第40話 雨の海
眼前の空と海は、その境界線もわからないほど等しく薄灰色に煙っていた。
そして、島の崖に打ち寄せる規則正しい波の音だけが辺りに響く。
そこは岩礁といってもよいくらいの小さな無人島だった。
波によって浸食された洞状の窪みに、乗ってきた釣り舟を引き込み、俺たちは島の林に身を潜めて暗くなるのを待っている。
蕭条と降りしきる雨の中、寒さと疲労で、考え事をする気も無駄口を叩く気も起きない。
近くにいるタゲリもコマドリも似たような放心状態なのだろう。石像のように動かない。
焚き火を焚いて、暖をとったり濡れた体を乾かしたりしたいと無性に思うが、何しろ雨だし、たとえ晴れていても煙などたなびかせては、そこに人がいると誰かに知らせているようなもんだ。
俺は気を紛らわせたくて、雨よけの蓑から絶え間なく滴り落ちる水滴をぼんやりと眺める。
フルキ国の北の海岸を発ったのは三日前の事だ。
最初の港で〈ウミツバメ〉の水先案内らと合流し、潮目を選びながら島伝いにジグザグと北上を続け、ようやくこの島までたどり着いた。
うれしいことに、今回はクマサの了解を得ている。つまり、イカルから正式に与えられた任務であった。
で、任務の内容だが、いたって単純だった。
JM商会・極東支店を壊滅せよ。
くだんのJM商会は〈悪魔の目〉の鉱石を大陸に運び出し、そこで生産させた剣をウマシに持ち込んでウマシ王に売りつけていた。また、ウマシの研ぎ師を商会の地下に拉致して、剣の仕上げをさせているとも。
さまざまな忌むべき行為が商会を通して世界に拡散し、商会を通してフルキに流れ込んでいた。この上は一刻も早く商会を叩かねばならない。
しかし、ウマシ国に拠点を置く商会にフルキが手を伸ばすのは、容易なことではなかった。
ウマシとフルキの間に横たわる多島海は、極めて複雑に潮流が渦巻く海だったので、両国共に統治を行き渡らせることができずにいた。
その隙を突くように、海域の海人衆が、合法、非合法の海運活動を展開していた。そのせいで、ウマシやフルキにとっては、海の驚異に加えて海賊行為がのさばる魔の海域と化していたのだ。
その状況を転ずるためには、海人衆と同盟を組み、その卓越した航海術を手中にする必要があった。
そこで、イカルは、ここ数ヶ月同盟を画策し続けていたが、ついに、先頃、海人衆の中でも有力な〈ウミツバメ〉の郎党と手を組むことに成功した。
今回の計画も〈ウミツバメ〉らの水先案内なしでは、進められないものだった。
ようやく疲れた体に力が戻り始めた頃、俺たちが身を潜める島の林に、クジャクが姿を現した。
相変わらずのカワイイ顔を無愛想にしかめている。
クジャクは、師匠からの伝令だと言って、まもなく北向きの風が吹き始めることと、夜更けには雨が上がるだろうことを告げた。
そして、言い終えると、さっさと虚空に消えた。
それを見ていた(俺たちが借用している釣り船の主であり)水先案内の男が、驚愕の声を上げた。
「い、いまのは刻告げ童か。初めて見たぞな!」
そして、ありがたいものでも拝むように、両手を合わせて頭上にかざした。それから、これは吉兆に違いないといって泣いて喜んた。
どうやら、海人衆の間には〈お告げカモメ〉という伝説があって、刻告げ童という精霊が、カモメの姿をしたり童の姿をして現れ、天候の急変や魚の集まる場所などを教えてくれるんだという。
たしかに、先ほどのクジャクの出現は伝説とドンぴしゃだ。おかげで、俺たちに対する水先案内の男の好感度が、一気に高まった気がする。
国に帰ったら、クジャクにおいしい団子でもごちそうしてやろう。
ほどなく、凪いでいた海に北向きの風が吹き始めた。
俺たちは、島影から舟を引き出し、雨にかすむウマシの海岸へと漕ぎ出した。
あと一時ほどの行程である。
いつしか、陽はトップリと暮れ落ちていた。
先ほどまでは黒いシルエットに過ぎなかったウマシの山々が、今では、松の枝振りさえはっきりと見て取れるほどに迫ってきた。
目印にしてきた半島の灯台を、ぐるりと回り込む。入り江に面したウマシの港町には、点々と人家の灯がまたたいていた。
俺たちの舟は、港町の真ん中を流れる川の河口へと向かい、それを遡上する。
川の浅瀬には葦が繁茂していた。茂みをかき分けて進んでいくと、突然、目と鼻の先に一艘の釣り舟が現れた。
「やほ~。」
ヒナギクの声がした。
「シッ。おバカ。」
同時に、剣呑なカラスバの声が響く。
お願いだから二人共おとなしくしてくれ。
舟には、二人のほかにタゲリの部下と船頭が乗っていた。
これで、今夜のミッションのメンバーが全員揃ったことになる。
二艘の舟はスルスルと黒い川面を上流へと向かった。
先行する舟のへさきには、青い炎を掲げたカラスバがいて、闇夜の水先案内を務めている。
黒いフードをすっぽりと被り、閉じた眼で、進む方向の指示を出すカラスバを、櫓を操る〈ウミツバメ〉の船頭が畏怖の眼差しで見つめていた。
「なぜか今夜は人が多いのう。」
カラスバが、ぽつりとそう言った。
川の両岸には石垣が築かれ、その上にはけっこうな数の倉が建ち並んでいた。なかなか賑わってるようすの町並みだが、この時刻では、さすがに人影は見当たらない。
カラスバの眼は、すでにJM商会の建物の内部を見透しているようだ。
カラスバが言葉を続けた。
「事前の情報では、倉の番人と、主の警固人をちゃっちゃと片付ければ、後は楽勝だと思っていたが。」
「計画を延期するか?」
俺が訊ねる。
「とんでもない! さっさと家に帰って風呂に入りたいので、なんとしても今夜中に終わらせますぞ。」
カラスバが鼻息を荒げた。
メンバーの安全より風呂を優先するのか!
岸沿いに築かれた石垣は、ところどころで凹型になっていて、水路伝いに奥へ艀などを引き込むことが出来る仕組みだった。
予定では、水路の奥の倉の出入り口から一気に押し入るつもりだった。が、カラスバは計画を延期する気はなくても、変更する気にはなったようだ。
「少し手間だが、あの溝を使おう。」
カラスバが、舟を石垣の縁に着けさせながら言った。
見れば、石垣の上方に四角い穴が開いていた。四つん這いになってようやく通れる大きさだ。雨水や生活用水を川へはき出す下水溝と思われる。
ドブ水とまでは言わないが、溝の内側は茶色いコケでヌルヌルしてた。テンションがダダ下がる。
が、カラスバが自分のドレスのすそをデロデロにしながら先導するのを見ると、文句も言えなくなった。
溝は、倉と倉のあいだの狭い路地に通じていた。
路地に面した裏木戸をカラスバがそっと引く。軽い音を立てて戸が開いた。
鍵を掛け忘れたのかと呆れたが、裏木戸の奥には鉄格子の扉が立ちはだかっていた。
もしかして、これを曙光で切れ、などと無茶振りされるのではと、俺はビビった。切れる気がしないって! 先日の刃こぼれの修理が終わったばかりなのに。
しかし、その時、タゲリの部下が進み出た。そして、鉄格子に嵌められていた南京錠をあっという間に解錠してしまった。
忘れていたが、タゲリの部下は鍵開けのエキスパートだった。
俺たちは、あっさりと商会の倉に侵入した。
倉は三階建てで、二、三階は荷置き場、一階は船着き場になっていた。
カラスバが青い炎をかざして、一階の方を見下ろしている。井の字に組まれた梁や桁の隙間から、十名ほどの男が船着き場にいるのが見て取れた。
カラスバが男らのカンテラの火を一瞬で消し去った。
それを合図に、タゲリの部下が連中の上に飛び降りる。俺は梯子を駆け下った。
倉は吹き抜けになっているので、騒ぎを聞きつけ、他の階にいた男たちも一斉に集まってきた。
乱戦になった。いつの間にかタゲリが、俺の背中を守っている。
勇気百倍だ。ありがたいが、タゲリの面倒まで見る技量は俺にはないので、甘えて、前に突き進む。
敵は脛に傷持つ連中なので、近隣に助けを求めることもなく、あっけなく掃討は終わった。ヒナギクが物足らなそうにエア武闘している。
川岸に立っている倉と、その後ろに建つ商会の建物は、それぞれの裏側がくっついていて二階部分が連絡通路になっていた。
その連絡通路を猫のように忍び歩きながら、タゲリが口を開いた。
「ここで二手に分かれよう。三階へ行く組と地下へ行く組と。」
「では、わたくしが地下へ行こう。地下への通路は複雑そうだから私の青い炎が役に立つ。三階へ行く者には暗視力を付与しようぞ。」
カラスバが手を挙げてそう言った。
「じゃあ、俺たちが三階だな。」
と、俺。
「あぁ、そうそう、言い忘れていたがコマドリは私と一緒に来るがよい。」
カラスバが自明のことのようにそう告げた。
「・・・別にいいけど、なんでだ?」
そう俺が訊く。
「いやぁ、そのぉ、暗視力を付与するのは一度に二人が限界での。それに一度使ってしまうと暫く使えぬのじゃ。」
カラスバが口ごもりながら白状した。
鍾乳洞で〈鬼退治〉をした時、救出した子供たちに対して暗視力を与えることを拒んだのは、そういう理由だったのね。それならそうと言えばいいのに。
カラスバは、手早く俺とタゲリに暗視力を授けると、コマドリたちと連れだって階下へパタパタと走っていった。
俺とタゲリはカラスバの掲げる青い炎を見送ったあと、最上階へと駆け上る。
極東支店の主の部屋を探すのは簡単だった。
なにしろ、その部屋の扉の前を、猛者《SP》たちが幾重にも取り巻いて警固していたので。
俺は、廊下を照らす燭台を次々に断ち割りながら、やつらの只中へ突入した。
部屋の奥には一人の男がいた。
書斎机の向こう側に座っていたその男がゆっくりこちらを振り返る。あやうくサルバドール・ダリかと思った。激似だ。
まるで鉄腕アトムみたいな個性的な髪型をして、細長く整えた口ひげをゼンマイみたいにカールさせている。
男は、着物をガウンのように羽織ってキセルを燻らせていた。
その着物というのは、ど派手な金銀糸の刺繍を施したものだった。まるで歌舞伎衣装だ。
いでたちのみならず、室内も強烈だった。まるでアジアンテイストの骨董店だ。
商品なのかコレクションなのか知らないが、壁一面にお面や扇子が飾ってある。
天狗、般若、翁、なかには東南アジアっぽいお面も。棚や床には、エキゾチックな壺、甲冑、弓矢、楽器などが所狭しと並べてあった。
男は、机の上の螺鈿細工の箱を開けて、なにやら茶色い粉をつまみあげる。タバコの葉?
それをキセルに詰めながら、男は自慢げに片目をつぶった。
「インディアンのパイプさ。これを取り扱ってるのは、世界広しと言えどもわたしらの商会だけだよ。なかなかステキじゃないか。」
別にどうでもいいし、聞いてないから。こっちはあんたらを始末しに来ただけなんだ。
が、調子を狂わされてしまった俺は、思わず脈絡のないことを口走っていた。
「お前たちは、なにが目的なんだ?」
「申し訳ないが、それはこちらの台詞だが。それとも、君らと今晩会う約束をしたことを、わたしは失念していたんだろうか。」
「阿片、ご禁制の鉱物、それに子供たちまで売り物にするなんて!」
「ああ・・・君らはフルキ人か。ウマシの研ぎ師の仲間かと思った。まあ、だとしたら今頃連れ戻しに来ても遅いんだがな。やつは自分で逝っちゃったヨ。わたしらに協力するのがイヤになったのかなぁ。」
研ぎ師、仲間、遅い? 俺は反芻する。
男がキセルをポンと置いて、正面からこちらを見すえる。 .
「ところで、何やらわたしに腹を立ててるようだが、君はアホかね。頭の中に藁クズでも詰まってるのか。わたしらは客の望みに答えているだけだよ。罵るならそいつらの欲望を罵れ。繰り返すが、わたしらは最上級の商品を取りそろえてお客に届けている、それだけだよ。しかも、左うちわってわけじゃあない。この商売、リスクも高いし骨折りも多いんだ。」
男が同情をひくようなことを言う。黙っているとさらに言葉を続ける。
「別にウマシの肩をもっているわけではないし、フルキに恨みがあるわけでもない。君らが、武器をウマシより高値で買ってくれるなら、いつでもウマシと手を切るが、どうかね。」
男がゆっくり立ち上がる。ひょろりとした長身だ。
「・・・しかし、考えてみれば、せっかくの上客なんだから手を切るのは失礼というものだな。ウマシには粗悪品をつかませ、フルキにはちゃんとしたのを売るというので、手を打とうか。」
男は、気が利いたことを言ったつもりか満足げに笑った。余裕の笑みだ。
俺をそそのかしてる。相手は時間稼ぎしてるかもしれないのに、もっと聞きたい誘惑に駆られる。
「桃源楼を手先に使って、病気持ちのネズミをフルキに持ち込んだのも、お前らだろ!」
「ねずみ? ・・・ ふーん、ウマシの考えそうなことだな。フルキの弱体化をねらったのかもしれんが、愚かだな。あの病は、たしかに大陸ネズミという種類のネズミが媒介するが、フルキやウマシには大陸ネズミが生息してなくてね。たぶん風土が合わないんだろう。せっかくフルキに持ち込んでも、じきに死んだだろうなぁ。あぁ、笑える。ちなみに桃源楼は私らの手先じゃない。いい取引相手だったがね。阿片の売買ではお互い美味しい思いをしたな。たぶん、ネズミの件はフルキ国が依頼したんだろう。」
そう言って、本当に声を立てて笑った。
「だって、もしもフルキがほんとに弱体化しちゃって、ウマシとフルキの戦争にすぐケリがついたら武器が売れなくなるじゃないか。わたしらは、そんな金にもならないことはしない。もっと、ここを使え。」
そう言って、自分の額をチョンチョンと指さす。それから書斎机を回ってこちらに近づいて来た。
「なあ、君。わたしにとって人間は四種類しかないんだ。一つ目はお客様。二つ目は金を稼いでくれる人間。三つ目はいてもいなくてもいい人間。四つ目はわたしらの商売の邪魔をする人間だ。さて、君らは何番目になりたいんだろうか。」
うまい文句が浮かばなかった俺はこう叫んだ。
「言うまでもない。お前らを徹底的に阻止する!」
男は、口元に手を置いて嘲るようにクスリと笑う。
「青臭い正義をふりかざすガキめ。」
聞こえるか聞こえないかの低い声でそう吐き捨て、こちらを睨めつけた。
が、一瞬で元のポーカーフェイスにもどっていた。
「・・・そうか、残念だな。ウマシ人は愚かで、フルキ人は融通が利かない。やれやれ、わたしらの分析通りだな。悲しいことだが、愚鈍な民族は滅びるしかない。では、さようなら。さっさと来た道をもどって出て行きたまえ。」
男は、さわやかに笑いながら手を振った。
その時、後ろにいたタゲリが、叫びながら俺を突き飛ばした。
「伏せろ!」
激しい爆音が響く。
俺は、床に突っ伏した姿勢のまま、音の方に首を回す。
壁に飾られてるお多福のお面のあたりから白い煙が吹き出し、火薬の臭いが鼻をつく。
「うんっ、火打ちからくりか?」
タゲリがそう言いながら壁に駆けよって、お面を払い落とした。
お面があった場所はのぞき穴になっていて、穴の向こうから、銃口と人の顔がこちらを見ていた。
すかさずタゲリが穴を刀で貫く。
悲鳴をぼんやりと聞いている暇などなかった。なにしろ、タゲリに突き飛ばされて俺が大の字に突っ伏していた場所は、着物男のすぐ足元だったので。まるで、男の足でもなめてるような体勢だ。
それに、いつの間にやら男の手には短剣が握りしめられていて、それが俺の頭上に振り下ろされようとしていた。
首の皮を擦るようにして、短剣の切っ先が床にぶつかった。肝を冷やしてる余裕さえない。
後ろへ這いずりながら上体を起こし、中腰の姿勢のまま、今度は前へ飛んだ。飛び込みながら曙光を横一文字に振るう。
曙光への全幅の信頼がなければ、こんな姿勢で刀を振りかざす人間などいないだろう。当然ながら、超人的筋力など持ち合わせていない俺はバランスを崩して、切り込んだ相手の腹部に激突してしまった。
が、曙光の方は、すでに、きっちり仕事をこなしてくれたようだ。はたして、男の上体が俺の上にドザリとのしかかってきた。
俺は、もがきながらそこから這い出し、くずおれたままの男を見下ろした。どうやら気を失っている。男の両太ももの裂傷から、見る間に赤黒いシミが拡がって床を流れていく。
運良く誰か仲間が駆けつけてきたなら命は助かるだろうが、そうでなければ出血多量でじきに息絶えるだろう。
幸い、俺もタゲリも怪我はしていないようだ。
タゲリと共に足早に男の部屋を立ち去りながら、俺は思った。かわいそうに、こいつには仲間なんて、たぶんいないんだろうなぁ。
俺たちは、カラスバらに合流するため、建物の地下に急いだ。途中にはヒナギクらの仕事の跡が累々《るいるい》と残されていて、商会の残党に出会すこともなかった。
地下室には、つい数時間前まで誰かがいたと思われた。
カラスバが青い炎ではなく、今は、いたって普通とおぼしきカンテラで地下室を隈なく照らしていた。
だが、地下室のありさまは、とても普通とは言えなかった。
壁際には、砥石、桶などの研ぎ師の道具が整然と並べられている。が、それらとはまるで対極な禍々しいさまの一本の剣が部屋の隅に転がっていた。それは、オオルリを串刺しにしていた剣と瓜二つの〈悪魔の目〉だった。しかも、血糊をまとって薄赤い怪光を放っていた。
その辺りの床に目をやると、どす黒い汚れが飛散している。そして何よりも目を引いたのは、床に書かれたダイイングメッセージのような文字だった。
『さき』
そう読めた。
さき。女の名前?
死のうとする男の脳裏に最後に浮かんだ顔が、『さき』だったということか?
だとしても、人は死に際にこんなことを書くものなのか? 書いた男の妻子なのか誰なのかは分からないが、その女がこれを見つけることは絶対にない状況だというのに。
それどころか、骸さえすでにない。
なぜか、見知らぬ男の悲痛な声が聞こえた気がして、思わず息をのむ。
きょう、いつもより商会のセキュリティーがきびしくなっていたのは、男が自殺騒ぎを起こした直後だったからだろう。
それにしても、ひと足違いとはな。さき、ごめんな。アンタを思う人を助けられなかった。
タゲリたちはというと、地下室を物色して、ムシロに無造作にくるんであった数本の新たな〈悪魔の目〉を見つけた。
結局、建物の他の部屋では何も発見することができなかったので、地下室にあった物が商会にあるすべての〈悪魔の目〉だと考えざるを得なかった。
だから、それらと、自刃に使われた物を回収して、俺たちは撤収することにした。
帰りは、溝を使わなくてすんだ。堂々と、倉の下の船着き場から川べりに出る。
クジャクの言ったとおり雨は止んでいた。
葦の茂みに隠れていた〈ウミツバメ〉らの舟がスルスルと近づいてくる。
皆の視線がそちらに注がれた。俺は、何気に商会の方を振り返った。
その時、建物の角で黒い影が動いたような気がした。
残党? ぎょっとして棒立ちになる。
「ささっ、早く。」
タゲリが俺に声をかける。
皆すでに舟に乗り込んでいた。慌てて舟に乗り移りながら、影のあったあたりに再び視線をもどしたが、すでに何もない。
見る間に舟は水路に漕ぎ出した。首尾よく敵を始末し、商会の支店を壊滅させ、あとは夜にまぎれてフルキへ通ずる海へと遁走するために。
どうやら、他の人間は影など見なかったようだ。カラスバさえも。
あれは目の錯覚だったのか。
俺は振りかえって商会を凝視する。誰かが追ってくる気配はなかった。が、俺はなおも建物の方向を見続けた。
やがて、コマドリが、海が見えてきたと呟いた。
ようやく、俺は船の進む先へと視線をもどす。先行する舟のへさきには、今もまた、カラスバがマントをたなびかせて佇立していた。
雨は止んでいたが、厚い雲が月を覆い、あたりは深い闇に沈んで何も見えない。
だが、〈ウミツバメ〉の郎党たちは、ゆるやかにうねる漆黒の水面を、ためらうことなく沖へと漕ぎ進んでいった。




