第2話 新たな仲間と、秘密を見抜く少女
朝。
「お兄ちゃん、起きて。朝だよ」
耳元で聞こえる声に、俺――秋月隆司は布団の中でうめいた。
「あと五分……」
「昨日も同じこと言ってたよ。それで結局、三十分も寝てたよね?」
「人間には睡眠が必要なんだ。特に俺のような頭脳労働者にはな」
「へえ。夜中までゲームしてた人が、ずいぶん偉そうだね」
その一言で、俺は跳ね起きた。
「なっ、なんで……それを知ってる!?」
「お兄ちゃんの部屋から、ずーっと女の子の声が聞こえてたから」
「ち、違う! あれはゲームのシナリオを研究していただけだ!」
「研究ねえ……。昨日は『君だけを愛してる』って聞こえたけど?」
「それは作品の台詞だ!」
美咲は、にっこりと笑った。
「はいはい。そういうことにしておいてあげる」
こいつ……絶対に面白がっている。
秋月美咲。俺の妹であり、学校では一年生トップの成績を誇る優等生。
そして、俺の弱点を把握し、容赦なく突いてくる小悪魔でもある。
「ところで、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「昨日、何か探してなかった?」
心臓が跳ねた。
昨日の夜、俺は確かに探していた。
創作ノート。
趣味で書いている同人誌のプロットをまとめた、絶対に他人に見られてはいけないノートだ。
しかも、帰宅後には差出人不明のメッセージまで届いた。
『あなたの秘密、知っています。明日、放課後に生徒会室へ来てください。誰にも言わずに』
さらに、始業式で使った原稿には、見覚えのない言葉が書き込まれていた。
『秋月隆司は、妹に甘すぎる』
偶然にしては、出来すぎている。
「……いや、別に」
「ふーん?」
美咲は俺の顔をじっと見つめた。
「お兄ちゃん、嘘をつくと右の眉がちょっと上がるよ」
「そんな癖はない!」
「今、上がった」
「くっ……!」
こいつ、いつか絶対に攻略してやる。
いや、妹を攻略って何だ。危ない方向に話を進めるな、俺。
「とにかく、早く着替えてね。遅刻したら、生徒会長の名が泣くよ?」
「分かってる!」
美咲は満足そうに部屋を出ていった。
俺はため息をつき、制服に着替える。
今日も平和な一日が始まる。
……そう思いたかった。
通学路で待っていたのは、中学時代からの親友、森崎蓮司だった。
「おう、隆司。相変わらず眠そうだな」
「誰のせいだと思ってる。昨日、お前が送ってきた動画のせいで寝るのが遅くなったんだぞ」
「あれは剣道の試合動画だろ。お前が勝手に最後まで見たんだ」
「最後まで見たくなる編集をするお前が悪い」
「理不尽すぎるだろ」
蓮司は笑いながら俺の肩を叩いた。
剣道部主将で、何をやらせてもそれなり以上にできる男。だが、部活以外では驚くほど適当だ。
そんな俺たちの前に、腕を組んだ少女が立ちはだかった。
「二人とも。朝から何を騒いでいるの?」
一条杏子。
生徒会副会長で、成績は学年二位。容姿端麗、品行方正、料理もできる。
ただし、俺に対してだけは容赦がない。
「おはよう、杏子。今日も美しいな」
「……朝から何の用?」
「いや、褒めただけだろ」
「あなたの褒め言葉には、必ずろくでもない前置きがあるのよ」
「ひどいな。俺は純粋な気持ちで――」
「昨日の生徒会資料、提出が遅れていたわよね?」
「申し訳ございませんでした」
「切り替えが早い!」
蓮司が吹き出した。
杏子は深いため息をつく。
「まったく……。あなたは成績だけなら申し分ないのに」
「人間、長所が一つあれば十分だ」
「その長所を、もう少しまともな方向に使ってほしいのよ」
杏子はそう言いながら、校門脇の花壇に目を向けた。
「……あら。昨日より少し元気になってる」
「花壇?」
「ええ。朝、少しだけ手入れしているの。水の量を間違えると、すぐ調子を崩すから」
杏子は花壇の葉をそっと確かめた。
普段の厳しい表情とは違い、その横顔は穏やかだった。
「将来は花屋をやりたいんだっけ?」
俺が尋ねると、杏子は少し驚いたように顔を上げた。
「……覚えていたの?」
「そりゃあな。お前、花の話をするときだけは説教が半分になるから」
「余計なことまで覚えなくていい!」
鞄が飛んできた。
「危ねえ!」
「朝から騒がしいね、お兄ちゃん」
いつの間にか合流していた美咲が、呆れた顔で言った。
「美咲、お前も何か言ってやれ!」
「うーん。杏子先輩、お兄ちゃんの扱いが上手ですね」
「美咲ちゃんまで!?」
杏子の顔が赤くなる。
俺は見逃さなかった。
「へえ……。美咲、今の発言はなかなか――」
「お兄ちゃん?」
美咲の笑顔が深まる。
「何でもありません」
俺の朝は、すでに敗北から始まっていた。
学校に着き、教室に入ると、黒板には大きく『学級委員長選挙』と書かれていた。
面倒なイベントだ。
俺は席に座り、鞄からノートを取り出す。
もちろん、紛失した創作ノートではない。あれは今も行方不明のままだ。
そのことを思い出した途端、気分が沈んだ。
「秋月君」
隣の席から声をかけられた。
一ノ瀬三紀子。
読書好きで数学が得意。普段は静かで、休み時間になると本を開いていることが多い。
彼女は俺の机に一枚の紙を置いた。
『昨日、何か大切なものをなくしませんでしたか?』
俺は思わず三紀子の顔を見た。
「……どういう意味だ?」
「いえ。今朝から、あなたが机の中や鞄の中を何度も確認していたので」
「それだけで分かるのか?」
「人は、なくしたものが見つからないと、同じ場所を何度も確認します。見つからないと分かっていても、です」
三紀子は淡々と言った。
「それに、あなたは普段、忘れ物をしない人ですから」
なるほど。
確かに、この女はよく人を見ている。
……ただの読書好きだと思っていたが、意外と侮れないかもしれない。
「で、秋月君。なくしたものは何ですか?」
「おまえごときに教える義理はないな」
「そうですか。では、推理を続けます」
「おぃ……続けるなよ」
三紀子は気にした様子もなく、手帳に何かを書き込んだ。
嫌な予感がした。
そのとき、担任が教室に入ってきた。
「よし、席に着け。今日は学級委員長を決めるぞ」
クラスがざわつく。
候補者が何人か挙がったあと、三紀子の名前が出た。
「一ノ瀬さんはどう? 頭いいし、真面目だし」
「えっ、私?」
三紀子は珍しく目を丸くした。
「でも、私……」
「数学のテスト、いつも満点じゃん!」
「それは数学です。人間関係の問題は、公式がありませんから」
妙に説得力のある発言だった。
結局、三紀子は学級委員長に選ばれた。
拍手の中、彼女は静かに頭を下げる。
「皆さんの期待に応えられるよう、努力します」
そこまでは完璧だった。
だが、席に戻る直前、彼女は俺の机に小さな紙片を滑らせた。
『委員長という立場なら、人間関係の観察がしやすくなりますね』
俺は紙片を握りつぶした。
こいつ、絶対に普通の優等生じゃない。
そして昼休み。
俺は教室を出ようとしたところで、背後から肩をつかまれた。
「おい、隆司!」
振り返ると、鈴原浩平が怒りの形相で立っていた。
「お前、昨日の件、どういうつもりだ!」
「昨日の件? 何のことだ?」
「とぼけるな! 俺が先生に怒られたの、お前が余計なことを書いたせいだろ!」
「ああ、あれか」
「『あれか』じゃねえ!」
浩平は、俺が以前やらかした学級委員長選挙の悪ふざけを持ち出してきた。
細かい説明は省くが、俺が書いた余計な数字のせいで、浩平が先生から疑われたのである。
「悪かったって。ほら、これ」
俺は鞄からゲームソフトを取り出した。
浩平の目が大きく見開かれる。
「ま、まさか……それ、限定版!?」
「貸してやる。もちろん、返却期限は守れよ」
「……お前、悪魔か?」
「褒め言葉として受け取っておく」
「くそっ! 今回だけは許してやる!」
浩平はゲームを受け取ると、上機嫌で去っていった。
俺は小さく笑った。
友情とは、時に金銭でも暴力でもなく、限定版ゲームソフトによって成立するのである。
「……秋月君」
また声がした。
振り向くと、三紀子が立っていた。
「今のやり取り、興味深かったです」
「何がだ?」
「あなたは相手が怒っているとき、まず謝るのではなく、相手が何を欲しがっているかを考えるんですね」
「……まあ、話が早いだろ?」
「なるほど。交渉術としては合理的です」
三紀子は少し考えたあと、真顔で続けた。
「ちなみに、森崎君にも同じ方法を使いますか?」
「何で蓮司が出てくる!?」
「長年の親友同士ですから。お互いの弱点を把握している可能性が高いです」
「ただの友達だ!」
「そうですか。では、友情から恋愛に変化する可能性について――」
「変化しない!」
「即答ですね」
三紀子は手帳に何かを書いた。
「……今の反応も記録しておきます」
「何の記録だよ!そもそも変化したらおかしいだろうがっ!」
俺は額を押さえた。
この女、真面目な顔で人をからかう才能がありすぎる。
昼休みの生徒会室。
「遅い!」
扉を開けた瞬間、杏子の声が飛んできた。
「まだ昼休みは終わってないだろ」
「あなたは生徒会長なの! 率先して行動しなさい!」
「はいはい……そのセリフ、毎日言ってるよな、おまえ」
「返事は一回!」
「はい」
俺は椅子に座り、机の上に並べられた資料を確認した。
予算配分の申請書。部活動ごとの使用額。風紀委員会からの報告書。
どれも重要だが、面倒な作業でもある。
「この数字、合ってないぞ」
「え?」
杏子が資料をのぞき込む。
「剣道部の備品費、申請書と集計表で金額が違う」
「本当だわ……。入力ミスかしら?」
「いや、申請書の数字は合っている。集計表のほうが一か所だけずれているな」
俺はノートパソコンを開き、表計算ソフトを操作した。
数秒後、間違いの箇所が表示される。
「ほら、ここだ」
「……本当に仕事だけは速いわね」
「だけは、って何だよ」
「褒めているの!」
杏子はため息をつきながら、鞄から弁当箱を取り出した。
「はい。お昼、まだでしょう?」
「お、手作りか?」
「余っただけよ」
「へえ。俺のために?」
「違う!ついでよ、ついで!」
杏子の顔が赤くなった。
俺はにやりと笑う。
「そんなに照れなくてもいいだろ。副会長の手作り弁当なんて、男子生徒が知ったら大騒ぎだぞ」
「あなたに食べさせるために作ったんじゃないって言ってるでしょう!」
「じゃあ、誰に?」
「……っ!」
杏子は言葉に詰まり、弁当箱を俺から遠ざけた。
その様子を、美咲がじっと見ていた。
「杏子先輩って、お兄ちゃんのことになると分かりやすいですね」
「美咲ちゃん!?」
「え、違いますか?」
「違うわよ!」
「では、どうしてお兄ちゃんが他の女の子と仲良くしていても平気なんですか?」
「そ、それは……生徒会長として、彼の行動を監視する必要があるからよ!」
「なるほど。四六時中、監視したいんですね」
「そういう意味じゃない!」
美咲は楽しそうに笑った。
俺は頭を抱える。
この生徒会、まともな会話が成立しない。
「ところで、秋月君」
いつの間にか、三紀子が席に座っていた。
「お前、いつ来た!?」
「五分ほど前です」
「気づかなかった……」
「皆さんが楽しそうだったので、観察していました」
「観察するな!」
三紀子はノートを開いた。
「一条さんは秋月君の言動に敏感。美咲ちゃんは二人の反応を楽しんでいる。そして秋月君は、二人の前では普段以上に口数が多い」
「……おい」
「興味深い三角関係ですね」
「三角関係じゃない!」
杏子と俺の声が重なった。
三紀子は静かにうなずく。
「息もぴったりです」
「違うって言ってるでしょう!」
杏子が机を叩いた。
その勢いに、三紀子は少しだけ目を輝かせた。
「なるほど……反発しながらも息が合う。王道ですね」
「三紀子! あなた、いったい何の本を読んでいるの!?」
「主に人間関係についてです」
「絶対に違う!」
俺はため息をついた。
だが、ふと気づく。
三紀子は笑っていない。
冗談を言っているようで、その目は一人ひとりの反応を正確に見ていた。
こいつは、ただ妄想しているだけじゃない。
人が何を言い、何を隠し、どんなときに動揺するのか。
それを観察しているのだ。
そして、俺が一番隠したいことにも――。
「秋月君。少し相談があるのですが」
昼食を終えた三紀子が、改めて俺に向き直った。
「何だ?」
「学級委員長になったので、生徒会との連絡役も担当することになりました。生徒会の仕事について、詳しく教えてもらえませんか?」
「そういうことなら歓迎だ。書記の仕事も手伝ってもらえると助かる」
「本当ですか?」
「ああ。美咲だけに負担をかけるわけにもいかないからな」
美咲が、ほんの少し目を細めた。
「……お兄ちゃん、私のことは気にしなくていいのに」
「お前が優秀なのは知ってる。でも、仕事を押しつけるのとは別の話だろ」
「……そっか」
美咲は小さく笑った。
その表情を見ていた三紀子が、ぽつりと言った。
「秋月君は、美咲ちゃんには優しいんですね」
「妹だからなっ」
「一条さんには、あんなに意地悪なのに?」
「杏子はからかうと面白いから」
「秋月君!」
杏子の怒声が響いた。
三紀子は手帳に何かを書き込む。
「妹には保護欲。副会長にはからかい。親友には対等な信頼……」
「おい、勝手に分析するな」
「では、質問を変えます」
三紀子は顔を上げた。
「秋月君は、自分が誰かに観察されているとしたら、どう感じますか?」
空気が変わった。
「……何だ、急に」
「例えば、あなたの知らないところで、あなたの行動を記録している人がいるとしたら?」
俺の頭に、あのメッセージがよみがえる。
『あなたの秘密、知っています』
そして、消えた創作ノート。
偶然ではない。
誰かが、俺を見ている。
「……気味が悪いに決まってるだろ」
「そうですね」
三紀子はノートを閉じた。
「私も、そう思います」
彼女の声には、いつもの冗談めいた響きがなかった。
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
創作ノートを持ち去ったのは誰なのか。
俺の趣味を知っている人物は、蓮司や浩平など何人かいる。だが、始業式の原稿にまで細工できる人間となると限られてくる。
そして、今日もメッセージが届いた。
机の中に入っていた、小さな紙片。
『新しい仲間が増えましたね。彼女にも、あなたの秘密を知られたくないのでしょう?』
背筋が冷たくなった。
彼女――三紀子のことか?
それとも、杏子や美咲を指しているのか?
俺は紙片をポケットにしまった。
放課後、指定された場所に行くしかない。
ホームルームの終わり、担任が教壇の上に一冊の本を置いた。
「そうそう、これ。職員室前に落ちていたんだが、持ち主はいるか?」
俺の心臓が止まりかけた。
見覚えのある表紙。
俺の創作ノートではない。
だが、その本に挟まっている紙の端に、見覚えのある文字があった。
「先生、それ、生徒会で預かります」
俺は即座に立ち上がった。
「おお、秋月か。助かる。持ち主が見つかったら渡してくれ」
俺は本を受け取り、誰にも見られないようにページをめくった。
中に挟まっていた紙片には、短い文章が書かれていた。
『あなたの創作ノートは、まだ私の手元にあります』
その下には、続きがあった。
『放課後、生徒会室へ。今度こそ、一人で来てください』
俺は紙を握りしめた。
ようやく尻尾をつかめるかもしれない。
だが、同時に嫌な予感もした。
相手は俺の行動を知っている。
俺が生徒会室に向かうことも、誰かに相談する可能性があることも。
つまり――これは、俺を誘い出すための罠かもしれない。
チャイムが鳴り、放課後。
生徒会室には、俺一人しかいなかった。
杏子は花壇の手入れに行き、美咲は一年生の教室で用事を済ませている。
蓮司も風紀委員の見回りだ。
俺は机の上に、謎のメッセージを置いた。
「……来るなら来い」
扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、三紀子だった。
「……三紀子?」
「はい」
「どうしてここに?」
「学級委員長として、生徒会の仕事について相談に来ました」
「今は放課後だぞ」
「放課後だからこそ、相談に来たんです」
三紀子はいつもの無表情で答えた。
そして、鞄から一枚の紙を取り出した。
「それと、これを見てください」
俺は紙を受け取った。
そこには、始業式の原稿に書き込まれていたのと同じ文字があった。
『秋月隆司は、妹に甘すぎる』
「……これを、どこで?」
「始業式のあと、原稿を片づけるときに見つけました。あなたに渡そうと思っていたんです」
「どうして今まで黙っていた?」
「確証がなかったからです。それに、あなたがどんな反応をするのか、少し気になっていました」
「お前な……」
「すみません。観察する癖があるもので」
「お前な……観察とストーカーは紙一重だぞっ」
悪びれもしない。
俺は紙を机に置いた。
「つまり、お前も俺の秘密を探っていたのか?」
「正確には、あなたが何を隠しているのかを考えていました」
三紀子は俺をまっすぐ見つめた。
「成績は学年トップ。生徒会長としての仕事も完璧。なのに、時々、誰にも見られたくないものを隠すような行動をする」
「……」
「あなたは、自分の秘密を知られることを怖がっているんですね」
「誰だって秘密くらいあるだろ」
「もちろんです」
三紀子は静かにうなずいた。
「私にもありますから」
「……お前にも?」
「ええ。例えば、私が読んでいる本のジャンルとか」
「……ああ」
俺は少しだけ気が抜けた。
BL好きのことか。
確かに、あれは本人にとって秘密なのだろう。
「ただ」
三紀子は続けた。
「あなたの秘密は、趣味だけではない気がするんです」
俺の表情が固まった。
「特に、美咲ちゃんのことになると」
沈黙が落ちた。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
三紀子は、いつものようにノートを開いた。
「秋月君。あなたは、美咲ちゃんのことをどう思っているんですか?」
「……妹だよ」
「それは、家族としての答えですか?」
「当たり前だろ」
「では、どうして今、答えるまでに時間がかかったんですか?」
言葉が出なかった。
こいつは、どこまで見ている?
俺自身がまだ整理できていない感情まで、見透かしているのか?
「私は、誰かを好きになることが悪いとは思いません」
三紀子の声は、驚くほど穏やかだった。
「でも、自分の気持ちを理解しないまま、誰かを傷つけるのはよくないと思います」
「……お前に、何が分かる」
「分かりません。だから、聞いているんです」
三紀子はノートを閉じた。
「あなたが何を考えているのか。何を恐れているのか。何を隠しているのか」
そのとき。
「……お兄ちゃん?」
背後から声がした。
振り返ると、美咲が扉の前に立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
美咲は俺と三紀子を交互に見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「何の話をしていたの?」
「いや、これは……」
「お兄ちゃん」
美咲は一歩、部屋に入ってきた。
いつものからかうような笑顔はない。
ただ、真剣な目で俺を見ていた。
「私のこと、好きなの?」
心臓が、大きく跳ねた。
何も言えなかった。
冗談でごまかすことも、いつものように妹をからかうこともできない。
三紀子は黙って俺を見ている。
美咲も、答えを待っている。
「すっごいドストレートに聞くな!」
そして俺は初めて、自分の気持ちから逃げられない場所に立たされていた。
――俺は、美咲のことをどう思っているんだ?
答えは、まだ出なかった。
ただ一つ分かったことがある。
俺の秘密を握っているのは、三紀子だけではない。
この妹もまた、俺が隠してきた何かに気づき始めている。
そして、物語はここから、俺の予想もしなかった方向へ動き始めるのだった。




