第3話 セルヴァンへの道
一
目覚めた瞬間、カイの頭に残っていたのは、夢とも現実ともつかない乾いた文字列だった。
「紛争地域において、知識を持つ者が行動しないことは、消極的な加担と等価である」
誰の言葉だ。自分が考えたのか。それとも、あの見知らぬ教室の机の上に開かれていた論文の一節か。白い蛍光灯の下、活字がびっしりと印刷された紙の束。その余白に、赤いインクで引かれた線。夢の中では鮮明だったはずのその光景が、目を開けた途端にぼやけていく。指の隙間からこぼれる砂のように、細部が失われていった。
「……くそっ、加担なんてしてない」
カイは声に出して否定し、寝台を降りた。素足が床板に触れる。冷たい。昨日と同じ冷たさだ。だが、昨日とはすべてが違う朝だった。
否定すればするほど、昨日の光景がちらついて消えない。火傷の跡を見せながら泣き崩れた老人。荷物を抱えて逃げていくヴァルガの家族。そして、膝の上で止まることなく震え続けるルカの左手。
何もしないという選択肢が、昨夜のうちに消えていたことは分かっていた。眠れぬまま天井を見つめる長い時間のどこかで、それは静かに確定していた。勇気と呼ぶには覚悟が足りず、諦めと呼ぶには胸の鼓動が速すぎる。名前のつかない感情に押されるようにして、カイは身支度を整えた。
一階へ降りると、そこはすでに旅立ちの準備が整っていた。
作業台の上はきれいに片付けられ、普段なら散らばっているはずの薬研や乳鉢は棚に収められている。その代わりに、大きな革鞄がひとつ、台の中央にどっしりと置かれていた。
「おはよう、カイ。早かったわね」
エルナが鞄の紐を締め上げながら、何でもないことのように言った。束ねた亜麻色の髪に、いつもよりきつく結んだ布が巻かれている。旅支度だ。
「姉さん、それ……」
「治療道具一式よ。包帯に軟膏、縫合針、解熱の煎じ薬。止血帯も全部入れたわ。向こうで何が必要になるか分からないし、足りないよりは重い方がましでしょう」
「いつ準備したんだ」
「昨日の夜、あなたが天井を睨んでいる間にね」
エルナは微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。真剣で、覚悟の決まった光を宿している。
「あの倉庫にいた子供たち、見たでしょう。泣かないのよ、あの子たち。泣いたら見つかって殺されるって、もう体が覚えてしまってるの。三つや四つの子が、声を殺して震えてるの。私がいくら背中をさすっても、声をかけても、体の強張りがとれない」
エルナの手が、鞄の紐の上で一瞬止まった。
「私の手が届く範囲は狭い。それは分かってる。でも、だからって何もしない理由にはならないでしょう」
カイは返す言葉を探し、見つけられなかった。
姉には敵わない。自分が理屈をこねくり回して、分析と葛藤の間を行ったり来たりしている間に、彼女は「やるべきこと」をまっすぐに見据え、手を動かし、荷造りを終えている。理屈ではなく、目の前の人の痛みから出発する強さ。それが、エルナという人間だった。
「俺の負けだよ。行こう」
「勝ち負けじゃないわよ」
エルナは鞄の紐を最後にぐっと引き絞り、顔を上げた。
「……でも、あなたが来てくれて嬉しい」
その声だけが、少しだけ震えていた。
二
港に出ると、夜はまだ明けきっていなかった。
東の空がようやく灰色に白み始めた頃合いで、海と空の境界はまだ曖昧なままだ。波止場には霧が低く漂い、係留された船の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。人気はない。町の大半はまだ眠りの中にあった。
その薄闇の中に、ルカが現れた。
部下たちを従え、音もなく歩いてくるその姿は、霧の中から浮かび上がる影絵のようだった。カイとエルナの姿を認めると、片眉を上げて笑う。
「決めたか」
「ああ。ただし、お前の船には乗らない」
「賢明だ。このご時世、海の上は何があるか分からん。俺たちも部隊を分けて陸路を取る。船は別の便に物資を載せて先に出す」
ルカは手際よく部下たちに指示を飛ばし、船から荷を降ろさせた。木箱や麻袋が次々とタラップを渡り、波止場の石畳に積み上がっていく。
その物資の一部を、ルカは波止場の隅に運ばせ始めた。小麦の袋。干し肉の包み。塩の入った小さな壺。昨日から倉庫に身を寄せている避難民たちのための場所に、それを置いていく。
「おい、ルカ。それは軍の補給物資だろう。勝手に配っていいのか」
カイが眉をひそめて問うと、ルカは肩をすくめた。
「公爵には内緒だ。報告書には『輸送中の破損』とでも書いておく。だが、目の前に腹を空かせた避難民がいるのに素通りしたら、寝覚めが悪いだろう」
「お前がそんな殊勝なことを言うとはな」
「うるさいな。昔から情に弱いのは変わってねえよ。……ほら、行くぞ。夜が明けきる前に町を出たい」
ルカの左手は、荷物を運ぶ間もかすかに震えていた。だが、指示を出す声は明瞭で、判断は淀みなく速い。かつて裏路地で野良猫を追いかけていた少年の面影はもうない。いくつもの修羅場をくぐり抜けた指揮官の顔が、そこにはあった。
一行が町の外れに差しかかった時、カイは一度だけ振り返った。
霧の底に沈むマレーヴァの町並み。薬草店の、あの小さな窓。朝靄に濡れた石畳の路地。潮の匂いと、錨の鎖が軋む音。十八年間、毎日のように見て、聞いて、嗅いでいた風景。
それが、手の届かない場所へ遠ざかっていく。二度と同じ形では戻れないのだという予感が、みぞおちの奥を冷たく撫でた。
カイは前を向いた。
強く、とは言えない。ただ、振り返り続けることをやめた。それだけのことだった。
三
海岸線を離れ、内陸の丘陵地帯へ入ると、風景は一変した。
塩気を含んだ風が途絶え、代わりに青草と土の匂いが鼻腔を満たす。なだらかな丘が連なり、風が牧草を撫でるたびに緑の波が遠くまで広がっていく。道端には野花が咲き、時折、牧羊犬の声が遠くから聞こえた。
穏やかな風景だった。戦と殺戮の話が嘘のように思えるほどに。
だが、その牧歌的な空気は、昼過ぎに一行が通りかかった場所で、断ち切られた。
「……ひどい」
エルナが立ち止まり、息を呑んだ。
道の先に集落があった。あった、というのは、もはや過去形でしか語れないからだ。
十数軒の家屋が建っていたであろう場所に、黒く焼け焦げた廃墟が広がっていた。屋根は落ち、石壁は煤に覆われ、崩れた梁が歯のように突き出している。庭先に植えられていたのであろう果樹も真っ黒な炭と化し、枝の形だけが骸のように残っていた。
風が変わり、焦げた木材の匂いが鼻をついた。それに混じって、もうひとつ、甘く腐ったような臭いが漂ってくる。カイは本能的にそれが何であるかを理解し、喉の奥がせり上がるのを感じた。
「三ヶ月前だ。ヴァルガの正規軍が通った後がこれだ」
ルカが感情を消した声で言った。立ち止まりもしない。慣れている。こういう光景を何度も見てきたのだろう。
「住民は」
カイが訊いた。
「逃げ遅れた者は、ザナスの収容施設送りだ。運が良ければの話だが」
ルカはそれ以上は言わなかった。運が悪ければどうなるのか。その沈黙が、言葉よりも雄弁に答えていた。
カイは足元に目を落とした。瓦礫の隙間に、何かの破片が覗いている。しゃがみ込んで拾い上げると、素焼きの皿の欠片だった。縁に、稚拙だが丁寧な筆致で花の絵が描かれている。子供が描いたものかもしれない。あるいは、料理の上手な母親が気に入って使っていた皿か。
ここには生活があった。食卓があり、朝の粥を啜る音があり、誰かの笑い声があった。それが今は、焦げた臭いと瓦礫と、花の描かれた皿の欠片だけになっている。
頭の中の声が囁く。
「焦土作戦。敵対勢力の補給基盤を断つための戦術的破壊。住民を追い立て、帰還不能にすることで、抵抗勢力の後方支援を根絶する」
うるさい。これは戦術のデータではない。人が暮らしていた場所だ。花の絵を描いた子供がいた場所だ。
カイは皿の欠片を地面にそっと戻し、立ち上がった。吐き気をこらえ、前を歩くエルナの背中にそっと手を添える。
「行こう。長居は無用だ」
エルナは無言で頷いた。その横顔が、蒼白だった。唇を強く噛みしめ、目に涙を浮かべている。だが、泣かなかった。泣いている暇はないと分かっているのだろう。
一行は黒い集落を背にして歩き出した。
振り返る者は、誰もいなかった。
四
再び歩き始めてしばらくすると、カイはルカの横に並んだ。
荒れた街道を踏みしめる靴音が、二人の間のリズムを刻んでいる。部下たちは前方と後方に散開し、周囲を警戒しながら歩いていた。エルナは少し後ろで、部下の一人と何か話している。怪我人がいるらしく、歩きながら包帯を巻いてやっている様子だった。
「北の状況を、もう少し詳しく教えてくれ」
カイが切り出した。
「何が知りたい」
「全部だ。どんな勢力がいて、誰が何を考えていて、どういう力関係で動いているのか。俺は何も知らないまま来てしまった。それじゃ役に立てない」
ルカは少し間を置いてカイを見た。その目には、かすかな驚きがあった。
「お前、変わったな。昔はそんな聞き方しなかった」
「昔は聞く必要がなかっただけだ」
「……まあいい。順を追って話す」
ルカは視線を前方に戻し、簡潔に語り始めた。
「まず、西のヴァルガ王国。国王は名ばかりの傀儡で、実権はドルン枢機卿が握っている。坊主崩れの狂信者だ。レスタ族を『不浄な存在』と決めつけて、宗教的な大義名分で排除を進めている。だが、信仰は建前にすぎない。本音は北部の鉱山利権だ。セルヴァン地方には鉄と銅の鉱脈がある。それを押さえれば、大陸への輸出で莫大な富が転がり込む」
「資源戦争か」
「骨の髄までな。次に、北東のハイゼン・カルディア国。司祭オスヴァルトが宗教と政治を一体化させた独裁体制を敷いている。こいつは表向き中立を標榜しているが、裏ではヴァルガと手を組んでいる。さっき話した通り、セルヴァン海峡の港湾使用権と引き換えに、レスタ弾圧を黙認する取引だ」
「港を押さえれば、東方との交易路を独占できる」
「そうだ。オスヴァルトにとって、レスタの命より港の利権の方が価値がある。天秤にかけるまでもない、という顔をしている」
ルカの声に、抑えきれない苦みが滲んだ。
「そして、南のレスタ解放軍」
カイが言葉を継いだ。
「ああ。ランダウ公爵を旗頭にして、俺たちが抵抗を続けている。だが、圧倒的に数が足りない。武器も、食料も、医薬品も慢性的に不足している。そして何より、後ろ盾がない」
「後ろ盾?」
「ヴァルガもハイゼンも、背後には大陸の大国、ガルディオン教国がいる。武器も資金もそこから流れ込んでくる。ガルディオンにとって、この島は大陸東方への足がかりだ。どの勢力が覇権を握ろうと構わない。自分たちの息がかかった勢力であればな。俺たちレスタにはその繋がりがない。だから、誰も助けてくれない」
カイの頭の中で、勢力図が自動的に組み上がっていった。
三つの民族。三つの勢力。そしてその背後に控える大国の影。典型的な代理戦争の構図だ。大国の支援を受けた二つの勢力が、資源と利権を巡って小さな島の民を踏み台にする。その狭間で、後ろ盾を持たない少数派がすり潰されていく。
パターンとしては、嫌になるほど既視感がある。あの教室の壁に貼られていた地図。赤と青の矢印が入り乱れた図解。講義を聞きながら、遠い世界の話だと思っていた。それが今、自分の足の下にある道そのものだった。
「ランダウ公爵というのは、どんな人なんだ」
カイが訊くと、ルカの表情がふっと変わった。
硬い鎧のような軍人の顔に、ほんのわずかな柔らかさが差す。信頼というよりも、もっと深い何か。敬意に近いが、それだけでは言い足りない感情が、琥珀色の瞳の奥に灯った。
「すごい人だよ。あの人が旗を揚げなければ、俺たちはとっくに散り散りになって全滅していた。ただ戦い方を教えてくれただけじゃない。なぜ戦うのか。何を守るために剣を取るのか。人間の尊厳とは何か。そういうことを、言葉ではなく背中で示してくれた」
「尊厳、か」
「ああ。公爵は俺たちを『駒』として扱わない。一人ひとりを人間として見る。名前を呼び、話を聞き、亡くなった兵士の家族に自ら手紙を書く。……それだけで、この人のためなら命を預けてもいいと思えたんだ」
ルカの声に嘘はなかった。
カイは黙ってその言葉を受け止めながら、頭の中で別の声を聞いていた。
カリスマ的指導者への強い帰依。組織の求心力としては極めて強力だが、その指導者を失った時の崩壊リスクもまた極めて高い。一人の人間に依存する構造は、どれほど崇高な理念に支えられていようと、構造的な脆さを孕んでいる。
だが、カイはそれを口にしなかった。
今のルカにとって、公爵への信頼こそが、震える手で剣を握り続ける理由なのだ。その支えを分析の言葉で揺さぶることは、ルカの足元を崩すことに等しい。正しいかどうかの問題ではない。今はまだ、黙っているべき時だった。
道は丘を越え、深い森へと続いている。木々の影が街道を覆い、日差しが途切れた。風が冷たくなり、鳥の声が遠ざかっていく。
五
「止まれ」
先頭を歩いていた部下の一人が、低い声とともに拳を挙げた。
一行は足を止め、息を殺した。森の中に漂う緊張が、一気に密度を増す。
木々の隙間から、少し先の開けた場所が見えた。街道が一本に絞られる地点に、粗末な木柵が横たわり、その脇に掘っ立て小屋がひとつ建っている。小屋の前に、二つの人影。
「検問だ。ハイゼンの警備兵がいる」
ルカが低い声で告げた。
振り返ると、部下たちはすでに臨戦態勢に入っている。剣の柄に手をかけ、弓を持つ者は矢筒の位置を確かめている。一触即発の空気だった。
「武器を隠せ」
ルカの命令は即座に飛んだ。
「剣は荷物の底に。弓は分解して布に巻け。鎖帷子は外套の下に隠す。声を荒らげるな。俺たちはただの旅人だ」
「どう切り抜ける気だ」
カイが問うた。心臓が鳴っている。実戦の経験はない。ただの港の荷揚げ屋だ。検問など初めてだった。
「避難民の護送だと言い張る。南の親戚を頼ってセルヴァン方面へ移動中、という筋書きだ。余計なことは言うな。聞かれたことだけ答えろ」
一行は手早く武装を解除し、武器を荷物の奥に押し込んだ。ルカの部下たちは慣れた手つきで装備を隠していく。こういうことを何度も繰り返してきたのだろう。その手際の良さが、逆に彼らが歩んできた道の険しさを物語っていた。
疲れた旅人の一団を装い、検問に近づく。
柵の前に立っていたのは二人の兵士だった。ハイゼンの紋章、白地に青の十字を胸につけた軽装歩兵だ。一人は年配で、もう一人は若い。年配の方は柵に寄りかかって欠伸を噛み殺しており、若い方は手持ち無沙汰に腰の短剣の柄を撫でている。
「止まれ。どこへ行く」
年配の兵士が気だるそうに声をかけた。職務というより惰性の口調だ。
「避難民の護送です。南のマレーヴァから来ました」
ルカが丁寧に答えた。先ほどまでの軍人の威圧感を完全に消し、旅慣れた若者のような柔らかい物腰を装っている。声色も、立ち姿も、別人のようだった。
兵士は怠惰な目つきのまま、一行をじろじろと見回した。
「レスタか」
「……ええ」
ルカが頷いた。
一瞬、沈黙が落ちた。年配の兵士の目が細くなる。そこに浮かんだのは、侮蔑と猜疑心が薄く混じり合った濁った色だった。
見た目では区別がつかない。レスタもヴァルガもハイゼンも、肌の色も体格も同じだ。だからこそ、彼らは別の方法で線を引く。
「おい、そこのお前。こっちを向け」
若い兵士が、ルカの部下の一人を指差した。背の高い、寡黙な男だった。
「長旅で疲れただろう。少し休んでいけよ」
若い兵士がにやりと笑った。親切を装った顔の下に、意地の悪い光が覗いている。
「ついでに、旅の安全を祈ってやろうか。セレスタの作法でな。さあ、お前の流儀で祈ってみせろよ」
踏み絵だ。
カイは瞬時に理解した。レスタ式の祈りを捧げれば、「ただの避難民にしては作法が整いすぎている」と因縁をつけられる。訓練された兵士だと見抜かれる。かといって祈りを拒否すれば、それはそれで怪しまれる。どちらに転んでも、罠にはまる仕掛けだった。
ルカの部下たちの間に、見えない緊張が走った。誰も動かない。だが、隠した武器の位置を確認するように、数人の視線がわずかに動いたのをカイは見た。
空気が張り詰め、糸が切れかけたその時。
「お疲れ様です」
柔らかく、しかし芯の通った声が割り込んだ。
エルナが一行の後方から進み出て、年配の兵士の前に立った。鞄の中から一枚の羊皮紙を取り出し、両手で丁寧に差し出す。
「私はセレスタ教団の巡回治療師です。この者たちは私の患者と、その家族になります。火傷の治療を継続する必要がありまして、セルヴァンの教区へ移送しているところです」
兵士が羊皮紙を受け取り、目を通した。そこには確かに教団の印章が押されている。養父ヨハン・ヴェルナーの名で発行された、古い身分証だった。文面の日付はだいぶ前のものだが、印章の形式は正規のものだ。
「治療師か。怪我人がいるのか」
「はい。こちらの方々の中に、火傷の処置が済んでいない方がいます。特に急ぎはしませんので、荷物を改められますか。中身はすべて医療品ですので、お確かめいただければ」
エルナの声は穏やかで、一点の曇りもなかった。微笑みを浮かべ、背筋を伸ばし、堂々と兵士の目を見ている。「急ぎません」という余裕の一言が、逆に相手の警戒心を削いでいた。やましいことがある人間は「急いでいる」と言う。それを熟知したうえでの対応だった。
年配の兵士は羊皮紙をもう一度ちらりと見て、舌打ちした。
「……いや、いい。教団の人間を足止めしたとあっちゃ、上がうるさくなる。通れ」
「ありがとうございます。神のご加護がありますよう」
エルナは深く一礼し、一行を促した。
柵が上げられ、一団が静かに通過していく。若い兵士が不満そうな顔をしていたが、年配の方が面倒くさそうに手を振って制した。
検問を抜け、森の木立の中に入り、十分に距離を取ってから、カイは大きく息を吐いた。肺の底まで張り詰めていた空気が、一気に抜けていく。
「姉さん、やるな。あの書類、本物なのか」
「身分証は本物よ。お父様が私に持たせてくれたものだもの。ただ、移送許可証として使うには期限がとうに切れてるけどね」
エルナは肩の力を抜き、悪戯っぽく片目を瞑って見せた。
「嘘も方便ということか。姉さんが嘘をつくなんて、明日は槍が降るな」
「失礼ね。私は嘘なんてついてないわ。事実を少し再構成しただけよ。あの人たちが治療を必要としているのは本当だし、セルヴァンに向かっているのも本当でしょう。何もおかしなことは言っていないわ」
「……詭弁だろ、それは」
「正義のための知恵は、神様もきっと許してくださるわよ」
後ろからルカが追いついてきて、低く笑った。
「助かったよ、エルナ。お前がいなけりゃ、今頃あそこで斬り合いになっていた。検問の兵を斬れば、ハイゼンの追手がかかる。最悪の展開だった」
「ルカ、あなたもよ。あんなに素早く武器を隠せるなんて、ずいぶん練習したのね」
「好きでやってるわけじゃねえよ。何度も検問を越えなきゃならない環境がそうさせたんだ」
三人の間に、束の間だけ温かい空気が流れた。
険しい旅路の中で、カイは初めて「仲間」という感覚を肌で覚えていた。信頼と呼ぶにはまだ頼りないが、少なくとも、一人で抱え込んでいた重さが分散されたような心地がする。エルナの知恵。ルカの経験。そして、自分にはまだ何も差し出せるものがないという焦燥。
それでも、足は前に進んでいた。
六
夕暮れ時、一行は長い坂を登りきり、丘の頂に出た。
カイの足が止まった。
眼下に、広大な盆地が開けている。赤みを帯びた夕陽が、大地を橙色に染め上げていた。盆地の中央を蛇行する川が光の帯となってうねり、その向こうに丘陵が連なっている。
そして、その丘陵の最も高い場所に、古城がそびえていた。
石積みの城壁は何世紀もの風雨に耐えて黒ずみ、塔の先端は欠けているところもあったが、夕陽を浴びた全体の姿は琥珀色に輝き、荒々しくも威厳に満ちていた。かつてこの地を治めた誰かが、ここに立って同じ景色を見下ろしたのだろう。その時代の残り香が、石の一つひとつに染みついているような城だった。
だが、カイの目を奪ったのは城そのものではなかった。
その周囲を、無数の天幕が埋め尽くしていたのだ。
「すごい数だ……」
城壁を取り囲むように、あるいは城門から放射状に広がるように、何百、何千という天幕がひしめき合っている。白い布、茶色い革、継ぎ接ぎだらけの色とりどりの帆布。統一感のない、しかし途方もない数の仮住まいが、盆地の大地を覆い尽くしていた。
そこから立ち昇る無数の炊煙が、夕陽の中で金色に輝いている。煙の下では人が動いている。走り回る子供たち。井戸の周りで水を汲む女たち。天幕の前で火を焚き、鍋をかき回す老人。洗濯物が風に揺れ、どこかで犬が吠え、赤子の泣き声が微かに聞こえてくる。
それは軍事基地というよりも、巨大な仮設の町だった。家を追われた人々が身を寄せ合い、それでもなお日々の営みを続けている、剥き出しの生の集合体。
「これが、レスタ解放軍の実態だ」
ルカが静かに言った。
「兵士だけじゃない。家を焼かれ、行き場を失った民が、公爵を頼って集まってきた。北から、東から、毎日のように人が増える。俺たちはこの人たちを守るために戦っている。そして、この人たちが俺たちを支えている。持ちつ持たれつだ」
カイの頭の中で、分析の声と感情がぶつかり合った。
非戦闘員と軍が混住する拠点。防衛上は致命的な脆弱性を抱えている。敵の攻撃を受けた場合、民間人の被害が甚大になる。人質として利用されるリスクも高い。
だが、眼下に広がる光景は、そんな冷たい理屈を圧倒するだけの力を持っていた。
あの天幕の一つひとつの中に、人がいる。昨日まで別の場所で暮らし、別の名前で呼ばれ、別の生活を送っていた人たちが、すべてを失った後もなお、煙を上げ、水を汲み、子供をあやし、明日を生きようとしている。
その営みは、脆く、危うく、そして圧倒的に美しかった。
「……ここが、最前線なのか」
カイの声は掠れていた。
「ああ。そして、俺たちの最後の拠り所だ」
一行は丘を下り、天幕の海へと足を踏み入れた。
近づくにつれて、人の気配が密度を増していく。炊煙の匂い、家畜の臭い、子供の歓声。通路のように天幕と天幕の間を抜けていくと、あちこちから声がかかった。
「ルカ隊長、お帰りなさい!」
天幕の前で繕い物をしていた中年の女が、顔を上げて叫んだ。
「無事だったのか、ルカ! 心配してたんだぞ!」
薪を割っていた片腕の男が、斧を下ろして笑った。
「隊長、南の様子はどうでした」
若い兵士が駆け寄ってきて、敬礼する。
ルカは片手を上げて応えながら、足を緩めずに進んでいく。その横顔に、ほんの一瞬だけ、温かいものが滲んだのをカイは見た。すぐに消えたが、確かにそこにあった。この人たちが、ルカにとっての家族なのだ。
城門が近づいてくる。石の門柱は苔むし、鉄の蝶番は錆びていたが、開け放たれたその向こうには、松明の光が揺れていた。
七
城内に足を踏み入れると、天幕の喧騒が嘘のように静まり返った。
分厚い石壁が外界の音を遮断し、足音だけが回廊に反響する。天井は高く、壁は冷たい灰色の石で積まれている。等間隔に据えられた松明の炎が揺れるたびに、壁面の凹凸が影絵のように動いた。
空気が違う。港の湿った風とも、丘陵の草の匂いとも、天幕の町の生活臭とも異なる。石と埃と、長い時間の堆積した匂い。何世紀もの間、この壁の中で交わされた言葉や流された血が、石の粒子に染み込んでいるような、そんな重さだった。
カイは歩きながら、壁面に刻まれた古い紋章に目を留めた。
盾と剣を交差させた意匠。その上に王冠。紋章の下には、風化しかけた文字が彫り込まれている。
「ヴェルナード・オルデシア」
統一王の名だった。
この島を最初にひとつにまとめた伝説の王。レスタの語り部がおとぎ話のように歌い、ヴァルガの歴史書が正統な王統として記し、ハイゼンの教義が聖者として崇めるその名。三つの民族が、それぞれ異なる解釈で自分たちのものだと主張する、厄介な名前。
そして、「ヴェルナード」と「ヴェルナー」。
自分の姓との符合に気づき、カイは足を止めかけた。偶然にしては、響きが近すぎる。だが、養父ヨハンがその姓を名乗る理由など、考えたこともなかった。
考える時間はなかった。
ルカが回廊の奥にある重厚な扉の前で足を止め、背筋を伸ばしたからだ。先ほどまでの旅路の気安さは消え、軍人の顔に戻っている。
「公爵。ルカ・ヴェーゲ、帰還いたしました。マレーヴァからの同行者をお連れしております」
「入れ」
扉の向こうから響いた声は、太く、低かった。
威厳がある。それは間違いない。だが同時に、どこか深い疲労を感じさせる声でもあった。多くのものを背負い、長い時間を耐え、それでもなお立ち続けている人間の声。カイは、その声だけで、この人物のおおよその輪郭を掴んだ気がした。
ルカが扉を押し開ける。
広い執務室だった。石壁に地図が貼られ、机の上には書簡や報告書が山と積まれている。蝋燭が数本灯り、橙色の光が室内を照らしていた。
窓は西に面している。夕陽が最後の光を投げ込み、室内を琥珀色に染めていた。その逆光の中に、大柄な影がひとつ立っている。
窓際で、腕を組み、盆地を見下ろしていたのだろう。背中だけでも分かる。広い肩幅。真っ直ぐに伸びた背骨。だが、その輪郭のどこかに、鉄のように硬い疲労が滲んでいた。
カイは無意識に息を止めた。
何が待っているのか分からない。ここに来たことが正しかったのかも分からない。ただ、もう引き返せないことだけは確かだった。
「ようこそ、セルヴァンへ」
影がゆっくりとこちらへ振り返る。
逆光が剥がれ、顔が見えた。五十代半ばか。深い皺が刻まれた額。鉄灰色の短い髪。そして、暗い水底のような色をした瞳。その目が、カイを、エルナを、順に捉え、値踏みするでもなく、歓迎するでもなく、ただ静かに見据えた。
その瞬間。
カイの頭の奥で、前世の記憶が激しく明滅した。
「カリスマへの依存は、組織崩壊の起点となりうる」
教科書の一節。赤線が引かれた文字。あの乾いた教室の蛍光灯の下で読んだ言葉が、今、目の前の現実に重なろうとしている。
うるさい。黙ってろ。
カイは心の中で叫び、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
分析は後だ。今はこの場に立て。この目で見ろ。この耳で聞け。
カイは顎を引き、ランダウ公爵の瞳を正面から見据えた。
公爵の視線が、ほんの一瞬、わずかに揺れたように見えた。
何かを見つけたような。あるいは、何かを思い出しかけたような。
だが、それは瞬きひとつの間に消え、公爵は静かに口を開いた。
「長い旅だったろう。まずは休め。話は、それからだ」
その声には、命令とも慈悲ともつかない、不思議な重力があった。
カイは頷いた。
言葉にならないものが、胸の底でざわめいている。
石の城の奥で、夕陽が最後の光を落とし、やがて窓の外は薄い紫色の闇に沈んでいった。
第3話「セルヴァンへの道」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は住み慣れたマレーヴァを離れ、ついに物語の主舞台となる「セルヴァン城」へと到着しました。
道中の検問シーンでは、カイの理屈とはまた違うエルナの「正義のための知恵(あるいは見事な詭弁?)」が光りましたね。お父様譲りの穏やかさの中に秘めた、彼女なりの強さが垣間見えるシーンでした。
また、カイが頭の中で構築した「大国の思惑が絡む代理戦争」の構図。平和な日本では机上の空論だったものが、目の前の焼け落ちた村 や、城を埋め尽くす避難民の天幕 という圧倒的な現実として彼に突きつけられます。
そして、最後に登場したランダウ公爵。
カイが危惧した「カリスマへの依存」という構造的リスク を体現するかのようなこの男が、カイの持つ「知識」をどう変えていくのか。
さらに、「統一王ヴェルナード」と「カイ・ヴェルナー」。この姓の奇妙な一致 は果たして偶然なのか……?
少しずつ、物語のパズルが組み合わさり始めています。
「続きが楽しみ!」「設定が凝っていて面白い」と感じていただけましたら、ぜひ作品の下にある【ブックマーク】や、評価の【☆☆☆☆☆】をポチッと押して応援いただけますと、執筆の大きな、大きな励みになります!
皆様の応援一つひとつが、物語を先へ進める力になります。
次回、第4話は「公爵の食卓」。
ついに始まるカイと公爵、そして参謀役との対峙。彼の「目」が何を見抜くのか、ご注目ください。
今後とも、よろしくお願いいたします!




