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第3話

---


少女は窓辺に座り、両腕で膝を抱えていた。


階下の庭は明るく照らされている。

誰かが笑っていた。誰かが話していた。


食卓のまわりには、大勢の人が座っている。

けれど二階から見下ろしていると、その声はどれも、まるで一枚のガラス越しに聞こえてくるようだった。


少女はしばらく眺めてから、ふいに顔を横へ向け、隣にいる少年を見る。


「もし、今とは全然違う人になったら、もう少し好かれやすくなるのかな」


少年は答えなかった。


「たとえば、もっと面白くなるとか」


少女は指を一本折った。


「もっと話すのが上手になるとか」


二本目。


「もっと可愛くなるとか」


三本目。


「それで――」


少女は俯き、小さく笑った。


「一緒にいると楽しいって、思ってもらえるようになるとか」


――『世界の果ての土曜日』


---


【天津19:32/東京20:32】


夜の授業が終わると、八海はほとんど時間ぎりぎりで寮へ戻ってきた。


まだ上着も脱いでいないのに、手を伸ばしてパソコンの電源を入れる。

画面が明るくなってから、ようやく肩に掛けた鞄を下ろした。


イヤホンをつけた。パソコンの画面では、日本語の先生が新しい単元を解説していた。


タイトルは――【日本の温泉文化】


画面には、白い湯気に包まれた露天風呂の写真が映っていた。先生は「湯船」「露天風呂」「温泉に入る」の違いを説明する。


八海は俯いてノートを取っていた。


「湯船……浴槽……」


そのとき、スマートフォンが震えた。

八海は視線を落とした。


「そういえば、八海って、日本人がこの時間によく何してるか知ってる?」


八海は時刻を確認した。

七時半。東京なら、もう八時半だ。


少し考えた。


「寝てる?」


送信してから五秒も経たないうちに返事が来る。


「つまらなすぎ!」


八海は少し笑った。


「じゃあ何?」

「当ててみて」


二秒ほどして、また一件。


「当たったら……」


雨宮は、わざと少し間を空けたらしい。


「今の写真、八海に送ってあげる」


八海のペン先が、紙の上で止まった。


……写真?


同じ場所にインクが滲んで小さな点になってから、ようやく我に返った。


ただの写真だ。別に気にするようなことじゃない。


八海はもう一度パソコンへ視線を戻した。ちょうど先生が次の画像へ切り替えたところだった――お湯の張られた浴槽。


八海は少し迷ってから打ち込んだ。


「お風呂入ってる?」


送信。

数秒、返事がなかった。

そして――


「えっち!」


八海の体が固まった。


「え?」

「当たってたら、今から裸の写真送ることになるじゃん!」

「ぼ、僕はそういう意味じゃなくて!」


一気に文字を打った。


「今ちょうど温泉の授業を見てたから、それで思いついただけで――」


送信。

返事は来なかった。


八海は画面を見つめた。

十秒、二十秒……。


イヤホンの向こうでは、先生がもう次の例文を説明し始めている。けれど八海は、一語も書き留められなかった。


スマートフォンには、雨宮から新しいメッセージが来ないままだ。

ペンを握っていた手も、少しずつ止まっていった。


……怒った? さっきの、本当に失礼だったんじゃないか。


まだ知り合って二日しか経っていない。しかも相手は女の子だ。あんなこと、どう考えても軽々しく言っちゃだめだったんじゃ……。


八海の指がキーボードの上で止まった。少し迷ってから、結局打ち込んだ。


「ごめん」


送信ボタンを押した直後、スマートフォンが震えた。

雨宮から画像が一枚届いていた。


八海は瞬いた。画像を開いた。


白い湯気の向こうに、白い浴槽いっぱいの湯が見えた。縁にはシャンプーのボトルと、きれいに畳まれたタオルが置かれていた。

それ以外は、何も写っていなかった。続けて、次のメッセージ。


「『今の写真』って言ったんだよ?」


さらにもう一件。


「『今の私』を撮るとは言ってないもん」


八海は画面を見つめた。


「……」


その頃、雨宮はちょうど浴槽から上がったところだった。

バスタオルを巻き、スマートフォンを手にしたまま、チャット画面を見つめる。


数秒待っても、八海から返事は来なかった。

向こうの表情を想像したのか、雨宮は満足そうに、得意げなスタンプを一つ送る。


「引っかかったでしょ?」

「わざとだろ」

「八海が勝手に勘違いしたんじゃん」

「……」

「でも」


雨宮がふいに聞いた。


「なんで謝ったの?」


八海は一瞬きょとんとした。


「何が?」

「さっき」

「だって……」


少し考えた。


「怒ったのかと思った」


今度は、返事が少しだけ遅かった。


---


【東京20:37/天津19:37】


雨宮は風呂上がりだった。


髪はまだ濡れている。ゆったりした部屋着のままベッドの端に座り、片手で髪を拭きながら、もう片方の手でスマートフォンを持っていた。


画面には、さっき八海から送られてきた言葉が残っていた。


「あなたが怒ったのかと思った」


雨宮が髪を拭く手が、少しゆっくりになる。

タオルを毛先に当てたまま、その一文を二秒ほど見つめた。


さっきまでの得意げな気分も、少しずつ薄れていく。


……この人、変だな。


「私、そんなに心狭くないよ」


少し考えてから、もう一文付け足した。


「それと八海、ずっと『あなた』って呼ぶのやめてよ」

「え?」

「よそよそしいから」

「じゃあ……なんて呼べばいい?」


雨宮が髪を拭く手が、一瞬止まった。


『雨宮』でいいよ――そう打ち込んだものの、すぐにその文字を消す。


「『七海』でいいよ」


送信。

次の瞬間。


「名前で呼ぶの?」

「うん」

「でも、日本人って、すごく仲がいいとか、付き合ってからじゃないと名前で呼ばないって聞いた」


雨宮は目を閉じる。

だいたい察しはついた。


「アニメ?」

「え? 当たってる」


雨宮は、やっぱりというようにもう一度目を閉じた。

それから、またタオルで髪を拭き始める。


「『付き合ってないと名前で呼んじゃだめ』なんてルールはないよ。本人がいいって言ってるなら、全然問題ないから」

「本人が?」

「うん。日本は本人許可制なんだよ」

「……そんな制度あるの?」

「あ、あるに決まってるでしょ。だから今、私は……八海が『七海』って呼ぶのを許可します」


「……そうなの?」

「そうなの」

「じゃあ……七海?」


七海が髪を拭いていた手が、空中で止まる。

タオルはまだ、濡れた毛先を押さえたままだった。


自分から言い出したことなのに。いざ本当にそう呼ばれると、なぜか耳が少し熱くなる。


「うんうん」


何でもないふりをして、そのまま続けた。


「じゃあ私も、これからは八海って呼ぶね」

「分かった。僕も許可する……」


七海は画面を見つめながら、小さく呟いた。


「ほんと、騙されやすい」


けれど、自分が今送ったメッセージを見ているうちに、七海は次第に冷静になった。

数秒後、ゆっくりと顔をタオルに埋めた。


「……私、何やってるんだろ」


---


【天津19:45/東京20:45】


オンライン授業は、もう次のページへ進んでいた。


八海はイヤホンをつけ直したが、集中できてはいない。


スマートフォンはキーボードの横に置いたまま。

しばらくして、七海からまたメッセージが届いた。


「そういえば、八海は今何してるの?」

「日本語の授業を聞いてる」

「え? まだ勉強してるの?」

「うん」

「真面目だね」


七海のほうで、少し間が空いた。


「一つ提案があるんだけど――」

「うん」


七海の指が、画面の上で止まった。


「まだ何も言ってないんだけど!」


八海はその一文を見て、ようやく気づいた。


「あ」

「『あ』って何?」

「だって……」


少し考えた。


「七海がやりたいことなら、たぶんいいことだと思って」


七海はその一文を見つめた。続きを打とうとしていた指が止まる。

二秒ほど黙ってから、最後はまた冗談めいた調子に戻した。


「ずいぶん曖昧な言い方だね」


八海自身も少し変な言い方だった気はしたが、どこがおかしいのかはよく分からなかった。


「でも」


七海はすぐに続けた。


「今回は当たり」

「何が?」

「電話したいなって思って」


八海は一瞬きょとんとした。


「今?」

「うん」

「そうしたら、八海が授業中に分からないところがあったら、その場で私に聞けるでしょ?」


その一文を見つめた。目が、ぱっと明るくなる。


「本当?」

「毎回『本当?』って聞かなくていいから」

「ありがとうございます!」

「うんうん、それでいいよ」


七海から、満足そうなスタンプが送られてきた。


「それに、私も中国語を勉強してるし」

「できるだけ手伝うよ」

「もう先生モード?」

「七海も僕を手伝ってくれてるから」

「じゃあ、よろしくね。八海先生」


八海は眉をひそめた。


「……それはやめて」

「どうして?」

「変だから」

「陳先生――」

「七海」

「はいはい」


ほどなくして、電話がかかってきた。

最初の十数分は、本当に勉強だけをしていた。

少なくとも、八海はそう思っていた。


「『温泉に入る』ね。『温泉を入る』じゃないよ」


イヤホンの向こうで、七海が少し気の抜けた声で訂正した。


「どうして?」

「『入る』なら、入る場所には普通『に』を使うの。『お風呂に入る』『部屋に入る』も同じ」

「でも、中国語だと『进入温泉』って感じのほうが自然じゃない?」

「だから中国語からそのまま訳しちゃだめなんだって」


八海は俯き、ノートに書いていた「を」に線を引いた。


数分後、今度は七海の番だった。

慣れない中国語で、ゆっくり読み上げた。


「我今天……吃了一个非常好吃的拉面。」

<今日……すごくおいしいラーメンを一つ食べました>


八海のペン先が止まった。


「意味は分かる」

「え?」

「でも、中国人なら普通は『吃了一碗拉面』って言う」

「一碗?」

「うん。『碗』に入ってるから」


七海は少し黙った。


「じゃあ、ハンバーガーは?」

「一个」


「寿司は?」

「……場合による」


「面倒くさい」

「日本語も同じだよ」

「違う」

「同じ」

「違う」

「同じ」


なぜかそのまま三十秒ほど言い合いになり、最後は七海のほうが先に笑い出す。


勉強が少しずつ脱線し始めたのは、たぶんこのあたりからだった。

途中で、コンビニの話になった。中国の大学寮に門限があるのかという話にもなった。日本の食べ物の話にもなった。


七海がときどき妙な中国語を口にしては、八海が直す。

八海が教科書からそのまま出てきたような日本語を使えば、七海も容赦なく言い直させる。


気づけば一時間以上が経ち、パソコンの右下に表示された時刻は、もう九時近くになっていた。


---


【東京22:33/天津21:33】


七海は大きなあくびを一つした。


「ふぁ……」


七海は、もうしばらく中国語の教材をめくっていなかった。

机に突っ伏し、顔を横に向けたままパソコンを見ていた。


通話はまだ繋がっていて、イヤホンの向こうからは、ときどき八海が小声で単語を読む声が聞こえてくる。


「湯気……湯船……」


七海は瞬いた。


「八海」

「ん?」

「疲れないの?」

「まあ、大丈夫」


ほとんど迷いのない返事だった。


七海は時間を確認する。

もう一時間以上経っていた。自分は眠くて目も開けていられないのに、八海はまだ勉強していた。


「そういえば、八海って、日本語で小説を書くために日本語を勉強し始めたんだよね?」


ページをめくる音が止まった。


「うん」

「いつから小説書いてるの?」

「高校から」

「そんなに早く?」

「別に早くはないと思うけど」


七海は腕の上に顎を乗せた。


「すごいね」

「何が?」

「ちゃんと好きなことがあるって」


電話の向こうで、少し間が空く。

やがて、八海の少し迷うような声が聞こえてきた。


「好きなこと、か……」

「ん?」

「たぶん」


七海はゆっくり顔を上げる。


「なんで『たぶん』なの?」


今度は、八海もすぐには答えなかった。


寮の向こうは少し騒がしくて、ゲームのキャラクター名を叫ぶ声さえ聞こえてきた。

けれど、八海の声だけはとても小さかった。


「実は……自分でもよく分からないんだ」

「何が?」

「僕が本当に、小説を書くのが好きなのかどうか」


七海は少し目を見開く。

思わず、体を起こした。


「……つまり――」


少し考えてから、日本語の一文を口にした。


「『自分がやっていることさえ、自分には分からない。』」


電話の向こうが、急に静かになる。

七海はすぐには続けなかった。


そのまま二秒ほど待った。イヤホンの向こうでは、ページをめくる音すら止まっていた。


「でしょ?」

「……七海」

「ん?」

「本当に読んだんだ」


七海の眉がぴくっと上がる。


「何それ!」

「いや、僕はただ――」

「勝手に人を嘘つきみたいに思わないでよ」

「ご、ごめん」


七海は口を開きかけて、それからため息をついた。


「怒ってないって」

「……うん」

「八海って、本当に謝るの好きだよね」


電話の向こうから返事はなかった。七海も、それ以上は何も言わなかった。


その話はいったん置いて、数秒後、もう一度八海の小説のページを開く。


「でも……ずっと気になってたことがあるんだ」

「何?」

「八海、日本語を勉強し始めてまだ半年くらいって言ってたよね?」

「うん」

「でも、小説はもう一年近く前から投稿してる」


七海はページを上へ戻した。投稿日が、はっきりとそこに表示されていた。


「その前は?」

「……」

「その前も、日本語で書いてたの?」


返事はなかった。

七海はしばらく待った。イヤホンの向こうから聞こえてくるのは、ごく小さな呼吸音だけだった。

最初は、八海が聞き取れなかっただけかと思った。


「八海?」


それでも返事はなかった。


七海の指は、まだタッチパッドの上に置かれている。

続きをスクロールしようとしていた手は、結局動かなかった。

代わりに片手で頬杖をつき、窓の外へ目を向ける。


数秒。十数秒。

そのまま待った。


やがて、イヤホンの向こうから、とても小さな声が聞こえた。


「……もしもし?」


七海は瞬いた。


「うん、いるよ」

「どうしたの?」

「いや……何でもない」


八海は少し間を置いた。


「ただ……言っていいのか分からなくて」


七海は口を挟まなかった。

さらに数秒して、八海の声が耳に届く。


「前の原稿は、ほとんど……翻訳ソフトで訳してたんだ」


七海は瞬いた。


「翻訳ソフト?」

「うん」

「全部?」

「だいたい」


八海の声は、だんだん小さくなっていった。


「だから、あとになって日本語がおかしいって言われたのも、当然なんだと思う」


そこで一度、言葉が途切れる。まるで、このことは説明するまでもないと思っているみたいだった。


「今思うと、ちょっと恥ずかしい」


七海はすぐには答えなかった。

画面に表示されたページを見下ろす。ずいぶん前から投稿されている話が、一話、また一話と並んでいた。かなりの数だ。


「何が恥ずかしいの?」


八海は一瞬きょとんとした。


「え?」

「少なくとも、八海はちゃんと書き上げたんでしょ」

「でも――」

「それに、今はもう勉強してるじゃん」


七海は指先でタッチパッドを滑らせる。


「それより」


少し間を置いた。


「私、もう一つ気になることがある」

「何?」

「どうして日本のライトノベルなの?」


八海は黙った。七海は続けた。


「中国にも小説ってあるよね? たしか……『囯轻(グオチン)』?」

「うん」

「あと、あと……」


七海は記憶を探るように少し考えた。


「网……文?」

「网文(ワンウェン)」

「そう、网文(ワンウェン)」


七海はもう一度繰り返す。発音を確かめるように。


「中国語が八海にとって一番使い慣れた言葉なのに、どうしてわざわざ日本のライトノベルを書きたいの? 『囯轻(グオチン)』とか、『ウェブ小説』とか、そっちだっていい選択肢なんじゃない?」


イヤホンの向こうが静かになる。


八海は机へ視線を落とした。さっきまでノートを取っていたペンは、いつの間にか止まっている。


どうして。考えたことなら、もちろんある。

いや――前は何度も考えていた。


ただ、本当に説明しようとすると……。

もう長いこと触れていなかったものまで、全部一緒に引っ張り出されてしまう気がした。


子供の頃の家。

捨てられた本。

ノートに書いていた物語。

それから――


どこから話せばいいのか、自分でもよく分からない。


「……ごめん」


七海は何も言わなかった。


「明日、話すよ」

「え?」

「僕……」


八海は一度言葉を止めた。


「……日本語でどう説明すればいいのか、分からない」


七海は二秒ほど黙った。

それから、まだ少し拙い中国語がイヤホンの向こうから聞こえてくる。


「我们也可以用汉语呀。」

<中国語で話してもいいんだよ>


八海は一瞬、目を瞬いた。


「……すごい」

「え?」

「今の一言」


七海はすぐに得意げになる。


「えへへ」

「前より発音よくなってる」


「当然」

<もちろん>


「今の『当然』も自然だった」

「八海、急に授業始めないでよ」


八海は少し笑って、それ以上さっきの話には触れなかった。七海も、もう聞かなかった。


「まあ、いいや」

「ん?」

「八海が今日話したくないなら、明日でいいよ」


七海はまた机に突っ伏した。


「私も、何でもかんでも人のことを聞き出したいタイプじゃないし」


八海のペンを握っていた手から、少しずつ力が抜けていく。


「ありがとう」

「どういたしまして」


七海は少し間を置いた。


「それに――」

「ん?」

「約束したでしょ?」

「何を?」

「明日」


わざと声を伸ばした。


「八海、明日教えてくれるって言ったじゃん」


八海は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「うん」

「じゃあ、もう寝るね」

「もうそんな時間?」

「もうすぐ十一時だよ!」

「東京時間……あ」

「やっと時差覚えた?」

「覚えた」

「じゃあ――また明日?」

「うん」


八海は少し間を置いた。


「おやすみ、七海」


イヤホンの向こうが、ほんの一瞬だけ静かになった。それから、声が返ってくる。


「……おやすみ、八海」


通話が切れた。


---


【東京22:52】


部屋が静かになった。

七海はイヤホンを外し、机の上に置く。


少し眠いのは本当だ。


普段ならそのまま寝るはずだった。けれどパソコンの画面はまだ明るく、そこには八海の小説のページが開かれたままだ。


七海はしばらくその画面を見つめ、それからもう一度体を起こした。


第1話。第2話。第3話。

少しずつ、続きを読んでいく。


最初は、まだ読み終えていなかったところを少しだけ読むつもりだった。

けれど、次に時間を気にしたときには、もうずいぶん時間が経っていた。


夜はすっかり深まり、家の中から聞こえていた家族の声も、いつの間にか消えていた。


物語の主人公は、何度も違う誰かと出会う。

誰かが彼を引き止める。誰かが彼を待っている。

誰かが彼に言う――「ここにいていいよ」


七海はゆっくり読んでいく。いくつかの場面では、少し戻ってもう一度読み直した。


そして最後のページまで読み終えた。

七海はしばらく動かなかった。やがて手を伸ばし、パソコンを閉じる。


画面が暗くなり、部屋は静かだ。


七海はベッドに横になり、天井を見つめた。


「……自分の好きなものを自由に書けるって、いいな」


とても小さな声だった。自分でも、物語の中の誰を羨ましいと思ったのかは分からなかった。


それとも――あの物語を書いた人のことを、羨ましいと思ったのか。


七海は寝返りを打つ。さっきの通話であった、あの長い沈黙がもう一度頭に浮かんだ。


小説の話をしているときは、いつも何より早く答えるのに。あの質問だけは、あんなに長く黙っていた。


七海は枕に顔を半分埋める。


「あのとき……何考えてたんだろ」


返事はなかった。


目を閉じる。しばらくして、また開いた。


「……気になる」

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