が止まる。
七海は続きを代わりに言うことも、追いかけて聞くこともしなかった。
数秒して、ふいに言った。
「話したくないなら、今は話さなくていいよ」
八海は一瞬固まった。
「え?」
「今日話したくないなら、また今度でいいじゃん」
「うん……」
七海は当たり前のことみたいに言って、そのまますぐにさっきの単語へ戻る。
「じゃあ、『旅行』――って、これはそんなに難しい単語じゃないはずなんだけどなあ」
八海はすぐには繰り返さなかった。
椅子に座ったまま、紙に書かれた仮名をしばらく見つめた。
なぜだろう。
電話が繋がってからずっと強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていった。
今すぐ説明しなくてもいい。
相手が望むような答えを、必死で作らなくてもいい。
そんな感覚は、八海にはひどく馴染みがなかった。
「八海?」
「うん」
八海はペンを持ち直した。
「旅行」
「うん、今度は合ってる」
七海は教材に小さくチェックをつけ、それから次のページをめくる。
その日の残りの時間、彼女は本当に一度も、そのことを聞かなかった。




