第27話 ありふれた春
刀匠の里から戻った後、俺は馬場通いを始めた。もちろん必要に迫られてである。
馬に乗れないというのは、現代の地方都市で自動車の運転が出来ないのと同じくらい不便だったから。
ビンズイらと黄金町に出向いて以来、一層その思いを強くしたのだ。
とはいえ、乗馬インストラクターに手取り足取り習えるような、おしゃれな環境があるわけではない。
此処では、馬は大事な兵力であり労働力なんだ。騎馬武者のための馬であり、兵站運搬のための馬だ。馬が借りられるだけでもありがたい状況だった。
俺は、馬の世話をしている男に二、三度手解きを受け、後は習うより慣れろといわて、一人、馬場の端を行ったり来たりして過ごした。
その日は、騎射の訓練をしている侍たちの邪魔にならないように、馬場の周辺に巡らされた板塀の外に馬を連れ出した。
ロデオマシンよろしく、太股と尻回りの筋肉がすっかりヨレたところで、俺は馬から下りて休む事にした。
馬場の近くを流れる小川で、馬に水を飲ませる。オオバコやナズナが、小川の堤一面を緑で覆っていた。
草の上に腰を下ろすと、土の柔らかな温もりが伝わってくる。
黄色い花はタンポポだろうか。心和む風景だ。馬が、遠慮もなく糞を落としながら歩く様子さえ微笑ましいと思う。
こんなにのんびりした気分は久しぶりだな。いつ以来かさえ思い出せない。いや思い出す必要なんてあるんだろうか。俺は大の字に寝そべった。
ここ数日、不思議なくらいお天道様の調子が良いようで、薄ら青く広がる空に、繭のような雲が浮かんでいる。
俺の耳元で草を食む馬の尻尾には、赤い布が括り付けられていた。人を蹴る癖があるので気をつけろという印だ。
皆から〈赤い布〉と呼ばれている気むずかしい雌馬だった。が、今は穏やかに俺のそばにたたずんでいる。
思わずウトウトとしかけた時、遠くから、蹄の音があわただしく近づいて来るのに気づいて、俺は頭をもたげた。
馬上の人影は、赤い髪をなびかせている。カンナだ。
彼女は、ありえないスピードで俺と〈赤い布〉の方へ駆けてくる。そして俺の頭上で急停止をかけた。
いつにも増してテンションが高いな。
カンナの馬の蹄が荒々しく野草を蹴散らした。
おかげで、尻側から追い立てられた格好になった〈赤い布〉が、激しく嘶いて、春の野を疾走し始めた。
カンナは大声で笑いながら、自分の馬を鞭打って〈赤い布〉を追い掛けていく。
やれやれ、俺の至福の時間は終わったようだ。
程なくカンナは、〈赤い布〉を伴って颯爽と帰ってきた。
「じゃじゃ馬め。」
俺は、不機嫌に馬上のカンナを睨んで言った。
「生まれたんだ! さっき知らせがきた。ほら、妹の、キキョウの子だよ。」
俺はカンナに引き連れられて、チガヤが営む医療所へ馬を走らせた。医療所は練兵場からほど近い里にあった。
俺は正月に、カンナの異母妹弟に会っている。十九才になるキキョウはすでに嫁いでいて、あの頃はもうお腹が目立つほどになっていた。
今朝、キキョウにとっては実家である医療所で、無事女の子を出産したらしい。
馬をつなぐのもそこそこに医療所に飛び込むカンナを、チガヤが笑いながら招き入れた。
キキョウはまだ床の中だったが、俺たちを見て微笑む。一番興奮しているのは、カンナだった。伯母さんになる事がそんなに嬉しいとは、まるで理解不能だ。
継母がカンナの腕に嬰児を抱かせた。カンナは用意してきたらしい祝いの朱色の着物にキキョウの娘を包み、目を潤ませて愛おしそうに見入った。
まるで、初孫に目を細めるおばあちゃんだな。
そんなからかいの言葉が口を突いて出そうになったが、慌てて飲み込んだ。日頃のカンナからは想像もできない女子っぽい一面を見て、なぜか落ち着かない気分だ。
「抱いてみるか?」
カンナが無邪気に俺を振り返る。
「あ・・いや、やっぱいいかな。」
俺はぎこちなく身を退いた。
「・・・。」
カンナが、ちょっと残念そうな顔をした気がする。が、気のせいだったかも知れない。
話は、いつの間にかイカルの少年時代の事になっていた。
どうやらイカルは、問題児だったらしい。
学問はもちろん、武術の練習にさえ不熱心だった。持って生まれた優れた体格や身体能力を磨こうという気はまるでないふうだった。剰え、ふいと屋敷を抜け出しては、町場でいろいろな騒動を引き起こした。(どこかの戦国武将みたいだ・・・)
そんな具合だったので、果たして家督を継げるような人間になれるのか危惧する声さえ上がっていた。
しかし、こうした振る舞いは父親の死を境に一変する。吹っ切れたかのように〈火〉の長としての務めに邁進した。
カンナたち周囲の者は一様に胸を撫で下ろし、今や押しも押されもせぬ一族の長だった。
「後は、お嫁をもらって跡継ぎを。」
「いやそれより、カンナ、あなたの方こそ早く婿を取らなきゃ。」
継母やキキョウが口々に、そんなことを言い出した。言われたカンナも満ざらでもない様子で、照れ笑いをしている。
取り留めのない家族の会話が続く。嬰児がぐずり始めると、キキョウが、美しい胸を出して乳を与えた。
さすがにこっちが恥ずかしくなって、部屋の前の小さな庭に目をやる。
満開の桃の木が見えた。その下には数輪の黄色い花が咲いている。
その時、二匹の猫が花を蹴散らし、けたたましい鳴き声を立てて庭を駆け抜けていった。皆が、何とはなく顔を見合わせて笑う。
そこには、穏やかでありふれた春があった。




