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奈半利の門(ナハリ・ゲート)  作者: 茅花
第3章
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第39話 世界のかたち

 そもそもカンナが目当てで〈火〉の屋敷に帰館したのではなかった。

 だから、カンナが食事時になっても食堂に現れないからといってショックなワケではないが、こう露骨に避けられると、何か気を悪くすることをやらかしたんだろうかと、あれこれ考えてしまう。

 たしかに、火の屋敷を離れる経緯いきさつにおいては、カンナの親切を裏切る形になってしまった。

 だから、アヤメたちの面倒を頼んだ時は、俺としても無茶ぶりを承知で手紙を送ったんだったが、意外というか、さすがというか、二つ返事で引き受けてくれた。おまけに、三日にあげずアヤメたちのようすを知らせる手紙さえ送ってくれた。

 そんな具合だったから、アヤメは、とっくに機嫌を直してるものだと思ってたんだが。

 そもそも、あのサバけた姫が、俺ごときを相手にして本気で怒ってると考えること自体、自意識過剰なおごりだったのではと思い始めていたところだったのに。


 〈悪魔の目〉の密貿易と鍾乳洞の件に関して詳しい報告をするようにと、イカルから書状が送られてきたのは二日前の事だった。

 暇を持てあましていた俺は、けっこう喜んでそのめいを拝した。

 朝明けやらぬうちにガズラを発ち、馬を乗り継いで、午後には都に到着した。

 屋敷に帰れば、当然、カンナに出会うと思っていたので、アヤメたちの件で礼を言いたいとも思っていた。

 ところが、どうやらカンナは俺を避けている。

 夜が更けて、久しぶりにふかふかの布団に横になりながら、例の納戸にふと目がいく。納戸の隠し通路から、ひょいと入ってきて俺を驚かしたりするつもりなんじゃないかなどと妄想した。

 が、とうとう、朝、俺が〈火〉の屋敷を発つまでカンナは姿を見せなかった。

 屋敷の連中は、誰もなにも言わないし、俺も、誰にもなにも訊けずじまいだった。

 カンナ姫は風邪でもひいているのかしらとか、軽い感じで一言訊けばいいだけなのにな。

 それどころか、面倒な状況には背を向ける、という選択を俺はしてしまったんだ。

 あと一晩泊まるつもりでいたが、都での他の用事を済ませたその足で、ガズラまで帰ることにしたのだった。

 きっと、時が全てを解決してくれるだろう、なんて思って。



開け放たれた〈風〉の僧院のベランダを、初夏の風が吹き渡る。シーサー似のついの置物の頭を撫でるようにサヤサヤと。

 午前中にアヤメの店に立ち寄ったが、アヤメが言うには、天候が回復したのはここ数日の話だという。

 中庭にあるヨシの菜園は、今春の天候不順で、あらかたやられてしまっていたが、空は、都の人々が久しく仰ぐことのなかったやさしい薄青色をしていた。


「これが世界のかたち、なのか!」

 僧院のヨシの書斎では、アトリが興奮気味に大机の上の紙に取りついていた。

俺はベランダを離れて、薄暗い書斎で興奮して叫んでいるアトリの方へ、歩み寄った。

「おいおい。ヨシのお宝によだれが垂れてるぞ?」

 俺は、簡素な白い僧衣をまとったアトリの肩を机から引きはがした。運動というものを全くしないアトリの肩は病的に細い。

 アトリはヨシの書斎机からガバッと身を起こして、横目で俺をにらんだ。  

「ヨシのお宝だって?」

 アトリは薄くて形のいい唇を曲げて、ニンマリと笑った。

「これは国の宝なのだよ! 資料庫のつかさから借り受けてきたのだ。」

それから、アトリは両手を広げ、白い手をヒラヒラさせてヨシの山積みの蔵書を指した。

「ヨシのお宝なら、すでに、あらかた制覇した。」

「そうなのか!」

「今日もそうだが、ヨシは、昼間は、たいてい居ないから、ここは私が利用している。」

「使わせてもらってる、だろ。なんで自分の部屋を使わないんだ?」

 俺は、先ほどチラリとのぞいた、足の踏み場もないアトリの部屋を思い出しながらそう言った。

「妙に落ち着くのだ、この部屋の方が。〈精霊〉の屋敷にあった神殿と同じ臭いだ。静謐せいひつにして知の香りに満ちている・・・。そんなことより、見よ、これを!」

アトリは、机上に広げられた紙をバンッと叩いた。畳一枚よりデカいと思われる紙の片端は、机からはみ出して床に垂れていた。

 それは世界地図だった。

 地図の右上には〈坤輿萬國全圖こんよばんこくぜんず〉と書いてある。

 中央に太平洋、その右側には南北アメリカ大陸、左側には日本列島と東南アジアの島々、アジア大陸、ヨーロッパ、アフリカ大陸。

 北極海には流氷が描かれ、南極には、オーストラリアと南極大陸を合体させたような巨大な大陸が記されている。

 正距方位図法で書かれているのでいくぶんディテールが不正確だが(というか、極地が点でなく線で表現されている)、明らかに見慣れた世界地図そのものだった。ふと、なつかしい感覚がわき上がる。

「ふうん。でかいな、この大陸!」

俺は、巨大に描かれ過ぎている南極大陸を指でつついて、つぶやいた。

墨瓦蠟泥加めがらにかだ。一年中、雪が溶けることがない無人の大陸だそうだ。雪が溶けないから草木は一本も生えてない。そんな所では住める獣もいないだろう。」

「いや、ペンギンとかいるだろ。」

口に出してから、しまったと思った。面倒くさいことになりそうだ。

「ペンギン?」

アトリが、はたと身を乗り出した。俺はあきらめて説明を始めた。

「えっと・・・鳥の仲間だけど、羽が退化してるので飛べないんだ。泳ぐのが得意で、海にもぐって魚を捕まえて食べるのさ。んと・・・皮下脂肪が半端なくて、陸上ではこんな感じにヨタヨタ歩き・・・。」

アトリが眉をしかめて、俺のしぐさをじっと見つめた。

 たぶん、アトリのペンギンに対する認識を、俺はとても歪んだものにしてしまった気がする。

「飛べない鳥だって? そんなものは鳥とは言えぬだろ。飛べなければ天と地を行き来できないではないか。それにしても、墨瓦蠟泥加めがらにかについて詳しいようだが、行ったことがあるのか?」

「いや、それって南極大陸のことだと思うけど、行ったことはない。でも、ペンギンなら、動物園に行けば見れるし。ちなみに、動物園ていうのは、世界中の動物を一カ所に集めて飼ってるところだよ。」

「うむ。他にどんな国のことを知っている?」

 そう訊かれて心が軋んだ。考え過ぎかも知れないが。

 たぶん、俺は今、疲れている。だから、今日のところは、ペンギンの話で勘弁してくれ。

「そんなことより、ほかの話をしよう・・・訊きたいこともいろいろあるしな。」

 俺がはぐらかすようにそう言う。

アトリが不服そうに俺をにらんだ。そして、こうたたみ掛けてきた。

「異界に行ってみたいものだな。」

俺は頭を抱えた。やはりそうきたか。


 去年の夏、暇に任せて俺の元いた世界のことをずいぶん話してしまった。アトリは、垂涎すいぜんして俺の話に夢中になってくれた。

 かつて、彼処あそこにいた時、俺は、たまたま生まれてきた世界の恩寵に、何の喜びも見出だすことが出来ずにいた。

 人に語って聞かせるような価値など、どこにもない気さえしていた。世界にも俺自身にも。

 そんな俺に、偉そうに前世あそこを語る資格なんてなかったのにな。

 それに、もしも将来、本当に仮の話だが、アトリか俺のどちらか一人だけが彼方に帰れるなんていう選択をしなきゃいけないことがあったら、俺は、そのチャンスをアトリに譲りそうな気がしてる。別にアトリに恩返ししたいとかじゃ、さらさらない。

 その選択が、それほど辛いことではないと、ついさっき気づいてしまったんだ。

 そう、世界地図を見て、俺は確かに懐かしいと感じた。しかし、それは遠い昔を懐かしむような感覚だった。


 この気づきは、かなり衝撃的だった。

 今の暮らしのほうが日増しに現実味をおび、あちらでの思い出がどんどん風化していく。

 気取っていうなら、俺はこの世界に来て、初めて季節を織りなす雲の形を知った。幾夜となく月を仰ぎ、星を数えた。

 否応なく、人間関係も濃くなっていく・・・。

 

 言葉につまる俺を見て、アトリは少し勘違いしたようだ。

「あぁ、異界への扉を開く術を探すのは私の役目だった。そなたを彼方あちらに返す方法を探し出すという約束は忘れていないぞ。」 「・・・ふーん。それに関して何か進展はあったのか?」

俺は、さしたる期待もしないで訊いた。本当に探してくれているなら、いの一番に話したがるはずだからな。

 尋ねるまでもなく、今、奴の頭の中は、ヨシの蔵書や世界地図のことで一杯なのだ。

 アトリは、しばらく俺の顔をマジマジと見つめたあと、申し訳なさそうに言った。

「あーいや。差し迫った用事がいろいろあったので・・・今度、会える時までには取りかかれると思う。」

「じゃあ、明日来るわ。」

冗談のつもりだったが、アトリは本気で迷惑そうな顔をした。


 部屋の主のヨシが帰って来たのは、ひつじの刻をずいぶん過ぎてからだった。

ヨシと会うのは、去年の秋以来だ。ヨシは、杖を書斎机のそばの壁に立て掛けながら、俺の顔を見上げて、ニッと笑った。

「ほう? 二人一緒か。」

ヨシがちょっとトボケた様子でそう言った。

 いつの間にか、アトリは席から立ち上がり、〈坤輿萬國全圖こんよばんこくぜんず〉をクルクルと巻き始めていた。片づけ終えると、おもむろにヨシに向かってこう言った。

「ヨシ殿。部屋を貸していただきありがとう。カガヤ、ではな。」

そして、アトリは返事を待つこともなく立ち去った。慇懃無礼にして唐突に。

 相変わらず会話の終わらせ方が一方的だ。


「いつもながらおかしな奴じゃ。さてさて、こっちの方はまた、ずいぶんとたくましくなったのう。」

ヨシは、形相をくずして笑った。俺は、〈火〉の男たちがするように手を指し出してヨシに握手を求めた。

 ヨシの節くれだった手が、俺の日焼けした手を強く握った。俺も、両手でヨシの手を包んで強く握り返した。すると、ヨシが小さな目をギョロリと見開いた。

「怪我を、したか?」

俺の右腕の袖口から、刀傷がのぞいていた。

「腕を楯代わりにしちまったんだ。」

俺は頭をかいた。ヨシは、渋い顔で腰の剣を見やった。

 俺は左手で剣を突き出し、さやをずらして〈曙光〉をかざして見せた。ヨシがそれに関心を示すのではないかと期待したが、ヨシは、一瞥いちべつをくれただけだった。

「それにしても、ずいぶんとイカルに見込まれたものよの・・・。」


 ちょうどその時だった。

 ヨシの頭越し、ベランダのガラス扉の向こうに、こちらをのぞき込んでる人影を見つけた。

 アトリが中庭からもどってきたのかと思ったら、ユリだった。

 「うーむ。きょうは、千客万来じゃの。」

 そういいながら、ヨシが、愛想よく手招きをする。

 ユリが、ガラス扉を押して、遠慮がちに部屋に入ってくる。

 「・・・あのぅ。」

 「アトリなら、さっき帰ったけど? 自分の部屋か、図書倉じゃないかなぁ。」

 俺は気を利かせたつもりで、そう教えてやった。

 「あ・・・。」

 「いやぁ、ユリ導師はわしに用があって来たのじゃろう?」

 「ハイ!」

 何だ、そうだったのか。

 「お茶でもどうかな。ちょうど発酵茶を入手したばかりでな。二人ともそこへお座り。」

俺は、妖怪じみた老婆&挨拶程度の仲のかわいい娘、とお茶のテーブルを囲むことになった。

が、この微妙な組み合わせにも関わらず、意外にも話が弾んだ。

 話の中身は、ハーブを使った美容液の作り方に始まって、ヨシの畑の被害状況、恋の星占い、料理のことなどだ。

 つまり女子会なんだが、俺は、姉がいたおかげか女子トークは得意な方なんだ。

 驚いたことに、ヨシはこういう軽い話にも通じているようで、おおかたヨシが一人でしゃべった。俺が時々ツッコミを入れ、ユリが感心したように俺とヨシのやりとりに聞き入っている。

 そして弾んだ声でよく笑った。ユリも俺も。

 こうしてるとユリはフツーのかわいいJKだ。ズルイ。

 アトリがいたら、こうはいかないだろうとチラリと思う。

 この時間がずっと続けばいいのに、とも。

 

 俺は、午前中に立ち寄ったアヤメの店の話をした。時々でいいので、客として行ってやってほしいと、しっかり営業もしておいた。

 アヤメの店は、都の大路を二本ほど奥に入った場所にあった。

 カンナが物件をよく吟味させたのだろう。こじんまりとしていい店だった。適度ににぎやかな通りに面しているので、客の入りもまずまずだ。

 いち押しの料理だといってアヤメが出してくれたのは、米粉麺フォーだった。

 すこぶるおいしいとめたら、〈火〉の料理頭スオウから直伝のレシピを教わったという。

 店の奥は居宅になっていて、アヤメとコハギ、それとあやうく異国に売り飛ばされるところだった子供たちによる、ちょっぴりぎこちない共同生活が始まっていた。

 なにはともあれ、やつらにささやかなシェルターを提供できたことがうれしい。この上なくうれしい。


 昨晩イカルに報告したのと同様のことを、ヨシにも話した。

 想定外なことに、昨晩、〈火〉の食堂につめかけたビンズイら郎党たちは、俺を拍手喝采で迎えてくれた。まるで凱旋した将軍扱いだ。

 もちろん、誉められてうれしくないわけではないが、かなり後ろめたい気分だった。

 なぜなら、カラスバ&ヒナギクとの出会いがなければ、俺は石泥棒の情報を知ることはなかったんだし。

 それにやつらとの出会いは、どうやらヨシの計らいによるものだから、俺が賞賛を受ける理由は、ほぼないんだ。

 

 それにしても、国家の一大事とか言いつつ、〈火〉も〈風〉もてんでんバラバラに情報を収集しているのが気になる。

 俺の素人考えかも知れないが、五貴族による共同統治のような状態が、危機に際しては弱点になっているように思う。

 こういう時に国の求心力となるべき元老院も、寄り合い所帯を露呈ろていして、互いにいがみ合うばかりで何も決められないありさまだとヨシがぼやいた。



 いつの間にか、辺りは、ろうそくが必要なくらい薄暗くなっていた。

 ヨシが椅子から立ち上がった。

「さて、そろそろ〈火〉の屋敷へもどらねばならんのじゃろう?」

「いや、屋敷に泊まる予定はないんだ。都での用事はすっかり終わったから、今から馬でガズラへもどるつもりさ。夜明け前には着くかなと。」

「こりゃ、たまげた。若い者は無謀が好きよな。」

ヨシはあきれた顔をしたが、止せとは言わなかった。

 そして、別れの握手を求めてきた。俺はヨシの皺だらけの手を握り返す。

「うむ、しっかりとお肉が・・・詰まっている腕じゃ。」

そう満足げにつぶやいて、ヨシは、照れたように顔をほころばせた。

 忘れかけていた、かつての〈藁人形〉呼ばわりを思い出した。今思えば、取るに足らないことに、何を目くじら立ててたんだろう。

俺は、ユリをふり返る。ヨシと握手したのにユリとは何もしないのは、むしろ不自然だろう。

俺は両手を差し出す。

 はにかみながらユリが俺の手をギュッと握る。マシュマロみたいな感触。予想以上のインパクトだ。溶ける・・・脳髄が。

あわてて俺はユリの手を振りほどく。何なんだ、この罪悪感は。


茜色の夕闇が影を落とす〈風〉の塔の下で、ヨシは俺を見送ってくれた。

大門のそばにある馬繋場ではコマドリが俺を待っていた。

 考えてみれば、半日待たせたことになる。

 ユリらと楽しくお茶して遊んでいた俺は、さすがに気が引けて遅くなってしまったことをコマドリにびた。

 もちろん、いつもの無表情な顔つきが変わることはなかった。が、以前のようなトゲトゲしい表情を見せなかったのは意外だった。



この日以降、本格的に梅雨が訪れるまでのほぼ一ヶ月間、俺は何度も都に足を運ぶことになった。

 いつの間にか、〈風〉と〈火〉の情報をつなぐのが俺の役割となっていた。ヨシに命じられたわけでもないが、仕向けられたというか、気がつけばそうなっていた。

 だから、都にのぼるたびに、まず〈火〉の屋敷におもむいてイカルに会い、アヤメの店にちらりと顔を出し、それから〈風〉の僧院にヨシを訪ねた。

 ヨシに会ったあと、再びイカルにヨシからの伝言を伝えにもどることもあったが、屋敷に長く留まることは避けた。一度、カンナと擦れ違ったが、俺の顔をボンヤリと見やって、元気のない声でヤアと言って通り過ぎていった。

 怒られるより、よほど怖いって。


 僧院のヨシの部屋では、ユリと毎回のように遭遇した。どうやら、アトリのみならずユリまでもヨシの部屋に入りびたっているようすだ。正直、ヨシの部屋をデートに使ってんじゃねーよ、と思う。イラッとなる。

 まあ、だとしてもユリに深入りするつもりはない。他人の許嫁に恋れんぼするほど俺は勇敢じゃないし、人でなしでもないので。


 アトリは、相変わらず読書三昧の日々を過ごしていた。

 俺が来ていてもその習慣が変わるわけではなかった。俺のことなど気にも留めずに読書をしてたかと思うと、急に、今、夢中になっている本のことなどを語り始める。

 いずれにしても会話のキャッチボールが成立しないのは去年の夏と少しも変わらなかった。


 また、アトリの話によると僧院の食事は慎ましく、それさえもうっかり時間を忘れていて逃してしまうらしい。

 そんなアトリにとっては、ヨシの部屋でありつけるお茶菓子は、どうやら貴重な栄養源になっているようだ。

 お茶菓子といっても干したイチジクや柿、クルミのような素朴なもので、かつて〈精霊〉の屋敷で供されていたみやびな物とは程遠かったが、アトリは喜んでそれらを平らげた。食欲も去年の夏より旺盛になってる気がする。

 

 ところで、JM商会については、〈火〉の密偵たちによって、かなりその調査が進展していた。

 アトリがヨシに翻訳を頼まれた(たまたま俺が知ってる英単語だったという)例のメモ書きの一件である。

 ちなみに、アトリはこの件のあと、英語の辞書を一冊丸ごと暗記したらしい。

 予想はしてたが、思ったよりペースが早いな。

 俺が、たまたま例の英単語を解したことに激しく触発されたのかもしれない。知に関することとなると、アトリは異常に負けず嫌いになるふしがあるから。

 俺なんぞは勉強に対してなんのプライドもないからか、張り合おうという気もないんだが。


 話をもどすが、JMとはジャスミンの省略だった。つまりジャスミン商会という名らしい。

 ずいぶん乙女な名前だが、だからといってジャスミン茶でも取り扱っている会社かというと、表向きはともかく裏はそんなもんじゃ、すまなかった。

 全ての道はローマに、ではなく、全てのブツがジャスミン商会に通じていたのだ。

 盗賊を手先に使って〈悪魔の目〉を国外に持ち出し、黄金町の桃源楼を使って阿片を国内に流通させ、おまけに人身売買まで。つまり、あってはならない商取引のなにもかもだ。

 黄金町の桃源楼さえ、ジャスミン商会の出先に過ぎなかったんだろう。

 女将のチャンイこと牡丹も、最後まで口を割らなかった事実だ。あるいは本当に知らなかったのかもしれないが。

 そのほか、敵対国ウマシの港町にその極東支店がある等々の情報も得たらしい。

 

 そんなこんなをいつまんでアトリに話していると、英語辞書を丸暗記して調子づいてるアトリは、なんと語学教師を雇いたいと言い出した。ついては、JM商会に行くことがあったら適当な語学教師をスカウトしてきてほしいと。

 どうやら、アトリには、その商会が犯罪者集団だという認識が欠如している。

 犯罪はいけないことという〈知識〉はあるが、恐ろしいことだという〈感情〉が伴わないんだろう。人生において、恐ろしい経験などしたことがないんだからな。あの時を除けば・・・。

〈火〉の密偵からの直近の報告によれば、あの時、オオルリの身体を貫いた魔剣は、まちがいなくジャスミン商会経由でウマシに売られた〈悪魔の目〉だった。

 俺は、オオルリの死の記憶をアトリに思い出させてやろうかと考えたが、さすがに非情な気がして、言いそびれてしまった。



 アトリとそんな話をした日から半月も経ずして、俺はジャスミン商会と対峙することになった。

 が、当然といえば当然なことながら、アトリが語学教師を雇うことはかなわなかった。

 








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