表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/7

第5話 分析者の目


 セルヴァン城の朝は、鉄の匂いで始まった。


 カイが目を開けると、窓の隙間から差し込む灰色の光が、石壁を這うように伸びていた。寝台の毛布には一晩かけて湿った石の冷気が染み込み、体の芯までひんやりとしている。それに混じって、微かに錆びた鉄の気配が鼻についた。城壁に使われている鉄の蝶番か、あるいは武器庫から流れてくる匂いか。マレーヴァの潮の匂いとは、何もかもが違う。


「……よく寝た気がしないな」


 体を起こし、首を回す。節々がぎしぎしと軋んだ。石壁に囲まれた部屋は音を反響させるから、自分の寝息すら耳について、浅い眠りを何度も繰り返した。


 それだけではない。昨夜のディートリヒとの会話が、頭の隅にこびりついて離れなかった。


「正しいことと、真実は、必ずしも一致しない」


 あの灰色の瞳。感情を排した声。冷徹な参謀の言葉は、カイの頭の中身を見透かしているかのようだった。公爵の語りの裏側を読んだことも、それを正直に口にしたことも、すべて承知の上でカイを値踏みしていた。試験を受けたのだという自覚が、後から押し寄せてくる。


 窓辺に歩み寄り、中庭を見下ろした。


 昨夕、丘の上から見た時にはぼんやりとした光の点にすぎなかった天幕の群れが、朝の灰色の光の中で、生々しい実体を伴って広がっている。


 色とりどりの布で継ぎ接ぎされた天幕が、城壁の内側にびっしりとひしめき合っていた。白い布、茶色の革、青みがかった帆布、藁を束ねただけの屋根。統一感などどこにもない。あるもので間に合わせ、凌いでいるだけの仮住まいだった。


 そこから薄い煙が何本も立ち昇っている。炊き出しの煙だ。風向きが変わるたびに、煮炊きの匂いと、別の何か、酸っぱく淀んだ臭気が混じり合って窓から入り込んでくる。


 子供の泣き声が聞こえた。咳き込む老人の声。誰かが怒鳴っている。配給の列らしき人の帯が、泥の上をのろのろと蛇行していた。


 五千人。


 昨夜、公爵が口にした数字だ。収容施設に閉じ込められた同胞の数。だが、この野営地にも、それに匹敵する数の人間が身を寄せ合っている。


 数字が、一人ひとりの顔を持ってそこにいる。


 不意に、前世の記憶がちらついた。


 平面的な画面に映る、乾いた大地の難民キャンプ。上空から撮影された整然とした白い天幕の列。それに重なる教授の声。衛生環境の悪化による二次被害。人口密度が限界を超えた時点からの疫病発生率の急増。折れ線グラフの曲線が、ある地点から急角度で跳ね上がる。


「知っている……この光景を」


 カイは呟いた。


 テレビ画面の向こう側にあった光景が、今は窓の下に広がっている。数値とグラフで語られていた現実が、泣き声と怒号と煙の臭いを伴って、目の前にある。


 身支度を整えて部屋を出ようとすると、隣のエルナの部屋の扉が開け放たれていた。中はもぬけの殻だ。寝台はきちんと整えられ、昨夜並べていた治療道具もすべて消えている。


 姉はもう動き出している。太陽より早く。


 迷う前に動く。彼女の行動原理はどこまでもシンプルで、その単純さが途方もなく強い。


「俺は……どうする」


 階段を降り、中庭に出た。


 冷たい朝の空気が頬を刺した。炊き出しの列の横を通ると、粥を煮る鍋の湯気と一緒に、汗と泥と汚水が混じった酸っぱい臭気が押し寄せてくる。列に並ぶ人々の顔は疲労に蝕まれ、目だけがぎらぎらと光っていた。


「おい、また量が少ないぞ! 昨日より減ってるじゃねえか!」


 列の後方で、大柄な男が配給係に食ってかかっている。


「文句を言うな。あるだけマシだろうが。減ったんじゃない、人が増えたんだよ」


 配給係が苛立った声で返す。どちらも悪くない。だが、どちらも限界に近い。


 不公平感。それが不信を生み、不信が敵意を育て、敵意が暴力の温床になる。閉じ込められた空間で、物資が足りなくなった時に何が起きるか。教科書通りの展開だ。


「よう、カイ。早いな」


 背後から声がかかった。振り返ると、ルカが歩み寄ってくるところだった。昨夜の疲れが顔に残っている。目の下の隈が濃くなり、頬がわずかに削げたように見えたが、口元には努めて明るい笑みを浮かべていた。


「眠れたか」

「おかげさまでな。鉄の匂いが子守唄代わりだったよ」

「そのうち慣れる。ここじゃ贅沢を言ってられないからな」


 ルカの左手は、今朝も微かに震えていた。だが、それを気にする素振りは見せない。


「朝飯はまだだろう。ついでに城内を案内してやる。公爵から、お前に施設を見せてやれと言われてる」

「ああ、頼む。自分の足で歩いて、自分の目で見ておきたい」


 



 


 ルカの案内は、城の北側にある食糧倉庫から始まった。


 厚い樫の扉を兵士が開けると、かび臭い穀物の匂いが一気に押し寄せてきた。乾燥しきれていない麦の匂いに、鼠の気配、古い木材の臭い。暗い倉庫の中にランプを掲げると、高い天井まで届く棚が両壁にずらりと並んでいる。


 カイが最初に感じたのは、広さではなく、空虚さだった。


 倉庫は巨大だ。本来ならば、この棚のすべてが穀物の袋や保存食の樽で埋まるはずなのだろう。だが、実際に積まれている麻袋は、天井までの高さの三分の一にも満たない。棚の大半が空で、埃をかぶった板がむき出しになっていた。あるべきものがない、という不在の存在感が、倉庫の空気を重苦しくしている。


「これで全部か」

「ああ。あと塩漬け肉が奥の小部屋に少々と、干し魚の樽がいくつか。それで全部だ」


 カイの頭の中で、計算が勝手に回り始めた。


 麻袋のひとつはおよそ五十斤。棚に積まれた袋の数を目算で数える。百と少し。穀物の総量はおよそ五千から六千斤。一人当たりの一日の最低必要量から逆算すると……。


「……二ヶ月持たないぞ、これは」


 カイが呟くと、ルカの足が止まった。


「なんで分かる」

「袋の数と人数から逆算しただけだ。五千人規模の野営地で、この在庫なら、今の消費ペースで一ヶ月半がいいところだろう。海路の補給が途絶えたら、その時点で詰む」


 ルカがカイを振り返った。琥珀色の目が、驚きで少し見開かれている。


「……お前、すごいな。補給担当のグスタフ爺さんが昨日の会議でまったく同じ数字を出してたぞ。あの爺さんは三十年この仕事をやってる」

「誰が見ても分かることだろう」

「いや、分からねえよ普通は。公爵は『数字に踊らされるな、民の士気が先だ』って楽観的にまとめちまったけどな」


 ルカの声にわずかな苦みが混じった。公爵への敬意は揺るがないが、この一点に関しては不安を感じているのだろう。


 倉庫を出て、次は武器庫へ向かった。


 城の地下へ降りる階段は狭く急で、ランプの光が石壁にぶつかって跳ね返り、影が不規則に踊った。地下の武器庫は、倉庫よりもさらに冷え切っている。吐く息が白く曇った。


 薄暗い室内に、剣、槍、弩、盾が棚や壁掛けに並べられていた。数だけを見れば、それなりの規模だ。だが、カイの目は数ではなく、状態を見ていた。


 手近な棚から剣を一本取り上げた。


 鞘から抜くと、刃に赤茶色の錆が浮いている。刃こぼれが三箇所。油が完全に切れており、このまま振れば手入れの行き届いた相手の武器に当たった瞬間に折れかねない。


 隣に立てかけられた槍を手に取る。穂先は辛うじて光っているが、柄にひびが入っていた。力を込めて突けば、柄が折れる可能性がある。


「整備の担当者はいないのか」

「各小隊に任せてる。専属の鍛冶師がいたんだが、先月の戦で死んだ」


 カイは棚を順に見ていった。まともに使える状態にあるのは全体の三割ほどだった。残りは錆びているか、刃こぼれしているか、柄が緩んでいるか、弦が伸びきっているか。


「この弩なんて、弦が完全に伸びきってる。これで射っても、二十歩先の的にすら届かないぞ」


 カイが弩を持ち上げて示すと、ルカは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「分かってる。だが、人手が足りないんだよ。整備に回す人間がいれば、その分前線の頭数が減る。どっちを優先するかって話になると、いつも前線が勝つ」

「前線に送った兵が、壊れた武器で戦死したら本末転倒だろう」

「……そうだな」


 ルカは否定しなかった。否定できないことを、自分でも分かっているのだ。


 地下から上がり、次に向かったのは城壁の東側にある訓練場だった。


 石壁に囲まれた長方形の広場に、二十人ほどの若者が木剣を手に向かい合っている。新兵の訓練だ。だが、その光景はカイの予想よりもはるかに雑然としていた。


 古参兵が三人ほど散らばり、それぞれが自分のやり方で新兵を教えている。一人は「腰を落とせ」と怒鳴り、別の一人は「足を動かせ」と叫び、三人目は黙って手本を見せている。指導の方針が統一されていないから、新兵たちは誰の言うことを聞けばいいか分からず、ぎくしゃくした動きで木剣を振り回している。


「……これは厳しいな」


 カイが率直に言うと、ルカが肘で突いてきた。


「おい、聞こえるぞ。あいつらだって必死にやってる」

「必死にやっていることは分かる。だが、方向がバラバラだ。教官役の統括がいないのか」

「ファルクっていう古参兵がいるんだが、前線に出ずっぱりでな。戻ってこられるのは月に数日だ。その間は、残った連中がそれぞれ我流で教えてる」


 カイは腕を組んだ。


 食糧の不足。武器の整備不良。訓練の統制の欠如。三つの問題を見てきたが、根っこはすべて同じところにある。人手と資源が足りない。足りないから応急処置で凌ぐ。応急処置はさらなる非効率を生み、限られた人手と資源がいっそう浪費される。典型的な負の螺旋だ。


「なあ、カイ」


 ルカが訓練場の柵に腕を載せ、横目でカイを見た。真剣な顔だった。


「お前、いつからそんなに鋭くなった」

「……何が」

「昔のお前は、本ばっかり読んでるぼんやりした奴だったろ。石段に座って海を眺めてるか、姉ちゃんの店で薬草の瓶を並べ替えてるか、そんな感じの。それが今、倉庫の在庫を一目で計算したり、武器の状態を触っただけで見抜いたり、訓練の問題点を指摘したり。三年でそこまで変わるか」


 ルカの琥珀色の瞳が、まっすぐにカイを捉えていた。誤魔化しが通じない目だ。


 だが、前世の記憶がある、などと言えるはずもない。言ったところで信じてもらえるとも思えないし、信じてもらえたとしても、それがどんな反応を引き起こすか予測がつかない。


「……本にはいろいろ書いてあるんだよ」


 カイは視線を訓練場に戻しながら答えた。


「へえ。どんな本だよ」

「役に立たない知識の詰め合わせみたいな本さ。まさか現実で使う日が来るとは思わなかった」


 ルカは怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。追及しても答えが出ないことを、直感で察したのかもしれない。


「ま、いいさ。お前のその知識、今はありがたい。倉庫の件はディートリヒに報告しておく」


 訓練場を後にし、最後に案内されたのは城壁の外にある避難民の居住区だった。


 城門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 泥だった。足元が泥に変わり、靴が沈む。ぬかるんだ地面に天幕が密集し、人と荷物と家畜がひしめき合っている。通路と呼べるだけの幅を辛うじて確保した隙間を、人がすれ違い、子供が走り、痩せた犬がうろつく。汚水が溝に溜まり、悪臭を放っていた。


 カイは天幕の間を歩きながら、目に入るものを片端から頭に収めていった。排水溝が機能していない。水はけが悪いから、泥が常に湿っている。食事の残りかすや排泄物がまともに処理されていない場所がある。この環境では、疫病が発生するのは時間の問題だった。


「排水が死んでるな」

「掘ってもすぐに詰まるんだ。粘土質の地盤で、雨が降ると一晩で溝が埋まる。人も毎日増える一方だし、追いつかない」


 ルカの声にも疲労が滲んでいた。この状況を目の当たりにしながら、打つ手がないことの苛立ち。


 天幕の合間から、見覚えのある白い布が目に入った。


 頭に巻いた白布。それがエルナだった。泥だらけの地面に膝をつき、足を怪我した老人の患部を丁寧に洗っている。傍らには鞄を開け放ち、軟膏の瓶と包帯を手の届く場所に並べていた。老人に何か声をかけながら、穏やかに、しかし手際よく処置を進めている。


「姉さん、もう馴染んでるな」

「ああ。あの行動力には頭が下がるよ。朝一番に来て、もう五人目だって聞いた」


 ルカが素直に感心した声を出した。


 カイは拳を握りしめた。


 エルナには「治癒」という武器がある。傷を洗い、薬を塗り、包帯を巻く。その手は目の前の人間を直接救うことができる。ルカには「剣」がある。敵を退け、味方を守り、道を切り開く力がある。


 では、自分には何がある。


 分析か。この状況がどれほど危険か、理論的に説明することか。それが何の役に立つ。目の前の泥を片付けてくれるわけでもなければ、腹を空かせた子供にパンを渡せるわけでもない。


 



 


 昼過ぎのことだった。


 居住区を一通り見て回った後、カイとルカが城門の近くにある井戸まで戻ってきた時、そこに人だかりができていた。


 声が荒い。


「ふざけんじゃないよ! こっちは朝から並んでるんだ! 子供が熱を出してて、水がいるんだよ!」


 叫んでいるのは、避難民の女性だった。痩せた体に大きすぎる外套を巻きつけ、空の桶を抱えている。目が血走り、唇が震えていた。


「うるせえ! 兵士が先に決まってるだろ! 訓練の後に水も飲めなくてどうすんだ!」


 言い返しているのは若い兵士だった。二人組で、汗を拭きながら井戸の縄を握っている。どちらも譲る気配がない。


 周囲に人が集まり始めていた。避難民の女たちが女性の味方につき、兵士の仲間がもう二人ほど駆けつけてくる。両者の間の空気が、見る間に硬く張り詰めていく。


「ルカ、止めろ」


 カイが言うよりも早く、ルカの足が動きかけた。だが、カイはその腕を掴んだ。


「待て」

「何だよ、放せ。殴り合いになるぞ」

「いいから聞け。ただ止めるだけじゃ意味がない。今日収まっても、明日また同じことが起きる」

「はあ? だったらどうすんだよ」


「これは順番の問題じゃない。ルールの不在が原因なんだ」


 カイの口から、言葉が溢れ出した。自分でも驚くほどの速度で、頭の中の知識が言語化されていく。


「時間で区切れ。朝と夕方は避難民を優先する。昼は兵士を優先。それ以外の時間帯は先着順。ルールが明示されていれば、横入りという概念そのものが消える。不公平感の大半は、基準が見えないことから生まれるんだ」

「おい、それだけでどうにかなる問題じゃ……」

「水源も増やせ。城の裏手に枯れた井戸が二本あっただろう。さっき見た。あれを再調査して使えるようにすれば、需要を分散できる。それから雨水だ。天幕の布を使って集水装置を作れば、飲用には向かなくても洗濯や洗い物には使える。一本の井戸に全員が殺到する状況を変えなきゃ、何度仲裁しても同じことの繰り返しだ」


 一気にまくし立てると、ルカは口を半開きにして固まっていた。


「お前……なんでそんなことを思いつくんだ」

「いいからやれ。今すぐだ。あの二つのグループが物理的にぶつかる前に」


 カイの剣幕に押されるように、ルカは頷いた。そして井戸の前に大股で歩いていき、両者の間に体を割り込ませた。


「やめろ。両方とも下がれ」


 指揮官の声だった。訓練場で新兵を叱る時とも、カイと軽口を叩く時とも違う、有無を言わさぬ重みのある声。場が一瞬で静まる。


 ルカはカイの提案をそのまま繰り返した。朝と夕は避難民。昼は兵士。それ以外は先着順。裏の枯れ井戸を復旧させるまでの暫定措置だ、と付け加えた。


 不満そうな顔はあった。兵士の一人が「俺たちが命を張ってるのに」と呟いたが、ルカの視線を受けて口を噤んだ。避難民の女性も、すぐには納得しきれない表情だったが、具体的な基準が示されたことで、怒りの矛先が鈍った。


 人々が散っていく。


 カイは井戸の脇の石に腰を下ろし、大きく息を吐いた。心臓が耳の中で鳴っている。手のひらが汗ばんでいた。


 一歩踏み出してしまった。


 観察者の席から降りて、当事者として場に手を加えてしまった。分析ではなく、提案。提案ではなく、指示に近い声の出し方。あれは傍観者の振る舞いではない。


 戻れるか。もう戻れないだろう。


「カイ」


 ルカが戻ってきた。


「今の案、ディートリヒに報告してくる。枯れ井戸の調査許可も取りつける」

「ああ……頼む」


 ルカは頷いて走っていった。カイは井戸の縁石の冷たさを掌に感じながら、自分の鼓動が収まるのを待った。


 夕方になって、ルカが戻ってきた。


「ディートリヒが何て言ったと思う」

「……机上の空論だ、とでも」

「いや。『理論としては筋が通っている。実行に移せるかは別の問題だが、試す価値はある』だとさ」

「それは……合格ということか」

「少なくとも不合格じゃねえな。枯れ井戸の調査許可も出た。明日、兵を二人つけてくれるそうだ」


 カイは複雑な心持ちで頷いた。


 認められた。自分の分析が、現実を動かす力として受け入れられた。だが、それは同時に、この泥沼にさらに深く足を踏み入れたことを意味している。もう傍観者には戻れない。


 



 


 夕暮れ時、カイは訓練場に足を運んだ。


 昼間に見た新兵たちの訓練が気にかかっていた。何ができるわけでもないが、もう一度自分の目で確かめておきたかった。


 広場には人影がまばらだった。訓練は終わったらしく、新兵たちの姿はない。木剣が柵に立てかけられ、地面には無数の足跡が泥のまま残されている。


 その柵にもたれかかって、一人の男が腕を組んでいた。


 初老の兵士だった。背は高くないが、肩幅が広く、地面に根を張った木のようにどっしりと立っている。深い皺が刻まれた顔は日に焼けて赤黒く、短く刈った白髪が夕陽に光っていた。穏やかな目をしている。だが、その穏やかさの底に、長い年月をかけて培われた芯の硬さが透けて見えた。


「あんたがファルクか」


 カイが声をかけると、男はゆっくりと顔を向けた。


「いかにも。あんたが噂のカイだな。ルカの幼馴染で、井戸の騒ぎを知恵ひとつで収めた男」

「知恵者なんて柄じゃないですよ。ただの口出し屋です」

「口出しで場が収まるなら、大したもんだ。謙遜するな」


 ファルクは柵から背を離し、訓練場の中を顎でしゃくった。


「見てみろ」


 言われて目を向ける。新兵たちは帰ったが、泥の上に残された足跡が、彼らの動きを物語っていた。方向のばらばらな足跡。深く沈んだ箇所と、浅い箇所。ぶつかり合ったように交差した線。


「あいつら、昨日まで鍬を握って畑を耕してた農民だ。剣の持ち方も知らん。足の運び方も、受け方も、何もかもがこれからだ。だがな、戦場じゃそんなことは関係ない。生き残る奴は生き残るし、死ぬ奴は死ぬ。技術がある奴が生き延びるとは限らん。逆に、何も知らん奴がまぐれで敵将を討ち取ることもある」

「……だから訓練をしないでいいという話ではないでしょう」

「もちろんだ。だがな、若いの」


 ファルクがカイの方を向いた。夕陽を背にしたその顔は、影の中にあっても目だけが妙にはっきりと見えた。


「一番大事なのは技術じゃない。一緒に泥にまみれてくれるかどうかだ」

「泥に」

「綺麗な場所から指図してるだけの指揮官の命令じゃ、兵は本気で動かん。口先だけの知恵者も同じだ。同じ釜の飯を食い、同じ泥水を啜り、同じ雨に打たれる。そういう人間が『行け』と言った時に初めて、兵は命を預ける気になる」


 ファルクの手が、柵の横木を軽く叩いた。節くれだった大きな手だった。指の一本一本に古い傷跡があり、爪はいくつか割れたまま再生した形をしている。三十年近く戦場の泥を掴み続けた手だ。


「分析も結構だ。知恵も結構。だがな、頭でっかちになるなよ。足元を見ろ。そこに人がいることを、忘れるな」


 ファルクはぽんとカイの肩を叩き、訓練場の中へ歩いていった。残っていた新兵が一人、自主練習をしている。ファルクはその隣に立ち、自分も木剣を取り上げた。


「おい新入り、腰が高いぞ。もっと落とせ。そうだ、そのくらいだ」


 叱咤の中に、不思議な温もりがあった。怒っているのではなく、育てようとしている声だ。新兵が頷き、言われた通りに腰を沈める。ファルクが横で同じ構えを取り、並んで素振りを始めた。


 泥にまみれる、か。


 カイは訓練場を後にしながら、自分の両手を見下ろした。


 白い。滑らかだ。インクの染みひとつない。港で荷揚げをしていた頃の胼胝はまだかすかに残っているが、それ以外には傷も汚れもない。分析者の手だ。現実に触れていない手。


 ファルクの手とは、何もかもが違った。


 



 


 夜になった。


 カイは城壁の上にいた。見張り台の脇、風が吹き抜ける狭い歩廊だ。足元の石畳は夜露に濡れ、ひんやりとした空気が首筋を撫でる。


 頭上には星が広がっていた。雲のない夜空に、砂を撒いたような無数の光点が散らばっている。マレーヴァでも星は見えたが、ここは町の灯りがないぶん、星の密度が桁違いだった。天の川が白い帯となって空を横切り、その淡い光が地上の闇をかすかに照らしている。


 だが、カイの目を引いたのは頭上の星ではなく、眼下の星だった。


 野営地に散らばる篝火と焚き火の光が、地上にもうひとつの星空を作り出していた。小さな赤い点が無数にまたたき、煙が立ち昇り、その向こうに天幕の影がうっすらと浮かんでいる。上を見れば星。下を見ても星。二つの光に挟まれて、カイは石壁の上に立っていた。


「前世の俺は、この光景を遠くから見ていたんだな」


 呟きは風に攫われた。


 地図の上の赤い印。画面越しの難民キャンプ。安全な場所にいる人間が、安全な距離を保ちながら、「可哀想な人々」として情報を消費する。あの教室で、あの研究室で、自分はそうしていた。レポートを書き、統計を取り、発表をして、評価を受ける。その間にも、赤い印の中にいる人間は飢え、怯え、死んでいった。


 今、自分はその赤い印の中にいる。


 地図の上のピンではなく、泥と煙と怒号の只中にいる。


「カイ」


 背後から声がした。振り返ると、エルナが石段を上ってくるところだった。両手が薬草の汁で染まったままで、髪も乱れている。一日中走り回っていたのだろう。だが、その目にはまだ力が残っていた。


「こんな所にいたのね。探したのよ」

「姉さんこそ、まだ起きてたのか。今日はどれだけ患者を診たんだ」

「数えてないわ。途中から数える余裕がなくなって」


 エルナは城壁の縁石に腰を下ろし、大きく息を吐いた。白い息が夜風に溶けていく。


「井戸のこと、聞いたわよ」

「誰から」

「診療所に来た患者さんたちが話してたの。『今日は殴り合いにならずに水が汲めた』って。子供を抱えたお母さんが、泣きそうな顔で言ってた」


 カイは黙って前を向いた。胸の奥がざわつく。


「私にはね、怪我を治すことしかできない。目の前の傷を洗って、薬を塗って、包帯を巻くことしか。でもあなたは違う。怪我の原因そのものをなくすことができる。争いが起きる仕組みを見抜いて、それを変える手を打てる。……それはすごいことよ、カイ」

「たまたまだよ。たまたま思いついただけだ」

「思いつくだけじゃ、人は救えないわ」


 エルナの声が、少し強くなった。


「あなたは声を上げた。考えたことを言葉にして、それをルカに伝えて、動かした。その結果、今日、水を巡って殴り合う人が出なかった。たまたまじゃない。あなたが動いたから、変わったのよ」


 カイは何も言い返せなかった。


 しばらく二人で黙って星を眺めた。地上の篝火がひとつ、またひとつと消えていく。人々が眠りにつき始めているのだ。


「……怖いんだ、姉さん」


 カイは、気がつくと本音を口にしていた。


「俺の中にある知識が、本当に役に立つのか分からない。今日はうまくいった。でも、もし次に間違えたら。俺の判断のせいで、誰かが怪我をしたり、命を落としたりしたら。取り返しがつかない」


 声が、自分で思っていたよりも震えていた。


「間違えることが怖いんじゃない。間違えた時に、その重さに耐えられる自信がないんだ」


 エルナは黙って聞いていた。


 それから、冷たい石の上でほんの少し体を寄せて、カイの手に自分の手を重ねた。


 小さな手だった。カイの手よりもずっと小さくて、薬草の匂いが染みついていて、指先がかさかさに荒れている。一日中、人の傷に触れ続けた手。だが、その温かさは確かだった。


「間違えたら、やり直せばいいのよ」


 エルナの声は穏やかだったが、底に芯があった。


「一人で全部を背負わなくていいの。私がいるし、ルカもいる。あなたが間違えたら、私たちが気づくわ。あなたが転んだら、手を貸すわ。そのために一緒にいるんでしょう」


 カイはエルナの横顔を見た。夜風に髪がなびき、星明かりが緑の瞳を淡く照らしている。


「一緒に泥にまみれましょう、カイ。きれいなままでいようとしなくていいの」


 その言葉に、カイは息を止めた。


 ファルクの言葉と同じだった。一語一句違うのに、芯にあるものが同じだ。綺麗な場所から眺めるな。降りてこい。汚れろ。その上で、考えろ。


 一人じゃない。


 ここにはエルナがいる。ルカがいる。ファルクがいる。ディートリヒがいる。そして、天幕の下で眠る何千もの人々がいる。自分だけが、安全な分析者の席に座り続ける理由はどこにもない。


「……ああ。そうだな」


 カイはエルナの手を握り返した。冷えた指先に、姉の手の温もりが伝わってくる。


「明日、枯れ井戸の調査をやる」

「ええ。私も手伝えることがあったら言ってね」

「姉さんは患者を診てくれ。そっちの方がよっぽど大事だ」

「あら、私の手伝いは要らないってこと? ちょっと寂しいわね」

「そういう意味じゃなくて……」

「ふふ。分かってるわよ。おやすみ、カイ」


 エルナは手を離し、石段を降りていった。その足音が遠ざかり、闇に吸い込まれて消える。


 一人残されたカイは、城壁の上に立ったまま、もう一度眼下の野営地を見下ろした。


 篝火はほとんど消え、天幕の群れは闇に沈んでいる。だが、時折、小さな光が揺れた。誰かが寝返りを打って、ランプの炎を揺らしたのだろう。あの光の一つひとつの下に、人がいる。名前を持ち、過去を持ち、明日への不安を抱えて横たわっている人間がいる。


 明日から、あの泥の中に降りていく。


 枯れ井戸の調査は小さな一歩だ。この戦争の行方を左右するような大きな仕事ではない。だが、水を巡る争いがひとつ減れば、殴られる人間がひとり減る。それは確かな変化だ。分析者の机の上では数えもしないような、しかし、当事者にとっては切実な違いだ。


 カイは星空を見上げた。


 あの面接官の問いが、再び耳の奥に響いた。


「知ることと、それを実行に移すことの間には、深い溝がありますよ」


 溝の縁に立っている。まだ越えてはいない。だが、片足は浮いている。


 明日、その足を下ろす。


 泥の中に。


 カイは深く息を吸い込み、冷たい夜気を肺の底まで満たした。石壁の上に立つ自分の影が、篝火の最後の残り火に照らされて長く伸び、闇の中に溶けていく。


 星だけが、変わらず輝いていた。

第5話「分析者の目」をお読みいただきありがとうございます。


今回は、カイが初めて自らの意志で現場に介入し、現代の「紛争解決の知恵」を使って具体的な問題を解決するシーンを描きました。


食糧不足や武器の整備不良といった軍事的な課題から、井戸の順番待ちといった生活圏のトラブルまで。カイの目には、それらがすべて「構造的な欠陥」として映ります。ただ仲裁するのではなく、ルールという仕組みを作ることで不満の根源を断つ。派手な魔法や剣技ではありませんが、これこそが彼にしかできない戦い方です。


また、古参兵ファルクが登場しました。

彼が語った「一緒に泥にまみれる」という覚悟。安全な場所からチェスを動かすように分析していたカイが、当事者として泥の中に足を踏み出すきっかけとなる、本作の大きなテーマの一つでもあります。


カイの知識は果たして「誰かを救う力」になれるのか。

そして、彼を支えるエルナの深い慈しみ。


もし「井戸の解決策が鮮やかだった!」「カイのこれからの活躍に期待!」と感じていただけましたら、ぜひページ下部の【ブックマーク】や、評価の【☆☆☆☆☆】をいただけますと、執筆の大きな、大きな励みになります!


皆様のポイントが、カイの知略をさらに研ぎ澄ませるエネルギーになります。


次回、第6話。

ついに、あの地獄のような場所「ザナス」から逃れてきた人物が城に現れます。物語のギアが一段上がる展開に、ぜひご注目ください。


今後とも、よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ