第1話 始まり~始業式~
――このときの俺は、まだ知らなかった。
今日という一日が、俺の輝かしい高校生活を根底から揺るがす、最悪にして最高の一日になることを。
そして、その原因のほとんどが、俺自身にあるということも。
まあ、そんな未来を知っていたところで、俺が早起きするわけもないのだが。
「しまった……やっちまった……」
朝七時二十分。
ベッドの上で目を覚ました俺、秋月隆司は、天井を見つめながら深いため息をついた。
昨日も、ついつい夜更かししてしまった。
新作の美少女ゲームを始めたのが運の尽きだった。気づけば午前二時。そこから「あと一時間だけ」と自分に言い聞かせ、気がついたときには空が白み始めていたのである。
いや、仕方ないだろう。
攻略対象のヒロインが、ようやく主人公に本音を打ち明けたところだったんだぞ?
あんなところで中断できる人間がいるなら、ぜひともその精神構造を研究させていただきたい。
「今日から二年生かぁ……めんどくせぇ。眠い。帰りたい。まだ家から出てもいないけど」
俺は枕に顔を埋めた。
ちなみに、俺は名門・竜ヶ崎第一付属高校に通う、ごく普通の高校生である。
……いや、普通というのは少し違うかもしれない。
成績は学年トップ。運動能力も高く、教師からの信頼も厚い。おまけに生徒会委員長まで務めている。
ここまで聞けば、誰もが文武両道の完璧超人を想像するだろう。
しかし、その実態はどうだ。
重度のオタクであり、中二病をこじらせた経験もあり、コスプレイベントではカメラを片手に推しのレイヤーさんを追いかける。休日はゲームとアニメに費やし、創作活動にも手を出している。
趣味の数だけなら、そこらの文化系部活動を束にしても勝てる自信がある。
そして何より、俺には誰にも知られてはならない秘密があった。
学校での俺は、完璧な優等生。
家での俺は、欲望に忠実なオタク。
この二つを両立させることこそ、俺の人生における最重要ミッションなのだ。
「よし……今日も完璧な委員長を演じてやるぜ」
俺は勢いよく起き上がり、カーテンを開けた。
春の日差しが部屋に差し込む。
机の上には、昨日の夜に開いたままのゲームのパッケージと、書きかけの同人誌。さらに、パソコンの画面には途中まで書いたシナリオが表示されていた。
「…………」
俺は無言でパソコンを閉じた。
見なかったことにしよう。
人間、時には現実から目を背ける勇気も必要なのである。
「って、もうこんな時間じゃねえか!」
時計は七時二十五分。
始業式は八時半からだ。
まだ余裕はあるが、のんびりしていたら遅刻しかねない。
俺は制服に着替え、鞄をひっつかむと、階段を駆け下りた。
「おはようございます、お兄ちゃん。朝から元気だね」
リビングでは、妹の秋月美咲が優雅に朝食を食べていた。
長い髪をきれいに整え、制服の着こなしも完璧。テーブルには教科書とノートがきちんとそろえて置かれている。
同じ秋月家の人間とは思えない。
「おはよう、美咲。ところで、俺の朝食は?」
「ありますよ。お兄ちゃんが寝坊すると思って、ちゃんと取っておきました」
「さすが我が妹! 兄のことを理解しているな!」
「うん。お兄ちゃんが自分に甘いことも、夜更かしすることも、朝に弱いことも、全部理解してるよ」
「理解しなくていい部分まで理解してるな!?」
美咲は楽しそうに笑った。
まったく、かわいい妹である。
成績優秀、礼儀正しく、家事もそれなりにこなす。しかも、俺が困っていると何だかんだで助けてくれる。
欠点を挙げるとすれば、兄をからかうことに妙な情熱を燃やしている点くらいだろうか。
「そういえば、お兄ちゃん」
「ん?」
「昨日、また遅くまで起きてた?」
「な、なぜそう思う?」
「夜中に部屋から『ここで選択肢を間違えるわけにはいかない!』って声が聞こえたから」
「…………」
終わった。
俺の威厳が、妹の前で音を立てて崩れていく。
「お兄ちゃんって、学校ではみんなから尊敬されてるんだよね?」
「当然だ」
「じゃあ、みんなにもその声を聞かせてあげたら?」
「妹よ。兄を社会的に抹殺するのはやめなさい」
俺は急いで朝食をかき込み、牛乳を飲み干した。
そして玄関へ向かう。
「美咲、先に行くぞ!」
「はいはい。忘れ物しないでね、お兄ちゃん」
「俺を誰だと思っている!」
「昨日、鞄にゲームのコントローラーを入れたまま寝ちゃった人」
「なぜ知っている!?」
「鞄から出てたよ」
俺は無言で鞄を確認した。
……本当に入っていた。
こうして、俺の二年生初日は、妹による精神攻撃から始まったのである。
竜ヶ崎第一付属高校。
県内でも有数の進学校であり、学業だけでなく部活動にも力を入れている名門校だ。
そんな学校の体育館には、全校生徒が集まっていた。
壇上では校長先生が新年度の挨拶をしている。
俺はその光景を眺めながら、静かにあくびをかみ殺した。
「ふぁぁ……眠い……」
昨日の睡眠時間は、実質三時間ほど。
人間の集中力には限界がある。俺の場合、ゲームなら徹夜できるが、校長先生の話となると五分が限界だ。
しかし、今日ばかりは眠っているわけにはいかない。
なぜなら、俺は生徒会委員長だからだ。
しかも、始業式では全校生徒を代表して挨拶をしなければならない。
全校生徒の前に立ち、堂々とした態度で新年度の抱負を述べる。
これぞ委員長の仕事。
……もっとも、俺にとっては面倒なイベントの一つにすぎないのだが。
「ふっ……こんなもの、事前に文章を用意しておけば楽勝だ」
俺は鞄の中から原稿を取り出した。
そこには、春の訪れや新年度への期待、仲間との絆、未来への希望など、いかにも模範的な文章が並んでいる。
もちろん、俺が一から書いたものではない。
文明の利器を活用させていただいた。
そう、AIである。
人間が苦労して文章を考える時代は終わったのだ。
「いやぁ、俺って頭いい~」
自画自賛していると、隣から冷たい視線が飛んできた。
「……隆司君」
「なんだ?」
「原稿を読む前から、そんなにニヤニヤしていて大丈夫なの?」
声の主は、一条杏子。
俺と同じ二年A組で、生徒会副会長を務める少女だ。
成績は学年二位。容姿端麗、品行方正。教師からの信頼も厚く、男女問わず人気がある。
ただし、俺に対してだけは、なぜか当たりが強い。
「心配するな。俺は完璧だ」
「その台詞を言う人間ほど信用できないものよ」
「それって、ひどくない?」
「あなたの場合、実績があるからよ」
「俺、そんなに問題を起こしてたっけ?」
「昨日、提出期限を過ぎた生徒会の資料を、締め切り一分前に完成させたでしょう」
「あれは間に合わせたんだから問題ないだろ」
「その前の日は?」
「……」
「その前の前の日は?」
「すみませんでした」
「分かればよろしい」
杏子は満足そうにうなずいた。
くそっ。
こいつ、正論しか言わないから反論しづらいんだよな。
俺は学年トップの成績を誇る男だ。論理的思考力には自信がある。
しかし、杏子との口論では勝率が異常に低い。
なぜなら、俺が言い返すたびに、過去の失態を証拠付きで持ち出してくるからだ。
あれはもはや説教ではない。
公開処刑である。
「それでは、続いて生徒会委員長、秋月隆司君」
司会の先生が俺の名前を呼んだ。
「はい!」
俺は立ち上がり、壇上へ向かった。
歩き方、姿勢、表情。
すべて計算どおり。
全校生徒の視線が集まる中、俺はマイクの前に立った。
そして原稿を広げる。
「柔らかな日差しが注ぎ、春の訪れが感じられるようになりました――」
よし、順調だ。
俺は落ち着いた声で原稿を読み進めた。
「ここ、名門・竜ヶ崎第一付属高校に通えることを、心よりうれしく思います。一年生の時には、心に残る行事もたくさんありました。仲間と協力してさまざまな課題に取り組み、絆をより深めることができました……」
我ながら完璧である。
文章の構成、語彙の選択、声の抑揚。
すべて申し分ない。
原稿を作ったAIに感謝だな。
……いや、最後に読み上げているのは俺なのだから、半分くらいは俺の手柄ということでいいだろう。
俺は最後の一文を読み上げ、原稿を閉じた。
「この先の一年間も、皆さんとともに多くの思い出を築いていきましょう」
拍手が体育館に響き渡る。
成功だ。
俺は内心でガッツポーズを決めながら、壇上を降りた。
「さすが委員長!」
「秋月先輩、かっこいい!」
そんな声が聞こえてくる。
ふふふ。
この学校の生徒たちは、まだ俺の本当の姿を知らない。
俺は優秀な生徒会委員長であり、同時に趣味に全力を注ぐオタクでもある。
この二つの顔を使い分けることこそ、俺の生きがいなのだ。
席に戻る途中、杏子が小声で話しかけてきた。
「……ねえ、隆司君」
「なんだ? 俺の完璧な挨拶に感動したか?」
「原稿、見せて」
「は?」
「ちょっと気になることがあるの」
俺は一瞬、動きを止めた。
まさか、AIが書いたことに気づいたのか?
いや、そんなはずはない。
文章は自然だったし、内容にも問題はない。そもそも、AIを使った証拠などどこにもない。
「べ、別にいいけど?」
俺は原稿を渡した。
杏子は目を通し、眉をひそめた。
「……これ、最後の段落」
「おう」
「『一年生の時には』って書いてあるけど、ここは『昨年度には』のほうが自然じゃない?」
「……」
「それに、『ミッションに取り組み』って表現、学校行事の挨拶としては少し不自然よね」
「…………」
「あと、ここ。なぜか『未来を切り開いていきましょう』の前に、全角スペースが二つ入っているんだけど」
「細かいな、おい!」
「委員長の挨拶なんだから、細かいところまで気を配りなさい!」
俺は原稿を奪い返した。
危なかった。
こいつ、文章の不自然さからAIの使用を疑っているのか?
いや、単に細かい性格なだけかもしれない。
どちらにせよ、今後はもっと自然な文章に仕上げる必要がありそうだ。
……次回からは。
こうして始業式は無事に終了した。
俺は席に戻りながら、ひそかに勝利をかみしめた。
だが、このときの俺は知らなかった。
原稿の隅に、AIが生成した文章とは別の、もっと厄介なものが書き込まれていたことを。
それは、俺の知らない誰かが残した、小さな文字だった。
――『秋月隆司は、妹に甘すぎる』
「いやぁ、ようやく終わった!」
教室へ戻った俺は、机に突っ伏した。
始業式なんてものは、長い話を聞いて、挨拶をして、校歌を歌うだけのイベントだ。
もちろん、大事な行事であることは分かっている。
分かってはいるのだが、俺の心はすでに別の場所へ飛んでいた。
さっさと帰宅してゲームに創作活動。
そして、積み上がったアニメの視聴。
完璧な休日……ではなく、完璧な始業式の後の時間が待っている。
「よし、帰ったら昨日の続きだな。今日は授業もないし、最高じゃないか」
俺は鞄を持ち上げた。
その瞬間、教壇から担任の先生の声が響いた。
「えー、皆さん。明日から本格的に授業が始まります。新しいクラスにも早く慣れて、勉学に励んでくださいね。それから、秋月君」
「はい?」
「今日の放課後、生徒会の仕事を忘れないように」
「…………はい」
そうだった。
生徒会。
俺は生徒会委員長。
しかも、年度初めの仕事は山ほどある。
部活動の予算配分、新入生向けの案内、年間行事の確認、各委員会との連絡。
そして、何より面倒なのが――副会長の杏子による進捗管理だ。
あいつは俺が一分でも遅れると、時計を見せながら説教を始める。
秒単位である。
もはや時計と一体化した生き物だ。
「はぁ……帰宅が遠のいたな」
俺は肩を落とした。
それでも、ひとつだけ楽しみがある。
愛しの妹、美咲だ。
美咲も今年から高校一年生。
しかも、入試では学年トップの成績を叩き出した秀才である。
兄として誇らしい限りだ。
ただし、妹のことになると、俺は少々……いや、かなり甘くなる自覚がある。
かわいいものはかわいいのだから仕方ない。
家族を大切にするのは、人として当然のことだ。
決して、それ以上の意味はない。
……ないったら、ない。
「よし、まずは美咲の顔を見てから生徒会室へ行くか!」
俺は廊下へ飛び出した。
一年C組。
教室の前まで来た俺は、勢いよく扉を開けた。
「おーい、美咲! 一緒に帰ろうぜ!」
教室中の視線が、一斉に俺へ向けられた。
しまった。
ここは一年生の教室だった。
二年生の委員長が、何の前触れもなく妹を迎えに来る。
冷静に考えれば、かなり目立つ行動である。
「……お兄ちゃん?」
美咲は友人たちとの会話を止め、呆れた顔でこちらを見た。
「何してるの?」
「何って、妹を迎えに来たんだが?」
「ここ、私の教室だよ?」
「知ってる」
「お兄ちゃんは二年生だよね?」
「そうだな」
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「妹を迎えに来たからだ!」
俺は胸を張った。
なぜか周囲がざわついた。
「えっ、あの人が秋月先輩?」
「生徒会委員長の?」
「妹さんがいるって聞いてたけど……」
やめろ。
そんなに興味津々で見ないでくれ。
俺はただ妹を迎えに来ただけなのだ。
すると、美咲が小さくため息をついた。
「お兄ちゃん、気持ちはうれしいけど、今は帰れないよ」
「なぜだ!?」
「これから生徒会でしょ? 私も書記として行くから、先に生徒会室に行ってて」
「……そうだった」
俺は額を押さえた。
すっかり忘れていた。
妹は入試でトップの成績を収めた実績もあり、恒例でトップの人材には生徒会の一員になる制度があった。
そして、美咲は生徒会の書記として任命された存在なのだ。
「分かった。じゃあ、先に行ってるからな。遅れるなよ?」
「それ、私の台詞だと思うけど」
「俺は委員長だぞ?」
「だから何?」
「……すみませんでした」
俺は素直に引き下がった。
そのとき、美咲の友人が興味深そうに尋ねた。
「美咲ちゃんのお兄さんって、学校ではすごく真面目なんだよね?」
「うん。成績もいいし、運動もできるし、先生たちからも信頼されてるよ」
「へえー! すごい!」
美咲はそこで一度、言葉を切った。
「ただし、家では別人だけどね」
「おい、そこ……余計なことを言うな!」
教室に笑い声が広がった。
俺は美咲を指さした。
「覚えてろよ……!」
「はいはい。お兄ちゃん、廊下で騒がないの」
「俺が悪いのか!?」
「今のところはね」
こうして俺は、妹の教室から追い出されるように退散した。
……くそっ。
俺の威厳はどこへ行った。
少なくとも、美咲の前では存在しないらしい。
生徒会室。
扉を開けた瞬間、俺の耳に鋭い声が飛び込んできた。
「隆司君! 遅いわよ!」
「うおっ!?」
思わず飛び退いた。
そこには、腕を組んで仁王立ちする杏子がいた。
今日も見事な説教態勢である。
「まだ開始時刻の五分前だろ?」
「生徒会委員長が率先して仕事を始めるのは当然でしょう!」
「開始時刻の意味を辞書で調べてくれないか?」
「屁理屈を言わない!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
まったく、朝から元気なやつだ。
杏子は成績優秀で、仕事もできる。生徒会の運営に関しては、俺もかなり頼りにしている。
ただ、俺に対する説教の量だけは、どうにかしてほしい。
「それで、今日の議題は?」
俺は椅子に座り、机の上に置かれた書類を手に取った。
「今年度の部活動予算の配分、それから年間行事の確認よ。新入生向けの案内も作成しなければならないわ」
「なるほど。予算配分は俺がやる。年間行事は杏子、新入生向けの案内は美咲がまとめてくれ」
「勝手に決めないで。まずは全員で仕事を分担するのが筋でしょう」
「お前がやりたい仕事を選べるように、俺が先に候補を出してやったんだよ」
「そういう言い方が腹立つの!」
「理不尽だなぁ……」
俺は苦笑しながら、予算の資料を開いた。
部活動の予算は、毎年揉める。
運動部は遠征費や用具代が必要だと言い、文化部は活動の成果を上げるために設備が必要だと主張する。
どの部も正当な理由を持っているため、単純に均等配分すればいいというものでもない。
しかし、俺には秘策があった。
「ふっ……今年は一味違うぜ」
「何が?」
「予算配分の自動計算シートをエクセルで作ってきた」
俺はノートパソコンを開いた。
画面には、各部の部員数、活動実績、必要経費、昨年度の予算などを入力した表が表示されている。
「各項目に重みづけをして、一定の基準で計算できるようにした。これなら感情論に左右されず、説明もしやすい」
杏子が目を丸くした。
「……いつの間に作ったの?」
「昨日の夜」
「昨日の夜って、始業式の挨拶を用意していた時間じゃないの?」
「それは別の作業だ」
「まさか、また夜更かししたんじゃないでしょうね?」
「さあな」
「隆司君!」
「はいはい、ちゃんと寝ますよ」
「絶対に反省してない!」
杏子は頭を抱えた。
しかし、表を確認すると、真剣な表情に変わった。
「……計算式はよくできてるわね。部員数だけでなく、必要経費や活動実績も考慮されてる」
「だろ?」
「でも、これだけでは判断できない部分もあるわ。例えば、新設されたばかりの部は活動実績が少ないでしょう?」
「その場合は個別に事情を確認する。数字だけで全部を決めるつもりはないよ」
杏子は少しだけ驚いた顔をした。
「……そういうところは、ちゃんと考えてるのね」
「俺を誰だと思ってる?生徒会長様だぞ!」
「普段の行動を見ていると、たまに分からなくなるわ」
「ひどい!」
俺たちが言い合っていると、扉が開いた。
「遅れてすみません。書類を持ってきました」
美咲が入ってきた。
手には、各部活動から提出された予算申請書がまとめられている。
「これ、昨日のうちに提出されていた分です。あと、今日の午後に追加で提出するって連絡があった部もあります」
「ありがとう、美咲。助かるよ」
「どういたしまして、お兄ちゃん」
美咲はにっこりと笑った。
杏子が俺と美咲を交互に見た。
「……美咲ちゃんは本当にしっかりしているのにね」
「おい、何が言いたい」
「別に?」
「今の『別に』には悪意があったぞ!」
美咲がくすくすと笑った。
まったく、こいつらは。
しかし、仕事は順調に進んでいた。
俺が予算案をまとめ、美咲が書類を整理し、杏子が内容を確認する。
この三人なら、かなり効率よく仕事を進められる。
少なくとも、今のところは。
「……あれ?」
予算案の確認を進めていた美咲が、ふと手を止めた。
「どうした?」
「お兄ちゃん、この申請書なんだけど……」
差し出された紙を受け取る。
そこには、文化部の一つから提出された申請内容が記載されていた。
「必要経費の合計が、計算と合ってないわね」
杏子が横からのぞき込んだ。
「本当だわ。申請額と明細の合計が一致していない。これ、提出前に確認したほうがいいわね」
「いや、待て」
俺は申請書を見直した。
金額の入力ミスなら珍しくない。
だが、今回は少し違う。
明細の数字を合計すると、申請額よりもきっちり一万円少なくなる。
しかも、別のページには、その一万円を説明する記載がある。
「……この書類、誰がまとめた?」
「文化部の代表者名が書いてあるわね」
杏子が答えた。
「でも、提出されたほかの書類と形式が少し違うわ。誰かが後から手を加えた可能性もあるかもしれない」
「おいおい、いきなり物騒な話になってきたな」
「可能性の話よ。決めつけるつもりはないわ」
俺は資料を机に置いた。
予算の数字が合わない。
ただの入力ミスかもしれない。
だが、年度初めの大切な書類だ。確認せずに処理するわけにはいかない。
「よし。明日、提出した部に確認を取ろう。今は他の書類を進めるぞ」
「そうね。必要なら、私からも確認しておくわ」
杏子はうなずいた。
そのときだった。
コンコン。
生徒会室の扉がノックされた。
「失礼しまーす」
入ってきたのは、制服の上から剣道部のジャージを羽織った森崎蓮司だった。
「うーっす。今日の見回りの件、報告に来たぞ」
「お疲れさま、蓮司。剣道部の練習は終わったのか?」
「ああ。今日は新年度の準備だけだったからな。ところで……」
蓮司は俺の机の上をのぞき込んだ。
「なんだ、その紙?」
「部活動の予算申請書。少し数字が合わなくてな」
「へえ。委員長様も大変だな」
「誰のせいで大変だと思ってるんだ?」
「いや、俺は何もしてないだろ」
蓮司は笑いながら椅子に座った。
こいつは中学時代からの親友だ。
剣道部の主将を務めるほどの実力者で、何をやらせても器用にこなす。
ただし、興味のないことには驚くほどやる気を出さない。
成績が伸びないのも、本人が勉強に本気を出していないからだ。
「それで、今日の見回りの報告だけどな。大きな問題はなかった。ただ、廊下で騒いでいた一年生を何人か注意した」
「新入生なんだから、多少は仕方ないだろ」
俺が言うと、杏子が即座に反応した。
「だからといって、規則を守らなくていい理由にはならないでしょう!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「……はい」
蓮司が吹き出した。
「お前ら、相変わらずだな」
「笑ってないで、お前も仕事をしろ」
「俺は見回り担当だからな。報告はした。任務完了だ」
「都合のいいときだけ真面目だな!」
「お前にだけは言われたくない」
ぐっ……。
正論はやめろ。
親友との会話に夢中になっていると、杏子が俺の机を指さした。
「ところで、隆司君。これは何?」
そこにあったのは、俺が先ほどから必死に隠していたノートだった。
表紙には、こう書かれている。
――『夏コミ新刊プロット・改訂版』
「…………」
しまった。
予算案の資料を取り出したとき、鞄から一緒に出してしまったらしい。
杏子の表情が、ゆっくりと険しくなっていく。
「隆司君」
「はい」
「これは?」
「……参考資料です」
「何の?」
「創作活動の」
「生徒会に必要なの?」
「人生には必要です」
「そういう話をしているんじゃない!」
杏子の怒声が、生徒会室に響き渡った。
美咲は口元を押さえて笑い、蓮司は机を叩いて爆笑している。
「お前、まだ同人誌を描いてたのかよ!」
「まだって何だ! 創作活動は人生の一部だぞ!」
「それは否定しないけど、仕事中にやるな!」
「いや、ちょっとした空き時間に構想を練ってただけだ。ちゃんと予算案も作ってるだろ!」
「だからって、堂々とノートを出しておくんじゃないわよ!」
杏子はノートを手に取った。
「ちょっと確認するわよ」
「待て! それだけはやめろ!」
「何よ、見られたら困ることでもあるの?」
「あるに決まってるだろ! 創作者には守るべき領域があるんだ!」
「……ますます怪しいわね」
俺は慌ててノートを取り返した。
危ない。
もし中身を読まれたら、俺の脳内に広がる壮大な物語の数々が白日の下にさらされてしまう。
それだけは避けなければならない。
「まったく……どうしてあなたみたいな人が、学年トップの成績なのかしら」
杏子は深いため息をついた。
「世の中には、理解しがたいことがあるものだな」
「あなた自身のことでしょうが!」
バシッ!
丸めた書類が俺の頭に命中した。
「痛っ! 暴力反対!」
「反省しなさい!」
「はいはい……」
そんな騒がしいやり取りを、美咲は楽しそうに眺めていた。
その視線に気づいた俺は、妹に助けを求める。
「美咲! お前からも何か言ってやれ!」
「そうだね。お兄ちゃん、仕事中はちゃんと仕事しようね?」
「裏切り者ぉぉぉ!」
生徒会室に、再び笑い声が響いた。
ひと騒動あったものの、その後の仕事は順調に進んだ。
予算案は大部分がまとまり、年間行事の確認も終了。美咲が整理してくれた書類のおかげで、明日確認すべき事項も明確になった。
「……ふう。ようやく終わったわね」
杏子が肩を回した。
「お疲れさん。これで帰れるな」
「そうね。ただし、明日までに予算案の修正版を提出すること」
「えっ?」
「あなたが作った計算シート、まだ確認が必要な項目があるでしょう?」
「いや、あれはもう完成しているんだが……」
「確認するの。いいわね?」
「……はい」
やはり、この女には逆らえない。
俺はパソコンを閉じ、鞄を持ち上げた。
「よし、帰るぞ。美咲、準備できたか?」
「うん。ちょっと待ってね」
美咲が書類を片づけている間、俺は椅子に座り直した。
そのとき、ふと気づいた。
「あれ? そういえば、俺のノートは?」
机の上を探す。
ない。
鞄の中を探す。
ない。
椅子の下を確認する。
やはり、ない。
「……おい、まさか」
俺は杏子を見た。
「杏子。俺の創作ノート、知らないか?」
「知らないわよ。ちゃんと自分で管理しなさい」
「蓮司は?」
「見てないぞ」
美咲も首を横に振った。
おかしい。
さっきまで、確かにここにあったはずだ。
俺は額に手を当てた。
あのノートには、夏コミ用の新刊プロットだけでなく、まだ誰にも見せていないアイデアが詰まっている。
もし誰かに拾われたら……。
「…………」
考えたくもない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「いや……何でもない」
俺は無理やり笑顔を作った。
とりあえず、明日の朝にもう一度探そう。
そう考えて、俺たちは生徒会室を出た。
校門の前で杏子と蓮司に別れを告げ、俺と美咲は並んで帰路についた。
「お兄ちゃん、今日は疲れたね」
「ああ。まったくだ」
「でも、予算の仕事、すごかったよ。あんな計算シートを作れるなんて」
「ふっ……俺の実力を思い知ったか」
「うん。だからこそ、どうしてあんなに普段の生活がだらしないのか不思議なんだけど」
「そこは触れない約束だろ!」
美咲は楽しそうに笑った。
夕暮れの道を、二人で歩く。
学校では生徒会委員長と書記。
家では兄と妹。
俺たちにとっては、いつもどおりの帰り道だった。
ただ、今日に限っては、ひとつだけ違うことがあった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「もし私が、学校でお兄ちゃんの知らない一面を見つけたら、どうする?」
「……何だよ、急に」
「ううん。ちょっと聞いてみたかっただけ」
美咲は前を向いたまま、微笑んだ。
「お兄ちゃんって、私が思っているより、ずっと面白い人なのかもしれないね」
「そりゃどういう意味だ?」
「秘密」
「おい、気になるだろ!」
「ふふっ。教えてあげない」
俺は首をかしげた。
まったく、妹という生き物は謎が多い。
……いや、うちの妹が特殊なだけかもしれない。
帰宅後、夕食を済ませた俺は、自室のベッドに倒れ込んだ。
「はぁぁぁ……疲れた……」
始業式に、生徒会の仕事に、杏子の説教。
おまけに、創作ノートまで行方不明になってしまった。
散々な一日である。
「まあ、明日になれば何とかなるだろ……」
俺はスマートフォンを手に取った。
その瞬間、通知が一件届いた。
差出人は不明。
メッセージには、短い文章が書かれていた。
『秋月隆司さんへ。
今日、生徒会室に忘れ物をしましたよね?
あなたの秘密、少しだけ見せてもらいました。
明日、放課後に生徒会室へ来てください。
誰にも言わずに』
「…………は?」
俺は画面を凝視した。
いやいやいや。
待て待て待て。
誰だよ。
何を見たんだよ。
というか、どうして俺の連絡先を知っているんだ!?
俺は勢いよくベッドから起き上がった。
「まさか……ノートを拾ったやつがいるのか?」
頭の中に、最悪の可能性が次々と浮かんでくる。
もし、あのノートの中身が誰かに知られたら。
もし、それが学校中に広まったら。
俺の完璧な委員長生活は、どうなる?
想像しただけで背筋が凍った。
「……くそっ。明日、絶対に突き止めてやる」
俺はスマートフォンを握りしめた。
そして、再びベッドに倒れ込む。
明日こそは、平穏な一日を取り戻す。
そう決意した直後、部屋の外から声がした。
「お兄ちゃーん。まだ起きてる?」
美咲だ。
「起きてるぞ。どうした?」
「明日も一緒に学校へ行こうね」
「……ああ、いいぞ」
「約束だよ?」
「分かった、分かった」
足音が遠ざかっていく。
俺はスマートフォンの画面をもう一度見つめた。
差出人不明のメッセージ。
消えた創作ノート。
そして、いつもより意味深な妹の言葉。
「……何なんだよ、いったい」
俺は天井を見上げた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
明日、生徒会室で待っている人物が、俺の想像をはるかに超える厄介な相手だということを。
そして、その人物との出会いが、俺と美咲、杏子、蓮司、そして三紀子の関係を、少しずつ変えていくことになるのだった。




