第9話 夏コミ準備!そして読モ再び?!
朝七時。
いつもなら、目覚ましが鳴る前に目を覚ましている秋月隆司だったが、今日ばかりは違った。
昨夜、夏コミに向けた原稿の仕上げに夢中になり、気づけば夜更かしどころではない時間になっていたのだ。
そして現在、隆司は布団の中でぐったりとしていた。
コンコン。
「おにいちゃーん! 朝だよー! 起きてー!」
ドアをノックする音に続き、妹の美咲が顔をのぞかせた。
「ん……ああ、美咲か……」
「おはよー! って、あれ?」
美咲は、いつもと違う兄の様子に首をかしげた。
寝起きの悪い日こそあれ、隆司がこんなにも元気のない声を出すのは珍しいと思った美咲。
「おにいちゃん、顔が赤いよ? もしかして、具合悪いの?」
「いや……ちょっと体がだるいだけだ。昨日、夜更かししたからな……」
そう言いながら起き上がった隆司だったが、視界がぐらりと揺れた。
「うおっ……!」
「おにいちゃんっ!」
美咲は慌てて駆け寄り、倒れそうになった兄の肩を支えた。
「ちょ、ちょっと! 無理しないで!」
「わ、悪い……。なんか、ふらつくな……」
美咲がそっと隆司の額に手を当てる。
その瞬間、表情が変わった。
「……熱い」
「え?」
「おにいちゃん、すごく熱いよ! 待ってて、すぐお母さん呼んでくるから!」
「おい、そんな大げさな……」
「大げさじゃないよっ!」
いつになく真剣な声だった。
美咲は急いで部屋を飛び出した。
数分後、母親が体温計を持ってやってきた。
測定結果は、三十八度を超えていた。
「これは駄目ね。今日は学校を休みなさい」
「うへぇ……マジかよ……」
「マジかよ、じゃありません! まったく、夜更かしばかりしているからよ」
母親に冷却シートを貼られ、薬を飲まされた隆司は、しぶしぶ布団に潜り込んだ。
その横では、美咲が今にも泣きそうな顔をしている。
「おにいちゃん……大丈夫?」
「大丈夫だって。たかが風邪だろ」
「でも……」
美咲は布団から出ていた兄の手を、ぎゅっと握った。
「私、学校休んで看病する……」
「駄目よ、美咲。お母さんもいるんだから、学校へ行きなさい」
「でも、おにいちゃんが……」
「美咲」
隆司は少しだけ声を和らげた。
「心配してくれてありがとな。でも、俺のせいでおまえまで休んだら意味ないだろ?」
「……うん」
「帰ってきたら、また顔を見せてくれ。それで十分だからさ」
美咲はしばらく兄の顔を見つめていたが、やがて小さくうなずいた。
「……絶対、無理しちゃ駄目だからね?」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!って、杏子と同じこと言うのな」
いつもの調子で返すと、美咲はようやく少し笑った。
「じゃあ、行ってきます……。おにいちゃん、早く元気になってね」
「ああ。いってらっしゃい」
ドアが閉まる。
静かになった部屋で、隆司は天井を見つめた。
「……あいつ、昔から俺が風邪をひくとあんな顔するんだよな」
幼い頃から、変わらない。
自分のことより、いつも兄のことを心配する妹。
「……ったく。心配性にもほどがあるだろ」
そうつぶやきながら、隆司は目を閉じた。
しかし、胸の奥には、熱のせいだけではない妙な温かさが残っていた。
いつもの通学路。
美咲は、隣を歩く兄がいないことに、思った以上の寂しさを感じていた。
「……おにいちゃん、大丈夫かな」
つい、つぶやいてしまう。
いつもなら、隆司が何か余計なことを言い、美咲が怒り、二人で騒ぎながら歩く道だ。
今日は、それがない。
「おはよー、美咲ちゃん!」
前方から杏子と三紀子がやってきた。
「おはようございます、杏子先輩、三紀子先輩」
「……ん? 隆司は?」
杏子が周囲を見回した。
「まさか、また夜中まで変な本を作ってて寝坊したとか?」
「違います……。実は、おにいちゃん、熱が出ちゃって……」
「えっ?」
杏子の表情から、ふざけた笑みが消えた。
「熱? どれくらい?」
「三十八度以上あって……。今朝も、立ち上がったときにふらついていたんです」
「三十八度以上!? ちょっと、それ本当に大丈夫なの?」
「お母さんが看病してくれているので大丈夫だと思います。でも……」
美咲はうつむいた。
「やっぱり、心配で……」
杏子は、そんな美咲を見て小さく息をついた。
「そっか……。あいつ、普段はあんなに元気なのにね」
「うんうん。それは一大事だよぉ!」
三紀子が突然、両手を握りしめた。
「我らが創作活動の同志、秋月隆司君が病に倒れた……。これはもはや、物語の第一章にして最大の危機!」
「三紀子ちゃん、何を言ってるの……?」
「そして、同志の部屋には秘密の資料が眠っている……!」
「……三紀子」
杏子がジト目を向けた。
「今、別のこと考えてない?」
「えっ? いやいやいや! 純粋に心配してるよぉ! ほんとだよぉ!」
「その割には、目がキラキラしてるけど?」
「き、気のせいだってばぁ!」
美咲は少し困ったように笑った。
「……でも、みなさんが心配してくれて嬉しいです」
その言葉に、杏子はやさしくうなずいた。
「当然でしょ。あいつ、面倒くさいけど……大事な友達だもの」
ほんの一瞬、杏子の頬が赤くなった。
しかし、三紀子はそれを見逃さなかった。
「……ほほぉ?」
「な、何よ?」
「いやぁ~? 杏子ちゃん、ずいぶん優しいなぁと思って!」
「友達が熱を出したら心配するでしょ!」
「ふぅ~ん?」
「その顔やめなさい!」
杏子は三紀子の額を指で押し返した。
そこへ、蓮司も合流した。
「おはよう。……ん? 今日は隆司がいないのか?」
「隆司、風邪なんだってぇ」
「そうか。あいつが風邪とは珍しいな」
蓮司は少し考えてから言った。
「放課後、見舞いに行くか」
「おっ、蓮司君も参加する?」
三紀子が身を乗り出した。
「いや、俺は……」
「隆司君の部屋には、普段見られない秘密がいっぱいあるかもしれないよぉ?」
「……お前、見舞いに行く目的を間違えてないか?」
「そ、そんなことないもん!」
杏子はため息をついた。
「もういいわ。放課後、みんなで行きましょう。美咲ちゃん、一人で帰るより、みんなで行ったほうが安心でしょ?」
「はい! ありがとうございます!」
美咲の顔に、ようやく明るさが戻った。
こうして、隆司本人の知らないところで、放課後のお見舞い計画が決定したのである。
なお、このとき三紀子の頭の中では、すでに「秋月隆司の秘密の部屋・潜入調査計画」という壮大な計画書が完成しかけていた。
一方、その頃。
隆司は、ベッドの中で目を覚ましていた。
「……んー。ちょっと寝たら、だいぶ楽になったな」
体温を測ると、朝よりは下がっていた。
もちろん、まだ安静にしているべき状態だったが、本人はすっかり回復した気になっていた。
「よし……少しだけなら大丈夫だろ」
隆司はパソコンの前に座った。
目的は、夏コミ用の原稿を確認すること。
……だったはずなのだが。
「おっ、このイベント、まだ回収してなかったな」
気づけば、画面にはお気に入りのゲームが表示されていた。
「いや、待て待て。ほんの十分だけだ。十分だけ遊んだら原稿を確認する」
誰に向かって言い訳しているのか。
隆司はゲームを始めた。
十分後。
「……くっ、選択肢を間違えた!」
三十分後。
「待て、ここで好感度を上げれば次のイベントにつながるはず……!」
一時間後。
「よしっ! あと一枚でギャラリーが埋まる!」
ノートには、選択肢と攻略ルートがびっしり書き込まれていた。
そして、ようやく時計を見た隆司は固まった。
「……え?」
午後三時。
「うわぁぁぁ! 何時間やってんだ、俺は!」
慌ててゲームを終了する。
「原稿! 原稿を入稿しなきゃ!」
幸い、原稿データは完成していた。隆司は印刷会社への入稿状況を確認し、問題がないことを確かめる。
「よし……これで俺の新刊は大丈夫だ」
続いて、三紀子との合作CG集のデータも確認する。
「三紀子の絵、やっぱりすげぇな……」
画面に並ぶイラストを見て、隆司は思わず笑みを浮かべた。
普段は妄想を爆発させてばかりいる三紀子だが、絵に関しては本物だ。
「こいつの初参加、絶対に成功させてやりたいな」
自分の作品だけでなく、友人の作品も会場に並ぶ。
そう考えると、自然と気持ちが高ぶってくる。
しかし、そこで隆司は重大な事実を思い出した。
「……今日、学校休んでたんだった」
そして、まだ病人だった。
「……よし。今度こそ寝よう」
隆司はパソコンを終了し、ベッドへ戻った。
ところが、目を閉じた直後。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「……誰だよ、こんな時間に」
隆司は布団をかぶった。
そして、聞き覚えのある声が玄関から響いてきた。
「おじゃましまーす!」
「……ん?」
続いて聞こえたのは、美咲の声だった。
「おにいちゃん、みんながお見舞いに来てくれたよー!」
「……は?」
隆司の顔から血の気が引いた。
「……みんな?」
その言葉の意味を理解するより早く、階段を上がってくる複数の足音が聞こえてきた。
「待て待て待て! ここは俺の部屋だぞ!?」
時すでに遅し。
お見舞いという名の大災害の予兆
コンコン。
「隆司君、お見舞いに来たよぉ~!」
「……帰れ」
「えぇ~!? 開ける前から拒否!?」
「病人は寝てるんだよ!」
「じゃあ、静かにお見舞いするねぇ!」
「絶対に静かじゃねぇだろ!」
隆司の抗議をよそに、ドアが開いた。
先頭にいたのは美咲。
その後ろには杏子、三紀子、そして詩織が並んでいた。
「おにいちゃん! 具合はどう?」
「美咲……。おまえ、みんな連れてきたのか……」
「だって、みんな心配してくれたんだよ!」
「そうだよぉ! 隆司君の回復を願って、我らが秘密結社の同志が集結したのだぁ!」
「誰が秘密結社だ!」
そして、三紀子の隣にいた詩織が、にこやかに手を振った。
「こんにちは、隆司君。お邪魔するね」
「なぜに詩織まで!?」
隆司は思った。
……このコンビは危険すぎると。
「三紀子ちゃんから聞いたの。隆司君が風邪でお休みだって。心配だったから来ちゃった」
「……おまえら、全員、心配の方向性がおかしくないか?」
そのとき、美咲が心配そうに隆司の額へ手を伸ばした。
「おにいちゃん、まだ熱いよ……。ちゃんと寝てた?」
「寝てた、寝てた。ちょっとだけな」
「ちょっとだけ?」
「……そこは聞き流してくれ」
美咲はじっと兄の顔を見た。
「おにいちゃん、今日は絶対に無理しちゃ駄目だからね」
「わかったって」
隆司がそう答えると、美咲はほっとしたように笑った。
その様子を見ていた杏子も、少しだけ表情を和らげた。
「まあ、顔色は朝よりマシそうね」
「おっ、杏子。心配してくれたのか?」
「べ、別に! 友達なんだから当然でしょ!」
「はいはい」
「その返事、腹立つ!」
いつものやり取りに、部屋の空気が少し和んだ。
……ところが。
「さて!」
三紀子が、突然パンッと手を叩いた。
「病人の容体も確認したところで、いよいよ本日のメインイベント!」
「……嫌な予感しかしねぇ」
「秋月隆司君の秘密のお部屋、大探索ツアー!」
「帰れぇぇぇぇぇ!」
隆司の絶叫が部屋に響き渡った。
「わぁ、すごい!」
すでに三紀子は本棚の前にいた。
「アニメの設定資料集に、ゲームの攻略本、同人誌、画集……。うわぁ、資料の宝庫だぁ!」
「おい、勝手に触るな!」
「こっちは何かなぁ?」
「引き出しを開けるな!」
「詩織ちゃん、こっちにすごいのがあるよぉ!」
「えっ、何々?」
「詩織まで乗るなぁぁぁ!」
詩織は本棚の隅から一冊の同人誌を取り出した。
表紙には、隆司が描いたタイトルロゴと、丁寧に仕上げられたイラストがある。
「……これ、隆司君が描いたの?」
「そ、それはだな……!」
隆司は慌てて起き上がった。
「俺の創作物だ! ちゃんと許可を取ってから読め!」
「わぁ……絵、すごく上手!」
詩織が感心した声を上げる。
その言葉に、隆司は少しだけ得意げになった。
「ふっ……まあ、画力には自信があるからな……って勝手に人の創作物を漁るなっ!」
「じゃあ、こっちの本は?」
三紀子が、別の本を手に取った。
表紙には、ひと目で成人向けと分かる注意書きがあった。
隆司の顔が一瞬で青ざめる。
「おいっ! それは駄目だぁぁぁ!」
「えっ? 十八歳以上向け?……ほほぅ」
詩織が目を丸くしていたが、口元は緩んでいる。
「隆司君、こういう本も描いてたんだ……!」
「ち、違っ……いや、違わないけど! 創作活動の一環であってだな!」
「へぇ~。隆司君って、こんな作品まで作れるんだねぇ」
三紀子は感心したように表紙を眺めている。
「しかも、構図がしっかりしてる……。表情の描き分けも細かいし、背景まで丁寧。むむむ、これは創作者として研究の余地がある……!」
「研究するな! そこは研究対象じゃねぇ!」
「でも、隆司君の画力が高いのは本当だね。これだけ描けるなら、夏コミでも注目されそう」
詩織の素直な感想に、隆司は思わず言葉を詰まらせた。
「……そ、そうか?」
「うん。ちゃんと自分の得意分野を持ってるのって、すごいと思うよ……成人向けだけど」
「……ま、まあな」
少しだけ嬉しくなった、その瞬間。
「ところで隆司君!」
三紀子が満面の笑みで杏子を振り返った。
「杏子ちゃんにも見せてあげよう!」
「なっ!? やめろぉぉぉ!」
「え? ちょ、ちょっと待って!」
杏子は差し出された本を見て、ぴたりと固まった。
「……隆司」
「は、はい?」
「エッチ……あんた、普段からこんなの描いてたの?」
「いや、だから創作活動の一環で――」
「へぇ……」
杏子の目が、すうっと細くなる。
「……ずいぶん、楽しそうね?」
「待て! その言い方は誤解を招く!」
「誤解? じゃあ、説明してみなさいよ」
「えーっと……その……」
隆司は言葉に詰まった。
説明できないわけではない。
ただ、説明すればするほど、自分の趣味を詳しく語ることになりそうだった。
「……三紀子、おまえ後で覚えてろよ!」
「あははは! 隆司君、顔真っ赤だよぉ!」
「誰のせいだと思ってんだ!」
そのとき、美咲が困ったように声を上げた。
「みなさん……おにいちゃん、まだ病人なんですから、あんまり騒がないでくださいね?」
全員の動きが止まった。
「あっ……ごめんね、美咲ちゃん」
詩織がすぐに本を閉じた。
「そうだよね。お見舞いに来たのに、騒いじゃ駄目だよね」
「……詩織、分かってるなら最初から止めてくれ」
「えへへ、ごめん」
美咲は隆司の枕元へ戻り、布団を整えた。
「おにいちゃん、疲れたでしょ? もう少し横になっててね」
「……ああ。ありがとな、美咲……気疲れしたよ」
隆司が素直に礼を言った後に三紀子と詩織をチラッと見て最後の一言を言った。
美咲は安心したように笑った。
その笑顔を見つめながら、隆司は思った。
――こいつ、本当に優しいよな。
昔から変わらない。
自分が困っていると、いつだって真っ先に心配してくれる。
そのことが、今日はいつも以上に胸に響いていた。
そして、その様子を見ていた杏子は、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
美咲が隆司を心配するのは当然だ。
二人は兄妹なのだから。
それでも、隆司が美咲に向ける柔らかな表情を見ると、どうしても考えてしまう。
――私には、あんな顔をすることってあるのかな。
「……杏子ちゃん?」
詩織に呼ばれ、杏子ははっとした。
「な、何?」
「顔、赤いよ? 暑い?」
「ち、違うわよ!」
「ふぅ~ん?」
「その顔やめなさいってば!」
杏子は慌てて顔をそらした。
しかし、三紀子はすでに新たな妄想の扉を開きかけていた。
「……なるほど。病床の隆司君を巡る、三人の複雑な感情……」
「三紀子! 変な物語を作るな!」
十八禁同人誌と、崩壊する平穏
「さてさて……」
ようやく部屋の探索が落ち着いたかと思った、そのとき。
三紀子が机の上に置かれたノートを発見した。
「これは……ゲーム攻略ノート?」
「おいっ!」
遅かった。
「選択肢の分岐、好感度、イベント発生条件……うわぁ、細かい! 隆司君、これ全部自分でまとめたの?」
「そ、それは資料だ! 創作の参考にするための資料!」
「へぇ~。じゃあ、このキャラクターのルートは?」
「待て! そこから先はネタバレだ!」
「えぇ~? 気になるぅ!」
「気にするな!」
詩織も隣からのぞき込んだ。
「三紀子ちゃん、こっちのページもすごいよ。イベントごとに感想まで書いてある」
「うわぁ! これは創作者として見習いたい情熱……!」
「情熱の使いどころが違うだろうが!あぁ……なんか熱出そうだ」
隆司は額を押さえた。
そのとき、杏子が部屋の隅に置かれた段ボール箱に気づいた。
「……これ、何?」
「それは俺の大事なコレクションだ。触るなよ?」
「ふぅん……」
杏子は箱のふたを開けた。
「ちょっ、杏子!」
中には、ゲームソフトや同人誌、未開封のグッズがぎっしり詰まっていた。
「……あんた、こんなに持ってたの?」
「趣味だからな!」
「高校生として、どうなのよ……」
「趣味に年齢は関係ない!」
「いや、年齢制限のある作品には関係あるでしょ!」
「うっ……」
杏子は成人向けのものを別にして、箱のふたを閉じた。
「これは、ちゃんと自分で管理しなさい。美咲ちゃんに片づけさせたりしないこと」
「お、おう……」
「あと、体調が悪いときにゲームばっかりやらない!」
「……はい」
「返事だけはいいんだから」
杏子は呆れたようにため息をついた。
けれど、その手つきは意外なほど丁寧だった。
隆司が大切にしているものを、ただ乱暴に扱うつもりはないらしい。
「……杏子」
「何よ?」
「その……ありがとな」
「えっ?」
「いや、ちゃんと片づけてくれてるからさ」
杏子は一瞬、言葉を失った。
いつものように言い返すつもりだったのに、隆司があまりにも素直だったからだ。
「……べ、別に。散らかってると邪魔なだけよ」
「そうか?」
「そうよ!」
杏子はそっぽを向いた。
――ずるい。
そんなふうに、何気なく礼を言われるだけで、どうしてこんなに嬉しくなるのだろう。
前回、女子から告白されたとき、杏子は「好きな人がいる」と答えた。
その相手は、目の前にいる隆司だ。
しかし、本人はそのことを知らない。
そして杏子自身も、まだこの気持ちをどう伝えればいいのか分からなかった。
「……ほんと、調子狂うわ」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもない!」
その直後。
「杏子ちゃん! 大変だよぉ!」
三紀子の叫び声が響いた。
「今度は何よ!?」
「隆司君の作品リストを見つけたんだけど、ジャンルの幅が広すぎるぅ!」
「勝手にリストを見るなぁぁぁ!」
「しかも、こっちに新刊予定って書いてある!」
「読むなぁぁぁ!」
「詩織ちゃん! このタイトル、どう思う!?」
「えっ、どれどれ……?」
「詩織まで参加するな!」
部屋の中は再び大混乱に陥った。
そして、ついに隆司の堪忍袋の緒が切れた。
「おまえらぁぁぁ! お見舞いに来たんじゃなかったのかぁぁぁ!」
「もちろんだよぉ!」
三紀子は胸を張った。
「隆司君の創作環境を知ることも、お見舞いの一環!」
「そんな一環があってたまるかぁぁぁ!」
「……ふふっ」
その騒ぎを見て、美咲が思わず笑った。
朝からずっと心配で仕方なかった。
兄が苦しそうにしているのを見るのは、やっぱりつらかった。
でも、今はいつものように怒鳴っている。
それが、何よりも嬉しかった。
「……おにいちゃん、元気になってきたね」
美咲のつぶやきは、騒がしい部屋の中に溶けていった。
「……はぁ。もう好きにしろ」
ひとしきり騒いだあと、隆司はベッドに腰掛けて大きく息をついた。
すると、三紀子が一冊の見本誌を手に近づいてきた。
「ねえ、隆司君。これって……もしかして?」
「ん?……おう」
隆司は少し表情を引き締めた。
「俺たちの合作だ。CG集の見本と、完成した原稿のサンプルだ」
「……えっ?」
三紀子は、今度こそふざけることなく、見本誌を両手で受け取った。
ページをめくる。
自分が描いたイラストが、隆司の仕上げによって一つの作品になっている。
線画だけだったときとは明らかな違い。
色がつき、背景が入り、画面全体に物語が生まれていた。
「……すごい」
三紀子の声が小さくなった。
「これ……私の絵、だよね?」
「ああ。おまえが描いた絵だよ」
「でも、こんなふうになるなんて……」
いつもの大げさな口調はなかった。
ただ、作品を見つめる目が輝いていた。
「隆司君……本当に、ありがとう」
「何だよ、急に改まって」
「だって……私、ずっとこういうことをやってみたかったんだもん」
三紀子は見本誌を胸元に抱えた。
「自分の描いたものを、本にして、誰かに見てもらう。ネットで公開するだけじゃなくて、実際に会場に並べるんだよね……?」
「ああ。当たり前だろ、夏コミだ」
隆司は、いつもの自信に満ちた表情を取り戻した。
「夏の一大イベント、コミックマーケット! そこで俺たちの作品を頒布する!」
「うわぁぁぁ……!」
三紀子のテンションが一気に爆発した。
「ついに来たぁぁぁ! 私の創作人生、第一章の幕開けぇぇぇ!」
「声がでかい!」
「これは運命の歯車が回り始めた瞬間だよぉ!」
「だから声がでかいって!」
詩織も見本誌をのぞき込み、笑顔になった。
「本当にすごいね、三紀子ちゃん。私も会場で手伝えることがあればいいんだけど……」
隆司は、待ってましたと言わんばかりに詩織を見た。
「あるぞ」
「えっ?」
「売り子だ」
「……売り子?」
「そう。三紀子のサークル参加を手伝ってほしい。俺もできる限りサポートするけど、当日は自分の作品のこともあるからな。三紀子の隣で本を渡したり、列を整理したり、頒布を手伝ってくれる人がいると助かる」
詩織は目を丸くした。
「私が……三紀子ちゃんの作品を、会場で紹介するの?」
「そうだ。おまえなら三紀子の作品の魅力も分かってるだろ?」
「……うん!」
詩織は力強くうなずいた。
「やる! 私、売り子をやるよ!」
「詩織ちゃん……!」
三紀子は感激したように詩織の手を握った。
「ありがとう……! 我が創作世界を支える、頼もしき同志よ!」
「えへへ。何だか楽しそう!」
「よし、決まりだな!」
隆司は満足そうにうなずいた。
「三紀子がサークル参加、詩織が売り子。俺は制作と当日のサポート。それぞれ役割を決めて、準備を進めよう」
「うん!」
「もちろん!」
二人の返事が重なった。
その様子を見ていた美咲も、嬉しそうに笑った。
「おにいちゃん、すごいね。みんなの夢が、どんどん形になっていくんだね」
「……まあな」
隆司は少し照れくさそうに頭をかいた。
「せっかくやるなら、みんなで本気で楽しみたいだろ?」
その言葉に、三紀子と詩織は顔を見合わせた。
「……うん!」
二人の声は、先ほどまでの騒ぎとは違う、まっすぐなものだった。
夏コミ。
まだ先のことだと思っていた大きなイベントが、急に現実味を帯びてきた。
しかし、ここで隆司は一つだけ大切なことを言い忘れていた。
「……ところで、三紀子」
「なぁに?」
「おまえの作品、ちゃんと入稿できる状態に仕上げるんだぞ。締め切りは待ってくれないからな」
「……え?」
「え?」
「…………」
三紀子の笑顔が、ぴたりと止まった。
「隆司君……」
「何だ?」
「まだ、あと数ページ……仕上げが残ってるんだけど……」
「…………」
今度は隆司の笑顔が止まった。
「……おまえ、今、何て言った?」
「えへっ」
「えへっ、じゃねぇぇぇぇぇ!」
こうして、夏コミ準備は、早くも波乱の幕開けを迎えたのだった。
大騒ぎがようやく落ち着き、みんなで紅茶を飲んでいた、そのときだった。
美咲のスマホが鳴った。
「あっ……編集長さんからだ!」
「編集長?」
隆司が顔を上げる。
美咲は慌てて電話に出た。
「もしもし! はい、美咲です。……えっ? この間の撮影の件ですか?」
美咲の表情が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか!? ありがとうございます! はい、ぜひお願いします!」
電話を終えた美咲は、スマホを握りしめたまま、みんなを振り返った。
「おにいちゃん! みなさん! この間の撮影の写真が編集部で好評だったみたいで……また撮影をお願いしたいって!」
「おおっ!」
隆司が思わず声を上げた。
「やったじゃないか、美咲!」
「うん! しかも、今回は夏休みの別冊企画なんだって!」
「へぇ~! すごいじゃん!」
三紀子が拍手する。
「美咲ちゃん、完全に読モとして波に乗ってるねぇ!」
「ありがとうございます!」
美咲は嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「それで……もう一人、杏子先輩にも、ぜひ参加してほしいって」
「……えっ?」
杏子が固まった。
「わ、私も?」
「はい! 前回の撮影で、美咲ちゃんとの組み合わせが好評だったみたいです!」
「そ、そうなんだ……」
杏子は困ったように頬をかいた。
「うーん……また撮影かぁ……」
「杏子、いいじゃないか。お前は学校でもモテるんだし、これも人生経験の一つだ」
隆司が口を開いた。
「美咲も喜んでるし、前回だってちゃんとやり遂げたんだろ? せっかくのチャンスなんだから、参加してみたらどうだ?」
「……隆司」
「ん?」
「……あんた、簡単に言うわね」
「えっ?」
「撮影って、けっこう緊張するのよ? メイクさんやカメラマンさんに囲まれて、どういう顔をすればいいのか分からなくなるし……」
「そうなのか?」
「そうなの!」
杏子は少しむくれた。
隆司は、そんな杏子を見て首をかしげた。
「でも、前回の写真、すごくよかったって美咲から聞いたぞ」
「……え?」
「自信持っていいと思うけどな。杏子は杏子らしくしてればいいんじゃないか?」
何気ない言葉。
それなのに、杏子の胸は大きく跳ねた。
――杏子らしく、か。
彼は、何も分かっていない。
自分が、どれだけ彼の言葉を気にしているのか。
どれだけ、彼に認められると嬉しいのか。
そして、彼に好きな人がいるのかどうかさえ、まだ知らない。
前回、女子から告白されたとき。
杏子は「好きな人がいる」と答えた。
その相手は、隆司だった。
でも、今ここでそれを口にする勇気はなかった。
「……分かったわよ」
杏子は小さく息をついた。
「美咲ちゃんが一緒なら……もう一度、やってみる」
「杏子先輩……!」
美咲が嬉しそうに手を握った。
「ありがとうございます!」
「ちょ、ちょっと! そんなに喜ばなくても……!」
「だって、杏子先輩と一緒なら心強いです!」
美咲の笑顔を見て、杏子は思わず微笑んだ。
「……まったく。そんな顔されたら、断れないじゃない」
「えへへ!」
その光景を見ていた三紀子が、詩織の耳元に顔を寄せた。
「……詩織ちゃん」
「なぁに?」
「今の杏子ちゃん、見た?」
「うん?」
「隆司君の一言で、表情が変わったよねぇ……?」
「……あっ!」
二人の視線が、そっと杏子へ向けられる。
そして、次の瞬間。
三紀子はバッグからノートを取り出した。
「これは……新たなる恋愛叙事詩の予感!」
「三紀子ちゃん、ここでノート出すの!?」
「記録は大切なんだよぉ! 感情の機微を逃してはならぬ!」
「二人とも、聞こえてるわよ!」
杏子の声が飛んだ。
「何を書こうとしてるのよ!?」
「な、何も書いてないよぉ!」
「じゃあ、そのペンを置きなさい!」
「はいっ!」
詩織は慌ててノートを閉じた。
だが、三紀子の頭の中では、すでに新しい物語が動き始めていた。
――友情、恋心、そしてすれ違い。
夏は、創作者にとって最高の季節なのかもしれない。
「……さて、と」
しばらくして、帰る時間になった。
詩織は三紀子の見本誌を丁寧にバッグへしまった。
「三紀子ちゃん、帰ったら夏コミの準備、ちゃんと進めようね」
「うん! 売り子の件も、よろしくねぇ!」
「任せて!」
「隆司君、原稿のことも相談するからね!」
「おう。ただし、締め切り直前に泣きついてくるのはなしだぞ」
「うっ……努力します!」
「努力じゃなくて、完成させろ!」
隆司がツッコミを入れると、みんなが笑った。
美咲は、帰り支度をしながら兄を振り返った。
「おにいちゃん、今日は本当におとなしくしててね?」
「分かってるって」
「ゲームばっかりしちゃ駄目だよ?」
「……はい」
「原稿も無理しないでね?」
「……はい」
「夜更かしもしちゃ駄目だからね?」
「……はい」
「本当に?」
「はいっ!」
美咲はようやく満足そうに笑った。
「じゃあ、また明日ね。おにいちゃん」
「ああ。今日は来てくれてありがとな」
「うん!」
美咲は嬉しそうにうなずいた。
その笑顔を見て、隆司は胸の奥が妙に温かくなるのを感じた。
――やっぱり、こいつが笑っていると安心する。
昔から、そうだった。
だが最近は、それだけでは説明できないような感情が、心の中に少しずつ積み重なっている気がする。
隆司は、その正体をまだ言葉にできなかった。
一方、杏子は帰り際に、そっと隆司を振り返った。
「……隆司」
「ん?」
「今日は……ちゃんと寝なさいよ?」
「分かってるって」
「本当に?」
「おまえ、美咲と同じこと言ってるぞ」
「う、うるさいわね!」
杏子は顔を赤くした。
「……心配してるんだから、少しくらい素直に聞きなさいよ」
その言葉に、隆司は一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「……ああ。ありがとな、杏子」
「……っ!」
杏子は何も言えなくなった。
胸が苦しい。
嬉しいのに、切ない。
もっと近づきたいのに、今の関係を壊すのが怖い。
――好き。
その気持ちは、前よりも確かになっていた。
「……じゃあね、隆司。また明日」
「ああ。またな」
杏子はみんなの後を追い、部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
静かになった部屋で、隆司はベッドに腰を下ろした。
「平和あ訪れた……やれやれ。とんでもないお見舞いだったな」
散らかった本棚。
ずれた引き出し。
机の上に置かれた、夏コミの見本誌。
そして、スマホに届いた印刷会社からの確認メール。
今年の夏は、間違いなく忙しくなる。
夏コミに向けた準備。
三紀子と詩織の新しい挑戦。
美咲と杏子の読者モデルとしての再撮影。
そして、自分自身の心の中で、少しずつ形を変え始めた感情。
「……今年の夏は、熱くなりそうだな」
隆司はそうつぶやき、ベッドに横になった。
その頃、帰り道を歩く杏子は、夕焼けに染まる空を見上げていた。
「……隆司の、ばか」
小さくつぶやく。
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、彼への想いは、確実に大きくなっていた。
そして、美咲もまた、帰り道で兄のことを考えていた。
早く元気になってほしい。
また、いつものように一緒に学校へ行きたい。
いつまでも、今のような毎日が続いてほしい。
――その願いが、やがて自分自身の心を揺らすことになるとは、まだ知らないまま。
夏コミまで、あと少し。
新しい挑戦と、複雑な恋心が交差する夏が、静かに幕を開けようとしていた。




