第10話 夏休み前夜の大騒動! 暴走する妄想と、ふたりのモデル撮影計画!
朝から容赦なく照りつける夏の日差し。
蝉の大合唱が響く通学路を、隆司たちはいつもの顔ぶれで歩いていた。
今日は終業式。そして明日からは、待ちに待った夏休みである。
「いやぁ~、明日から夏休みか! 早いもんだよなぁ。これで心置きなく創作活動とゲームに没頭できるぜ!」
隆司は両手を頭の後ろで組み、実に満足そうな顔をしていた。
「隆司くん、夏休みの予定がそれだけって、ちょっと寂しくない?」
詩織が呆れたように笑う。
「何を言う! 創作活動は立派な予定だ! それに今年は夏コミもあるんだぞ!」
「はいはい。そういうことにしておきましょうねぇ」
「おい、詩織。その妙に温かい目で俺を見るのをやめろ!」
そんなやり取りをしている少し前では、三紀子と詩織が別の意味で盛り上がっていた。
「ねえ、三紀子ちゃん! 昨日の夜、完成したんだよ!」
「ま、まさか……例のものが!?」
「そう! これ!」
詩織がカバンから丸めた大きな紙を取り出すと、勢いよく広げた。
そこに描かれていたのは、三紀子が夏コミで頒布する新刊の宣伝ポスターだった。
印象的な表紙イラストに、タイトル、あらすじ、そして作品の魅力を伝えるキャッチコピー。イラストの構図から文字の配置まで、販売用としてしっかり考えられている。
「わぁぁぁっ! 詩織ちゃん、これ、私の新刊のポスター!?」
「そうだよ! 表紙絵を使って、宣伝用に描いてみたの! どう? どう?」
「す、すごい……! この視線の交差! この微妙な距離感! 触れそうで触れない指先……! 言葉にできない感情が、紙面からあふれ出しているわ!」
「えっ、そこまで深く考えて描いてないんだけど!?」
「いいえ! あなたの中に眠る創作の才能が、ついに覚醒したのよ!」
「か、覚醒!?」
「そう! これはもう、運命に導かれた共同戦線……!」
「ちょっと待て。朝っぱらから何の戦争を始める気だ、お前ら」
隆司が嫌な予感を覚えながら割って入った。
だが、二人は聞いていない。
「このポスターが会場に掲げられた瞬間、無数の同志たちが足を止める……!」
「そして、新刊を手にした読者たちは、まだ見ぬ物語の深淵へと誘われる……!」
「お前ら、ポスター一枚で世界を救う気か!?」
「隆司くん、静かに! 今、歴史的瞬間を語っているんです!」
「通学路で歴史を作るな!」
隆司は額を押さえた。
夏休みは明日からだというのに、すでに頭が痛い。
その後ろでは、美咲と杏子が、今度の読者モデルの再撮影について話していた。
「杏子先輩! 撮影の日、もう決まったんですか?」
「うん。昨日、編集長さんから連絡があったの。八月四日の午前十時半からだそうよ」
「八月四日!? もうすぐじゃないですか!」
美咲の顔がぱっと明るくなった。
「わぁ、楽しみ! 前の撮影も楽しかったけど、今度は杏子先輩も一緒なんですよね!」
「ええ。前回の二人の写真が好評だったから、ぜひもう一度一緒に撮影したいって」
「やったぁ!」
美咲は思わず、その場でくるりと回った。
「ねえねえ、今度はどんな衣装かな? 前回とは違う雰囲気になるのかな? 髪型も変えたりするのかな?」
「ちょ、ちょっと美咲ちゃん、落ち着いて……!」
杏子は苦笑した。
「まだ詳しい内容は聞いていないのよ。編集長さんも、当日までのお楽しみだって」
「そんなぁ! 気になって、あと一週間も待てないですよ!」
「あと一週間もないでしょう?」
「あっ、そっか!」
美咲は自分で言っておきながら、ますます嬉しそうな顔になった。
そんな彼女を見て、杏子も自然と笑みを浮かべた。
美咲は本当に楽しそうだ。
初めての撮影のときもそうだった。最初は緊張していたのに、カメラの前に立つと、驚くほど生き生きとした表情を見せた。
自分にはない、まっすぐな明るさ。
杏子は、そんな美咲のことが好きだった。
だからこそ、今度の撮影も応援してあげたい。
……ただ。
「杏子先輩も、今度はもっと綺麗に撮ってもらいましょうね!」
「えっ? わ、私は別に……」
「だって、杏子先輩って本当に綺麗ですもん! 前回の写真もすごく素敵でしたよ!」
「もう、美咲ちゃんったら……」
杏子は頬を赤らめた。
モデルという仕事に興味がないわけではない。褒められれば嬉しいし、きれいに撮ってもらえるのも悪い気はしない。
けれど、自分が本当に目指しているのは花屋だ。
花に囲まれた店で、お客さんの気持ちに合う花束を作る。そんな未来を思い描いている。
それなのに、最近はモデルの撮影のことを考えると、もう一つ、気になることがあった。
――隆司は、どんな顔で見てくれるのだろう。
前回の撮影のあと、隆司は美咲のことを何度も褒めていた。
もちろん、妹なのだから当たり前なのかもしれない。
でも、自分が撮影した写真を見たとき、隆司はどう思ったのだろう。
似合っていると思ってくれただろうか。
少しでも、きれいだと思ってくれただろうか。
「……杏子先輩?」
「えっ!? な、何?」
「顔、赤いですよ?」
「そ、そんなことないわよ!」
杏子は慌てて顔をそらした。
美咲は不思議そうに首をかしげたあと、何かを思いついたように目を輝かせた。
「もしかして、撮影が楽しみなんですか?」
「そ、それは……まあ、少しはね」
「やったぁ! じゃあ、当日は一緒に頑張りましょうね!」
美咲がぎゅっと杏子の手を握る。
杏子は、その手を握り返した。
「……ええ。楽しみにしてるわ、美咲ちゃん」
そう答えながら、心の中では別のことを考えていた。
撮影が終わったあと、隆司にどんな感想を言ってもらえるだろう。
そんなことを期待している自分に気づき、杏子は小さくため息をついた。
昔から隆司は、何かと自分の近くにいた。
気兼ねなく話せる相手。困ったときに頼れる相手。つい遠慮なく言い返してしまう相手。
それがいつの間にか、彼の何気ない一言で一日中気分が変わってしまうような存在になっていた。
――まったく、困ったものね。
杏子はそっと、隆司の背中に目を向けた。
すると、ちょうど隆司が振り返った。
「おーい、杏子! 美咲と二人で何をこそこそ話してるんだ?」
「な、何でもないわよ!」
「ふーん?」
隆司は不思議そうな顔をした。
その何気ない表情を見ただけで、杏子の胸がまた小さく跳ねる。
彼は、何も気づいていない。
だからこそ、余計に悔しい。
そして、そんな二人の様子を見逃す者たちではなかった。
「……三紀子ちゃん」
「……詩織ちゃん」
二人は、ゆっくりと顔を見合わせた。
「今の会話、聞きました?」
「もちろん……! 美咲ちゃんと杏子ちゃんの、秘密の撮影計画……!」
「しかも杏子ちゃん、隆司くんのことを見ていましたねぇ……!」
「そして隆司くんは無自覚! この鈍感さが、物語をさらに複雑にする……!」
「三紀子ちゃん、これは新刊とは別に、続編の構想を練るべきでは!?」
「そうね……! だが、今はまだ早い。まずは目の前の現実を観察し、さらなる燃料を集めるのよ!」
「了解です、同志!」
「だから、俺らで勝手に物語を作るなぁぁぁっ!」
隆司の叫びが通学路に響いた。
だが、二人の妄想は止まらない。
三紀子はノートを開き、ものすごい勢いで何かを描き始めた。
「タイトルは……『夏の撮影会、揺れる恋心! 副会長の秘密と生徒会長の無自覚な罪』……!」
「長い! タイトルが長い! あと、何の罪だよ!」
「では、『真夏の三角関係、そして四角関係へ……』」
「増やすな! 勝手に人間関係を増やすな!」
「隆司くん、心配しなくても大丈夫ですよ。まだ四角関係で止めてありますから」
「止める場所がおかしいだろうが!」
詩織は、三紀子のノートを覗き込みながら、さらに言葉を付け加えた。
「ここで蓮司くんが現れて、隆司くんに『お前、杏子のことどう思ってるんだ?』って聞くんです」
「おい、蓮司を勝手に恋愛相談役にするな!」
「そして隆司くんは答えるんです。『俺は……俺は……!』」
「答えない! 俺はそんな意味深な顔をしない!」
「その瞬間、背後に夕日が差し込み、二人の影が重なって……!」
「朝だよ! 今は朝!」
「演出上の都合です!」
「都合で時間を変えるな!」
蓮司は、すでに笑いをこらえきれなくなっていた。
「お前ら、朝から飛ばしすぎだろ……!」
「蓮司くん、笑っている場合ではありません! あなたも重要人物なんです!」
「俺まで巻き込むな!」
美咲と杏子は、何が起きているのか分からないまま、顔を見合わせていた。
「……いつもこんな感じなの?」
「うん……たぶん、今日はいつもよりひどいわね」
「何かあったのかな?」
「さあ……。でも、隆司が騒いでるってことは、きっといつものことよ」
杏子はそう言いながら、思わず笑ってしまった。
そして、笑いながらも、隆司の姿を目で追っていた。
学校に到着すると、美咲は下級生の教室へ向かうため、みんなに手を振った。
「じゃあ、お兄ちゃん、またあとでね! 杏子先輩も!」
「おう。終業式、ちゃんと聞けよ!」
「聞くよ!」
美咲は笑顔で駆けていった。
隆司は、その後ろ姿が見えなくなるまで、何となく目で追っていた。
最近、美咲が楽しそうにしている姿を見ると、妙に安心する。
以前から大切な妹であることに変わりはない。
けれど、最近はそれだけでは説明できないような気持ちが、時折胸の奥に浮かぶ。
美咲が嬉しそうに笑っていると、自分まで嬉しくなる。
何かに挑戦しようとしているなら、できる限り力になってやりたい。
困っているなら、真っ先に助けてやりたい。
……兄として当然のことだ。
隆司はそう考え、頭を切り替えた。
「さて、俺も生徒会長の仕事をしなきゃな」
カバンから挨拶の原稿を取り出し、教室へ向かう。
しかし、席に着いて数分後には、いつものようにスケッチブックを広げていた。
「……次の作品、もう少し展開をひねるか」
生徒会長としての仕事はきちんとこなす。
それが隆司の信条だった。
ただし、ホームルームの合間に創作の構想を練るくらいは許されるだろう。
そう考えていると、近くの席から不気味な笑い声が聞こえてきた。
「えへへ……えへへへ……」
「ふふふ……これは、歴史に残る作品になるかもしれませんねぇ……」
「……あいつら、まだやってんのかよ」
隆司は嫌な予感を覚えた。
三紀子と詩織の創作意欲は、日を追うごとに増している。
特に詩織は、生徒会で三紀子と一緒に過ごすようになってから、画力も発想力も目に見えて伸びていた。
問題は、その才能がどこへ向かっているのかということだ。
そして、隆司はその答えを知りたくなかった。
ホームルームが終わり、体育館へ移動する前の休み時間。
いつものメンバーが隆司の席に集まった。
「ねえ、隆司。終業式で読む原稿、ちゃんとできてるの?」
杏子が机の上の用紙を手に取る。
「当然! 俺は学校では優等生だからな!」
「その発言を、自分で言うのね……」
「事実だからな!」
「はいはい」
杏子は原稿に目を通し、ふと気づいた。
「……あれ? これ、私の名前が書いてあるんだけど?」
「ああ、それな。俺の挨拶のあと、お前にも一言話してもらおうと思って」
「えっ!? 聞いてないんだけど!」
「今、伝えた!」
「そういう問題じゃないでしょう!」
杏子は思わず声を上げた。
「ちょっと、隆司! 私、人前で話すのが得意じゃないって知ってるでしょ!」
「知ってるよ。でも、副会長として頑張ってくれてるのはみんな知ってるし、お前からの言葉なら、みんなも喜ぶと思ったんだ」
「……っ」
杏子は言葉に詰まった。
いつもは冗談ばかり言っている隆司が、こういうときだけ真っ直ぐに頼ってくる。
ずるい。
そんな頼み方をされたら、断れるはずがない。
「……もう。分かったわよ」
「おっ、助かる!」
「でも、あとで覚えてなさいよ!」
「何でだよ!」
杏子は原稿を受け取り、丁寧に折りたたんで制服のポケットにしまった。
その様子を見ながら、蓮司がぽつりとつぶやく。
「……杏子って、隆司の頼みには弱いよな」
「なっ!? そ、そんなことないわよ!」
「いや、今のはどう見ても……」
「蓮司!」
「はいはい、悪かった」
杏子は頬を赤くして顔をそらした。
その横で、三紀子と詩織が、音もなくノートを開いた。
「……聞きました?」
「はい。『頼られたら断れない』……これは重要な心理描写ですねぇ」
「しかも、隆司くんはそれを分かっていて頼んでいる可能性が……!」
「三紀子ちゃん、それは危険な解釈です! 無自覚に相手の心を揺さぶるタイプ……!」
「そう! 本人は普通にしているだけなのに、周囲の感情をかき乱してしまう……!」
「タイトルは『無自覚生徒会長の罪深い一言』で決まりですね!」
「決まってねぇよ! あと、俺は何もかき乱してねぇ!」
隆司は二人のノートを取り上げようとしたが、三紀子は素早くノートを抱え込んだ。
「これは創作資料です! 没収は認めません!」
「学校の備品でもないのに、何の権利で言ってんだよ!」
「表現の自由です!」
「便利な言葉みたいに使うな!」
そんな騒ぎの中、杏子だけは、隆司が自分を頼ってくれたことを、少しだけ嬉しく思っていた。
体育館では、校長先生の長い挨拶と夏休み中の注意事項が終わり、いよいよ生徒会長と副会長の挨拶となった。
隆司は壇上へ上がると、全校生徒を見渡した。
普段は冗談ばかり言っている隆司だが、こういう場面では別人のように落ち着いている。
「皆さん、おはようございます。生徒会長の秋月隆司です」
夏休み中の安全や生活について、分かりやすく話していく。
最後には、二学期にまた元気な姿で会おうという言葉で締めくくった。
そして、杏子の番になった。
壇上に立った杏子は、緊張で少しだけ指先を握りしめた。
全校生徒の視線が集まっている。
そのとき、隆司が小さな声で言った。
「大丈夫。いつもどおりでいいからな」
杏子は一瞬だけ彼を見た。
何でもない一言。
けれど、それだけで不思議と落ち着いた。
「……ありがとう」
杏子はマイクに向き直り、挨拶を始めた。
最初は少し硬かった声も、次第に自然なものになっていく。
そして、最後までしっかりと読み上げることができた。
拍手が起こる。
杏子が一礼すると、隆司が小さく親指を立てた。
杏子は照れくさそうに笑い返した。
その瞬間、彼女の胸に、温かな気持ちが広がった。
自分を安心させてくれる人。
困ったときに、さりげなく手を差し伸べてくれる人。
ずっと近くにいたから、気づくのが遅れたのかもしれない。
――私は、隆司のことが好きなんだ。
改めてそう思うと、胸が苦しくなった。
けれど、嫌な苦しさではなかった。
今すぐ何かを変えたいわけではない。
ただ、これからも隣にいられたらいい。
そんな願いが、以前より少しだけ強くなっていた。
そして、その様子を見ていた三紀子と詩織は、互いに顔を見合わせていた。
「……詩織ちゃん」
「はい、三紀子ちゃん」
「今の笑顔……見ましたか?」
「ええ……! あれはもう、物語のクライマックスに匹敵する表情……!」
「でも、まだ終わりではないわ……! このあと、夏休みという長い時間が待っている……!」
「つまり、物語はこれからが本番ですね!」
「そう! 夏という名の舞台で、運命の歯車が回り始めるのよ!」
「お前ら、いい加減にしろぉぉぉっ!」
隆司の声が体育館に響いた。
周囲の生徒たちが一斉に振り向く。
「……生徒会長?」
「……何かあったの?」
「……いや、何でもありません!」
隆司は慌てて頭を下げた。
終業式は、最後まで平穏とは程遠かった。
通知表を受け取ったあと、隆司たちは生徒会室に集まっていた。
「はぁ~……緊張したぁ」
杏子は椅子に座るなり、深く息を吐いた。
「お疲れさま、杏子先輩! すごくよかったですよ!」
美咲が笑顔で声をかける。
「ありがとう、美咲ちゃん。隆司が急に言い出すから、びっくりしちゃったわ」
「でも、ちゃんとできたじゃん」
「……隆司は、もう少し事前に相談することを覚えたほうがいいと思うわ」
「はいはい、今後の参考にします!」
「本当に分かってるのかしら……」
杏子は苦笑した。
それから、カバンから小さな包みを取り出した。
「今日はマドレーヌとフィナンシェを作ってきたの。みんなで食べてね」
「おおっ! 待ってました!」
隆司が真っ先に手を伸ばす。
美咲が紅茶とコーヒーを用意し、杏子はお菓子を皿に並べた。
一口食べた隆司は、目を輝かせた。
「うまっ! 相変わらず杏子のお菓子は最高だな。これ、店で出しても十分通用するぞ!」
「そ、そんなに褒めなくてもいいわよ……」
「いや、本気で言ってるって。将来、お花屋さんを開いたら、隣でカフェもやればいいんじゃね?」
「えっ……」
杏子は思わず顔を上げた。
「花を買いに来た人が、ついでにお茶を飲んでいけるような店。お前の作ったお菓子があれば、きっと人気が出ると思うぞ」
隆司は何気なく続けた。
「俺だったら、毎日通っちゃうかもしれないな」
「……っ!」
杏子の頬が、一気に赤くなった。
「ま、毎日って……!」
「おう! 常連第一号は俺だな!」
「……もう、隆司ったら……」
杏子は顔をそらした。
嬉しい。
たった一言で、こんなにも嬉しくなってしまう。
自分が夢見ている未来を、隆司が当たり前のように想像してくれたこと。
そこに自分の居場所があるように感じられたこと。
それが、何よりも嬉しかった。
いつか花屋を開いたとき、隆司は本当に来てくれるだろうか。
できれば、毎日。
……そんなことを考えてしまう自分が、少し恥ずかしかった。
「杏子先輩、顔が真っ赤ですよ?」
美咲が不思議そうに言った。
「な、何でもないの!」
杏子は慌てて紅茶を口に運んだ。
その様子を見た三紀子と詩織は、同時にノートを開いた。
「……『花屋の隣のカフェ』……」
「『毎日通う常連客』……」
「これはもう、未来編の構想が……!」
「だから勝手に未来を作るなぁぁぁっ!」
隆司は頭を抱えた。
しかし、三紀子のペンは止まらない。
「タイトルは『花束と焼き菓子、そして君への想い』……!」
「急に少女漫画みたいになったな!?」
「恋愛とは、ジャンルを超越するものです!」
「お前の創作論はどうでもいいんだよ!」
生徒会室は、いつもの騒がしさに包まれた。
「……ところで、三紀子。原稿は持ってきたよな?」
隆司が本題に戻ると、三紀子はぴたりと動きを止めた。
「……あっ」
「おい。まさか……」
「も、持ってきてる! ちゃんと持ってきてるから!」
三紀子は慌ててカバンを探り、原稿の束を取り出した。
「まったく……。昨日、確認するってメッセージ送っただろ」
「ごめんなさい! さっきまで構想が止まらなくて……!」
「構想より先に原稿を完成させろ!」
隆司は原稿を受け取り、ページを一枚ずつ確認していった。
誤字やページ順、絵の仕上がり、印刷時に問題が出そうな部分。
チェックを進めるうち、隆司の表情が少しずつ真剣になっていった。
三紀子の作品は、決して完璧ではない。
細かな修正が必要な部分もあるし、ページごとの仕上がりに差もある。
けれど、キャラクターの表情や構図には、思わず目を引かれるものがあった。
「……三紀子、ここの表情、いいな。まぁ、BL自体は詳しくはないがな」
「えっ?」
「このページ。セリフが少ないのに、二人が何を考えてるのか伝わってくる。こういうところ、お前の絵の強みだと思うぞ」
三紀子は、目を丸くした。
「……本当に?」
「ああ。ここは無理に直さないほうがいい。逆に、こっちは少し余白を調整しよう。印刷したときに見やすくなると思う」
隆司は具体的な修正箇所を示していった。
ふざけているときとは違う、真剣な声。
三紀子はそれを聞きながら、少しずつ表情を引き締めていった。
「……分かった。そこは直す。あと、こっちのページも確認してほしいの」
「おう。見せてみろ」
詩織も隣から原稿を覗き込む。
「三紀子ちゃん、このコマ、表情がすごくいいね。ポスターにも、この雰囲気を少し入れたんだよ」
「詩織ちゃん……!」
「だって、三紀子ちゃんの絵って、見ていると続きが気になるんだもん」
三紀子はしばらく黙ったあと、照れくさそうに笑った。
「……ありがとう。私、絶対にこの本を完成させるわ」
「おう。せっかくの初参加だからな。できる限り、いい形にしようぜ」
隆司は、原稿を丁寧にまとめた。
今回の夏コミは、自分だけの作品を売るイベントではない。
三紀子にとっては、初めて自分の作品を読者に届ける場所だ。
詩織にとっても、初めて売り子として参加する大きな挑戦になる。
だからこそ、できることは手伝いたかった。
「よし。原稿の修正が終わったら、俺の分と合わせて入稿データを作る。締め切りには間に合わせるから、安心しろ」
「隆司くん……ありがとう!」
三紀子は、感極まったように頭を下げた。
「ふふふ……あなたこそ、我が創作活動における運命の協力者……!」
「だから、そういう大げさな言い方をするなって!」
「では、『頼れる同人誌制作担当』!」
「初めてまともなこと言ったな!そして、そっちのほうがまだマシだな!」
「……あれ? 隆司くん、今ちょっと嬉しそうじゃなかった?」
「気のせいだ!」
詩織が笑いながら、今度は別の紙束を取り出した。
「そうそう! 隆司くん、こっちも見て!」
「ん? まだ何かあるのか?」
「じゃーん!」
広げられたのは、隆司の新刊用の宣伝ポスターだった。
大きく配置されたタイトルとキャッチコピー。目を引くイラスト。作品の魅力を短い文章で伝える紹介文。
過激な内容を直接見せるのではなく、キャラクターの表情や構図で興味を引くように工夫されている。
「……おおっ! これ、俺の新刊のポスターか!?」
「そうだよ! 三紀子ちゃんの分と一緒に作ったの!」
「マジか……! いつの間にこんなものを……!」
「前にサンプルを見せてもらったとき、宣伝用に使えるかなって思って。それで、表紙の雰囲気を参考に描いてみたの」
詩織は少し照れくさそうに笑った。
「文字の配置も、遠くから見たときにタイトルが読めるように考えたんだよ。あと、キャッチコピーも何パターンか作ってみたの!」
「お前……すごいな」
隆司はポスターをじっくりと眺めた。
絵の上手さだけではない。
どこに目を向けさせるか、どんな言葉なら興味を持ってもらえるか。詩織は、見る側のことまで考えて作っていた。
「絵もいいし、宣伝の仕方もよく考えられてる。初めての売り子とは思えないな」
「ほ、本当?」
「ああ。これは助かる。詩織、お前、意外と宣伝の才能もあるんじゃないか?」
「意外とって何!?」
「いや、普段の言動を考えると、もっと妄想一辺倒かと……」
「ひどいよ、隆司くん!」
「冗談だって!」
詩織は頬を膨らませたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、よかったぁ。私、三紀子ちゃんの初参加を少しでも盛り上げたかったんだ。せっかく本を作るんだもん。たくさんの人に見てもらいたいでしょ?」
三紀子は、詩織の言葉を聞いて目を輝かせた。
「詩織ちゃん……! あなたは最高の相棒よ……!」
「三紀子ちゃん……!」
二人は固く手を握り合った。
「我ら、夏コミの地に降り立つ創作の戦士……!」
「新刊を手にする読者たちに、物語の衝撃を届けるのです……!」
「いや、普通に本を売るだけだからな!?」
隆司はツッコミを入れながらも、笑っていた。
詩織のポスターがあれば、会場でも目を引くはずだ。
「よし、ポスターも印刷会社で仕上げてもらおう。手作りのままでも味はあるけど、今回はちゃんとしたサイズで印刷したい」
「えっ!? 私のポスターも印刷してくれるの?」
「ああ。せっかく作ってくれたんだからな。三紀子の分も、お前の分も、きちんと形にしよう」
「……ありがとう、隆司くん!」
詩織の顔がぱっと明るくなった。
「よし! これで新刊とポスターの準備は大きく前進だな!」
隆司が宣言すると、三紀子と詩織はそろって拳を握った。
「夏コミ、絶対に成功させるわよ!」
「もちろん! 売り子として、全力で頑張るからね!」
「おう! 期待してるぞ!」
……しかし。
「ところで、売り子の詩織ちゃんが隆司くんの本を紹介する場面ですが……」
「三紀子ちゃん、そこで蓮司くんが現れて、二人の関係を誤解するんですね!」
「誤解するな! 何の関係もないだろうが!」
「そして始まる、会場を揺るがす禁断の三角関係……!」
「会場を揺るがすな! 普通に本を売らせてくれ!」
夏コミ当日が、本当に心配になってきた隆司だった。
話が盛り上がるうちに、窓の外は夕暮れに染まっていた。
「……あれ? もうこんな時間?」
美咲が時計を見て声を上げた。
剣道の本を読んでいた蓮司も、顔を上げる。
「おい、もう夕方だぞ。そろそろ帰らないか?」
「げっ! もうそんな時間かよ!」
隆司は慌てて立ち上がった。
「やべぇ! 今日中に入稿の準備を進めないと!」
「最初から分かっていたことでしょう……」
杏子が呆れたように笑う。
「うるせぇ! 話が盛り上がったんだから仕方ないだろ!」
「盛り上げていたのは、主に三紀子ちゃんと詩織ちゃんだけどね」
「……それは言わない約束だ!」
みんなで食器を片づけ、荷物をまとめる。
生徒会室を出たあとも、途中まではいつもどおり一緒に帰った。
いつもの分かれ道で手を振り合い、それぞれの帰路につく。
隆司は美咲と並んで歩いていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「八月四日の撮影、絶対に一緒に来てくれるよね?」
美咲は、期待に満ちた目で隆司を見上げた。
「お、おう。夏コミの予定と重ならなければな。編集長から詳しい連絡が来たら、ちゃんと確認するよ」
「やったぁ!」
美咲は嬉しそうに笑った。
「前回も楽しかったけど、今度は杏子先輩も一緒だから、もっと楽しみなの!」
「そうだな。二人とも、いい写真が撮れるといいな」
「うん! でもね……」
美咲は少しだけ声を落とした。
「お兄ちゃんにも、見てほしいんだ」
「……え?」
「私が頑張ってるところ。ちゃんと見ていてほしいなって」
隆司は、思わず妹の顔を見た。
美咲は恥ずかしそうに笑っている。
その笑顔を見て、隆司の胸の奥がじんわりと温かくなった。
美咲が頑張っている姿を見たい。
その成長を、誰よりも近くで見守っていたい。
それは兄として当然の気持ちだ。
……そう思っている。
けれど、最近は、美咲が自分を頼ってくれることが、以前にも増して嬉しく感じられた。
美咲が笑うと安心する。
自分を見て嬉しそうにしてくれると、もっと頑張ろうと思える。
その感情をどう説明すればいいのか、隆司にはまだ分からなかった。
「……もちろんだよ」
隆司は、いつもより少しだけ優しい声で答えた。
「お前が頑張ってるところ、ちゃんと見てるからな」
「……えへへ。ありがとう、お兄ちゃん!」
美咲は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、隆司は思った。
――この笑顔を、ずっと守ってやりたい。
その気持ちが何を意味するのか、今の隆司にはまだ分からない。
ただ、八月四日の撮影が、今から楽しみになっていた。
帰宅した隆司は、夕食を済ませると、すぐに自分の部屋へこもった。
パソコンを起動し、三紀子から預かった原稿を取り込んでいく。
ページの順番を確認し、修正箇所を反映させ、印刷用のデータを作成する。
さらに、詩織のポスターも印刷用に仕上げなければならない。
「……よし。まずは原稿の確認からだな」
作業を始めた隆司は、画面を見つめながら集中していた。
今回は自分の作品だけではない。
三紀子にとっては初めてのサークル参加。詩織にとっても初めての売り子だ。
自分が手を抜けば、その分だけ二人の努力を無駄にしてしまうかもしれない。
だからこそ、妥協はしたくなかった。
「……あいつら、普段はあんなに騒がしいのに、作品には本気なんだよな」
隆司は小さく笑った。
三紀子の絵には、見る人を引きつける力がある。
詩織には、その魅力を伝えるための工夫ができる。
二人が力を合わせれば、きっといい結果につながるはずだ。
「……よし。絶対に成功させてやる」
そう決意し、作業を続けた。
しかし、しばらくして、ふと思いついた。
「……そうだ。詩織のポスター、本人と最終確認したほうがいいな」
文字の大きさや配置、キャッチコピーの細かな調整。描いた本人に確認したほうが、よりよい仕上がりになる。
隆司はスマホを手に取り、詩織に電話をかけた。
『もしもし? 隆司くんから電話なんて珍しいねぇ~!』
「おう、詩織。今、ちょっといいか?」
『もちろん! さては私に愛焦がれて、声が聞きたくなっちゃったんですかぁ~?』
「違うわぃ! どんな思考回路してんだ、お前は!」
『えへへ、冗談だよ~』
「……ったく。まあ、それは置いといて。今日のポスターなんだけど、印刷用に仕上げたいから、元の絵をもう一度確認したいんだ」
『えっ!? 私のポスター、印刷してくれるの?』
「ああ。せっかく作ってくれたんだから、ちゃんとしたものにしたいだろ」
『うわぁ、嬉しい! でも、私の絵で本当に大丈夫かな?』
「大丈夫だって。さっきも言っただろ。お前の画力なら問題ない」
電話の向こうで、詩織が小さく息をのんだ。
『……そっか。ありがとう、隆司くん』
その声は、いつものふざけた調子とは違っていた。
自分の描いた絵を、真剣に評価してもらえた。
そのことが、詩織には嬉しかったのだ。
だが、次の瞬間。
『じゃあ、お礼に……お支払いは体でお願いします、って言ったらどうする?』
「言わねぇよ! 何の話だ!」
『あははは! 冗談、冗談!』
「……お前、本当に一回黙れ!」
結局、詩織がポスターの原本を隆司の家まで持ってくることになった。
夜九時を少し回った頃、玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは、隆司くん!」
「おう、悪いな。わざわざ来てもらって」
「ううん! 私も完成したポスターを見てみたいし!」
隆司は詩織を部屋に案内し、さっそくデータの確認を始めた。
「ここの文字、もう少し大きくしたほうがいいな。会場では、少し離れたところから見る人もいるだろうし」
「なるほど……! 確かに!」
「それと、ここのキャッチコピーはいいと思う。短いけど、作品の雰囲気が伝わる。やたら文字が多いとほとんど読まないやつもいるからな」
「えへへ……よかったぁ」
詩織は、隆司が真剣に自分の絵を見てくれていることが嬉しかった。
「……よし。これならいける。あとは俺のほうで仕上げておくよ」
「ありがとう、隆司くん! 当日は、私も売り子として頑張るね!」
「おう。期待してるぞ」
詩織は満面の笑みを浮かべた。
そのあと、二人は少し雑談をした。
……その話題が、三紀子の妄想イラストへ移るまで、そう時間はかからなかった。
「そういえばさ、今日の三紀子ちゃんの絵なんだけど……」
「……おい。まさか、また俺と蓮司の話か?」
「ふふふ……隆司くん、分かってるじゃない!」
「分かりたくなかったわ!」
「でもね、あの絵、実は続きがあるんだよ!」
「続き!?」
「そう! あのあと、杏子ちゃんが二人を引き離そうとするんだけど……!」
「待て待て待て! 勝手に続編を作るな!」
詩織は楽しそうに笑い続けていた。
隆司は時計を確認し、慌てて話を切り上げた。
「……とにかく、今日はありがとな。もう遅いし、気をつけて帰れよ」
「はーい! じゃあ、また明日ね!」
詩織は最後まで楽しそうに手を振り、帰っていった。
玄関のドアが閉まると、隆司は深いため息をついた。
「……ほんと、あいつらは元気だな」
そうつぶやきながら、部屋に戻る。
ここからが本当の勝負だった。
時計の針が進んでいく。
原稿の最終確認。
ページの修正。
印刷用データの作成。
ポスターの仕上げ。
入稿に必要な情報の整理。
隆司は一つずつ作業を片づけていった。
細かなミスがないか、何度も確認する。
印刷したときに文字が切れないか。画像の解像度は十分か。ページの順番は間違っていないか。
普段なら自分のペースで進められる作業も、今回はいつも以上に気を遣う。
「……よし。原稿はこれで大丈夫。ポスターも問題なし……!」
最後のデータを保存し、隆司はようやく椅子の背もたれに体を預けた。
時計を見ると、午前三時を回っていた。
「げっ……! もう三時かよ!」
思わず声が出る。
ゲームを起動したい気持ちもあったが、さすがに今から始めるのは危険だ。
「……いや、ここでゲームを始めたら、絶対に朝までやるやつだな」
隆司は自分の性格をよく理解していた。
パソコンを終了し、軽くシャワーを浴びて、寝る支度を整える。
布団に潜り込むと、ようやく一息つくことができた。
「……ふぅ。何とか間に合いそうだな」
明日、最終確認をして印刷会社へ入稿すればいい。
三紀子の初参加が成功しますように。
詩織の売り子デビューが、楽しいものになりますように。
そして、自分の新刊も無事に読者のもとへ届きますように。
そんなことを考えながら、隆司は目を閉じた。
――そのとき。
昼間の光景が、脳裏によみがえった。
バラの花が舞い散る背景。
手を取り合う自分と蓮司。
その二人を引き離そうとする杏子。
『禁断の絆……!』
『交差する運命……!』
「……っ!」
隆司は、がばっと布団から起き上がった。
「なんで寝る直前に思い出すんだよぉぉぉっ!」
もちろん、返事をする者はいない。
静まり返った部屋に、隆司の叫びだけが響いた。
「……明日、あいつらのノートを全部没収してやる……!」
そんな物騒な決意を胸に、隆司は再び布団に潜り込んだ。
だが、一度頭に浮かんでしまった妄想イラストは、なかなか消えてくれない。
そのうち、隆司の頭には、昼間の美咲の笑顔まで浮かんできた。
『お兄ちゃんにも、見てほしいんだ』
「……美咲……」
小さくつぶやき、隆司は目を閉じた。
今度の撮影は八月四日。
編集長からの詳しい連絡も、これから届くはずだ。
美咲がどんな表情を見せてくれるのか。
杏子がどんな姿で撮影に臨むのか。
そして、夏コミではどんな出来事が待っているのか。
考えることは山ほどある。
けれど、今はとにかく眠らなければならない。
「……夏休み、いよいよ始まるんだな」
隆司は小さく笑った。
この夏が、いつもとは違うものになる予感がしていた。
夏コミ、読者モデルの再撮影、そして、それぞれの胸に秘められた想い。
美咲の笑顔を守りたいという気持ち。
隆司の何気ない一言に、少しずつ揺さぶられていく杏子の心。
そして、二人の関係を勝手に物語へと変換し続ける三紀子と詩織。
夏休みは、まだ始まったばかり。
――隆司に平穏な日々が訪れる可能性は、どうやら今年も限りなく低そうだった。




