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第10話

---


少女はスマートフォンを手に、眉をひそめていた。


「この言葉、結局どういう意味なの?」


少年が画面を見た。


「どれ?」

「『随便(スイビエン)』」

「だから……随便(スイビエン)だよ」

「だから、それがどういう意味なの?」

「なんでもいい」

「本当になんでもいいの?」


少年は少し黙った。


「……そうじゃないときもある」


少女は数秒、少年をじっと見つめた。そして笑った。


「八海」

「ん?」

「中国語って、本当に変だね」


少年はため息をついた。


「七海だって、日本語が簡単だなんて言える立場じゃないでしょ」

「私は先生だから」

「またそれ?」

「うん」


少女は笑いながら、スマートフォンを少年へ差し出した。


「じゃあ、今日も勉強しよ」


少年はスマートフォンを受け取った。

少ししてから、彼も笑った。


「うん」


――『勉強?恋愛!美少女が日本語を教えてくれるわけがない』


---


翌日には、雪はもう止んでいた。

道端には昨夜溶けきらなかった雪がまだ残っていて、軒先からはときどき水滴が落ちている。


八海は七海をホテルの近くまで送った。

遠くからでも、そこに立って七海を待っている人たちの姿が見えた。


家族の顔がはっきり見えるところまで来たところで、七海の足が止まる。

八海は半歩先へ進んでから、七海がついてきていないことに気づいた。


「……八海」

「ん?」

「ちょっと怖い」


八海は少し考えた。


「うん」

「『うん』だけ?」

「だって、僕もどうすればいいのか分からないし」


頬を少し掻いた。


「でも、ここで待ってるよ」


七海は数秒、八海を見つめる。

それから息をついて、小さく笑った。


「じゃあ、勝手にどっか行かないでね」

「行かない」


ようやく七海は振り返り、一歩ずつ家族のほうへ歩いていく。


距離はそれほど遠くなかった。

けれど、七海が本当に家族の中に立つと、八海はかえって、自分だけ反対側に隔てられたように感じた。


何を話しているのかまでは聞こえない。

最初、七海は俯いていた。それから少しずつ顔を上げた。


母親が何かを言い、父親もそれに続いて笑ったように見えた。


七海はその場で数秒、固まっていた。

そして突然、振り返って八海のほうへ走ってきた。


「八海」

「ん?どうだった?」


七海は瞬いた。

それから、無意識に視線を逸らす。


「……私のスマホ、ずっと位置情報オンにしてたでしょ?」

「うん」

「向こうから見たら、普通に街を歩き回ってたみたいで」

「うん」

「だから、ただ一人で遊びに行きたかっただけだと思ったらしい」

「……」

「それに、何度も電話したら邪魔になるかもしれないって」


八海は数秒黙った。


「……まさか、こんな展開になるとは」

「ほんとだよ」


七海は頬を膨らませた。

けれど二秒ももたず、自分から笑ってしまった。


八海もつられて笑う。


「それで?」

「言ったよ」

「何を?」


七海は少し間を置いた。


「残りの日程、全部もとの予定通りには動きたくないって」

「……うん」

「自分で行くところを決めたいって」


八海は七海を見る。


「なんて言われた?」

「お母さんには毎日位置情報送ってって言われて、お父さんには少なくとも夜は一緒にご飯食べようって」

「……現実的だね」

「でしょ?」


七海は笑った。

しばらくしてから、七海はとても小さな声で付け加える。


「でも」

「ん?」


七海は自分の手をちらりと見た。まるで今になって、さっき自分が何を言ったのか、本当に気づいたみたいに。


「私、直接『こうしたくない』って言ったの……初めてなんだ」


八海は何も言わず、しばらく七海を見ていた。


「よかったじゃん」

「それだけ?」

「ほかに何があるの?」

「こういうときって、もうちょっと褒めるものでしょ?」


「七海、よくできました」

「適当すぎる」

「七海が言えって言ったんだろ!」


二人がそんなやり取りをしていると、後ろから足音が近づいてきた。


七海の両親が先頭を歩いていた。

その後ろにも、何人かついてきている。


八海は最初、一度だけちらりと見た。

けれど、すぐにもう一度見てしまった。


……待って。まだいるの?


その瞬間、七海が前に言っていた――「うち、人が多いの」という言葉の意味を、八海はようやく本当に理解した。


最初に、七海の父親が手を差し出した。


「昨日は七海がお世話になりました」

「あ……いえ」


八海は慌ててその手を握った。

相手は八海をしばらく見る。


「君が……八海?」

「……」


八海は固まった。

その隣で、七海が口元を押さえていた。


「ぷっ」

「七海!」

「ごめんごめん」


まったく謝っているようには見えなかった。


そのあとのことは、八海も少し曖昧にしか覚えていない。


どこの大学に通っているのか聞かれた。

七海とはいつ知り合ったのかも聞かれた。

それから、真面目に確認してくる人までいた。


「本当に八海っていうの?」


そのたびに、隣の七海の肩が小さく震えた。


ようやく全部終わった頃には、八海は少し目眩がしていた。

七海のほうは、機嫌がよさそうだった。


「八海」

「ん?」

「残りの三日、天津に行ってみたい」


八海は足を止めた。


「天津?」

「うん」

「七海、前にも行ったことあるんじゃなかった?」

「そうじゃなくて」


七海は八海を見た。


「八海の大学に行ってみたいの」


八海は一瞬固まった。

頭に浮かんだのは、前に七海へ送った写真だった。


食堂。図書館。それから、毎日通るあの交差点。


――それまでは、画面越しに紹介していただけの場所。


「……いいよ」

「本当?」

「もちろん」


七海はすぐに笑った。

けれど次の瞬間、わざと真面目な顔を作る。


「じゃあ、先に練習」

「何を?」

「天津」


八海は一瞬固まってから、もう一度言った。


「天津」

「もう一回」

「天津」

「うん、いいね」


八海は気まずそうに頭を掻いた。


「なんでまた日本語の授業みたいになってるの?」

「中国語の授業にも聞こえるけどね」

「たしかに」


七海は八海の隣まで歩いてきて、もう何度もそうしてきたみたいに、ごく自然に手を伸ばした。


八海はその手を一度見下ろしたが、何も言わなかった。

ただ、握った指に少しだけ力を込める。


何歩か歩いてから、八海は自分の歩く速さが少し速いことに気づいた。

七海は手を引かれたまま、少し歩調を速めていた。


八海は黙って、歩く速度を落とした。


しばらくして、七海がふいに口を開いた。


「でもさ」

「ん?」

「今になって思うと、八海って名前、結構似合ってるかも」


八海が顔を向けると、七海は見上げながら、わざと一文字ずつ区切って言った。


「雨、宮、八、海」


八海の顔が一気に熱くなった。


「なんで急にフルネームで呼ぶの!」

「だって、響きいいじゃん」

「どこが……」


「じゃあ私も、中国語の名前つけたほうがいいかな?」

「いいんじゃない?」

「うーん……」


七海はしばらく真剣に考えていた。

そして、ふいに口にした。


「瑶」


八海の足が止まった。


「……瑶?」

「うん」

「なんで?」


七海は、繋いだままの二人の手を軽く揺らした。


「好きだから」

「それだけ?」

「名前って、自分が好きなのを選ぶものじゃないの?」


八海は七海を見た。

しばらくして、小さく笑った。


「一文字の名前って、そんなに多くないよ」

「じゃあ私は特別ってことで」

「その理由、すごく七海っぽい」

「どういう意味?」

「別に」

「絶対なんかある」


二人はそのまま駅へ向かって歩いていく。

雪が降ったあとの路面はまだ少し濡れていて、前方にはもう駅へ入っていく人の流れが見えていた。


七海はずっと、手を離さなかった。


八海はふと、昔書いた小説のことを思い出す。


物語の最後になると、いつも主人公のために答えを一つ残した。


誰が帰ってくるのか。

誰が残るのか。

最後には、どこへ行くのか。


そうして初めて、少し安心できた。


八海は隣の七海を見た。


これから先どうなるのか、本当は何一つ分からなかった。

なのに不思議と――今回は、それほど怖くなかった。


「八海」

「ん?」

「次の小説、何書くの?」


八海は少し足を止めた。


「次?」

「うん」


七海が八海を見る。


「ずっと書いてるんでしょ?」

「ああ……」


八海は少し考えた。

それから、隣の七海へ視線を向けた。


「じゃあ、七海のことにしようかな」

「え?」

「七海と知り合ったところから」


七海は瞬いた。

次の瞬間、顔色が変わった。


「ちょっと待って」

「何?」

「私のことも書くの?」

「もちろん」


「変なこと書かないでよ!」

「考えとく」

「なんで『考えとく』なの!」

「だって、七海からあんなふうにするの、珍しいし」

「八海――!」


八海は吹き出した。

七海はしばらく睨んでいたが、最後には自分も笑ってしまった。


「じゃあタイトルは?」

「タイトル?」

「小説ならタイトルくらいあるでしょ」


駅はもうすぐそこだ。

人の流れが、二人の横を次々と通り過ぎていった。


八海は数秒考え、歩く速度も少しだけ落ちた。


「『勉強?恋愛!美少女が日本語を教えてくれるわけがない』」


七海は固まった。


「……何?」

「タイトル」

「ちょっと待って」


顔が少しずつ赤くなっていった。


「誰が美少女なの?」


八海は七海を見た。


「七海」

「……」

「どうしたの?」

「八海」

「ん?」

「本当に日本語上手くなったね」

「なんで急に褒めるの?」


七海は笑ったまま、答えなかった。

ただ、八海を見上げる。


そして、繋いでいた手をほんの少しだけ強く握った。

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