第9話
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少年は、頷くのが上手だった。
少女は、笑うのが上手だった。
大人に何か言われるたび、少年は頷いた。
「うん」
「分かった」
「知ってる」
少女も同じだった。
褒められれば、嬉しそうに笑った。
「大丈夫?」と聞かれたときも笑った。
本当は何か言いたいことがあるときでさえ、まず笑った。
やがて、二人は偶然、子供の頃の話になった。
「あの頃の私って、ばかみたいだったよね」
「僕も同じだよ」
二人はしばらく黙った。
そして、ほとんど同時に口を開いた。
「君のこと、そんなふうには――」
――『』
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「私、小さい頃……」
七海の声は、八海の肩に埋もれていた。
そこまで言ってから、また長いこと黙った。
しばらくして、七海はようやくゆっくり腕をほどく。
そして、ベッドの端に座り直した。
もともと完全には乾いていなかった髪は、擦れて少し乱れている。
目元も、鼻の先も、まだ赤いままだった。
七海は俯き、手の甲で適当に顔を拭う。
「……ひどい顔」
「え?」
「今の私」
「そんなことない」
「嘘」
「本当だよ」
七海は八海をちらりと見た。
「返事が早すぎて、怪しいよ」
八海は頭を掻き、何も言わなかった。
七海はそんな八海を二秒ほど見つめる。
まだ少し鼻声のまま、それでも小さく笑った。
「こういうときは、逆に何も言えなくなるんだね」
しばらくしてから、七海はもう一度口を開いた。
「うち……人が多いの」
「うん」
「本当に多いよ」
七海は指を一本ずつ折っていった。
両親。兄弟姉妹。
それから、普段から家のいろいろなことを担当している人たち。
一人ずつ数えていった。
けれど、数えているうちに、自分から止まった。
「……本当に多いでしょ」
そう言ってから、少しだけ苦笑した。
「小さい頃、家の中はいつも賑やかだったの」
「ご飯のときは、みんな競うみたいに話すし、弟や妹は騒ぐし。少し離れたところに座ってると、反対側で何を話してるのか聞こえないこともあった」
七海は少し言葉を止めた。
「幸せだったはずだよね……」
八海は何も言わなかった。
七海は自分の指先を見つめたまま、続ける。
「ちゃんとできると嬉しいんだって、初めて思ったのは小学生のときだった」
「一回、テストですごくいい点を取ったことがあって」
「何点だったかは、もう忘れちゃったけど」
そこで少し間を置いた。
「でも、その日お母さんがずっと褒めてくれたの」
「頭も撫でてくれて」
そう言って、七海は手を上げて自分の髪に触れる。
それから、小さく笑った。
「それだけは、すごくよく覚えてるよ」
そのあとにも、一度。家にたくさんの客が来たことがあった。
ほかの子供たちは走り回っていた。
泣いている子もいた。騒いでいる子もいた。
七海だけは、ずっときちんと座っていた。
挨拶するときは挨拶して、静かにしているべきときは静かにしていた。
客が帰ったあと、父親が笑って言った。
「やっぱり七海が一番安心だなって」
「あのとき、本当に嬉しかった」
七海はそのまま話し続けた。
「だから、そのあとずっと思ってたの……」
そこで一度止まり、言い方を探すように少し考えた。
「もう少しちゃんとできたら」
「もう少し聞き分けがよくなったら。もう少し安心してもらえたら」
「きっと、もう少し好きになってもらえるんじゃないかって」
八海は七海を見ていた。
七海は顔を上げなかった。
弟や妹が病気になれば、両親はすぐにそっちへ行った。
誰かが何か問題を起こせば、家の誰かが必ず対応した。
成績が急に落ちた子がいれば、両親も特に気にかけた。
けれど七海は、ずっとちゃんとしていた。
成績もよかった。礼儀もきちんとしていた。
人に迷惑をかけることもなかった。
「だからね」
七海の口元が、癖みたいに少しだけ上がる。
けれど、その笑みはすぐに薄れた。
「だんだん――」
「『七海は心配いらない』」
「『七海なら一人でできる』」
「『七海が一番手がかからない』」
そこまで言って、急に黙った。
部屋の中がしばらく静かになった。
「……褒め言葉のはずなのにね」
八海は答えなかった。
七海は窓の外へ顔を向ける。
「私も、ずっとそう思ってた」
雪はまだ降っていた。
ガラスの向こうは、白くぼやけている。
「でも、そのうち」
その声は、少しずつ小さくなっていった。
「たまに思うようになったの」
「もし一回くらい、私も心配かけたら?」
「一回くらい間違えたら? 言うことを聞かなかったら?」
「そしたら、少しくらい私のこと見てくれるのかなって」
七海は俯いた。指先がゆっくりと握られていった。
「子供っぽいよね」
八海は一瞬、固まった。
七海は顔を上げないまま、自分の指を見つめ続けている。
「何でもあるのに。本当にひどい扱いをされてるわけでもないのに」
「欲しいものはだいたい手に入るし、旅行にもよく行く」
「ただ、お父さんとお母さんにもう少し見てほしいって思っただけで……」
七海は鼻をすすった。
「抜け出して、わざと帰らないで」
「探しに来るかどうか、確かめようとして」
笑おうとしたのかもしれない。
けれど最後に漏れたのは、鼻から抜ける小さな息だけだった。
「どう考えても、子供っぽいよね」
八海は俯いた。
「……そういうことなら」
七海が目を上げた。
「ん?」
「子供の頃の僕のほうが、たぶんもっと子供っぽかった」
七海は一瞬固まった。
「八海?」
八海は自分の手を見つめた。
「両親が離婚したあと」
七海は何も言わなかった。
「父さんは、ときどき僕のことを『陳瑶』って呼んだ」
「母さんは『汪瑶』って呼んだ」
七海の表情が、わずかに変わる。
「二人とも、僕にいろいろ聞いてきた」
「父さんは、どうして母さんが悪いのか分かるかって」
「母さんは、将来お父さんみたいにはならないよねって」
八海はゆっくり話した。
「僕、本当は何も分かってなかったから、ただ頷いた」
「父さんに聞かれたら、頷いて」
「母さんに聞かれても、頷いた」
七海は八海を見つめた。
「両方に?」
「うん」
八海は俯いたまま、七海に何か言われるより先に、自分から少し口元を歪めた。
「ばかみたいでしょ」
「なんで?」
八海は一瞬固まった。
「え?」
「なんで、自分のことばかみたいって言うの?」
八海は瞬いた。
「だって……二人が言ってること、完全に逆だったんだよ。せめて一回くらい『分からない』って言えばよかった」
七海はすぐには答えなかった。
「でも、その頃の八海ってまだ子供だったんでしょ」
「それでも――」
「子供がどうしたらいいか分からないのって、普通じゃない?」
八海は言葉を止めた。
七海はまだ目を赤くしたまま、八海を見ている。
「じゃあ、私も?」
「え?」
「私も小さい頃、ただお父さんとお母さんにもっと見てほしかっただけ」
「それって……普通じゃない?」
二人は数秒、黙って見つめ合った。
七海は何か言い返そうとした。
けれど、その言葉を口にしたら、八海のことまで一緒に否定することになると気づく。
結局、先に視線を逸らした。
「……そういう言い方はできないかも」
七海は目を細め、小さく笑った。
「じゃあ八海も、自分のことばかって言うの禁止」
「先に言ったの、七海だけど」
「今、撤回した」
「そんなのあり?」
「日本語の先生の特権」
「これ、もう語学の話じゃないでしょ」
今度は、二人とも笑った。
笑いが収まると、部屋はまた静かになる。
七海は膝を抱えたまま、自分の手をじっと見つめていた。
八海はふと、知り合ったばかりの頃のことを思い出した。
七海に、どうして日本語で小説を書くのかと聞かれたこと。
あのときは答えられなかった。
そのあともう一度聞かれても、やっぱり答えられなかった。
けれど今思えば、答えはそこまで複雑なものでもなかったのかもしれない。
「七海」
「ん?」
「前に聞いたでしょ?」
「何を?」
「どうして僕が、日本語でああいう小説を書くのかって」
七海はゆっくり顔を向けた。八海は窓の外の雪を見ていた。
「子供の頃、一度ライトノベルを読んだんだ」
「その中の人たちも、家のことがめちゃくちゃで」
「でも最後は……ちゃんといい結末になってた」
そこまで言って、少し間を置いた。
視線はまだ窓の外に向いたままだった。
「なんでか分からないけど、僕の小説も、そういう結末に近づいていくんだ……」
「いつも誰かが、彼らを待ってる」
「それか……誰かが、彼らを引き止める」
七海は黙って八海を見ていた。長いことそうしてから、ようやく口を開く。
「……ありがとう」
八海は一瞬固まった。
「なんで急にお礼?」
「だって、八海がやっと教えてくれたから」
「これ……別に気にしなくていいよ」
七海は目を細め、少し首を傾げた。
「八海」
「ん?」
「こういうときになると、日本語ちょっと変になるよね」
「どこが?」
「急にどもる」
八海は口元を手で覆い、すぐに手を下ろした。
「どもってない」
「どもってる」
「ない」
「ある」
八海は思わず笑った。
七海もつられて笑った。
しばらくして、七海は俯き、部屋着の袖口を指先でつまむ。
「八海」
「ん?」
七海は顔を上げなかった。
「これからも……私が日本語教えていい?」
八海は一瞬固まった。
「もちろん」
あまりにも自然な返事に、七海は少し意外そうだった。
「こんな私でも?」
「どんな?」
「子供っぽくて」
「さっき、それ言うの禁止って決めたでしょ」
「じゃあ……面倒くさくても?」
「七海」
「ん?」
八海は七海を見た。
「さっき、もう言ったでしょ」
「何を?」
「僕、七海のこと好きだよ」
七海は口を開いた。けれど、声は出なかった。
数秒して、顔が少しずつ赤くなっていく。
七海は顔を反対側へ向けた。
やがて、口元がゆっくり緩む。小さな八重歯も、また覗いた。
「……八海」
「ん?」
「じゃあやっぱり、さっき途中だったことの続きしよ」
「断る」
ほとんど間を置かず、七海が勢いよく振り返った。
「今度は断るの早すぎるでしょ!」
八海自身も一瞬驚いた。
それから、堪えきれず笑う。
「分かんない」
「絶対わざとでしょ!」
「違う」
「嘘つき」
「本当に違うって」
七海は八海を睨んだ。
けれど、しばらくすると自分も笑い出した。
「つまんない」
「そういうこと、面白いかどうかで決めるものじゃないでしょ」
「八海、本当に悪くなった」
「七海に教わったから」
「そんなの教えてない」
窓の外では、まだ雪が降っている。
二人は静かに部屋の中に座っていた。
どちらも、急いでまた何かを話そうとはしなかった。
何かを証明しようともしなかった。
七海がときどき八海を見た。
八海も気づいて、七海を見た。
二人の視線がぶつかり、ほとんど同時に逸れた。
しばらくして、どちらが先だったのか分からないまま、小さな笑い声が一つ漏れる。
それから、二人は一緒に笑った。
その夜、二人は初めて、今まで知らなかったことをたくさん知った――けれど、何か本当の答えを得られたわけでもないようだった。
どちらも、明日も言語交換を続けるのかとは聞かなかった。
でも、たぶんもう、聞く必要はなかった。




