第4話 公爵の食卓
一
セルヴァン城の内部は、外観の武骨さとは裏腹に、複雑怪奇な迷路だった。
ルカの案内で石造りの回廊を進むたびに、カイは方向感覚を狂わされた。右に折れ、左に折れ、階段を上り、また下る。同じような石壁が続き、同じような松明が同じような間隔で灯っている。窓はほとんどなく、外の景色で現在地を確かめることもできない。
「おいルカ、ここはさっきも通らなかったか」
「通ってない。似たような角が多いだけだ。慣れるまでは俺も迷った」
ルカは苦笑しながら先を歩く。その足取りには迷いがなく、体が道を覚えていることが分かる。
廊下は不自然なほど頻繁に折れ曲がり、見通しが利かない。階段は幅が狭く、大人二人が並んで歩くのがやっとだ。天井は場所によって急に低くなり、背の高い者は頭を屈めなければならない。壁の冷たさが、松明の熱を吸い取って、空気はどこまでも冷えていた。
カイは歩きながら、自分の目が無意識に情報を拾い集めていることに気づいた。
この折れ曲がった廊下は、侵入者の視界を常に遮断する。直線がないから、弓も投げ槍も長い距離を飛ばせない。狭い階段は、一度に通過できる人数を絞り込み、守る側が少人数でも攻め手を抑え込める。壁面の所々に開いた小さな穴は、採光のためではなく、内側から矢を射るための銃眼だ。侵入者が廊下を進むほど、死角から狙い撃ちにされる仕掛けになっている。
またか。
カイは小さく頭を振った。なぜこんな知識が湧いてくるのか。港で荷物を運び、市場で買い物をしていた人間の頭に、城郭防衛の理論など必要ないはずだ。だが、思考は止まらない。まるで高性能な測定器のように、城の構造を勝手に読み解き、強度と脆弱性を洗い出そうとする。西側の回廊は壁が薄い。北の塔との接合部に補修の跡がある。あの角を曲がった先に、おそらく隠し通路の入口がある。
意志とは無関係に回り続ける分析装置。それが自分の頭の中に棲みついている不気味さに、カイは背筋が寒くなるのを感じた。
「カイ、どうかしたの」
隣を歩くエルナが、心配そうに覗き込んできた。
「いや、なんでもない。この城、迷路みたいで面白いなと思っただけだ」
「そう。私はちょっと不気味だわ。誰もいないのに、どこかから見られてるような気がして」
エルナが両腕を擦りながら言った。
その直感は正しい。実際、壁のあちこちに監視用の覗き穴が巧妙に隠されているのを、カイの目は既に見つけていた。石の継ぎ目に紛れた小さな暗がり。普通に歩いていれば気づかないが、一度知ってしまうと、壁そのものが無数の目を持つ巨大な生き物のように見えてくる。
カイはそれをエルナに言わなかった。知らない方がいいこともある。
回廊を行き交う兵士たちが、ルカに敬礼しながら、その背後を歩く見慣れない二人に視線を投げてきた。好奇心を隠さない者。警戒を露わにする者。期待のようなものを滲ませる者。それぞれの視線の温度が異なり、カイの肌にちくちくと刺さる。
やがて一行は、ひときわ重厚な樫材の扉の前に辿り着いた。
「ここだ。公爵がお待ちだ」
ルカが扉の脇に立つ衛兵に目配せすると、二人がかりで扉が押し開かれた。鉄の蝶番が低く軋み、石壁に反響する。
二
通されたのは、予想に反して小さな部屋だった。
広大な謁見の間でも、煌びやかな大広間でもない。書斎と食堂を兼ねたような、飾り気のない私室だった。壁の三面が天井まで届く書棚で埋められ、羊皮紙の巻物や革装丁の書物がぎっしりと詰まっている。残る一面には大きな地図台が据えられ、その上にこの島の全域図が広げられていた。赤と黒の駒がいくつも配置されており、それが各勢力の配置を示しているのだろうと、カイは一目で理解した。
部屋の中央に、質素な木のテーブルが置かれている。四脚の椅子が囲み、テーブルの真ん中には蓋をした鉄鍋がひとつ。湯気が蓋の縁から漏れ、豆と根菜を煮込んだ濃厚な匂いが部屋に満ちていた。石壁の冷たさを和らげるような、素朴で温かい匂いだ。
その鍋の向こうに、一人の男が立っていた。
ヴォルフ・ランダウ公爵。
昨夕、逆光の中で見たその人物を、カイは改めて観察した。
五十代半ば。鉄灰色の髪は短く刈り込まれ、銀の混じり方がまだらで、年齢よりも幾分老けて見える。顔の皺は深く、特に眉間と口元に刻まれた線が、長年にわたって難しい判断を繰り返してきた人間の顔を作り上げていた。体格は大柄で肩幅が広く、黒い衣の下に鍛えられた筋肉が見て取れるが、その上に疲労が薄い膜のように覆いかぶさっている。
だが、何よりも印象的なのは目だった。暗い水底のような色をした瞳。穏やかに見えるが、その奥に底知れない深さがある。人を見る時、まるで相手の骨格まで透かし見るような鋭さを、柔和な表情の下に隠し持っている目だった。
「よく来た」
公爵の声は低く、よく通った。声量は控えめなのに、石壁に反響して部屋の隅々まで届く。
「座ってくれ。立ち話は性に合わん。それに、飯は熱いうちに食うのが一番だ」
公爵は自ら鍋の蓋を取り、棚から皿を出して、慣れた手つきで煮込みをよそい始めた。
カイは思わず目を見開いた。
「あの……公爵自ら給仕をされるんですか」
「ここではこれが普通だ。俺は昔から、兵と同じものを食うことにしている。特別扱いは要らん。毒味役を置く手間も省けるしな」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。自分で配膳するという行為の裏に、どれだけの意図が込められているか。兵士との距離を縮める演出。指導者としての清廉さの誇示。あるいは、本当にそうすることが自然なだけなのか。
カイには、まだ判断がつかない。
四人がテーブルを囲んだ。カイとエルナが片側に、向かいにルカ、そして上座でも下座でもない横の位置に公爵が座る。この席順にも、おそらく意味がある。権威を示す上座を避けることで、対等な対話の場を演出している。
煮込みに匙を入れた。豆はよく煮崩れ、根菜は柔らかく、塩加減が絶妙だった。素朴だが滋味深い味で、二日間の旅路で冷え切った体の芯に、じんわりと温かさが染み渡っていく。
匙を運びながら、公爵が口を開いた。
「マレーヴァの件は聞いている。避難民が押し寄せたそうだな」
「ええ。二十人ほどでしたが、皆、疲労と恐怖で衰弱していました。火傷や打撲の怪我人も多くて」
カイが答えると、公爵は小さく頷いた。
「氷山の一角にすぎん。この半年で、北部のレスタ集落の三分の一が消えた。焼かれるか、封鎖されるか、あるいは……」
「収容施設送り、ですね」
カイが言葉を継いだ。
公爵の眉がわずかに動いた。一瞬だけ、この若者がなぜそんなことを知っているのかと問いたげな表情が浮かんだが、すぐに消えた。
「そうだ。ザナスの元鉱山施設に、現在五千人を超える同胞が閉じ込められている。ドルン枢機卿は『保護地区』と呼んでいるが、実態は緩やかな処刑場だ。食料はほとんど与えられず、井戸水は汚染され、病が蔓延している。毎日、何人もが息を引き取っている」
公爵はパンをちぎり、煮込みの汁に浸した。その動作は落ち着いているが、パンを持つ指先に力がこもっているのが見えた。
「ハイゼンのオスヴァルトは見て見ぬふりだ。あの男にとって、我々の命など取引材料のひとつにすぎん。港の利権と天秤にかけて、軽い方を切り捨てた。……許せんことだ」
公爵の声に、静かだが揺るぎない怒りが滲んだ。
カイはその言葉を聞きながら、頭の中でもうひとつの回路が動いているのを感じていた。
三つの勢力における「被害者、加害者、傍観者」の構図。外部への敵意を強調することで内部の結束を高める語り口。公爵の話は明快で、聞く者の感情を的確に動かす力を持っている。分かりやすい。分かりやすすぎるほどに。
だが、現実はこれほど単純ではないはずだ。ヴァルガの中にも、弾圧に反対する者はいる。あの市場から逃げた商人たちのように、自国の蛮行を恥じて身を隠す者も。逆にレスタの中にも、ヴァルガやハイゼンに情報を売る者がいないとは限らない。公爵はそれを知っていて、あえて単純な構図に落とし込んでいるのか。それとも、本当にそう信じているのか。
「我々解放軍は戦う。だが、力が足りない」
公爵は匙を皿の縁に置き、背筋を伸ばした。
「人も、物資も、そして知恵もだ。特に知恵が足りん。武器は奪えるし、兵は育てられる。だが、敵の裏をかき、先を読み、罠を見破る頭脳は、一朝一夕には手に入らない」
公爵の鋭い視線が、カイを正面から射抜いた。
「ルカから聞いている。君は、物事を見る目を持っていると」
「……買い被りです。ただの港の荷揚げ屋ですよ」
「謙遜はいらん」
公爵は首を振った。
「ルカが『使える』と言った人間で、外れだったことはない。あいつは感情で動く男だが、人を見る目だけは確かだ。それに……」
公爵はそこで言葉を切り、わずかに目を細めた。
「君の目は、荷揚げ屋のものではない。この部屋に入ってから、地図台の駒の配置と、書棚の本の背表紙と、窓の位置を確認しただろう。無意識にやっているのかもしれんが、それは訓練された観察者の目だ」
カイは息を止めた。
見抜かれている。自分でも意識していなかった視線の動きを、この男は捉えていた。
公爵は追及せず、視線をエルナに移した。
「君がエルナか。治癒の腕が確かだと聞いている。頼みたいことがある」
「はい。何でしょうか」
「城下の野営地に医療班を置いているが、惨状だ。薬も人手も圧倒的に足りていない。怪我人は増える一方なのに、まともに診られる人間がほとんどいない。君のような技術を持つ者が来てくれるのは、何よりの助けだ」
「お役に立てるなら、喜んで」
エルナは即答した。一瞬の迷いもない声だった。その目には、マレーヴァで見せたのと同じ、まっすぐな覚悟の光が灯っている。公爵はその瞳を見て、満足げに小さく顎を引いた。
食事が進み、鍋の中身が減っていく。パンの最後のひとかけらを煮込みの汁で拭って食べ終えた頃、カイはずっと喉の奥に詰まっていた問いを、口に出した。
「公爵、ひとつ聞いてもいいですか」
「何だ」
「収容施設の人たちを……本当に助けられるんですか。五千人も」
テーブルの空気が変わった。
エルナが匙を止め、ルカが息を呑む気配がした。ルカの視線がカイに向けられる。公爵の前でそういうことを訊くのか、という目だった。
公爵はゆっくりと匙を皿の上に置いた。金属が陶器に触れるかすかな音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。
そして、カイを見据えた。
「それが、我々の戦いの目的だ」
揺るぎのない声だった。一片の疑念も迷いもない。
だが、カイはその瞳の奥に、二つの光を見た。
ひとつは、同胞を救いたいという純粋な義憤。焼かれた村、収容された民、奪われた命。それらに対する怒りが、瞳の深い場所で赤く燃えている。
もうひとつは、違う種類の光だった。五千人の救出が成功した場合に、それがもたらす政治的効果を計算している光。救出劇は解放軍の正当性を大陸全土に示し、支持を集め、ハイゼンの中立を揺るがす圧力にもなる。その波及効果までを、この男は見据えている。
どちらかが嘘だというわけではない。二つとも本物だ。
人道と政治的計算。その二つを矛盾なく同居させられるのが、指導者という存在なのかもしれない。あるいは、それができなければ指導者は務まらないのか。
カイは軽く頭を下げた。
「失礼な問いでした。……自分にできることを、精一杯やらせてください」
公爵は一瞬だけ沈黙し、それから静かに頷いた。
「期待している」
その三文字の重さが、カイの肩にずしりと乗った。
三
食事の後、ルカは「部下の配置を確認してくる。朝までには戻る」と言って、足早に部屋を出ていった。食事中は幼馴染の顔を見せていたが、扉をくぐる瞬間に軍人の表情に切り替わるのが見えた。あの切り替えの速さに、カイは三年という時間の重みを改めて感じた。
カイとエルナは、兵士に案内されて客室へ向かった。城の東翼にある小部屋が二つ、隣り合って宛がわれている。
回廊を歩きながら、エルナが小声で呟いた。
「公爵、思ったより普通のおじさまだったわね」
「姉さんにはそう見えたか」
「ええ。自分で料理をよそってくれたし、偉そうにふんぞり返ってる感じもなかったわ。ルカの話だともっと厳めしい人を想像してたのだけど」
「……そうだな」
カイは曖昧に頷いた。
エルナの直感は間違っていない。公爵には確かに人を安心させる温かさがある。だが、カイにはその温かさの裏側に張り巡らされた意図の糸が、薄く透けて見えていた。席順の選び方。自ら給仕をする仕草。語りの構成。すべてが計算ずくであると同時に、すべてが自然でもある。演技と本心の境目が見えない。それが、この人物の恐ろしさだった。
客室の前で、カイは立ち止まった。
「姉さん、先に入っていてくれ。少し風に当たってくる」
「あら。考え事をするのね。あまり根を詰めないでよ。明日から忙しくなるんだから」
「分かってる」
エルナの部屋の扉が閉まる音を背中で聞いてから、カイは一人、回廊を引き返した。
夜の城内は昼間よりもさらに静かだった。松明の炎が石壁に揺れる影を落とし、自分の足音だけが規則的に反響する。すれ違う人影はなく、回廊の先は闇に沈んでいた。
突き当たりに小さな窓があった。格子のない、石壁を四角く切り取っただけの開口部。そこから夜風が吹き込み、カイの前髪を揺らした。
窓の外に目を向けると、眼下に野営地が広がっていた。
無数の天幕が闇の中に点在し、そのいくつかの前で焚き火が燃えている。小さな光の粒が地面に散りばめられたように見えた。炊煙は既に消え、代わりに火の粉が時折風に舞い上がり、闇に溶けていく。あそこに何千もの命がある。寝息を立てている。明日を夢見ているか、あるいは昨日の恐怖に魘されているか。
カイは窓枠に両手をついて、その光を眺めた。
「眠れないのか」
背後からの声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、回廊の暗がりから一つの人影が歩み出てくるところだった。
中背の男だった。三十代の半ばか。痩身で、肩幅は広くないが、立ち姿に無駄がない。整った顔立ちをしているが、能面のように表情が読めなかった。灰色の目が、松明の光を受けてもほとんど色を変えない。左頬に、薄い刀傷の跡がある。古い傷だ。その一本の線だけが、この男がただの文官ではないことを物語っていた。
「……考え事をしていました」
カイは警戒心を隠しながら答えた。足音がしなかった。この回廊の石畳を、音もなく歩ける人間。
「ディートリヒ・レーヴェだ。この城で、参謀のようなことをしている」
男は無表情のまま名乗った。声は低く、抑揚が乏しい。感情を意図的に排したような喋り方だった。
「公爵との会食はどうだった」
「美味しい煮込みでした」
「はぐらかすな」
ディートリヒは一歩近づいた。松明の光が顔の半分を照らし、もう半分を影に沈める。灰色の瞳が、カイの目を覗き込む。
「公爵の話を、どう聞いた」
試すような問いかけだった。
カイは一瞬の迷いの後、正直に答えることを選んだ。この男の目は、はぐらかしが通じる目ではない。嘘をついたところで見抜かれるだけだ。ならば、正直さそのものを武器にする方がいい。
「正しいことを仰っていると思いました。収容施設の人々を救わなければならないという主張も、ハイゼンの欺瞞に対する怒りも、間違いなく本物だと感じました」
「だが?」
「……少し、綺麗すぎるとも感じました」
ディートリヒの片眉がわずかに持ち上がった。
「綺麗すぎる、とは」
「公爵のお話には、ヴァルガ内部の事情が含まれていませんでした。枢機卿ドルンに反対する勢力がいるのかいないのか。ハイゼンの中にも現状を憂えている人間がいるのかどうか。敵を一枚岩の悪として描くのは、人を団結させるには有効です。しかし、戦略を練る上では見落としが生まれます。亀裂のない壁は崩せませんが、亀裂のある壁は少ない力でも動かせる。敵の中の亀裂を知らなければ、力押しの選択肢しか残らない」
カイは自分でも驚くほど流暢に言葉が出てきたことに戸惑った。まるで、頭の中の別人が口を借りて喋っているかのようだった。
ディートリヒは黙ってカイの言葉を聞き終え、それから口の端にかすかな、本当にかすかな笑みを浮かべた。笑みというよりも、筋肉がわずかに動いた程度のものだったが。
「……ルカが連れてきた、物事を見る目を持つ男か。なるほど」
ディートリヒはカイの隣に歩み寄り、同じ窓から外の野営地を見下ろした。二人の間に、松明一本分ほどの距離がある。
「君の指摘は正しい。公爵の語りは政治的に正しい。民を奮い立たせ、兵の士気を保つという目的においては、一分の隙もない。だが、それは真実のすべてではない」
「それを、あなたは公爵に指摘しないんですか」
「指摘するさ。それが参謀の仕事だ」
ディートリヒの声は淡々としていた。
「公爵は愚かな人間ではない。敵の中に亀裂があることも、味方の中に裏切りの芽があることも、知っている。だが、大衆を動かすには物語が必要だ。複雑な現実をそのまま語れば、人は混乱し、足が止まる。単純で力強い物語が、人を前に進ませる。公爵はその語り部としての役割を、自覚の上で引き受けている」
ディートリヒは窓枠から手を離し、カイの方を向いた。
「君には、その舞台裏が透けて見えているようだな。港の荷揚げ屋には、ずいぶんと過剰な装備だが」
皮肉ではなかった。ただ事実を述べている。カイは返す言葉を探したが、見つからなかった。自分の頭の中にある分析能力がどこから来たのか、自分自身にも説明できないのだから。
「ひとつ忠告しておく」
ディートリヒが言った。
「正しいことと、真実は、必ずしも一致しない。この城で生きていくつもりなら、その区別を常に意識しておくことだ。公爵の語る正しさを信じる者たちと、正しさの裏にある真実を扱う者たちの間で、どちらの言葉をどの場面で使うか。それを間違えると、どちらからも信用を失う」
「……肝に銘じます」
「いいだろう。今日は休め。明日から忙しくなる」
ディートリヒは踵を返し、足音を立てずに回廊の闇に溶けていった。影がひとつ、松明の光の届かない場所へ消え、後には冷たい石の匂いだけが残った。
カイは窓辺に立ち尽くしたまま、消えた影の先をしばらく見つめていた。
この城には、二つの顔がある。
民衆を鼓舞し、希望の旗を掲げるカリスマ。そして、その旗の影で現実を冷徹に計算するリアリスト。ランダウ公爵とディートリヒ・レーヴェ。熱と冷。光と影。その二つの均衡の上に、レスタ解放軍は立っている。
では、自分はどちら側にいるのか。
どちらにもなれる。どちらにもなりきれない。
カイは額を窓枠に押し当て、冷たい石の感触を味わった。
四
客室へ戻る途中、カイはエルナの部屋の前で足を止めた。扉の隙間から、まだ灯りが漏れている。
軽く二度、叩いた。
「開いてるわよ」
中に入ると、エルナは寝台の上に治療道具を一面に広げ、ひとつひとつを点検している最中だった。包帯の束。軟膏の瓶。縫合用の針と糸。止血帯。小さな鋏。煎じ薬を入れた木の箱。それらがきちんと種類ごとに分けられ、明日すぐ使えるように並べ直されていく。
「まだ起きてたのか」
「準備が終わらなくて。明日、どんな患者さんが来るか分からないもの。何が足りなくて何が余っているか、ちゃんと把握しておかないと、いざという時に手が止まるでしょう」
包帯を巻き直す手つきには、迷いがなかった。長年の習慣が染みついた、自然な動きだ。
カイは壁際の椅子に腰を下ろし、その背中を見つめた。
「姉さんはすごいな」
「急にどうしたの。気持ち悪いわね」
「いや、そうじゃなくて。迷わないところが、だよ。ここに着いたばかりなのに、もう自分のやるべきことを見つけて動き始めてる。俺はまだ、足元がふわふわしてるってのに」
エルナの手が止まった。
包帯の束を寝台に置き、ゆっくりと振り返る。ランプの光が彼女の横顔を橙色に照らし、緑の瞳を深い色に変えていた。
「迷わないわけじゃないわ、カイ。怖いし、不安だし、ここが本当に安全な場所なのかも分からない。でもね、迷っている間にも痛がっている人がいるなら、手を動かした方がいいでしょう。迷うのは、手が空いた時に後回しにすればいいの」
「……単純明快だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エルナは少し笑い、そしてすぐに表情を引き締めた。
「でもね、カイ。あなたのことよ」
「俺?」
「公爵のお話を聞いてる時のあなたの顔、見てたの。あれは昔から、難しい本を読んでる時の顔と同じだった。眉の間に皺を寄せて、目の焦点がどこか遠くに合ってる。目の前の文字じゃなくて、文字の向こうにある何かを追いかけてる顔。私には見えないものが見えてるんでしょう」
カイは言葉に詰まった。
やはり、姉には隠せない。自分の頭の中で勝手に回り続ける分析装置の存在を、エルナは理屈ではなく感覚で掴んでいる。何が見えているのかまでは分からなくても、弟が普通とは違う何かを抱えていることだけは、とうの昔に察しているのだ。
「……買い被りだよ。俺はただ、無駄に理屈っぽいだけだ」
「ふふ。そういうことにしておくわ」
エルナは再び道具の点検に戻りながら、背中越しに言った。
「でもね、理屈っぽいのは悪いことじゃないわよ。私みたいに目の前のことしか見えない人間と、あなたみたいに全体を見渡せる人間と、両方いた方がいい。お父様もそう言ってたでしょう。片目だけでは遠近が分からないって」
養父ヨハンの口癖だった。カイは不意にその穏やかな声を思い出し、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
「おやすみ、カイ。明日から、一緒に頑張りましょう」
「……ああ。おやすみ、姉さん」
部屋を出て、隣の自分の部屋に入った。
狭い石造りの個室だった。寝台がひとつ、小さな机がひとつ、窓がひとつ。それだけの空間だ。マレーヴァの薬草店の二階に比べれば、格段に殺風景で冷たい。だが、清潔な毛布が一枚畳んで置かれていて、枕元にはランプと水差しがある。戦時下の城としては、十分すぎる待遇だろう。
カイは上衣を脱いで寝台に倒れ込んだ。毛布を引き寄せると、洗い立ての布の匂いがした。誰かがこの部屋を整えてくれたのだ。
天井の石組みを見上げる。ランプの炎が揺れるたびに、石の目地の影が微かに動く。
不意に、前世の記憶が鮮明に浮かんだ。
白い部屋だった。壁に窓はなく、蛍光灯の光だけが満ちている。長方形の机を挟んで、二つの椅子。面接の場だ。向こう側に座る人物の顔はぼやけているが、眼鏡の奥の目だけが妙にはっきりと見える。
「なぜ紛争研究を選んだのですか」
問いかける声。穏やかだが、鋭い。
若い自分の声が答える。
「知ることで、悲劇を回避できると信じたからです。過去の事例を分析し、暴力が拡大する構造を解明すれば、同じ過ちを繰り返さずに済むはずだと」
面接官が眼鏡を指先で押し上げ、少し間を置いてから告げた。
「知ることと、それを実行に移すことの間には、深い溝がありますよ。あなたはその溝を、どうやって越えるつもりですか」
若い自分は答えに窮した。口を開きかけ、言葉を探し、見つけられずに沈黙した。面接官は待ったが、答えは出なかった。
そこで記憶の映像は途切れた。
「……深い溝、か」
カイは暗い天井に向かって呟いた。
今、自分はその溝の縁に立っている。
公爵の語りの裏にある計算を見抜ける。ディートリヒの冷徹さの意味を理解できる。勢力図の読み方も、大衆心理の動かし方も、知識として頭の中にある。
だが、それをどうやって行動に変えればいい。知っている、分かっている、見えている。それだけで、一体何ができるというのだ。あの面接官の問いに、今の自分もまだ答えられていない。
窓の外から、風に乗って微かな歌声が聞こえてきた。
低く、細く、しかし途切れることなく続く旋律。レスタの民謡だ。養父ヨハンが時折、夜の礼拝堂で口ずさんでいた曲。潮が引いていく時に歌う歌。「帰潮の祈り」と呼ばれるその歌は、遠くへ行った人が無事に戻ってくることを願う祈りの歌だった。
野営地の天幕のどこかで、誰かが歌っている。故郷を焼かれ、家族を奪われ、見知らぬ土地の仮住まいで眠る前に、帰る場所のない人間がそれでも帰還を祈っている。
その哀切な旋律を聞きながら、カイはランプの炎を吹き消した。
闇が部屋を覆い、歌声だけが残った。
答えはまだ出ない。だが、明日が来れば、否応なく現実の中に放り込まれる。分析する暇もなく、考える時間もなく、目の前のことに手を動かさなければならない日が来る。
エルナはそう言っていた。迷うのは後回しにすればいいと。
その言葉を反芻しながら、カイは深くひとつ息を吐き、意識を手放した。
歌声が遠ざかり、石壁の冷たさが和らぎ、やがてすべてが静寂に沈んでいく。
夢の中で、あの面接官が再び問いかけたような気がした。
溝を越える方法を、見つけたか。
答えの代わりに、焼けた村の匂いと、エルナの笑顔と、ルカの震える手と、公爵の底知れない瞳が、順番に浮かんでは消えていった。
第4話「公爵の食卓」をお読みいただきありがとうございます。
今回はついに解放軍のトップ、ランダウ公爵との会食、そして冷徹な参謀**ディートリヒ**との出会いが描かれました。
公爵自ら煮込みを給仕する姿。一見すると理想的なリーダーに見えますが、カイの「分析者の目」は、それが「人心を掌握するための高度な政治的パフォーマンス」である可能性を見抜いてしまいます。
前世で紛争学を修めていたカイにとって、こうした「カリスマの演出」は教科書で見た通りの光景ですが、それを目の当たりにした時の違和感や不気味さが、今作のシリアスな深みとなっています。
そして、新キャラクターのディートリヒ・レーヴェ。
彼だけは、カイの正体は知らずとも、その「目が荷揚げ屋のものではない」こと、そしてカイが公爵の舞台裏を透かし見ていることを見抜いていました。
「正しいことと、真実は、必ずしも一致しない」
彼が遺したこの言葉は、今後カイがこの世界で生きていく上での、大きな呪いであり指針にもなっていきます。
一方のエルナは、迷うことなく医療の現場へと身を投じます。分析に苦悩するカイと、目の前の命に向き合うエルナ。この姉弟のコントラストも、物語の重要な軸として描いていく予定です。
物語がいよいよ「戦略」の段階へと動き出します。
もし「この知略戦の先が気になる!」「ディートリヒとの関係が面白い」と感じていただけましたら、ぜひページ下部の【ブックマーク】や、評価の【☆☆☆☆☆】をいただけますと、執筆の大きな力になります!
皆様のポイント一つひとつが、カイの知略をさらに研ぎ澄ませる原動力です。
次回、第5話。
カイが初めて実地での「分析」と「提案」を行い、現実の状況を動かしていく「分析者の目」。
引き続き、よろしくお願いいたします!




