第3話 ヲタク仲間~深夜販売にて・・・~
――妹に、好きなのかと聞かれた。
その質問が、頭から離れない。
昨日の放課後。生徒会室で三紀子に問い詰められた直後、美咲は俺の目を見て言った。
『お兄ちゃん。私のこと、好きなの?』
あのとき、俺は何も答えられなかった。
兄として妹を大切に思う。それは間違いない。
だが、あの質問に対して、すぐに答えられなかった理由は何だ?
……いや、考えるのはやめよう。
今は、それよりも重大な問題がある。
ジリリリリリリリッ!
「んん……うるせぇな……」
枕元の目覚まし時計を叩き、時刻を確認する。
午前六時半。
「……よし。間に合った」
俺は布団を跳ねのけ、ベッドの下に手を伸ばした。
そこにあるはずの、薄い段ボール箱。
中身は、俺の趣味に関する本や同人誌のコレクションだ。普段ならシーツ交換の日まで、ベッドの下という鉄壁の隠し場所に保管している。
しかし、今日は違う。
妹が部屋を掃除する前に、すべて移動させる必要があるのだ。
「ふっふっふ……。これで今日こそ、完全勝利だ!」
俺は段ボール箱を引きずり出した。
ガチャ。
「お兄ちゃん、起きてる?」
「うおおおおおっ!?」
ドアが開いた。
美咲が顔を出す。
俺は反射的に段ボール箱の上へ座り込んだ。
「……何してるの?」
「筋トレだ!」
「ベッドの下で?」
「最先端のトレーニングだ。知らないのか?」
「へえ。じゃあ、その箱は?」
「……筋トレ器具だ」
美咲は無言で俺を見つめた。
その目が、少しずつ細くなっていく。
「お兄ちゃん」
「な、何だ?」
「昨日の質問、まだ答えてもらってないんだけど」
「……質問?」
「私のこと、好きなのかって聞いたでしょ?」
ぐはっ!
朝一番に、その話題を持ち出すのか!?
「そ、それはだな……」
「うん」
「兄として、妹を大切に思うのは当然で――」
「そういう答えじゃなくて」
美咲が一歩近づいた。
「お兄ちゃん、昨日、すごく困った顔をしてたよね」
「そりゃ、突然あんなことを聞かれたら誰だって困るだろ!」
「ふーん。じゃあ、突然じゃなかったら困らないの?」
「言葉のあやだ!」
美咲はくすくす笑った。
「分かった。今は答えなくてもいいよ」
「……本当か?」
「うん。その代わり、いつかちゃんと答えてね?」
そう言って、美咲は俺の額を指先で軽くつついた。
「じゃあ、シーツを替えるから、その箱をどけてね」
「……え?」
「その箱、どけて?」
「いや、これは、その……」
「お兄ちゃん?」
笑顔なのに、なぜか逃げ道がない。
俺は箱を抱えて立ち上がった。
「……はい」
結局、朝から妹に完敗した。
しかも、まだ答えは出ていない。
秋月隆司、高校二年生。
学校では成績トップ、生徒会長。
しかし、妹の前ではどうやら、ただのポンコツだった。
朝食を終え、俺は美咲と家を出た。
今日はどうしても、いつもより気になることがある。
今夜、待ちに待ったゲームの深夜販売があるのだ。
そのためにも、学校の仕事は手早く片づけなければならない。
もちろん、昨日から行方不明の創作ノートのことも忘れてはいない。
むしろ、そちらのほうが気がかりだった。
ノートを持ち去った人物は、俺の趣味を知っている。さらに、俺と美咲の関係にまで興味を持っているらしい。
ただの悪ふざけなら、ここまで手の込んだことはしないだろう。
「お兄ちゃん、何か考え事?」
「いや、今日の夕飯は何かなって」
「朝ご飯を食べたばかりなのに?」
「人間、次の食事を考えることで生きる活力を得るんだ」
「ふーん。じゃあ、今日の夕飯はお兄ちゃんの嫌いなピーマンにしようかな」
「待て。話し合おう」
「冗談だよ」
美咲は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、昨日の質問を思い出してしまう。
……やめろ。考えるな。
俺が頭を抱えていると、通学路の先に見慣れた人影があった。
「おはよう、二人とも」
一条杏子だ。
だが、いつもと雰囲気が違う。
「……ん?」
俺は足を止めた。
「杏子、お前……髪、切ったのか?」
「ええ。前からやってみたかったの。前下がりのボブ。どうかしら?」
杏子は少し照れながら、髪の先を指で整えた。
長かった髪が短くなったことで、いつもより顔立ちがはっきり見える。本人のきりっとした雰囲気にも、よく似合っていた。
「おお、いいじゃないか。似合ってるぞ」
「ほ、本当?」
「嘘をついてどうする。……ただ、髪色まで赤くしたら、別の作品のヒロインになりそうだけどな」
「褒めてるのか、それは!?」
「もちろん」
「絶対に違うでしょう!」
鞄が飛んできた。
「危ねえ!」
「もう、お兄ちゃん。せっかく杏子先輩が勇気を出して髪型を変えたんだから、素直に褒めてあげなよ」
美咲が呆れた顔で言った。
「いや、ちゃんと褒めただろ?」
「余計な一言が多いのよ!」
杏子が顔を赤くして抗議する。
その後ろから、もう一人の少女が顔を出した。
「おはようございます、皆さん」
一ノ瀬三紀子だ。
眼鏡の奥の目はいつもどおり落ち着いている。手には文庫本と、なぜか妙に分厚いノートを持っていた。
「お、三紀子。杏子と一緒だったのか」
「はい。昨日、待ち合わせ場所を決めたんです。杏子ちゃんが、登校時間を合わせようって誘ってくれました」
「別に、そんな大したことじゃないわよ」
杏子は少し照れた様子で答えた。
生徒会に加入したばかりの三紀子は、どうやら杏子ともすっかり打ち解けたらしい。
それ自体は喜ばしいことだ。
ただし、三紀子には一つ、俺がまだ杏子に詳しく説明していない秘密がある。
そう、彼女は――。
「隆司君」
三紀子が俺の袖を引いた。
「昨日、頼まれていたもの、持ってきてくれましたか?」
「ああ。これだ」
俺は鞄の中から薄い封筒を取り出し、三紀子に渡した。
中身は、彼女が好きそうなアニメの同人誌だ。
三紀子は一瞬だけ目を輝かせた。
「……ありがとうございます」
「おい、顔に出てるぞ」
「出ていません」
「いや、今、口元が緩んだ」
「気のせいです」
三紀子は封筒を素早く鞄へしまった。
その動作は、普段の彼女からは想像できないほど俊敏だった。
「ねえ、三紀子ちゃん。今の何?」
杏子が尋ねる。
「参考資料です」
「参考資料?」
「ええ。人間関係を研究するための」
「……何の人間関係?」
三紀子は数秒だけ考えた。
「男性同士の友情についてです」
「そう。友情ね……」
杏子は納得したような、していないような顔をした。
俺は内心で胸をなで下ろした。
危なかった。
こいつの趣味が露見したら、説明が面倒なことになる。
そのとき、校門の前に教育指導の先生が立っているのが見えた。
腕組みをして、通る生徒の鞄を一つずつ確認している。
「……あれ、持ち物検査か?」
「抜き打ちね。最近、校則違反が増えているらしいわ」
杏子が答えた。
三紀子が、俺の袖をもう一度引く。
「隆司君……」
「分かってる。任せろ」
俺は小声で答えた。
問題は、三紀子が持っている封筒だけではない。
俺の鞄にも、同人誌の原稿やら趣味の資料やらが入っている。
さらに、三紀子はどうやら今日、ほかにも何か持ち込んでいるらしい。
……何を考えているんだ、あいつは。
「おはよう。今日は持ち物検査を行う。鞄を開けなさい」
先生の声が響く。
俺たちは順番に前へ進んだ。
俺は生徒会長らしい、爽やかな笑顔を作る。
「先生、おはようございます。実は、今朝は生徒会で急ぎの打ち合わせがありまして」
「生徒会?」
「はい。新しい書記も加わりましたので、書類の確認をする必要があるんです」
先生の視線が三紀子へ向いた。
「その生徒は?」
「一ノ瀬三紀子さんです。昨日から生徒会の書記として活動してもらっています」
「……そうか。だが、役職があっても検査は必要だ」
「もちろんです。規則は守るべきですからね」
俺は笑顔のまま答えた。
そのうえで、先生が持っていた書類に目を向ける。
「ところで先生、昨日提出された風紀委員会の報告書ですが、集計に一か所だけ不一致がありました。あとで確認していただけますか?」
「何? 不一致?」
「はい。確認用の資料は生徒会室にあります」
先生の表情が変わった。
仕事熱心な教育指導の先生にとって、書類の不備は見逃せない問題だ。
「……分かった。だが、検査は省略しないぞ」
「ええ、もちろんです」
俺は鞄を開けた。
中には教科書、筆箱、そして生徒会の資料。
問題はない。
先生が中を確認している間に、杏子が三紀子の前へ立った。
「先生、一ノ瀬さんは昨日から書記として仕事をしています。必要な書類も持っていますし、私も確認しています」
「そうか。では、書類を確認させてもらおう」
三紀子が差し出したのは、きちんと整理された生徒会の資料だった。
先生は一通り目を通し、うなずいた。
「よし、問題ない。朝のホームルームに遅れないように」
「ありがとうございます」
俺たちは頭を下げ、校門を通り抜けた。
そして、先生の視界から外れた瞬間――。
「ふう……助かったぁ」
三紀子が、珍しく大きく息を吐いた。
「言っただろ。俺に任せろって」
「ありがとう、隆司君。……でも」
「でも?」
三紀子は鞄を押さえた。
「実は、もう一冊あるんです」
「……何が?」
「本です」
「いや、分かるわ! だから何の本だよ!」
「秘密です」
「今さら秘密にするな!」
三紀子は、ほんの少しだけ笑った。
「だって、読まれたら困りますから」
俺は嫌な予感を覚えた。
この女、いつか絶対に大事件を起こす。
そして、その事件の後始末をするのは、たぶん俺だ。
午前中の授業は、いつもどおりだった。
杏子は真面目に授業を受け、蓮司は窓の外を眺め、俺はノートの隅に同人誌の下絵を描いていた。
もちろん、教師に見つからない範囲でだ。
……いや、見つかったらまずいんだけどな。
休み時間、俺は三紀子の後ろからそっと近づいた。
「三紀子」
「……はい?」
三紀子は本を読んでいた。
ページをめくる手が止まっている。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「えへ……えへへ……えへへ」
「お前、気持ちわりぃな……また変な笑い方してるぞ」
「ひゃっ!?」
三紀子は飛び上がり、慌てて本を閉じた。
「り、隆司君! いつからそこに!?」
「今来たところだ。で、何を読んでたんだ?」
「一般教養です」
「その一般教養、表紙がピンク色なんだが?」
「……現代社会における人間関係の多様性について学んでいました」
「急に論文みたいな言い方をするなっ!」
そこへ、杏子がやってきた。
「二人とも、何を騒いでいるの?」
「何でもないよ、杏子ちゃん」
三紀子は素早く本を鞄にしまった。
「本当に?」
「はい。隆司君が、私の読書を邪魔しただけです」
「おい、俺を悪者にするな」
杏子は呆れた顔で俺を見る。
「隆司、三紀子をからかうのもほどほどにしなさいよ」
「俺は事実を確認しただけだ!」
「その確認が余計なの!」
三紀子は二人のやり取りをじっと見つめていた。
そして、手帳に何かを書き込む。
「……なるほど」
「おい、お前はいったい何を書いてる?」
「隆司君と杏子ちゃんの関係性について」
「消せ!」
「嫌です。貴重な観察記録ですから」
「何の役に立つんだよ!」
三紀子は真顔で答えた。
「創作の参考になります」
「正直すぎるだろ!」
杏子が頭を抱えた。
「……この生徒会、本当に大丈夫なの?」
残念ながら、俺にも分からない。
昼休み。
俺は教室を出る前に、鞄の中を確認した。
今夜の深夜販売に必要なものは、すべて揃っている。
財布、予約券、スマホ。
それから、帰宅後に続きを描くための下絵。
問題は、睡眠時間だ。
深夜販売は午前一時から。購入して帰宅し、インストールまで済ませたら、朝まで起きていることになるだろう。
……考えるだけで最高だ。
「隆司君、何をにやけているんですか?」
三紀子が、いつの間にか横に立っていた。
「別に……って、お前……気配を消して忍び寄るなっ!」
「今日の夜、何かあるんですね」
「なぜ分かる?」
「朝から時計を何度も確認しているので」
「……観察しすぎだろ、お前」
「人間観察は得意なんです」
三紀子は少しだけ胸を張った。
「それに、今朝から隆司君は妙にそわそわしています。普段の授業中より、放課後を気にしている様子です」
「それで?」
「何かの発売日でしょうか」
俺は黙った。
三紀子は、じっと俺の顔を見た。
「……ゲームですか?」
「……」
「限定版?」
「……」
「深夜販売?」
俺は思わず目を見開いた。
「な、なぜ分かった!?」
「やっぱり」
三紀子は満足そうにうなずいた。
「今夜、私も行きますから」
「……は?」
「深夜販売です。私が待っているタイトルも、今夜発売なので」
「お前もかよっ!」
「はい」
三紀子は淡々と答えた。
「ちなみに、ジャンルは秘密です」
「どうせBLだろ!」
「……なぜ分かったんですか?」
「前から分かっとるわ!お前の趣味を何だと思ってる!」
三紀子は少し考えたあと、真顔で言った。
「では、現地で会っても、知らないふりをしてください」
「何でだよ!」
「学校では、優等生の一ノ瀬三紀子でいたいので」
「お前、さっき自分から深夜販売に行くって言っただろ!言ってることと行動が違うだろうが!」
俺たちの会話を、教室の入り口から杏子が聞いていた。
「……深夜販売?」
しまった。
俺と三紀子は同時に振り返った。
「なっ、何でもない!」
「何でもありません!」
声が重なった。
杏子は腕を組んだ。
「二人とも、私に何か隠しているわね?」
三紀子は一瞬だけ考え、静かに口を開いた。
「隆司君が、夜更かしをする予定だそうです」
「おい、裏切るのが早い!」
「事実ですから」
杏子の眉がつり上がった。
「隆司。あなた、明日も学校があるのよ?」
「分かってるって」
「なら、ちゃんと寝なさい!」
「善処します」
「その返事は信用できない!」
杏子は深いため息をついた。
俺は心の中で誓った。
今夜は絶対に、誰にも邪魔されずにゲームを手に入れる。
……ただし、創作ノートの謎が解決するまでは、油断できない。
昼食の時間、生徒会室にはいつもの顔ぶれが揃っていた。
美咲は書記の仕事を片づけ、杏子は手作りの弁当を広げている。
三紀子は学食のパンを買おうとしていたが、杏子に誘われて一緒に昼食を取ることになった。
「三紀子ちゃん、これ食べる?」
杏子が差し出したのは、卵焼きだった。
「えっ、いいの?」
「もちろん。今日は少し多めに作ったの」
「ありがとう、杏子ちゃん。……ん、おいしい!」
三紀子の顔がぱっと明るくなった。
普段は冷静な彼女だが、おいしいものを食べているときは分かりやすい。
「よかった。料理は好きなのよ」
「すごいなぁ。私は料理が苦手だから、いつもパンばかりなんだ」
「今度、一緒に作ってみる?」
「いいの!?」
「ええ」
三紀子は嬉しそうにうなずいた。
その様子を見て、美咲も笑った。
「三紀子先輩、杏子先輩とすっかり仲良しですね」
「うん。杏子ちゃんは優しいし、話していて楽しいよ」
「それはよかったです」
美咲は少しだけ、俺のほうを見た。
「お兄ちゃんも、見習ったら?」
「……何をだよ」
「人に優しくするところ」
「俺はいつだって優しいだろ」
「昨日、私のプリンを食べたよね?」
「……」
「先週は私のアイスも食べたよね?」
「……あれは、冷凍庫の管理状況を確認しただけだ」
「じゃあ、今日の夕飯のデザートはお兄ちゃん抜きね」
「待て! 話し合おう!」
杏子が呆れ、三紀子は手帳に何かを書いた。
「兄妹間における食料争奪戦……。これは使えそうですね」
「使うなっ!ってか何に使う」
生徒会室に笑い声が響いた。
そのとき、扉が開いた。
「おう、待たせたな!」
蓮司がコンビニの袋を持って入ってきた。
「隆司、パン買ってきたぞ。今日は俺のおごりだ」
「おお、助かる!」
「お前、弁当持ってこないからな」
「荷物になるだろ?」
「ゲーム機やら原稿やらは持ち歩いてるくせに?」
「それとこれとは別問題だ!実はな、三度の飯より栄養が詰まってるんだ!」
蓮司は笑いながら、パンを俺に渡した。
「……なんの栄養だよ」
俺はパンを食べながら、鞄から小さな箱を取り出した。
「そうだ。これ、みんなで食べてくれ」
「何それ?」
杏子が箱をのぞき込む。
「チョコレートだ。今年もいろいろもらったからな。余っている分を持ってきた」
「……余っている分?」
杏子の目が鋭くなった。
「これ、かなり手が込んでいるわね。本命じゃないの?」
「知らん。名前が書いてあったものもあるけど、全部覚えてない」
「ちゃんとお返しをしたの?」
「……」
「隆司!」
「いや、ほら。俺、忙しいから!」
「忙しいのは言い訳でしょう!」
杏子が説教を始めた。
その横で、三紀子がチョコレートを一つ手に取った。
「隆司君は、意外と人の気持ちに鈍感なんですね」
「おい、意外とは何だ」
「だって、誰かが時間をかけて作ったものを、余り物として扱っているんですよね?」
「……まあ、そう言われると」
俺は少しだけ反省した。
すると、三紀子は続けた。
「でも、隆司君が誰かに手作りのものを渡すとしたら、それは特別な意味があるんでしょうか?」
「……は?」
「例えば、杏子ちゃんにチョコを渡したら、どうなるのかなと思いまして」
「な、何で私が出てくるのよ!」
杏子が真っ赤になった。
「いえ、今の話の流れから考えると、自然な疑問です」
「自然じゃない!」
三紀子は真面目な顔でうなずいた。
「なるほど。否定が早いですね」
「三紀子!」
俺はパンを飲み込み、頭を抱えた。
この腐女子、観察眼を変な方向に使いすぎだ。
昼食のあと、俺は三紀子を生徒会室の隅へ呼んだ。
「おい、三紀子。今朝の話だけどな」
「深夜販売のことですか?」
「ああ。現地では絶対に俺に話しかけるなよ」
「どうしてですか?」
「お前が変装していても、俺が知り合いだとバレたら面倒だろ」
「なるほど。秘密の関係ですね」
「違う!」
三紀子はノートを開いた。
「人目を避ける二人……夜の街、そして秘密の取引……」
「お前、何を想像してるんだ!」
「いえ、創作の参考に」
「参考にするな!」
三紀子は少しだけ笑った。
「分かりました。現地では他人のふりをします」
「よし」
「ただし、ひとつだけお願いがあります」
「何だ?」
「もし私が困っていたら、助けてください」
「……困るって、何が?」
「さあ?」
三紀子は首をかしげた。
「夜の街は、学校よりも人間観察の対象が多そうですから」
……こいつ、本当に何を考えているんだ。
午後の授業が終わり、俺たちは再び生徒会室に集まった。
俺は創作ノートのことが気になり、仕事の合間に何度もスマホを確認した。
新しいメッセージはない。
だが、夕方になって、見知らぬアカウントから通知が届いた。
『今夜、楽しみにしています』
たったそれだけ。
送信者の名前も、プロフィールもない。
俺は画面を見つめた。
……今夜?
深夜販売のことを言っているのか?
それとも、俺が誰かと会うことを知っているのか?
「隆司?」
杏子が声をかけてきた。
どうしたの? さっきからスマホばかり見ているけど」
「いや、何でもない」
「また嘘ね」
「……」
「あなた、何か隠しているでしょう?」
杏子は真剣な顔をしていた。
俺は一瞬、すべて話してしまおうかと思った。
消えたノートのこと。謎のメッセージのこと。そして、美咲から聞かれた質問のこと。
だが、まだ何も分かっていない。
「……心配するな。大丈夫だ」
杏子は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
「何かあったら、ちゃんと相談してよ」
「……ああ」
その言葉が、妙に胸に残った。
帰宅後、夕食を済ませ、風呂にも入った。
俺は部屋の明かりを落とし、パソコンの前に座った。
時計は午後十一時四十分。
深夜販売まで、あと二十分。
「よし……準備完了」
財布、予約券、スマホ。すべて揃っている。
俺は玄関へ向かう前に、スマホを確認した。
通知が一件。
今度は、見覚えのない番号からのメッセージだった。
『創作ノートを取り戻したいなら、今夜の店に行きなさい』
……は?
俺は画面を見つめた。
続けて、もう一通届く。
『ただし、ノートを探していることは誰にも言わないように』
背筋が冷たくなった。
今夜の店。
深夜販売の会場のことだろう。
俺の趣味を知っている誰かが、わざわざそこへ来いと言っている。
これは偶然なのか?
いや、偶然であるはずがない。
俺はしばらく考えたあと、スマホをポケットにしまった。
「……行くしかないか」
ゲームを買うだけなら、いつもどおりの楽しい夜になるはずだった。
だが、今夜は違う。
俺の創作ノートを持っている人物が、そこにいるかもしれないのだから。
深夜一時。
街の一角にあるゲームショップの前には、長い行列ができていた。
「おお……すげえな」
俺は列の最後尾に並び、周囲を見回した。
発売されるゲームは三種類。
妹系恋愛ゲーム、メイド系恋愛ゲーム、そして女性向けのBLゲーム。
それぞれの列には、発売を待ちわびる人たちが並んでいる。
「隆司!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、鈴原浩平が手を振っていた。
「やっぱり来てたか!」
「当然だろ。お前こそ、こんな時間に元気だな」
「今日のために昼寝してきた!」
「準備が本格的すぎるだろ!」
浩平は誇らしげに胸を張った。
「俺の狙いは、もちろんメイド系の限定版だ。特典の描き下ろしイラストが最高なんだよ」
「俺は妹系一択だな」
「ぶれねえな、お前」
「信念と言ってくれ」
俺たちは笑い合った。
いつもの浩平だ。
俺の趣味を知っている数少ない仲間で、オタク関係のイベントでは何かと頼りになる。
ただし、彼は基本的に買う専門だ。創作活動には興味がなく、イベントでは本を買い、コスプレイヤーの撮影を楽しむタイプである。
「そういえば、隆司。最近、何か変わったことなかったか?」
浩平が唐突に尋ねた。
「……どうしてだ?」
「いや、何となく。学校でお前が妙にそわそわしてるって杏子さんから聞いたぞ」
「余計なことを……」
「何か隠してんのか?」
俺は一瞬迷った。
浩平に相談するべきか?
だが、相手は俺の秘密を知っている可能性がある。
不用意に誰かを巻き込むわけにはいかない。
「……別に。ちょっと創作が行き詰まってるだけだ」
「そうか? まあ、困ったら言えよ。俺にできることなら手伝うぜ」
「……ああ。ありがとな」
浩平は笑った。
そのとき、俺の視界の端に、妙な人物が映った。
BLゲームの列に並ぶ、黒い帽子とマスクで顔を隠した人物。
背丈も体格も、どこか見覚えがある。
そして、その人物がスマホを操作した直後、俺のポケットが震えた。
新しいメッセージ。
『見つけましたね』
俺は息をのんだ。
……こいつか?
俺の創作ノートを持っているのは。
「隆司? どうした?」
「いや……ちょっとな」
俺は浩平に気づかれないよう、列から少し離れた。
黒い帽子の人物は、こちらに気づいていないようだった。
俺は静かに近づく。
あと数歩。
あと一歩。
そして、相手の横に立った瞬間――。
「……おい」
「ひゃっ!?」
人物が小さく悲鳴を上げた。
その声。
俺は聞き覚えがあった。
「……三紀子?」
黒い帽子の人物は、ゆっくりとこちらを向いた。
「り、隆司君!? どうしてここに!?」
「それはこっちの台詞だ!」
三紀子はマスクを少しずらし、周囲を確認した。
「ちょっと、声が大きいよ!」
「お前こそ何だ、その変装は!」
「だって、学校の人に見られたら困るもの!」
「俺には見られてるだろ!」
「隆司君は別です!」
「何が別なんだよ!」
三紀子は鞄を抱きしめた。
その表情は、学校では見たことがないほど真剣だった。
「……今日の発売日を、何か月も前から待っていたんです」
「そのために、そこまで変装したのか?って不審者で補導されるんじゃないか?その怪しげな変装」
「はい」
「……お前、筋金入りだな」
三紀子は少しだけ胸を張った。
「好きなものを好きだと言うためには、準備が必要ですから」
妙に説得力があった。
俺はため息をついた。
「分かった。じゃあ、俺は列に戻る。購入が終わったら、駅前まで送ってやるよ」
「えっ、いいの?」
「その格好で夜道を一人で歩かせるのも心配だからな……警察からの補導のなっ!」
三紀子は一瞬だけ驚いたあと、ふわりと笑った。
「ありがとう、隆司君」
……こいつ、こういうときは普通に可愛いんだよな。
いや、今のは余計な感想だ。
俺は首を振り、浩平のもとへ戻った。
「おい、どこ行ってたんだよ?」
「ちょっと知り合いがいてな」
「知り合い?」
「気にするな」
浩平は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
やがて、列が少しずつ進み始めた。
発売時刻が近づくにつれて、周囲の熱気も高まっていく。
「よっしゃ! 来たぞ!」
浩平が拳を握った。
俺も自然と笑顔になる。
この瞬間だけは、面倒なことを忘れられる。
そう思っていた。
購入を待つ列の先頭で、店員が大きな声を上げた。
「お待たせしました! 販売を開始します!」
歓声が上がる。
俺は財布を握りしめ、列が進むのを待った。
だが、その直後。
スマホが震えた。
画面には、見知らぬアカウントからの新着メッセージ。
『創作ノートを見つけたければ、三紀子さんに聞いてみてください』
「……何だと?」
俺は思わず顔を上げた。
視線の先には、黒い帽子をかぶった三紀子がいる。
彼女はちょうど店員から商品を受け取り、嬉しそうにパッケージを抱えていた。
俺はメッセージを読み返す。
なぜ、三紀子の名前が出てくる?
彼女は、俺の創作ノートについて何か知っているのか?
それとも、誰かが彼女を利用しようとしているのか?
「隆司! お前の番だぞ!」
浩平の声に、俺は我に返った。
「あ、ああ!」
俺は慌てて商品を購入した。
手に入れたゲームのパッケージは、いつもなら最高の宝物に見えるはずだった。
だが、今は違う。
俺の頭の中は、たった一つの疑問でいっぱいだった。
――三紀子は、何を知っている?
購入を終えた俺は、店の外で三紀子を待った。
やがて彼女が出てきた。
「隆司君! 買えたよ!」
三紀子は、嬉しそうに商品を掲げた。
「……そりゃ念願かなって良かったなっ」
「うん! これで、しばらくは幸せに生きられるよ!」
「大げさだな……」
「大げさじゃないよ。何か月も待ったんだから」
その笑顔を見ていると、さっきのメッセージを問い詰めるのがためらわれた。
だが、確かめないわけにはいかない。
「……三紀子」
「なあに?」
「一つ、聞きたいことがある」
「うん」
「俺の創作ノートについて、何か知らないか?」
三紀子の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
だが、確かに表情が変わった。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
「答えてくれ」
三紀子は商品を胸に抱いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……今は、まだ言えない」
「どうしてだ?」
「言ったら、もっと大変なことになるかもしれないから」
彼女の声は、いつもの冗談めいた調子ではなかった。
「でも、一つだけ約束して」
「何を?」
「明日、学校で何があっても、私のことを信じてほしい」
俺は言葉を失った。
三紀子はそれ以上何も言わず、駅の方向へ歩き始めた。
俺はその背中を追いかける。
「おい、三紀子!」
彼女は振り返らなかった。
ただ、歩きながら小さく言った。
「……それと、隆司君」
「何だ?」
「今夜、私たちがここに来たことは、誰にも言わないでね」
「……ああ」
俺はうなずいた。
それが、三紀子を守るためなのか。
それとも、俺自身の秘密を守るためなのか。
まだ分からなかった。
帰宅した俺は、物音を立てないように玄関の扉を開けた。
時計は午前二時を回っている。
家族はみんな寝ているはずだ。
俺はそっと自分の部屋に入り、パソコンを起動した。
「……さて、インストールするか」
ゲームをセットし、進行状況を確認する。
容量はかなり大きい。
待っている間に、俺はCG集の下絵を描くことにした。
だが、ペンを握っても集中できない。
創作ノート。
謎のメッセージ。
三紀子の意味深な言葉。
そして、美咲からの質問。
今日一日で、頭を悩ませることが多すぎた。
「……くそっ。俺は一体、何に巻き込まれてるんだ?」
そのとき、スマホが震えた。
また、知らないアカウントからのメッセージだ。
『三紀子さんに会えてよかったですね』
俺は息を止めた。
続けて、もう一通。
『次は、あなたの妹さんの番です』
……美咲?
画面を見つめたまま、指が動かなくなった。
誰だ。
何のために、こんなことをしている?
俺の趣味を知っているだけではない。
学校での俺の行動も、三紀子との接触も、そして美咲のことまで把握している。
もはや、悪ふざけでは済まされない。
俺はすぐに返信しようとした。
だが、その前に画面が切り替わった。
『このメッセージは削除されました』
「……は?」
送信者のアカウントも、いつの間にか消えていた。
俺はしばらく、スマホを握りしめていた。
そのとき、パソコンからインストール完了の音が鳴った。
画面には、ゲームのタイトルが表示されている。
待ちに待ったゲーム。
今なら、いつものように夢中になれるはずだ。
だが、俺はマウスを動かせなかった。
頭の中に浮かんでいるのは、ゲームのヒロインではない。
美咲の顔。
そして、三紀子の真剣な表情だった。
「……明日、ちゃんと聞いてみるか」
俺はパソコンの電源を落とした。
結局、ゲームは起動しなかった。
こんな深夜販売は、初めてだった。
最高に楽しい夜になるはずが、気づけば新しい謎ばかりが増えている。
そして、俺はまだ知らなかった。
明日、生徒会室で待ち受けている出来事が、俺と美咲の関係を、そして三紀子との関係を、大きく変えることになるとは――。




