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奈半利の門(ナハリ・ゲート)  作者: 茅花
第2章
28/45

第28話 夜 警

黄金町での捕り物の後、イカルは、都の警備を以前より強化することを決めた。

 僧院、都の四つの門、元老たちの屋敷等々、人手はいくらでも欲しい状況だった。

〈火〉の屋敷の警護の責任者であるビンズイでさえ、他の用件で借り出されて留守がちだった。

 だから、俺が〈火〉の屋敷の夜警を志願した時、それは当たり前のように受け入れられた。

 

 とりの刻の鐘が鳴るのを聞いて、俺は、屋敷の一隅、雑木林の端に建つやぐらへ登っていった。

 以前、アオジが、俺とコマドリを叱りつけたやぐらだ。

 下層は石積みで、上層は漆喰壁の塔になっている。塔の壁から張り出すようにしつらえられた木造の見張り台が、上階、下階の二カ所にあった。

 俺は、塔の内側にある梯子はじご状の急な階段をよじ登って上階を目指した。

 

 見張り台の東方には、既に警備の者が佇立していた。俺は、西側の見張り台にはい出て、そこに立っていた若者に交代を申し出た。

 若者は一礼をすると、ヤレヤレといった様子で塔の下へおりていく。


闇に塗りつぶされた大地と濃紺の天空が交わるあたり、薄ら赤くそまる地平線の上に、黄金の筋雲が低くたなびく。日没の光が一瞬力を増したような気がして、ハッと目を見張る。が、気のせいなのだろう、後はただゆっくりと暮れていった。

 北方の、都のはずれへと視線を移す。

 急峻な山々のふもとに向かって、人家の灯が点々と続く。あの方角には確か〈精霊〉の屋敷があるはずだ。

 そう思い至った時、アトリの記憶が瞬速でよみがえった。

 出会った当時に奴が語った、あの言葉と共に。

『天変地異、饑饉、戦争・・・これらを収めれば・・・解放され・・・』

 だけど、そんな事態を収められるのは神様くらいだろ!って、俺が心の中で叫んだ事も。


 あれから、秋が訪れ冬が過ぎ、春が巡って来たが何も解決はしていない。何をどうすればいいのか、いまだになんにも分からなかった。

 というより、何を悩んでいいのかさえ分からなくなって、俺は、この話を久しく〈無かった事〉にしていた気がする。

 思い出した事で、俺の心はザワついた。心にしょうじた隙間から、閉じ込めていた不安が吹き上がる。


「浮かない顔だな。」

 その声に驚いて、俺は慌てて顔を上げた。すっかり暗く静まった夜空を背に、オルハンの黒い影が見下ろしていた。

 立ち上がろうとする俺を手で制して、オルハンは傍らに腰を降ろす。オルハンの羽織っている外套が、大きくはためいている。

 風が出てきたようだ。

 

 オルハンが、懐に手を入れてゴソゴソと何かを取り出した。開いた掌の上に穴あき銅貨が三枚乗っている。

 掌を閉じ、また開くと、銅貨が消えていた。手品。

 俺はオルハンのお茶目な行為に、思わず笑ってしまった。

 オルハンが俺の背中をポンポンと叩いた。そう言えば、彼には俺くらいの年の息子がいる。


 オルハンは、内緒話でもするように、俺の耳元でこう言った。

「取っておきの、おまじないいの言葉を教えてあげよう。落ち込んだ時、私は、いつも心への質問というのを自分に向かってするんだ。」

俺は、オルハンに見透かされたようでギョッとした。

 心への質問? 何だそれ。

 時々彼の単語のチョイスは変になる。が、それがかえって彼の言葉を意味深にしてたりする。

「いいか? こうだ。『わたしは何を望むのがよいのだろうか』。」

 オルハンは、灰青の瞳を輝かせて楽しそうにそんな事を言った。思わず俺は耳をそばだてた。?? 

「遠い昔に、ある人に教えてもらった言葉だ。何度でも何度でも、自分に尋ねるといい。いくら尋ねても、答えに辿りつけない時の方が多いがね。それでも、尋ね続けるんだ。」

 オルハンは、自分の胸に手を当てながらこう続けた。

「〈悩み事〉は、あなたの大切な友人だ。だから、いつだってここに置いて忘れない事だよ。」

 俺は無言のまま、首を縦に振った。オルハンの言ってる事が腑に落ちたわけではないが、オルハンのそんな気遣いをありがたく思う。


「・・・オルハンさんは、どうしてこの国に?」

 オルハンは夜空を見上げて、肩をすくめた。そしておどけたふうにこう言った。

「それは、ちょっと長い話になるなぁ。」


 そして、彼は語り始めた。それは本当に長い長い物語だった。

 オルハンは、オスマン帝国の都で生まれた。父親はヴェネチア人だったが、十代の頃、運悪く旅先で戦禍に巻き込まれ、共に旅をしていた貿易商の父親や兄弟とはぐれ、収奪されて連れてこられたのが、オスマンの都だった。

 父親は、傭兵軍に入れられた。彼は軍人としての素養に恵まれていたらしく、やがて(スルタン)の目に止まり、重用されるまでに出世した。結婚して家族を持つことも許された。

 オスマンはイスラム教の国だ。人種・民族の垣根は低いが、宗教への帰依は絶対だった。キリスト教徒だった父親も当然のこととして改宗し、色濃くオスマンの文化を受け入れていった。結婚の形態も例外ではなく、オルハンの母親は、何人かいた妻のうちの一人だった。

〈ルーシ女〉と、オルハンは母親のことを言った。

 かつて、ベラルーシからウクラウナにかけてルーシと呼ばれる地があった。そこでは、スカンジナビア半島から来た白い民と東方の騎馬民族、南方のインド・アーリアン系らが幾世代にもわたって混じり合った。

 その結果、ルーシの子供たちは、抜群のプロポーションと抜けるような白い肌を持っていた。世界中から様々な美女を調達していたオスマンの都にあっても名の通った美人の産地と目されるほどに。

 そして彼らにとって不幸なことは、国家として極めて弱小だったことだ。

 人さらいを生業とする賊たちは、麦の穂を刈り取るように容易に村を襲って、子供たちを収奪していった。それどころか親たちに売られる事もしばしばだった。


 現代人の目線で見れば、グロテスクに映る話だ。しかし、の地、の時代にあってはそれが日常だったのだ。

 しかも、世界の中心だった帝国での暮らしは、彼女たち辺境の民にとって垂涎すいぜんの的だったという側面さえあった。

 事実、都に売られた後、玉の輿に乗ったものも多く、中にはスルタンの王母となって栄華をきわめたものさえ現れた。若くて健康で、美しくあれば、豊かな生活が保障される場所でもあったのだ。

 しかし裏を返せば、もしもそのうちの一つでも失えば、虫けらのように捨てられる運命とも言えた。


 オルハンが十七の時、オルハンの母親は病に冒され、ついに医者もさじを投げた。

 母親は、故郷に帰って死ぬことを切望した。父親は幾ばくかの金子をオルハンに与えて、母親の帰郷に同伴させた。路銀はくれたが見送りに来ることはなかった。が、それは当時のオルハンにとっては当たり前のことだと思えた。


 オルハンと母親は故郷に帰ったが、父母や縁者がいるであろう村に立ち寄ることはなかった。生まれた村とよく似た風景だと母が言う場所に、小屋を借りて二人で住んだ。

 母の髪色に似た黄金の麦畑が、一面に拡がっていた。

 母親は、その地で、痛みにさいなまれながら数ヶ月の命を終えた。四十路にも届かない年齢だった。

 オルハンは、母の為に墓穴を掘り、墓標の石を積んだ。今も、ミツバチが群れ飛ぶ豊かなルーシの自然に抱かれて、母のむくろは眠っているだろう。


「母の願いをかなえることが出来て、本当に良かった。そして、母との最初で最後の旅は、私にとって人生の転機となったんだ。」

 とオルハンは言った。


 たった一人で母をとむらった後、オルハンは、父親の元に帰る気が失せている自分に気がついた。

 オスマンに帰れば、帰属する階級やそれなりの職が保証されていた。しかし、オルハンは、帝国の城壁の外の風に当たりすぎたのかも知れない。

 逡巡しゅんじゅんしながら、しばらくキエフという町にとどまった。


 その後、人に誘われて北方のザポローグィに移った。この頃には、父からもらった金子は底をついていたが、剣に心得のあったオルハンには、危険さえかえりみなければ、傭兵のような仕事が舞い込んできた。

 父の影は、日増しに遠のいていった。


 黒海に面したガグラに流れ着いた時には、帝国の都を離れてから既に十年が過ぎていた。オルハンは、腕を頼りのその日暮らしを続けていた。

 暮らしの豊かさやら権力やらと引き替えに、自由を選び取ったとオルハンは感じていた。


 しかし、彼の心は、いまだに満たされてなかった。

 ガグラとサマルカンドを往復し、隊商の護衛をして生計をたてる日々の中で、何時の頃からか、神から解放されたいと願うようになっていた。

 それがどういう意味を持つのかさえ分からなかった。しかし、東の果てには天国のような国があるというおとぎ話を信じてみたい気になっていた。

 

 ある日、ついに、彼はサマルカンドからの復路に背を向けた。そして、そのまま東へ東へと旅を続けた。まだ見ぬ東の最果てに思いはせ。


「父は、十八でオスマンの都に連れてこられ、自分一人の力でのし上がったんだ。当時は、父が好きになれなかったが、それはそれで偉大な男だったのだと今では思う。」


 オルハンはそう言って、俺をじっと見つめた。

 オルハンは、俺が異界からひねり出された存在であることを知ってるのだろう。望みもしない世界に連れてこられた俺。だからこそ、こんな身の上話を聞かせる気になったんだろうか。

「だが、私は父のようには生きない。ずっとそう思って、自分の生き方を探し続けてきた。その為の旅だった。その果てが・・・ここだ。」


 ようやく、大陸の東端の港から船に乗って、東の果ての小さな島国に辿り着いた時、オルハンは、母が死んだ時と同じ歳になっていた。

 たどり着いた島国は、決してきらびやかな王国でもなく、ましてや天国でもなかった。が、箱庭のように繊細な自然や、中庸な民の人となりが、オルハンの心を、これまでに経験したことのない温もりで満たした。

 強いて言うなら、母の故郷の広大な畑で、黙々と働く農夫たちを見た時の感覚に似ていた。大地にしっかりと根を張って生きる、素朴なフルキの民たち。

 この地の民にとって、労働は苦役ではなく、誇りなのだと知った。

 そう言えば、鎖に繋がれ鞭打たれる奴隷たちはどこにいるんだ? 肌の色が違うとか宗教が違うなどという理由で、首を跳ねられたり、目をえぐられたりする光景はどこにあるんだ?

 ・・・衝撃だった。

 自分の中にあった価値観が音を立てて崩れ去り、肩の力がフッと抜けてゆくのを感じた。そして、笑いが込み上げた。

 

 オルハンは言う。やっとこの地で、人の頭上に君臨する神ではなく、人と共にある神に出会えたと。

 今では、この地の民が大好きで、この地を満たす樹や石の精霊たちが大好きで。

「私にとってはここが旅の終わりだ。」

 彼は微笑んで、話を終えた。


 いつの間にか風も止み、見張り台から下りて行くオルハンの頭上では、春の夜には珍しく、星々が透き通った光を放ってまたたいていた。俺は夜空を見上げてつぶやいた。

「わたしは何を望むのがよいのだろうか・・・か。」

 俺は・・・。



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