エピローグ
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飛行機が着陸したとき、八海は長いこと窓の外を見つめていた。
滑走路。
誘導灯。
遠くを行き交う車両。
中国の空港と、本質的にはそこまで違わない。
それでも、機内放送からまた日本語が聞こえてくると、やっぱり少し不思議な感覚がした。
今まで、そういう声はいつもイヤホン越しだった。
七海の声もそうだ。
店員の声。電車のアナウンス。テレビ番組。小説の中の会話。
それどころか、街中で何気なく撮った短い動画まで。
もう、いくらでも聞いてきた。
けれど本当にここに座って、その声が自分のすぐそばを通り過ぎていくのを聞くのは、初めてだった。
飛行機が完全に止まると、乗客たちが次々と立ち上がる。
八海はスマートフォンの機内モードを解除した。
すぐに、七海からのメッセージが表示された。
「着いた?」
「今、着陸したところ」
数秒後。
「遅い」
八海はその二文字を見つめ、それから少し笑った。
「飛行機を操縦してたの、僕じゃないんだけど」
「言い訳」
「……ごめん」
送信してから、八海は数秒画面を見つめる。
すぐに、七海からまた返事が来た。
「八海」
「何?」
「なんで今ので謝るの?」
八海は二秒ほど黙った。
「……癖だよ」
「日本に来たらそれ禁止」
「それ、なかなか直らないんだけど」
「じゃあ私が監督する」
「……もう一年も監督されてるけど」
「だから八海も、ほんのちょっとは進歩したんだよ」
「ほんのちょっと?」
「うん」
そのあとには、得意そうなスタンプまでついていた。
八海はスマートフォンをしまった。
飛行機を降りて、入国審査を通って、荷物を受け取る。
本当にスーツケースを押して通路を出たところで、ようやく少しずつ実感が湧いてきた。
――本当に、日本まで来たんだ。
しかも、七海はすぐ外にいる。
その実感は、思っていたより遅れてやってきた。
緊張すると思っていた。
けれど、実際に出口へ近づいてみると、考えていたのはむしろ別のことだった。
七海はどこに立っているんだろう。
何を着ているんだろう。
またわざとどこかに隠れて、こっちが探し回るのを見てたりしないだろうか。
実際、一番近かったのは三つ目の予想だった。
八海はスーツケースを引きながら通路を出ると、まず周囲を見回した。
いない。
少し先まで歩いた。
やっぱりいない。
スマートフォンを取り出した。
メッセージを送ろうとしたとき、背後から突然、誰かに指先で腰をつつかれた。
「八海」
振り返ると、七海は八海のすぐ後ろに立ち、顔を上げて彼を見ていた。
冬服に包まれたその姿は、いつもよりさらに小さく見える。
マフラーで顔の大半が隠れていて、見えているのは笑みを浮かべた目だけだった。
八海は瞬いた。
「いつ来たの?」
「今」
「なんで気づかなかったんだろ」
「八海がばかだから」
「それとばかなの、関係ある?」
七海はマフラーを少し下へずらす。
口元から、見慣れた小さな八重歯が覗いた。
「日本へようこそ」
八海は一瞬固まった。
そこでようやく、七海が本当に手を伸ばせば触れられるところにいるのだと気づいた。
結局、八海は一言だけ返した。
「うん」
「それだけ?」
「じゃあ何て言えばいいの?」
「せめて『ただいま』くらい言えばいいじゃん」
「帰ってきたわけじゃないでしょ」
「ここだって、そうなってもいいじゃん」
七海はそう言って、自分から一歩先へ進む。
けれど八海は、まだその場に立ったままだった。
「……八海?」
七海が振り返り、そこでようやく八海の表情が少し不自然なのに気づいた。
口元がゆっくり緩んだ。
「顔、赤いよ?」
「赤くない」
「赤い」
「空港が暑いだけ」
「外、三度だよ」
「中は暑い」
「強がり」
八海はもう説明するのを諦めた。
七海はごく自然に手を伸ばし、八海の袖をつかむ。
「行こ」
「どこに?」
「まず電車」
「それは分かってる」
「じゃあ八海が案内して?」
八海は少し止まった。
「……僕、初めて来たんだけど」
「でも日本語、もうかなり上手になったでしょ?」
「日本語が分かるのと、道が分かるのは別でしょ」
「じゃあ、八海のお手並み拝見」
七海はそう言うと、本当に手を離して一歩横へ退いた。
八海は七海を見た。
「本気?」
「うん」
「迎えに来たんじゃなかったの?」
「もう迎えたよ」
「じゃあ、そのあとは?」
「そのあとは八海が自分で電車に乗る」
「……」
七海はもう口元を押さえて笑っている。
八海はため息をつき、スーツケースを引いて歩き出した。
空港の案内表示自体は、そこまで分かりにくくなかった。
問題は、方向が多すぎることだった。
八海は路線図の前でしばらく立ち止まり、スマートフォンの経路ももう一度確認する。
七海はずっと隣についてきた。
二度ほど口を開いて何か言おうとしたが、どちらも最後には我慢した。
八海はとうとう足を止めた。
「……七海、行き方知ってるんじゃない?」
七海は何でもない顔で横を向いた。
「八海、日本語もう分かるんでしょ?」
「だから、日本語が分かるのと道が分かるのは関係ないって」
それからまた少しして。
八海はようやく一方を指差した。
「こっち」
「本当に?」
「本当に」
――五分後、二人はまた戻ってきていた。
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切符を買うときも、七海は手を出さなかった。
八海は自分で係員に路線を確認し、乗り換え方を聞き、駅名ももう一度確かめた。
思っていたより、すんなり進んだ。
少し離れたところまで歩いてから、七海が隣で言う。
「さっきの言い方、自然だったよ」
「どれ?」
「乗り換え聞いたとき」
「それも褒めるところ?」
「前の八海なら、絶対頭の中で三回くらい練習してから言ってたでしょ」
八海の足が止まった。
「なんで分かるの?」
「だって、前に電話してたとき、八海がちょっと複雑なこと言おうとすると――」
七海は急に唇を結び、わざと真剣に考え込むような顔をして、そのまま二秒ほど止まった。
「……それから、ゆっくり話し始めるの」
「……僕、そんなに大げさだった?」
「だいたい」
八海は七海をちらりと見た。
七海は楽しそうに笑っていた。
そんなことを話しながら、二人はホームまで歩く。
まだ電車は来ていなかった。
線路の向こうから、冷たい風が吹いてきた。
八海は少し首をすくめる。
七海がそれに気づいた。
「寒い?」
「ちょっと」
「天津のほうが寒いんじゃないの?」
「寒さの種類が違う」
「どう違うの?」
「……こっちの風のほうが嫌」
「そんなこと言ったら、風が傷つくよ」
七海は少し笑って、八海のマフラーへ手を伸ばす。
少し届きにくくて、七海はそのまま少し前へ身を寄せた。
八海は顔を下げ、七海がやりやすいようにした。
七海はマフラーを少し上まで引き上げた。
「……ありがとう」
「うんうん」
七海は満足そうに手を引っ込めた。
やがて電車が入ってきた。
二人は乗り込み、ドアの近くに並んで座る。
八海はスーツケースを置いた。
窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
建物。道路。看板。
今まで写真でしか見たことのなかったものが、一つずつ目の前を通り過ぎていった。
七海は隣で、俯いてスマートフォンのメッセージを返している。
しばらくして、ふいに聞いた。
「どんな感じ?」
「何が?」
「初めて日本に来て」
八海は窓の外を見ながら、少し考えた。
「思ってたより普通」
七海が顔を上げた。
「それだけ?」
「ほかに何があるの?」
「せめて『やっと来た』とか、そういうのないの?」
「あるよ」
「じゃあ、なんで言わないの?」
「さっきやっとそう思ったから」
「いつ?」
八海は顔を向け、七海をちらりと見た。
「七海を見たとき」
七海が固まる。
それから、急に窓の外へ興味が湧いたみたいに顔を逸らした。
スマートフォンの画面はまだ点いたままだったが、しばらくスクロールもしない。
八海は、髪の隙間から見える耳の先が少しずつ赤くなっていくのを見ていた。
今度こそ、八海のほうが笑う番だった。
「七海、顔赤いよ」
「赤くない」
「赤い」
「車内が暑いだけ」
八海は堪えきれず、笑い声を漏らした。
七海がこちらを向き、靴のつま先で軽く八海に触れる。
「真似しないで」
「ごめん」
口にした瞬間、二人とも止まった。
七海が八海を見つめ、八海も七海を見つめる。
二秒ほどして、先に七海がため息をついた。
「やっぱり、全然直ってない」
八海は少し笑った。
「これはたぶん、本当に直らないかも」
「ゆっくりでいいよ」
七海はもう一度、背もたれに体を預けた。
それから、ふと思い出したように付け足す。
「どうせ、時間はいっぱいあるし」
八海はすぐには答えなかった。
窓の外の景色は、変わらず後ろへ流れていた。
東京――あるいは、これまでずっと七海の側にあった世界が、少しずつ八海の目の前に現れている。
しばらくしてから、ようやく小さく答えた。
「うん」
---
電車がいくつかの駅を通り過ぎると、窓の外の建物は少しずつ密集していった。
八海はずっと外を見ていた。
別に、何か特別に目を引くものがあるわけではない。
マンション。コンビニ。狭い道。路肩に停められた自転車。
たまに小さな公園のそばを通ったり、高架の上から遠くの川が見えたりした。
どれも、ごく普通の景色だ。
それでも八海は、ずっと真剣に眺めていた。
七海はスマートフォンをしまい、八海の視線の先をちらりと見た。
「そんなに面白い?」
「まあまあ」
「じゃあ八海、ずっと何見てるの?」
「なんとなく」
「この辺、別に観光地でもないよ」
「知ってる」
八海は一度、背もたれに体を戻した。
けれど少しすると、また窓の外へ目を向けた。
「前に、七海が送ってくれた写真でよく見たから」
七海は一瞬固まった。
「ここを?」
「ここかどうかは分からない」
「じゃあ、来たことあるみたいに言わないでよ」
「似たような感じってこと」
七海は少し考えた。
「八海、日本のこと単純に考えすぎじゃない?」
「そんなことない」
「初めて来たのに」
「だから見てるんだよ」
七海は数秒、八海を見つめる。
それから首を少し傾けて笑った。
「じゃあ今日は、観光地行くのやめよっか」
八海は顔を向けた。
「もともと予定してたの?」
「してない」
「今、何か取りやめたみたいに言ったよね」
「雰囲気」
「……」
「八海には分からないよ」
「はい、分かりません」
「そんなにすぐ認めないで」
「じゃあ反論したほうがいい?」
「それもしなくていい」
「七海、本当に面倒だね」
「うん」
七海はごく自然に頷いた。
八海も、すぐには何も言わなかった。
ちょうどそのとき、電車が地下へ入り、窓の外が一気に暗くなった。
ガラスには、並んで座る二人の姿が映っている。
七海はもう一度視線を落とし、スマートフォンを開いた。
「次で降りるよ」
「うん」
八海はそう答え、それ以上は聞かなかった。
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数分後、二人は人の流れに混じって駅を出た。
地上は、さっきより少し賑やかだった。
駅を出ると、あまり広くない商店街があり、店同士の間隔は近く、看板が幾重にも重なるように並んでいる。
誰かが自転車でそばを通り過ぎ、七海は反射的に八海のほうへ一歩寄った。
八海は周囲を見回した。
「ここ、前に送ってくれたことある」
七海が足を止めた。
「どこ?」
八海は斜め向かいを指差した。
一軒のパン屋。
入口には淡い色の暖簾が掛かっていて、ガラスには手書きのおすすめメニューが何枚か貼られていた。
七海は瞬いた。
「これも覚えてるの?」
「ここのメロンパン、美味しいって言ってたでしょ」
「私、いつ言った?」
「今年」
「もうちょっと具体的に」
「たぶん……春?」
「全然具体的じゃない」
「でも言ってた」
七海はしばらく店の入口を見た。
「じゃあ食べる?」
「今?」
「うん」
「着いたばっかりだけど」
「着いたばっかりなのと、食べるの関係ある?」
「せめて先に荷物置きに行くのかと思ってた」
七海は踏み出しかけた足を宙で止め。
八海のそばにあるスーツケースを一度見下ろし、それから八海を見上げた。
「……忘れてた」
「やっぱりね」
「だって、八海がやっと来たから」
「それ理由になってないでしょ」
「なる」
「ならない」
「なる」
そう言うと、七海はもう駅の反対側へ向かって歩き出していた。
八海もスーツケースを引きながらついていく。
「パンは?」
「あとで戻ってくる」
「今、食べるか聞いたばっかりじゃん」
「気が変わった」
「早くない?」
七海が振り返った。
「だめ?」
八海は一瞬止まった。
「……いいよ」
七海はまた歩き出しかけて、すぐに止まった。
「今の間、どういう意味?」
「何の間?」
「『いいよ』って言う前」
「ないよ」
「あった」
八海は足を止め、少し考えた。
「ただ、予定ってこんなふうにいつでも変わるのかなって」
「私と出かけるとそうなるよ」
「それ、結構危ないね」
「怖くなった?」
「ちょっと」
七海は笑った。
「今ならまだ中国に帰れるよ」
「飛行機代、高いから」
七海は顔を上げて八海を見る。
「飛行機代だけ?」
八海は七海をちらりと見た。
「そんなわけないでしょ……僕、飛行機を降りて誰を探してたと思う?」
七海は何も言わなかった。
ただ、また前を向いて歩き出したとき、その足取りは明らかに少し軽くなっていた。
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二人は脇の、少し静かな通りへ曲がった。
駅からそれほど離れてはいなかったが、人通りはかなり少ない。
道の両側には住宅が多く、その間に小さなカフェや雑貨屋がぽつぽつと混じっていた。
玄関先には鉢植えが置かれ、自転車は狭い軒下に停められていた。
八海がふいに足を止め、七海が振り返る。
「どうしたの?」
「ここ」
「ここがどうかした?」
八海は前を見た。
少し先に、自動販売機が一台あった。
その隣には、薄い灰色の壁。
さらに先には、ごく普通の交差点があった。
七海は八海の視線を追って、しばらく眺める。
「……ここ?」
「うん」
「来たことあるの?」
「初めて」
「じゃあ、なんでそんな懐かしそうな顔してるの」
八海はスマートフォンを取り出し、しばらく画面を操作した。
それから、画面を七海に差し出した。
かなり前に撮られた写真だった。
夕方。
自動販売機には明かりがついていた。
隣の薄い灰色の壁は、夕日に照らされて少し黄色く見えた。
七海は数秒、写真を見つめる。
「あ」
「思い出した?」
「これ、まだ残してたんだ」
「もちろん」
「なんで?」
「七海が送ってくれたから」
あまりにも早く口から出てしまい、八海は自分から一度咳払いした。
けれど七海は八海を笑わず、ただもう一度写真へ視線を落とした。
指先が画面の端で少し止まった。
「ふーん」
七海はスマートフォンを返した。
けれど口元は、明らかに緩んでいた。
「じゃあ八海のスマホ、私の写真いっぱい入ってるんでしょ」
「少しは」
「何枚?」
「知らない」
「見せて」
「……嫌だ」
「なんで?」
「プライバシー」
「私の写真が八海のプライバシーなの?」
「僕のスマホに入ってるなら、そう」
七海が手を伸ばして奪おうとする。
八海はすぐにスマートフォンを高く掲げた。
七海は背伸びしたが、届かなかった。
もう一度軽く跳んだが、それでも届かなかった。
八海は七海を見下ろした。
「もう跳ばなくていいって」
「貸して」
「貸さない」
「八海」
「無駄」
七海は動きを止め、数秒じっと八海を見る。
そして急に、しょんぼりしたような顔を作った。
「前は何でも見せてくれたのに」
八海の指がわずかに動いた。
七海はすぐにそれに気づいた。目を細めて笑い、また手を伸ばして八海の袖を引いた。
「一枚だけでもだめ?」
「だめ」
「八海~」
「……名前呼んでも無駄」
七海は一秒だけ黙った。
それから、笑った。
「随便你咯。」
<好きにすれば>
八海の足が少し止まった。
「今のは、結構自然に使えてた」
「何が?」
「『随便』」
七海は俯いて少し考えた。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、私の中国語かなり上手くなったってことだね」
「一言だけだけど」
「一言でも進歩でしょ」
八海は七海をちらりと見る。
「でも、本気で怒ってるときにも使えるよ」
「どうやって区別するの?」
「言い方」
七海は足を止め、八海のほうへ向き直った。
「八海、もう一回スマホ見せて」
「嫌だ」
七海は口元をきゅっと下げ、わざと冷たい顔でそっぽを向いた。
「随便你!」
<もう、好きにすれば!>
「……それは怒ってるほう」
七海はすぐに振り返り、目を細めた。
「随便你咯~」
<好きにすれば~>
語尾が明らかに軽くなった。
八海は頷いた。
「それがさっきのほう」
「違い、あんまり分かりやすくないね」
八海は七海を見た。
「もう十分分かりやすいでしょ」
「分かりやすいと思ってるの、八海だけだよ」
「じゃあ、どう説明すればいいの?」
七海は首を傾げた。
「そこは先生が説明の仕方を考えるところじゃないの?」
八海は二秒ほど黙る。
「……とにかく、聞こえ方が違うんだよ」
七海は吹き出した。
「それ、説明になってる?」
「なってるでしょ」
「昔の八海なら、こんなふうに答えたあとでも、絶対『どこが違うの?』って聞いてたよ」
「待って」
八海が顔を上げた。
「七海だって昔、よく『日本人はそんな言い方しない』って言ってたじゃん」
「だって本当に言わないもん」
「なんで?」
七海は一瞬止まった。
「……語感」
八海は七海を見つめ、七海も八海を見つめる。
数秒して、七海はごく自然に視線を逸らした。
「とにかく不自然なの」
「七海先生も説明できないんだ」
「母語話者の特権です」
「そんな特権あるの?」
「ある」
「初めて聞いた」
「今知ったね」
八海はため息をついた。
「じゃあ、これからまた理由を聞いたら?」
「気分次第」
「それでも先生?」
七海が振り返った。
「不満?」
「ちょっと」
「じゃあ先生変える?」
八海は七海をちらりと見る。
「……やめとく」
「なんで?」
「もう慣れたから」
七海は一瞬固まり、それから口元をゆっくり緩めた。
「じゃあ、これからも我慢してね」
「……急にちょっと後悔してきた」
「もう遅い」
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ホテルに荷物を置いてから、二人はもう一度外へ出た。
今度は七海も、八海を駅のほうへは連れていかなかった。
二人は住宅街の脇を通る道をのんびり歩き、十数分ほどすると、周りに店が少しずつ増えてくる。
「お腹空いた?」
七海がふいに聞く。
八海は時間を見た。
「ちょっと」
「何食べたい?」
七海は顔を横に向けて八海を見る。
八海も七海を一度見た。
「……ラーメンかな」
七海は何も言わず、ただ頷いた。
それから、近くにある自分がよく行く小さなラーメン屋へ連れていった。
八海は醤油を選び、七海は直前になって味噌に変えた。
「醤油がおすすめじゃなかった?」
「でも今日はこっちが食べたい」
七海はもう味噌ラーメンのボタンを押している。
八海は七海の手にある食券を一度見てから、自分の分のボタンも押した。
半分ほど食べた頃、七海は八海の丼からチャーシューを一枚取っていった。
「味噌食べたかったんじゃないの?」
「チャーシューは別でしょ」
「どういう理屈」
「私の理屈」
食べ終わると、二人は店を出た。
七海は道端でスマートフォンを見ている。八海がそばへ寄った。
「午後は?」
「まだ決めてない」
「さっき、案内してくれるって言ってなかった?」
「案内するにしても、八海がどこ行きたいか決めないと」
「僕、初めて来たんだけど」
「だから聞いてるの」
八海は少し考えた。
「本屋?」
「本屋?」
「うん」
「初めて日本に来て、午後は本屋に行くの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
七海は数秒考える。
「じゃあ、私が普段行くところにしよ」
「遠い?」
「近いよ」
「歩いて?」
「うん」
途中まで歩いたところで、七海がふいに足を止める。
前に、小さなスイーツの店があった。
ショーケースには、苺のケーキやプリンが並んでいる。
八海も七海の視線を追った。
「食べたい?」
「別に」
返事が早い。八海は何も言わなかった。
また少し歩いたが、七海の歩く速さはだんだん遅くなり、最後には自分から足を止めた。
「……食べたい」
八海は笑った。
「じゃあ行けばいいじゃん」
「ラーメン食べたばっかり」
「だから?」
「太る」
「デザート一つくらいでしょ」
七海はまだその場から動かない。八海も急かさなかった。
しばらくして、七海は自分からくるりと向きを変え、来た道を戻っていく。
「じゃあ八海、半分食べて」
「なんで僕が半分?」
「一人じゃ食べきれないから」
「さっき、ちょっと食べたいだけって言ってなかった?」
「今はもっと食べたくなった」
「変わるの早いね」
「人は変わるものだから」
八海は七海をちらりと見た。
「じゃあ、行こ」
七海は苺のショートケーキを一つ頼んだ。
けれど、一口目は先に八海の前へ差し出した。
「七海が食べたかったんじゃないの?」
「早く」
八海は仕方なく顔を下げ、一口かじる。
七海はすぐにフォークを引っ込め、そのまま二口目を自分で食べた。
半分ずつと言っていたのに、結局そのケーキの大半は七海の胃に収まった。
店を出たあとの七海は、明らかに機嫌がよかった。
「本屋、まだ行く?」
「行くよ」
「もう七海は満足したのかと思った」
「甘いものと本屋は別でしょ」
「今日、ずいぶん行き当たりばったりだね」
「八海は嫌?」
八海は少し考えた。
「結構好き」
七海が振り返る。
「どこが?」
「時間を気にしなくていいところ」
「それだけ?」
「あと――」
八海は周りを見る。
特別な景色があるわけではなかった。
道沿いにはコンビニや駐輪場、ドラッグストア、それからさっき出てきたばかりのスイーツ店があった。
「こういうほうが、七海が普段過ごしてる一日って感じがする」
七海の歩く速度が少し落ちた。
「……退屈じゃない?」
「結構いいよ」
八海は、ごく普通の街並みを見回す。
「観光地よりいい」
七海は何も言わなかった。
ただ、目を細めて少し笑った。
---
そのあと七海は、たまに自分が行くという本屋へ八海を連れていった。
八海はライトノベルの棚の前で、しばらく足を止めた。
この一年、八海はずっと小説を書き続けている。
七海は八海が何冊もめくるのを見て、最後に一言だけ言った。
「こっそり勉強中?」
八海は否定しなかった。
二人は、本屋にはそれほど長くいなかった。
店を出ると、七海は今度、近くにある小さな川沿いへ八海を連れていく。
そこも、別に何か特別な場所というわけではなかった。
川沿いにはほとんど人がいない。
犬を連れた老人が二人の横をゆっくり通り過ぎ、犬の足が枯れ草を踏むたび、細かな擦れる音がした。
七海は手をコートのポケットに入れる。
「前は、気分が沈んだときにたまにここ来てた」
八海は何も言わず、ただ七海に付き合ってゆっくり歩いた。
小さな橋の近くまで来ると、七海が足を止める。
「ここ」
「ここ?」
「うん」
「何か特別なところなの?」
七海は少し考えた。
つま先で、橋の端にあった小さな砂利を軽く擦る。
「何もない」
七海は川面を見た。
「だから八海を連れてきたの」
八海はすぐには答えなかった。
少ししてから、そっと頷く。
「うん」
二人は橋のそばにしばらく立っていた。
空はもう暗くなり始めている。
ちょうどそのとき、七海のスマートフォンが震えた。
七海は俯いて画面を一度見る。
画面には、家からのメッセージが表示されていた。
――今夜はみんな帰ってきて一緒にご飯食べるけど、何時に着く?
七海はその一文を数秒見つめる。
八海は隣に立ったまま、覗き込まなかった。
「どうしたの?」
「家から」
「何かあった?」
「今夜、みんなで集まるって」
八海は頷く。
「じゃあ、帰る?」
七海は答えず、指を画面の上で止めた。
しばらくして、入力欄を開く。
「八海」
「ん?」
「今夜、何か予定ある?」
八海は少し考る。
「ないよ」
「本当に?」
「本当」
七海は少し笑った。
「じゃあ、よかった」
「ん?」
そう言うと、七海はすぐに俯き、入力欄を開く。
――今夜は行かない。
少し止まって、もう一文付け足した。
――八海と一緒にいたい。
数秒眺める。
送信。
メッセージを送ってからも、七海はずっと画面を見ていた。
八海は何も言わなかった。
しばらくして、スマートフォンが震える。
――分かった。あまり遅くまで起きてないでね。
七海は読み終えると、スマートフォンの画面を消した。
ずっとコートのポケットに入れていた手からも、少し力が抜けた。
「行こ」
「どこに?」
「ご飯」
「さっき甘いもの食べたばっかりじゃない?」
「それは午後」
「まだそんなに経ってないけど」
「八海の日本初日なんだから、お腹空かせるわけにいかないでしょ」
「七海が自分でお腹空いただけじゃない?」
「ちょっと」
「じゃあ普通に言えばいいのに」
七海は顔を上げ、しょんぼりした顔で八海を見る。
「お腹空いた」
八海は一瞬止まり、それから笑った。
「うん」
---
夜は、特別なところへは行かなかった。
レストランから戻る頃には、外はもうかなり冷えていた。
七海は手をコートのポケットに入れている。
何歩か歩いたところで、ふいに八海のほうへ少し寄った。
「寒い?」
「ちょっと」
「じゃあ早く歩こう」
「やだ」
七海は逆に歩く速度を落とす。
八海が聞こうとしたところで、もう七海が手を伸ばして袖をつかんでいた。
八海はその手をちらりと見て、自分も歩調を落とす。
ホテルに戻ると、二人とも目に見えて力が抜けた。
七海は部屋へ入るなり、コートを椅子の背に放り投げる。
ベッドの端に座ったとき、まだマフラーも完全には外していないまま、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「今日、いっぱい歩いた」
八海は、ベッドに横になった七海を見た。
「七海ガイドのおかげだね」
七海は目を閉じたまま、頬を膨らませる。
「八海があっちこっち歩くからでしょ」
「それも僕のせい?」
「別に八海のせいじゃない」
「もう話つながってないよ」
七海はすでに目を閉じていた。
「明日は?」
八海はそばの椅子に座る。
「午前中、ちょっと用事がある」
七海は目を開け、顔を横に向けて八海を見た。
「何の?」
「少し出かける」
「どこ?」
「まだ完全には決めてない」
「じゃあ私も行く」
そう言いながら、もうスマートフォンを手に取っている。
「だめ」
七海の指が、ロックを解除しかけたところで止まった。
「なんで?」
「僕が……一人で行かないといけないから」
「怪しい」
「そこまででもないよ」
「言えないの?」
「……言えない」
七海は数秒、八海をじっと見る。
それからゆっくり起き上がった。
「明日の朝になったら、八海の気が変わってるかも」
「変わらない」
七海は少しだけ眉を上げた。
「じゃあ、見てるから」
それ以上は聞かなかった。
ただスマートフォンを手に取り、ベッドのヘッドボードにもたれてメッセージを見始めた。
---
しばらくしてからも七海はベッドの背にもたれていた。
スマートフォンは、もう横に置かれている。
八海はそばの椅子に座り、俯いてさっき買ってきたものをめくっていた。
しばらくして、七海がふいに口を開く。
「八海」
「ん?」
「私、もう高校卒業したよ」
八海は顔を上げた。
「知ってる」
「だから……」
七海は少し止まる。
八海は続きを待った。
「だから?」
七海は膝を少し抱えるように引き寄せ、そのまま八海のほうへ体を向ける。
「もう、いいでしょ?」
八海は一瞬固まった。
「……何が?」
七海は答えず、ただ目を逸らさずに八海を見つめ、そっと一度瞬いた。
部屋の中が、妙なくらい静かだった。
八海の視線は反射的に七海の顔へ向かい、すぐに逸れる。
けれど、逸らした先にも置き場がないみたいに、しばらくするとまた戻ってきた。
七海は急かさず、ただ八海を見ている。
八海の耳元が少しずつ赤くなっていって、ようやく七海の口元がゆっくり緩んだ。
「八海、何考えてるの?」
「何も」
「嘘」
「本当に何も考えてない」
「顔赤いよ」
「どこが?」
「ここ」
七海は手を伸ばし、八海の顔を指差した。
八海は反射的に少し後ろへ引いく。
七海は逆に、さっきよりはっきり笑った。
「それで、八海はさっきどこまで考えたの?」
「何も考えてないって」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、いいや」
七海はわざとため息をついた。
「本当は教えようと思ってたのに」
八海は二秒ほど黙る。
「……何を?」
七海は顔を上げ、八海を見る。
今度はもう、焦らさなかった。
「私たち、正式に付き合えるよ」
八海は固まった。
部屋の中に、数秒の沈黙が落ちる。
七海は八海の反応を待っていた。
けれど、八海の表情は思っていたよりずっと真剣だった。
「……正式に付き合う?」
「うん」
「じゃあ、今までは……」
今度は七海が少し止まる。
「今まで?」
「今まで」
「うーん……」
七海はわざと長く考えた。
「友達以上、恋人未満?」
八海は少し黙ってから口を開く。
「僕は……もうとっくにそうだと思ってた」
七海の口元の笑みが、一瞬止まった。
「だって、あの日七海のこと好きだって言ったし」
「あの日は私も頭ぐちゃぐちゃだったし。厳密に言えば――」
八海は目を伏せる。
七海の笑顔が一気に消え、すぐに体を起こした。
「ちょっと待って、冗談だから」
「……本当に?」
「本当。私たち、もちろん付き合ってるよ」
八海はまだ七海を見ていた。
その視線に、七海は少し居心地が悪そうにする。
「何?」
「確認してる」
「何を確認するの」
「だって七海、さっき付き合ってないみたいなこと言ったから」
「だから、からかっただけだって」
「でも――」
七海が説明しようとした。
八海はふいに少し姿勢を正す。
「じゃあ、今もう一回言う」
七海は少し固まった。
「何を?」
「七海が好き」
一瞬、反応できなかった。
「……知ってる」
「七海が好き」
七海の顔が、一気に赤くなる。
「ちょっと待って」
「すごく好き」
七海は手を半分ほど上げ、黙らせようとしたのか、そのままどこへ持っていけばいいのか分からないように止まった。
「八海」
「本当にすごく好き」
「も、もういい!」
「さっき、前のは正式な告白じゃないって言ってたでしょ?」
「冗談だって言ったじゃん!」
「じゃあ今のが正式ってことで」
「一回で十分だから!」
「でも、さっき七海が――」
「もう言わないで!」
七海は横にあった枕をつかみ、そのまま八海へ投げる。
八海は手を伸ばして受け止めた。
「正式に付き合おうって言ったの、七海じゃん」
「だからって何回も言わなくていいでしょ!」
「また聞こえなかったって言われたら困るから」
「ちゃんと聞こえてる!」
「ならよかった」
八海は枕をベッドへ戻した。
七海はじっと睨んでいいる。
けれど数秒もすると、自分から先に視線を逸らした。
耳はまだ赤いままだった。
八海はしばらくそれを見ていた。
「七海」
「何」
「じゃあ、今は正式に付き合ってるってことでいい?」
七海は大きく息を吸った。
「……いい」
「そっか」
「『そっか』だけ?」
「じゃあ何て言えばいいの?」
「知らない」
「それじゃ同じでしょ」
七海が振り返る。
「八海」
「ん?」
「こういうとき、もうちょっと嬉しそうにするものじゃない?」
「結構嬉しいよ」
「全然そう見えない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「たとえば――」
七海はそこまで言って、止まった。
八海は七海を見る。
「たとえば?」
七海は答えない。
ただ、少しずつ前へ寄った。
二人の距離が、あっという間に縮まっていく。
今度は八海も逃げなかった。
七海が顔を上げる。
「八海」
「ん?」
「目、閉じて」
「なんで?」
七海は答えなかった。
ただ、もう少しだけ近づく。
八海は反射的に目を閉じた。
部屋の中が、急に静かになった。
次の瞬間。
ほんのかすかに、唇に温かさが触れる。
長くはい。
八海がもう一度目を開けたときには、七海はすでに少し離れていた。
七海の顔はまだ赤い。
「……これでいいの」
「これでいいって――」
「聞かないで」
七海はそのまま布団を引き上げ、顔の半分を隠す。
八海は笑いながら七海を見た。
「七海」
「何」
「かわいい」
布団が一気に頭の上まで上がった。
「寝る」
---
翌朝、二人ともそれほど遅くない時間に目を覚ました。
カーテンの向こうは、もう明るい。
七海はベッドの端に座って髪を整え、八海は昨夜椅子の背に掛けておいたコートを手に取った。
七海は鏡越しに八海を一度見る。
「本当に行くの?」
「うん」
「今?」
「そろそろ」
八海は俯いて、スマートフォンの経路をもう一度確認した。
七海は櫛を置く。
「じゃあ、やっぱり私も一緒に行く」
「だめ」
答えは昨夜と同じだった。
七海は振り返る。
「……少しくらい相談の余地ないの?」
「ない」
「八海、私のこといらなくなったんだ」
いかにも悲しそうな声だった。
八海はしばらく七海を見る。
「そんなことない」
「じゃあ一緒に行かせて」
「……だめ」
七海は肩を落とし、櫛を膝の上に置いた。
「それ、矛盾してない?」
「してない」
「どこが?」
八海はスマートフォンをポケットにしまう。
「別の話だから」
七海は少し黙った。
けれど数秒すると、声が少しだけ弱くなる。
「……本当に一緒に行けない? 何しに行くのかも教えてくれないの?」
八海は七海を見た。
「ごめん」
七海は少し眉をひそめる。
「また謝った」
八海も少し止まり、それから小さく笑った。
「これは、たぶん直らないかも」
「じゃあ、ゆっくり直せばいいよ」
「うん」
八海はコートを着る。
「でも、今日は本当にだめ」
七海はすぐには何も言わなかった。
しばらくしてから、ようやく口を開く。
「何時に帰ってくる?」
八海は少し考えた。
「お昼までには」
「だいたい何時?」
「十二時前かな」
「本当に?」
「うん」
七海は数秒、八海を見つめる。
「じゃあ、帰ってくるの待ってる。お昼一緒に食べよ」
「うん」
「あんまり遅れないでね」
「なるべく」
「なるべくじゃない」
「……分かった」
七海はようやく、もう一度櫛を手に取って髪を整え始めた。
八海はドアのところまで歩く。
靴を履き替えようとしたところで、また七海に呼び止められた。
「八海」
「ん?」
「着いたら連絡して」
「うん」
「用事が終わったときも」
「分かった」
「あと――」
八海は振り返って七海を見る。
七海は少し止まり、最後にはただ軽く手を振った。
「もうないよ。行ってらっしゃい」
八海は少し笑った。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
「またお昼に」
「またお昼に」
ドアが閉まると、部屋はまた静かになった。
八海は廊下に立ったまま、スマートフォンを取り出した。
昨夜調べておいた経路が、まだ画面に残っている。
もう一度確認してから、エレベーターへ向かった。
---
外へ出ると、まだ人通りはそれほど多くなかった。
冬の風は少し冷たい。
八海はマフラーを少し上げ、ナビを見ながら駅へ向かった。
電車を一度乗り換え、そこからさらに少し歩く。
最後に着いたのは、それほど賑やかではない通りだった。
店は、思っていたより小さい。
入口にも、目立つ看板はなかった。
事前に調べていなければ、そのまま通り過ぎていたかもしれない。
八海は店の前で少し立ち止まった。
それからドアを開ける。
店員が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
八海は軽く頷く。
「こんにちは」
中は、外よりずっと暖かかった。
カウンターや棚には品物がいくつも並んでいて、どれも作りが丁寧だ。
八海はゆっくり見て回った。
――七海の誕生日までは、まだ少しある。
日付は、前に何気ない会話の中で七海が口にしたものだ。
けれど八海は、ずっと覚えていた。
今回日本に来たあと、次はいつまた来られるのか、自分でも分からない……
だからせめて、プレゼントだけでも先に用意しておきたかった。
八海はカウンターの前で長いこと見て、最後に小さなアクセサリーの前で足を止める。
派手でもなく、値段も高くなかった。
七海はたぶん好きだと思う。
前に中国で一緒に店を見て回ったときも、こういう小物の前ではいつも少しだけ長く足を止めていた。
けれど、自分から買いたいと言うことはほとんどなかった。
それに、七海が身につけているところを想像するだけで、きっとかわいいと思う。
その隣に並んでいる、もう一段値段の高いものについては――
八海には、もう七海の声まで聞こえる気がした。
「八海、ばかなの?」
思わず少し笑った。
「これ、見せてもらえますか?」
店員が商品を取り、カウンターの上へ置く。
八海はもう一度確認してから頷いた。
「これにします」
店員は振り返り、包装の準備を始める。
八海はその場で待った。
ふと、視線が隣のショーケースへ向く。
そこには、さらに小さなアクセサリーがいくつか並んでいた。
その中の一つが、少し離れたところから見ると、指輪のように見える。
八海は一瞬止まり、そのまま二秒ほど見つめた。
それから、小さく笑った。




