第14話 新学期早々、事件発生?!……って、なんでゲーム研究会を立ち上げることになったんだ?!
楽しかった夏休みが、終わった。
ペンションで過ごした時間、みんなで楽しんだイベント、そして思い出すたびに妙に意識してしまう出来事……。
今年の夏休みは、いつも以上に賑やかで、忘れられないものになった。
――ただし、楽しい時間というものは、どうしてこうも一瞬で過ぎ去ってしまうのだろう。
気づけば、新学期。
『夏休み、最高だったー!』
「……と、叫びたいところなんだけどな」
放課後の生徒会室で、隆司は机に突っ伏していた。
夏休みが終わった寂しさを噛みしめる暇もなく、机の上には新学期早々の書類が積み上がっている。生徒会長という肩書きは、休暇明けであろうと容赦してくれないらしい。
「隆司、感傷に浸るのは構わないけど、その書類は今日中に確認してね」
向かい側から、杏子の容赦ない声が飛んできた。
「分かってるよ。分かってるけどさ……夏休みが恋しいんだ」
「夏休みはもう終わったの。現実を見なさい」
「現実が厳しすぎるんだよ!」
隆司が顔を上げると、杏子は呆れたようにため息をついた。その隣では、妹の美咲が書類を整理しながら楽しそうに笑っている。
「でも、おにいちゃん。夏休み、楽しかったね!」
「それは間違いないな」
ペンションで過ごした時間。みんなで騒いだイベント。そして、ふとした瞬間に意識してしまった、いつもとは少し違う距離感。
思い出すと、自然に口元が緩む。
ところが、その余韻に浸っていられたのは、ほんの数秒だった。
「……あれ?」
隆司は、突然顔を上げた。
「どうしたの?」
美咲が首をかしげる。
「俺たちって、夏休みの間に何か決めなかったっけ?」
そのひと言で、室内の空気が止まった。
杏子が書類から顔を上げる。三紀子と詩織も、持っていたペンを止めた。
「……隆司くん」
三紀子が、何かを思い出したように口を開く。
「もしかして、あれのこと?」
「どれ?」
「ほら、夏休みの終わりごろに話してた……」
「だから、どれだよ!」
隆司が頭を抱えると、詩織があっさり答えた。
「ゲームを作ろうって話」
「ああ、ゲームね!」
隆司は、ぱっと顔を明るくした。
「そうそう! ゲームを作ろうって話をしたんだったな!」
「……それだけ?」
杏子の声が、わずかに低くなる。
「え?」
「あなた、まさか……」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「ゲーム同好会を立ち上げる話まで、忘れていたの?」
「…………」
隆司は、そっと視線をそらした。
「……あれ? 俺たちってなんでゲーム研究会を立ち上げようって言ったんだっけ? そもそも誰が言い出した?」
「あなたよっ!」
杏子の声が、生徒会室を揺らした。
「俺かよ!?」
「そうよ! あなたが言い出したの!」
「いや、待て! 夏休みはいろいろあっただろ! 記憶の整理が追いついてないんだ!」
「自分の計画まで整理対象にしないで!」
三紀子は額に手を当て、詩織は肩を震わせて笑っていた。
「すごいね、詩織ちゃん。ゲームを作る前に、リーダーの記憶からゲーム計画が消えるなんて」
「新ジャンルだね。記憶喪失系ゲームクリエイター!」
「そんなジャンルを開拓するな!」
蓮司は腕を組み、冷静に補足した。
「正式な部活動にするには人数が足りないから、まずは同好会として申請する。そういう話だったな」
「そう、それだ!」
隆司は勢いよく蓮司を指さした。
「さすが親友! 俺の記憶の欠落を補ってくれる!」
「自分で覚えておけ」
「正論で殴るな!」
こうして、ようやく計画の全貌が明らかになった。
ゲーム制作のメンバーは、隆司、杏子、三紀子、詩織の四人。杏子がプログラミングを担当し、隆司がCG制作と全体の制作管理を受け持つ。三紀子はシナリオ、キャラクター設定、イラスト。詩織は企画、演出、シナリオ監修、広報を担当する予定だった。
……予定だったのだ。
「というわけで、今日から動くわよ!」
杏子が机を叩いた。
「まず申請。それから活動場所と機材の確保。文化祭までに完成させたいなら、ぼんやりしている暇はないわ!」
「はいっ!」
隆司は反射的に背筋を伸ばした。
「よろしい。では、活動場所だけど……」
「旧資料整理室でいいんじゃないか?」
隆司が提案したのは、校舎の端にある、長らく使われていない教室だった。人通りが少なく、机を置いてパソコンで作業するには都合がいい。
「掃除は必要だけど、使わせてもらえれば十分だろ。パソコンは中古を買う。CG制作用は性能を重視して、プログラミング用は予算と相談だな」
「生徒会の予算から出すのは難しいわよ。活動内容に必要なものかどうか、きちんと説明しないと」
「分かってる。パソコンは俺が買うよ」
隆司の言葉に、三紀子と詩織も顔を見合わせた。
「私も少し出すよ。イラスト制作に使うなら、性能がいいほうが助かるし」
「私も。企画や広報の作業にも必要だからね」
杏子も小さくうなずいた。
「私も負担するわ。プログラミングの環境は、ちゃんと整えておきたいもの」
「おお……! みんな、ありがとう!」
隆司は感動したように三人を見回した。
「この友情、絶対に忘れない!」
「ゲーム同好会の計画を忘れていた人が言う台詞じゃないわね」
「ぐっ……!」
杏子の指摘が鋭く突き刺さった。
「それから、申請に行っている間、三紀子と詩織は旧資料整理室の掃除を頼む。机の配置も考えておいてくれ。蓮司は風紀委員の巡回、美咲は生徒会室で書類の整理をお願いしたい」
「了解!」
「任せて!」
三紀子と詩織は、妙に張り切った様子で返事をした。
隆司は念を押すように二人を見つめる。
「……ただし、部屋の札を作るときは、妙な名前にするなよ」
「妙な名前?」
「『禁断の創作聖域』とか『運命のゲーム神殿』とか、そういうのは禁止だ!」
三紀子と詩織は、一瞬だけ沈黙した。
「……詩織ちゃん」
「……三紀子ちゃん」
「どうして、私たちが考えそうな名前をピンポイントで禁止するのかな?」
「付き合いが長いからだよ!」
「失礼だなあ。私たちだって、普通の名前くらい考えられるよ!」
「その言葉、忘れるなよ……」
隆司は嫌な予感を覚えながら、杏子とともに職員室へ向かった。
もちろん、その予感は的中することになる。
ゲーム同好会の申請は、思ったよりも順調に進んだ。
生徒会の顧問に手続きを確認し、活動内容を説明。正式な部活動ではなく同好会として申請すること、旧資料整理室を活動場所として使用すること、必要な機材は自分たちで用意することを伝えた。
顧問については、ゲーム制作にイラストやCGが含まれることから、美術部の顧問を務める先生に相談することになった。
「秋月くんがゲーム制作か。絵の腕は確かだし、面白そうな活動だな」
先生は快く承諾してくれた。
隆司は学業だけでなく、美術の成績も優秀だ。普段は軽口を叩いてばかりいるものの、絵を描くときの集中力は周囲も認めるところだった。
必要な書類を提出し、活動場所の使用許可も下りた。
正式名称は――ゲーム同好会。
「よし! これで第一段階クリアだな!」
隆司は申請書の控えを掲げた。
「まだ第一段階よ。これからが本番なんだから」
杏子はそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
二人は旧資料整理室へ向かった。
そして、扉を開けた瞬間。
「「「ゲーム研究会、爆誕!」」」
三紀子と詩織の声が響き渡った。
部屋は驚くほどきれいになっていた。棚は整理され、机は相談しやすいように配置され、電源コードもきれいにまとめられている。
問題は、壁に貼られた札だった。
『ゲーム同好会・二次元嫁召喚計画実行委員会』
『ーム同好会・二次元世界創造機関』
『ゲーム同好会・禁断領域永久機関』
『ゲーム同好会・我らが推しと尊さと妄想が世界を救う(仮)』
「……お前ら」
隆司は、ゆっくりと振り返った。
「正式名称は?」
「ゲーム研究会!」
「違う!」
「……ゲーム同好会?」
「そうだよ!」
三紀子と詩織は、ようやく思い出したように顔を見合わせた。
「そうだった! 申請のときに決まったんだよね!」
「研究会のほうが響きがいいから、つい……」
「響きで学校の登録名を変えるな!」
杏子は壁の札を見て、深いため息をついた。
「……あなたたち、どうしてこういうところだけ全力なのよ」
「創作活動に妥協は禁物だから!」
「そこに全力を注ぐな!」
結局、札はすべて作り直しになった。
それでも、部屋の準備そのものは完璧だった。ホワイトボードには、改めて『ゲーム同好会、誕生!』と書かれている。
隆司は室内を見回し、満足げにうなずいた。
「よし。あとはパソコンを買えば、制作に取りかかれるな」
「その前に、生徒会の仕事を片づけましょう」
杏子の言葉に、隆司は現実へ引き戻された。
「……そうだった」
「忘れないでよ、もう!」
こうして、ゲーム同好会は無事に発足した。
ただし、このときの四人はまだ知らなかった。
文化祭までの道のりが、ゲーム制作だけでは済まないほど騒がしくなることを。
生徒会室へ戻ると、蓮司がいつになく難しい顔で窓際に立っていた。
「蓮司? どうした?」
隆司が声をかけると、蓮司は少し間を置いて答えた。
「巡回中に、気になることがあった。下級生が二年生の生徒四人に囲まれていたんだ」
室内の空気が変わった。
「いじめかもしれない、ということ?」
杏子が尋ねる。
「断定はできない。ただ、下級生は明らかに怯えていた。俺が近づくと四人は離れたが、あの様子は気になった」
蓮司は、直接注意すべきか迷っている理由も説明した。自分は風紀委員として巡回している。四人が自分の介入を知れば、下級生が告げ口したと決めつけて、後から仕返しをするかもしれない。
「……そうだな」
隆司の表情から、いつもの軽さが消えた。
「その場で怒鳴って終わりにしたら、かえって被害を受けた生徒を危険にさらす可能性がある」
彼は蓮司から、四人の名前、場所、時間、目撃した状況を確認した。事実と推測を分け、覚えている範囲で記録するよう頼む。
「杏子、生徒指導の先生に相談してほしい。今回だけ注意して終わりじゃなく、学校として継続的に対応できるようにしたいんだ」
「分かったわ。具体的には、どんなことを伝えればいい?」
隆司は、ひとつずつ整理して話した。
いじめの相談があった場合は、事実確認と対応を必ず行うこと。相談した生徒の情報を必要以上に広めず、匿名でも相談できる方法を用意すること。周囲の生徒が面白半分で加担しないようにすること。行為をした側への指導と再発防止策を明確にし、いったん止まったように見えても、その後の様子を定期的に確認すること。
「それから、被害を受けた生徒に『あなたにも原因があるんじゃないか』なんて言わない。無理やり謝らせて、それで解決したことにするのも駄目だ。本人がクラス全員の前で事情を説明させられるような対応も避けてほしい」
隆司の言葉は、いつになく真剣だった。
「大事なのは、本人が安心して学校生活を送れるようにすることだ。相手を注意して終わりじゃない。ちゃんとその後まで見なきゃ意味がない」
杏子は、話を聞きながら手帳に書き留めていた。
「……分かった。先生に伝えてくるわ」
「頼む」
「でも、隆司。あなたはどうするつもり?」
「俺は四人と話をしてくる」
杏子の表情が曇った。
「一人で行くの?」
「蓮司が動くと、風紀委員として目立ちすぎる。下級生が蓮司に相談したと思われる可能性もあるからな。俺は生徒会長として知られているけど、巡回担当としての蓮司ほど行動を把握されているわけじゃない」
「それでも、相手がどう出るか分からないでしょう」
「無茶はしない。先生への相談と並行して動くよ。相手の話も聞くけど、いじめを冗談で済ませるつもりはないって、はっきり伝える」
杏子はまだ心配そうだったが、隆司の決意が固いことも分かっていた。
「……必ず戻ってきなさいよ」
「もちろん」
隆司はそう答えて、生徒会室を出た。
校舎裏の通路で四人を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。
彼らは何事もなかったかのように談笑していた。隆司はその輪へ近づき、静かな声で話しかけた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだがな。今日、下級生を囲んでいたそうだな。何をしていた?」
「いや、別に。ちょっと話してただけっすよ」
「そうか。相手はずいぶん怖がっていたようだけどな」
四人の表情がわずかに変わった。
「誰から聞いたんですか?」
「今は、誰が何を言ったかを探る話じゃない。お前たちが何をしたのか、という話だ」
隆司は、ひとりずつ目を合わせた。
「複数人で一人を追い詰めるようなやり方が、俺は大嫌いなんだ。冗談のつもりでも、相手が怖がっているなら、それはもうお前たちだけの冗談じゃない」
「……別に、そこまでのつもりじゃ」
「なら、これ以上続ける必要もないよな?」
四人は黙り込んだ。
隆司は声を荒らげなかった。相手を殴ることも、胸ぐらをつかむこともしない。ただ、逃げ道のないところまで話を曖昧にさせない。
「今後も続けるつもりなら、俺もその遊びに参加させてもらおうか。もちろん、学校にもきちんと報告する。先生にも継続して対応してもらうからな」
「……分かりました。もうやりません」
一人が、気まずそうに答えた。
「その言葉だけで終わりにはしない。学校と相談して、今後の様子も確認する。被害を受けた生徒に無理やり謝らせれば解決、なんて考えるなよ」
四人は反論せず、その場を離れていった。
隆司は彼らの背中を見送りながら、深く息を吐いた。
これで解決したとは思っていない。だからこそ、学校の対応が必要だった。
生徒会室へ戻ると、美咲が心配そうに駆け寄ってきた。
「おにいちゃん、大丈夫だった?」
「ああ。話はしてきたよ」
隆司は妹の頭を軽くなでた。
「問題ない。これからは先生にも継続して様子を見てもらう」
美咲は、ようやくほっとしたように笑った。
やがて杏子も戻ってきて、生徒指導の先生に具体的な対応を伝えたことを報告した。学校側も事実確認と被害を受けた生徒の保護を優先し、再発防止のための継続確認を検討することになったという。
「ありがとう、杏子」
「当然のことをしただけよ。でも、次からは一人で動く前に相談して。あなたが正しいことをしようとしているのは分かるけど、危険がないとは限らないんだから」
「分かった。次は先に共有する」
「……本当に?」
「本当だって」
杏子は、ようやく少しだけ笑った。
「普段はあんなに適当なのに、こういうときは迷わないのね」
「褒めてる?」
「少しだけ」
「おお、珍しい!」
「ただし、普段からしっかりしていれば、もっと褒められるわ」
「結局そこに戻るのかよ!」
いつもの調子が戻り、生徒会室に笑い声が広がった。
そのあと、美咲がコーヒーと紅茶を用意していると、隆司がふと首をかしげた。
「……あれ? 俺たち、何か忘れてないか?」
杏子が、ゆっくりと顔を上げた。
二人の視線がぶつかる。
「……三紀子と詩織!」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「今ごろ思い出したの!?」
三紀子が頬を膨らませ、詩織は隆司の背後へ回り込んだ。
「隆司くん、私たち、ずっと待ってたんだよ?」
「いや、旧資料整理室の掃除を頼んだだろ!」
「掃除は終わったよ! 札も作り直したよ!」
「……お手柄だな、それはありがとう」
隆司がほっとした次の瞬間、詩織が背後から肩を押さえ、三紀子が両側から頬を引っ張った。
「待たせた罰!」
「いだだだだっ! 頬! 頬が伸びる!」
「美少女二人を放置した罪は重いよ!」
「自分で美少女って言うな!」
「事実だから問題ないよ!」
隆司が必死に抵抗する中、杏子は冷たい視線を向けていた。
「……ずいぶん楽しそうね」
「いや、これは違う! 俺は被害者だ!」
「そう。人気者でよかったわね」
「杏子、目が笑ってない!」
「笑う必要がある?」
「ありません!」
即答した隆司に、三紀子と詩織がにやりと笑った。
「……ねえ、詩織ちゃん」
「うん、三紀子ちゃん」
「今のやり取り、あとでじっくり分析したいね」
「同感!」
「分析するなあああっ!」
こうして、四人は生徒会の残りの仕事を片づけ、パソコンを買いに行くことになった。
電車で数駅。
四人が降り立ったのは、中古パソコンやスマホ、ゲーム関連の店、同人誌やフィギュアのショップが並ぶ電気街だった。
「まずはプログラミングの本を買って、そのあと中古パソコンだな」
隆司が予定を確認すると、杏子はすぐに書店へ向かった。
「この本、基礎から応用までまとまっているわ。サンプルも豊富だし、使えそうね」
「そんなに詳しい本を読むのか?」
「ゲームを作るなら必要よ。複雑なプログラムも、基礎を理解していなければ組めないもの」
「俺は必要なところを調べながら覚えてきたからな。杏子ほど詳しくはないよ」
「分からないところがあれば聞いて。必要な部分は一緒に確認しましょう」
「助かる」
二人が真面目に本を選んでいる間、三紀子と詩織は、別の棚に吸い寄せられていた。
「……詩織ちゃん」
「……三紀子ちゃん」
二人の視線の先には、同人誌の新刊コーナーがあった。
「限定版フィギュアもある!」
「待って、こっちには特典付きの新刊が!」
「おい、二人とも! まだ本を買ってないだろ!」
隆司が慌てて呼び止める。
「すぐ戻るから!」
「その『すぐ』を信じて、何度迷子になったと思ってるんだ!」
「迷子じゃないよ! 目的地が増えただけ!」
「それを迷子って言うんだよ!」
結局、二人は数分後、両手に本を抱えて戻ってきた。
「……お前ら、買い物の目的を覚えてるか?」
「もちろん! ゲーム制作の参考資料を買ったんだよ!」
「その袋の中身、全部参考資料なのか?」
「全部じゃないよ!」
「……一部はそうなのか」
「もちろん!」
「胸を張るな!」
杏子は何も見なかったことにするように、購入した本を袋へしまった。
ようやく中古パソコンの店へたどり着くと、隆司の表情が一変した。
CPU、メモリ、ストレージ、グラフィック性能、拡張性。彼は一台ずつ仕様を確認し、店員にも質問しながら候補を絞っていく。
「CG制作用は、グラフィック性能とメモリに余裕が欲しい。プログラミング用は、そこまで高性能じゃなくてもいいけど、メモリを増設できるほうがいいな」
「中古って、見た目だけじゃ分からないんだね」
三紀子が感心したように言った。
「内部の状態も大事だからな。あとからパーツを交換できるかどうかも確認しておきたい」
杏子も真剣に仕様を確認し、隆司と相談しながら二台を選んだ。
購入したパソコンは、予算内に収まった。家に余っているモニターも使い、古いノートパソコンは三紀子と詩織に貸すことになった。
「これで作業環境は整いそうだな」
隆司が満足げに言うと、詩織がにこにこしながら袋を持ち上げた。
「こっちも成果があったよ!」
「……その袋、何だ?」
「今日の戦利品!」
「戦利品って言うな!」
袋の中には、同人誌が山のように詰まっていた。
「お前ら、買いすぎだろ!」
「だって、限定品があったんだもん!」
「新刊もあったんだもん!」
「それで、これは何だ?」
隆司が一冊の表紙を見た瞬間、顔が引きつった。
『妹が可愛すぎて、兄の理性が仕事しません?!』
「返品しろおおおおおっ!」
「えーっ! 隆司くんにも参考になるかなって!」
「どこが参考になるんだよ!」
「タイトルのインパクトは強いよ?」
「そういう問題じゃない!」
杏子は本の表紙を見たあと、隆司へゆっくり視線を向けた。
「……隆司」
「違うからな!? 俺が買ったんじゃないからな!?」
「まだ何も言ってないわよ」
「その顔が怖いんだよ!」
三紀子と詩織は、ついに堪えきれずに笑い出した。
隆司は頭を抱えた。
ゲーム同好会の活動は、まだ始まったばかりだというのに。
この二人を相手にしていたら、ゲームが完成する前に自分の精神が完成してしまいそうだった。
翌日から、ゲーム制作は本格的に始まった。
旧資料整理室にはパソコンが設置され、四人が相談しやすいように机が並べられた。ホワイトボードには、文化祭までにゲームを完成させるという目標が大きく書かれている。
「ゲームのジャンルは、弾幕シューティングにしよう」
隆司の提案に、杏子がうなずいた。
「そのほうが開発規模を調整しやすいわね。文化祭までに完成させるなら、システムを複雑にしすぎないことが大切よ」
「操作はシンプルにして、スコアを競えるようにしよう。短い時間でも遊べるし、繰り返し挑戦してもらえる」
三紀子は、キャラクターのラフを描き始めた。
「じゃあ、見た目で興味を持ってもらえるように、キャラクターのデザインを工夫するね」
「私は企画と広報を担当するよ。文化祭のポスターも作る。夏コミのときの経験を活かせると思う」
詩織も、今度は真剣な表情でパソコンに向かった。
ところが、数分後。
「……ねえ、三紀子ちゃん」
「何?」
「シューティングゲームの主人公に、禁断の秘密を背負わせるのはどうかな?」
「待って、詩織ちゃん。それなら、敵キャラとの関係性にも深い因縁を――」
「や・め・ろ!」
隆司が即座に止めた。
「今回のゲームに恋愛ドラマを混ぜるな! まずは遊べるものを完成させるんだ!」
「ちぇーっ」
二人は不満そうに口を尖らせた。
それでも、作業が始まれば話は別だった。
三紀子は集中してキャラクターのデザインを進め、詩織はゲームの魅力をどう伝えるか考えながら、ポスターの構図を練っていく。杏子はプログラムの基礎部分を組み立て、隆司はCG素材を制作しながら全体の進捗を管理した。
互いの得意分野が少しずつ形になっていく。
放課後の短い時間だけでは足りず、四人は授業の合間にも相談を重ねた。隆司は授業中に冬コミ向けの同人誌のプロットを考えることもあったが、ゲーム制作の進捗管理だけは忘れないよう、ノートに予定を書き込むようになった。
「……少しは学習したみたいね」
杏子が、そのノートを見て言った。
「俺だって成長するんだよ」
「自分で言うことじゃないわ」
「厳しいなあ」
そんなやり取りを交わしながら、四人は文化祭へ向けて準備を進めた。
一方、クラスでは別の準備も進んでいた。
占いの館の装飾は、少しずつ洋風の雰囲気をまとい始めていた。
黒い布で覆われた小さなテーブル。金色の縁取りが施された看板。深い紫色のカーテン。壁には星や月をかたどった飾りが取り付けられ、暖色の電飾が柔らかく光る。
中央のテーブルには、星座図やタロットカード、古びた洋書風の小道具が並べられた。
占いを担当するのはクラスでは目立たない存在だが、裏では女子連中には知名度は高い。
占いが得意で滅多に外さないことで知られている。黒瀬玲奈
「……いい感じじゃない?」
詩織が、装飾を眺めて満足げに言った。
「占いの館というより、ヨーロッパの古い屋敷みたいな雰囲気だね」
三紀子も、仕上がりを確認してうなずいた。
「黒瀬さんの衣装も、これに合わせるんだよね?」
「うん。黒を基調にしたロングスカートに、紫のリボン。小さな帽子も合わせる予定だって」
玲奈が用意した衣装は、派手すぎず、それでいて占い師らしい神秘的な雰囲気を備えていた。
準備を進めるうちに、三紀子と詩織は、いつもの妄想とは違う方向へと熱中し始めた。
「この照明、もう少し暗くしたほうがいいかな?」
「でも、暗すぎるとカードが見えないよ。テーブルだけ明るくして、周囲は少し落とそう」
「なるほど。じゃあ、入口に小さな星のランタンを置こう」
二人は、文化祭の来場者がどんな気持ちで扉を開けるのかまで考えながら、細かい演出を調整していった。
ふざけているだけではない。
人を楽しませることに関して、二人は意外なほど真剣だった。
そして、その努力は文化祭当日、思わぬ形で発揮されることになる。
文化祭当日。
校舎は朝から賑やかな声に包まれていた。
廊下には色とりどりの看板が並び、教室からは音楽や呼び込みの声が聞こえてくる。生徒たちはそれぞれの出し物の準備に追われ、普段の学校とはまるで違う空気が流れていた。
隆司たちのクラスも、開場前の最終確認に追われていた。
占いの館は、外から見るだけでも目を引く仕上がりになっていた。
紫色のカーテンの向こうには、星空を思わせる飾りが広がり、入口には金色の文字で『運命の赤い糸・縁結びの館』と書かれた看板が掲げられている。
「……これ、思った以上に本格的だな」
隆司が感心すると、三紀子が腕を組んだ。
「当然でしょ。せっかくやるなら、来てくれた人に楽しんでもらわなくちゃ」
「装飾だけじゃなくて、案内の流れも考えたよ。混雑したら入口で整理券を配るし、占いの内容を無理に聞き出すこともしない」
詩織の説明に、隆司は素直に感心した。
「二人とも、ちゃんと考えてたんだな」
「……その言い方、ちょっと失礼じゃない?」
「単純に普段の行動を考えると、意外だったんだよ」
「隆司くん、あとで覚えておいてね」
詩織が笑顔で言う。
「その台詞、怖いからやめろ!」
やがて開場の時間となった。
最初に訪れたのは、恋占いに興味津々の女子生徒たちだった。
「本当に恋占いが当たるんですか?」
玲奈は、占い師の衣装に身を包み、静かな微笑みを浮かべていた。
「未来を全部言い当てることはできないよ。でも、自分の気持ちを整理するお手伝いならできると思う」
テーブルの上で、カードが一枚ずつめくられる。
玲奈は相手の話を丁寧に聞き、カードの意味を説明しながら、その人自身が何を望んでいるのかを問いかけていった。
占いを終えた女子生徒は、入ってきたときよりも少し晴れやかな顔で出ていった。
「すごい……! なんだか、背中を押してもらえた気がする!」
その感想が廊下に広がると、館の前には少しずつ列ができ始めた。
三紀子と詩織は、案内役として大忙しだった。
「次の方、こちらへどうぞ!」
「占いは一人ずつだよ。秘密の相談も安心してね!」
「……ねえ、詩織ちゃん」
「何?」
「私たち、意外と接客向いてるんじゃない?」
「うん。少なくとも、隆司くんをからかうより健全な才能の使い方だね」
「その比較はやめろ!」
隆司は苦笑しながら、案内の手伝いを続けた。
その一方で、ゲーム同好会の展示も順調だった。
旧資料整理室で制作した弾幕シューティングゲームは、文化祭の展示用に調整され、来場者が短時間で遊べるようになっていた。詩織が作ったポスターは目を引くデザインに仕上がり、三紀子のイラストがゲームの世界観を鮮やかに伝えている。
「これ、君たちが作ったの?」
訪れた生徒が驚いたように画面を見つめた。
「そうだよ。まだ改善できるところはあるけど、文化祭に間に合ったんだ」
隆司が説明すると、杏子が隣から補足した。
「操作はシンプルだけど、スコアを伸ばすには弾の動きを見極める必要があるわ。ぜひ挑戦してみて」
実際に遊んだ生徒たちは、何度も挑戦してスコアを競い始めた。
「もう一回!」
「さっきより先まで行けた!」
「この弾幕、避けられそうで避けられない!」
四人は、ゲームが人を楽しませていることに喜びを感じた。
特に杏子は、自分が組んだプログラムが目の前で動き、生徒たちが夢中になって遊んでいる姿を見て、いつもより表情が柔らかかった。
「……頑張ってよかったわね」
彼女が小さく言うと、隆司もうなずいた。
「ああ。四人で作ったものが、ちゃんと誰かに楽しんでもらえてる」
二人の視線が、自然と合った。
杏子は少しだけ微笑み、隆司もつられて笑った。
その光景を、少し離れたところから見ていた美咲は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
兄が楽しそうにしている。
それは嬉しいことのはずだった。
けれど、杏子と並んで笑う兄は、いつも自分が知っている兄とは少し違って見えた。
自分の知らない時間を過ごし、自分の知らない顔を見せる。
それは当たり前のことだ。
隆司は兄である前に、一人の人間なのだから。
それでも美咲は、その事実を素直に受け入れられない自分に気づいてしまった。
「……私、何を考えてるんだろう」
美咲は小さくつぶやき、手元の雑誌を抱きしめた。
そこへ、杏子が声をかけた。
「美咲ちゃん。少し休憩しない?」
「杏子先輩……」
「ずっと案内を手伝ってくれていたでしょう? 飲み物を買いに行くついでに、一緒に休みましょう」
美咲は一瞬だけ迷ったあと、笑顔でうなずいた。
「はい!」
二人は人混みを抜け、校舎の窓際にある休憩スペースへ向かった。
そこで杏子は、何気ない調子で尋ねた。
「美咲ちゃんは、文化祭を楽しめている?」
「うん。すごく楽しいです! おにいちゃんたちのゲームも、すごかったし……」
美咲はそこで言葉を止めた。
「……杏子先輩は?」
「私?」
杏子は少し考えた。
「楽しいわ。ゲームも完成したし、占いの館も盛況だし。……それに、普段とは違う隆司を見られたから」
その言葉に、美咲の胸がわずかに揺れた。
「……普段とは違う、おにいちゃん?」
「ええ。自分が作ったものを、誰かが楽しんでくれる。その姿を見て、心から喜んでいるの。そういうところは、いつもと少し違う気がするわ」
杏子は、窓の外へ目を向けた。
「……私、隆司のそういうところが好きなのかもしれない」
言ってから、杏子自身が驚いた。
まるで、胸の奥にしまっていた気持ちが、口からこぼれてしまったようだった。
美咲は何も言えなかった。
杏子の言葉は、静かだった。
けれど、その静けさの中には、誤魔化しようのない本音があった。
「……杏子先輩」
「ごめんなさい。急にこんな話をして」
杏子は慌てて笑顔を作った。
「今のは、忘れてちょうだい」
「……ううん」
美咲はゆっくりと首を振った。
「忘れないです」
自分でも、どうしてそう答えたのか分からなかった。
ただ、杏子の気持ちをなかったことにしたくなかった。
同時に、その気持ちを聞いてしまった自分の心が、思っていた以上にざわついていることにも気づいていた。
午後になると、占いの館はさらに賑わいを増した。
そして、ついに隆司たちの番がやってきた。
「……え、俺たちも占うのか?」
隆司が尋ねると、三紀子は当然という顔でうなずいた。
「もちろん! せっかく恋占いの館をやってるんだから、メンバーも体験しなくちゃ!」
「いや、俺はいいよ。運勢なんて自分で切り開くものだろ?」
「そう言う人ほど、占い甲斐があるんだよ」
詩織がにっこり笑った。
「それに、黒瀬さんが三人を占ってみたいって」
「三人?」
隆司が振り返ると、そこには杏子と美咲がいた。
「……え?」
「私も占ってもらうことになったの」
杏子が少しだけ頬を赤くして答える。
「私も……」
美咲は、兄の顔を見つめた。
「おにいちゃんと杏子先輩が占うなら、私も受けてみたいな」
三紀子と詩織は、目を合わせた。
いつもの妄想を始めそうな顔をした二人だったが、今回は何も言わなかった。
代わりに詩織が、案内役として静かにカーテンを開けた。
「それじゃあ、どうぞ。運命の赤い糸・縁結びの館へ」
占いの部屋は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
紫色のカーテンに囲まれた小さな空間。テーブルの上では、星形のランタンが柔らかい光を放っている。窓のない壁には星座図が飾られ、黒い布の上にタロットカードが整然と並べられていた。
黒瀬玲奈は、いつもの静かな表情で三人を迎えた。
「来てくれてありがとう。今日は、三人とも恋占いでいい?」
「……ええ」
杏子が答えた。
美咲も小さくうなずく。
隆司だけは、まだ少し困った顔をしていた。
「本当に、俺もやるのか……」
「嫌なら無理にとは言わないよ」
玲奈は穏やかに答えた。
「でも、占いは誰かの気持ちを決めつけるものじゃないから。自分がどう思っているのか、考えるきっかけになればいいと思う」
その言葉を聞いて、隆司はようやく椅子に座った。
「……分かった。じゃあ、頼むよ」
最初は、隆司からだった。
玲奈はカードを混ぜ、彼に一枚引くよう促した。
隆司が引いたカードを見て、玲奈はしばらく黙っていた。
「……大切な人を守りたい気持ちが強いみたいだね」
「守りたい?」
「うん。誰かが困っていたら放っておけない。相手が笑っていれば安心するし、悲しんでいたら何とかしてあげたくなる。そんな気持ちがあるんじゃないかな」
隆司は、少しだけ考え込んだ。
「……まあ、そうかもしれないな」
美咲の顔が頭に浮かんだ。
小さいころから、妹が困っていれば手を差し伸べてきた。泣いていれば慰め、失敗して落ち込んでいれば励ました。美咲が笑っていると、自分まで安心する。
それは兄として当然のことだと思っていた。
けれど、最近はどうだろう。
美咲が成長して、自分の世界を広げていくことを嬉しく思う一方で、少しだけ寂しいと感じることがある。
自分が知らない場所で、知らない人と笑っている。
それを見て、ほっとするはずなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
「……ただね」
玲奈の声が、隆司を現実へ引き戻した。
「誰かを大切に思うことと、その人の気持ちを全部自分で背負うことは違うよ。相手を守りたいと思うなら、相手が自分で選ぶことも大切にしなくちゃいけない」
隆司は、すぐには答えられなかった。
自分は、美咲を守りたいと思っている。
それは間違いない。
でも、美咲が自分の知らない世界へ進んでいくことを、本当に心から応援できているのだろうか。
玲奈はカードをそろえた。
「……答えは、今すぐ出さなくてもいいと思う」
その言葉に、隆司は小さくうなずいた。
「ありがとう。なんだか、考えさせられたよ」
次は美咲だった。
美咲は少し緊張しながらカードを引いた。
玲奈はカードを見つめ、静かに尋ねた。
「美咲さんには、とても大切な人がいるんだね」
「……はい」
「その人が幸せでいてほしい。笑っていてほしい。そう願っている。でも、その人が自分の知らない誰かと親しくしていると、少し寂しくなってしまうこともある?」
美咲の指が、膝の上でぎゅっと握られた。
「……どうして、分かるんですか?」
「カードだけじゃないよ。さっきから、あなたはお兄さんのことを気にしているように見えたから」
玲奈は、カードを一枚、美咲の前に置いた。
「大切な人が、自分以外の誰かと笑っている。それは、あなたがその人を大切に思っているからこそ、少し寂しく感じるのかもしれないね」
美咲は唇を結んだ。
兄のことが大好きだ。
それは、小さいころから変わらない。
優しくて、頼りになって、時々いい加減で、でも本当に困ったときには必ず助けてくれる。
そんな兄が、これからも自分のそばにいてくれたらいい。
けれど、兄には兄の人生がある。
杏子のように、隣に立って一緒に歩いていける人が現れたら――。
「……おにいちゃんが幸せなら、私は嬉しいです」
美咲は、ゆっくりと言葉にした。
「でも……少しだけ、寂しいのかもしれません」
玲奈は、否定も肯定もしなかった。
ただ、優しくうなずいた。
「その気持ちを、無理に悪いものだと思わなくていいよ。大切な人との関係が変わるのは、誰だって少し怖いものだから」
美咲の目が、わずかに潤んだ。
「でも、相手を大切に思うなら、自分の気持ちだけで相手の未来を決めないことも大事だよね」
「……はい」
美咲は小さくうなずいた。
胸の奥にあった感情が、少しだけ言葉になった気がした。
そして最後は、杏子だった。
杏子は、カードを引く前から緊張していた。
普段なら、どんな質問にも冷静に答えられる。勉強でも、生徒会の仕事でも、問題を整理して考えることができる。
けれど、恋のことだけは違った。
自分が隆司に惹かれていることを、もう誤魔化すことはできない。
それでも、どうして彼なのか。なぜ彼の何気ない言葉で嬉しくなり、他の女の子と楽しそうにしている姿を見ると胸がざわつくのか。
その理由を、杏子自身がまだうまく説明できずにいた。
玲奈はカードをめくった。
そして、杏子の表情を静かに見つめた。
「……あなたは、好きな人の前では、いつもより厳しくなってしまうことがある?」
「えっ……?」
杏子は思わず顔を上げた。
「相手にしっかりしてほしい。無理をしてほしくない。もっと自分を大切にしてほしい。そう思うから、つい口うるさくなってしまう」
「……っ」
杏子の頬が赤くなった。
隆司の顔が、頭に浮かぶ。
忘れ物をする。計画を忘れる。自分のことは後回しにするくせに、困っている人がいれば真っ先に動く。
放っておけない。
心配になる。
もっと自分を大切にしてほしい。
その気持ちが、いつの間にか、彼に認めてもらいたいという願いに変わっていたのかもしれない。
「……好きな人の気持ちが分からないとき、どうすればいいのでしょうか」
杏子は、気づけばそう尋ねていた。
玲奈は、少しだけ考えてから答えた。
「相手の気持ちを想像することはできる。でも、想像だけで答えを決めないことだと思う。自分の気持ちを隠して、相手に気づいてもらうのを待つだけでは、伝わらないこともあるから」
杏子は、膝の上で手を握りしめた。
「……もし、伝えたことで、今の関係が変わってしまったら?」
「変わるかもしれないね」
玲奈は、正直に答えた。
「でも、変わることが全部、悪いこととは限らないよ。何も言わないまま、ずっと同じ場所にいることだって、苦しいことがあるでしょう?」
杏子は、すぐには返事ができなかった。
今の関係は、心地よい。
隆司の隣で仕事をして、言い合いをして、時々笑い合う。困ったときには頼られ、彼の力になれる。
けれど、その関係に甘えている限り、自分の気持ちは伝わらないままかもしれない。
「……ありがとう、黒瀬さん」
杏子は、ようやく微笑んだ。
「少し、考えてみるわ」
占いを終えた三人は、カーテンの外へ出た。
そのとき、玲奈が隆司を呼び止めた。
「秋月くん」
「ん?」
「誰かを大切にすることと、その人に自分を必要としてもらうことは、少し違うと思う」
隆司は足を止めた。
「……どういう意味だ?」
「あなたは、誰かの役に立つことで、その人のそばにいようとしているのかもしれない。でも、相手があなたを必要としているかどうかだけで、自分の価値を決めなくてもいいんだよ」
玲奈は、穏やかに微笑んだ。
「大切な人が自分の力で歩いていけるようになったとき、それを寂しいと思ってもいい。でも、その人の未来を喜んであげることもできる。どちらか一つだけが、本当の気持ちとは限らないから」
隆司は、何も言えなかった。
美咲の笑顔が浮かぶ。
妹が成長していくことは嬉しい。
けれど、いつまでも自分を頼ってほしいという気持ちも、どこかにある。
それは、妹を大切に思っているからなのか。それとも、自分が必要とされなくなることを恐れているからなのか。
答えは、まだ出なかった。
占いの館を出たあと、三人はしばらく言葉を交わさなかった。
美咲は、先ほどの占いを思い返していた。
杏子は、隆司のことを好きなのだ。
その気持ちは、今までの言動を振り返れば、決して不思議ではなかった。厳しく注意しながらも、いつも隆司を気にかけている。彼の努力を認め、困ったときには力になろうとする。
そして、隆司もまた、杏子を信頼している。
二人は一緒に仕事をし、互いの得意分野を認め合い、時には言い合いながらも自然に隣へ並ぶ。
美咲には、それが少し眩しかった。
「……美咲?」
隆司が声をかける。
「どうした? 疲れたのか?」
「ううん。大丈夫だよ、おにいちゃん」
美咲は笑顔を作った。
「ちょっと、占いのことを考えてただけ」
「そっか。何か気になることがあったら、いつでも話せよ」
その言葉に、美咲は胸が締めつけられるような気がした。
いつもと同じ、優しい兄の言葉。
でも、自分が何を感じているのか、どうして寂しいのか。それを話すことはできなかった。
「……ありがとう」
美咲は、小さく答えた。
その様子を見ていた杏子は、胸の奥がちくりと痛んだ。
美咲は隆司の妹だ。
二人の間には、長い時間をかけて築かれた絆がある。自分がどれだけ隆司を理解しようとしても、決して同じ場所には立てない。
それを寂しいと思う自分がいた。
同時に、美咲のことも大切に思っている。
彼女は素直で、明るく、誰に対しても優しい。そんな美咲の気持ちを、自分の恋のために傷つけたくはなかった。
――それでも。
隆司の隣に立ちたい。
いつか、一人の女性として、自分を見てほしい。
杏子は、その気持ちから目をそらさないことにした。
「……隆司」
「ん?」
「文化祭が終わったら、少し話したいことがあるの」
隆司は不思議そうに杏子を見た。
「話したいこと?」
「ええ。……大事なことよ」
杏子はそれだけ言って、先に歩き出した。
隆司はその背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。
午後の文化祭は、さらに賑わいを増していた。
占いの館には列ができ、ゲーム同好会の展示では、スコアを競う生徒たちの歓声が上がっている。
三紀子と詩織は、忙しさの中でも手際よく案内を続けていた。
「次の方、こちらへどうぞ!」
「占いの順番はこちらで確認します。相談内容は、ほかの人に聞こえないように配慮するから安心してね!」
その働きぶりは、クラスメイトたちからも好評だった。
ところが、列が少し落ち着いたタイミングで、三紀子がふと隆司たちの姿を見つけた。
「……詩織ちゃん」
「何?」
「さっきから、三人の様子がちょっと違わない?」
詩織は、隆司と杏子、美咲を見た。
三人は、いつもどおりに話しているように見える。
けれど、会話が途切れるたびに、誰かが何かを言いかけては飲み込んでいるようだった。
「……うん。占いで何かあったみたいだね」
「でも、今回は妄想で決めつけるのはやめておこう」
三紀子が珍しく真面目な顔で言った。
「そうだね。本人たちが話すまで、そっとしておこう」
詩織も、いつもの調子を少し抑えた。
二人は顔を見合わせ、すぐに案内の仕事へ戻った。
その直後、入口で小さな騒ぎが起きた。
「えっ、整理券がもうないの!?」
「ごめんなさい。今の時間帯は予約でいっぱいなんです!」
来場者が増えすぎて、占いの館は一時的に受付を止めることになったのだ。
三紀子はすぐに案内板を書き換え、詩織は列が混乱しないように声をかけた。
「申し訳ありません! 次の受付時間をこちらに掲示します!」
「ゲーム同好会の展示もおすすめだよ! 待ち時間の間に遊んでみてね!」
二人の機転のおかげで、混乱はすぐに収まった。
その様子を見ていた隆司は、感心したようにうなずいた。
「……あいつら、やるときは本当にやるんだな」
杏子も笑った。
「ええ。普段の騒がしさだけが、二人のすべてじゃないもの」
「そうだな」
隆司は、二人が一生懸命に動く姿を見つめた。
自分たちが作ったゲームも、クラスで準備した占いの館も、誰かの努力が積み重なって形になったものだ。
そのことが、今さらながら嬉しかった。
夕方が近づくにつれ、文化祭は終わりの時間へ向かっていた。
ゲーム同好会の展示では、最後までスコアを更新しようとする生徒たちが集まり、占いの館も最後の予約客を迎えていた。
美咲は、片づけの準備をしながら、兄の姿を目で追っていた。
隆司は、ゲームの説明をしながら来場者に笑いかけている。杏子は隣でプログラムの仕組みを説明し、二人は息の合ったやり取りを見せていた。
それは、とても自然な光景だった。
だからこそ、美咲は気づいてしまった。
自分が兄の隣にいるときと、杏子が隣にいるときでは、少しだけ違う。
美咲にとって隆司は、頼れる兄であり、ずっと自分を守ってくれた大切な存在だ。
けれど、杏子は隆司の隣で、彼と同じ目線から未来の話をしている。
一緒に考え、意見を交わし、同じ目標へ向かって歩いている。
それは、妹である自分とは違う関係だった。
「……そっか」
美咲は、小さくつぶやいた。
自分は、兄が変わっていくことを寂しいと思っていた。
でも、本当は、兄が変わることそのものが怖かったのかもしれない。
いつか兄が、自分よりも大切にしたい人を見つける。
そのとき、自分は今までどおり、兄のそばにいられるのだろうか。
「美咲ちゃん?」
声をかけてきたのは、杏子だった。
「どうしたの? 少し元気がないように見えるけど」
美咲は慌てて笑顔を作った。
「大丈夫です、杏子先輩! ちょっと疲れただけ」
杏子は、美咲の顔をしばらく見つめた。
本当は、もっと聞きたいことがあった。
美咲が何を感じているのか。自分の気持ちを、どう受け止めているのか。
けれど、無理に聞き出すことはできなかった。
「……そう。無理はしないでね」
「はい」
美咲はうなずいた。
杏子が離れていくと、美咲はそっと胸に手を当てた。
まだ、答えは見つからない。
それでも、兄を大切に思う気持ちも、杏子を大切な先輩だと思う気持ちも、どちらも嘘ではなかった。
だからこそ、簡単には割り切れない。
美咲は深く息を吸い、顔を上げた。
今は、文化祭を最後まで楽しもう。
自分の気持ちと向き合うのは、そのあとでもいい。
文化祭終了のアナウンスが流れた。
校内に響いていた音楽や呼び込みの声が少しずつ静まり、来場者たちは名残惜しそうに校門へ向かっていく。
占いの館では、玲奈が最後のカードを片づけていた。
「黒瀬さん、お疲れさま!」
三紀子が飲み物を差し出して声をかけると、玲奈は微笑んだ。
「みんなが頑張ってくれたおかげだよ。たくさんの人に来てもらえて、よかった」
「占い、すごく好評だったよ!」
詩織も嬉しそうに言った。
「みんな、帰るときには表情が明るくなってた。黒瀬さんの言葉に、勇気をもらった人も多いと思う」
玲奈は少し照れたように目を伏せた。
「……そうだといいな」
彼女は、片づけの手を止めて、教室を見回した。
文化祭の準備を通じて、クラスメイトたちはいつもより多くの時間を共有した。得意なことを持ち寄り、苦手なことを補い合い、ひとつのものを完成させた。
それだけでも、十分に意味のあることだった。
一方、ゲーム同好会の展示でも、最後の来場者が帰っていった。
「……終わったな」
隆司は、空になった椅子を見つめた。
「ええ。何とか文化祭に間に合ったわね」
杏子が隣で答える。
「正直、最初はどうなるかと思ったけどな」
「計画を忘れていた人が言う台詞じゃないわ」
「まだその話をするのかよ!」
杏子は笑った。
「でも……楽しかったわ。自分たちで作ったものを、誰かが楽しんでくれるって、いいものね」
「ああ。本当にそう思う。夏コミとは違う感覚だ」
隆司は、画面に表示されたゲームのタイトルを見つめた。
完成度は、まだ完璧ではない。改善したい部分もあるし、追加したい機能もある。
それでも、四人で作ったゲームは、確かに誰かの楽しみになった。
「……次は、もっといいものを作ろう」
隆司が言うと、杏子はうなずいた。
「ええ。今度は最初から、ちゃんと計画を立ててね」
「はい……」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
少し離れた場所では、三紀子と詩織がポスターを片づけていた。
「今回のポスター、評判よかったね!」
「うん。来年はもっと大きな展示にしてもいいかも!」
「ゲームも、次は別のジャンルに挑戦したいね」
「……恋愛シミュレーションとか?」
三紀子が、ちらりと隆司を見る。
詩織も、にっこり笑った。
「いいね。主人公のモデルは、身近な人から選んで……」
「お前ら、まだ諦めてなかったのか!」
隆司の叫びが、片づけの終わった教室に響いた。
杏子は呆れながらも、笑いをこらえきれなかった。
「……本当に、最後まで騒がしいんだから」
その笑顔を見て、隆司は少しだけ安心した。
けれど、占いの館で交わした言葉は、まだ胸の奥に残っていた。
自分は、誰かを大切にすることと、その人に必要とされることを、混同していないだろうか。
美咲が成長していくことを、本当に心から喜べているだろうか。
そして、杏子が自分に向けてくれる気持ちに、どこまで気づいているのだろうか。
答えは、まだ見つからない。
それでも、今まで見ないふりをしてきた気持ちが、少しずつ形になり始めている。
片づけが終わるころ、校舎の窓から夕日が差し込んでいた。
美咲は、生徒会室へ戻る途中で、廊下の窓辺に立つ隆司を見つけた。
「おにいちゃん?」
隆司は振り返った。
「おう、美咲。片づけは終わったのか?」
「うん。みんな、頑張ってたよ」
「そっか。お疲れさま」
隆司は、いつものように妹の頭をなでようと手を伸ばした。
美咲は一瞬だけ、その手を見つめた。
そして、少しだけ背伸びをして、兄の手をそっと握った。
「……おにいちゃん」
「ん?」
「これからも、私のこと……ちゃんと見ていてね」
隆司は驚いたように目を瞬かせた。
「……当たり前だろ」
彼は、妹の手を優しく握り返した。
「美咲は、ずっと俺の大切な妹だよ。何があっても、それは変わらない」
美咲の胸が、じんわりと温かくなった。
けれど、同時に、少しだけ切なかった。
「……妹」
兄が自分を大切に思ってくれていることは分かっている。
それでも、いつか兄が別の誰かと人生を歩むようになったら、自分の居場所はどう変わるのだろう。
今はまだ、その答えを出せない。
「……ありがとう、おにいちゃん」
美咲は笑顔を浮かべた。
その少し離れたところで、杏子が二人を見ていた。
隆司が美咲を大切に思っていることは、よく分かる。
その優しさに惹かれたのも、事実だった。
でも、彼の優しさが自分だけに向けられるものではないことも、分かっている。
それでも、自分は彼の隣に立ちたい。
妹を大切にする彼の姿を好きになったのなら、その気持ちごと受け止めていきたい。
杏子は、そっと息を吸った。
文化祭が終わったら、話したいことがある。
そう伝えたのは、自分だった。
ならば、いつまでも先延ばしにはできない。
「……隆司」
杏子が声をかけると、隆司は振り返った。
「ん? どうした?」
「文化祭、無事に終わったわね」
「ああ。みんな頑張ったからな」
「……ええ」
杏子は、少しだけ笑った。
「今度、約束していた話をさせてね」
隆司は、その表情を見つめた。
いつものように厳しく叱る顔でも、からかうような顔でもない。
真剣で、少しだけ不安そうな顔だった。
「……分かった。ちゃんと聞くよ」
隆司が答えると、杏子は安心したようにうなずいた。
夕暮れの光が、二人の間を静かに照らしていた。
その日、三人が抱えた気持ちは、まだ完全には整理されていない。
隆司は、美咲を大切に思う気持ちと、杏子と過ごす時間に感じる特別な感情の間で、少しずつ自分自身を見つめ始めていた。
杏子は、隆司への恋心を隠し続けるのではなく、いつか自分の言葉で伝えようと決めた。
美咲は、兄を大切に思う気持ちを抱えたまま、兄が自分の知らない未来へ進んでいくことを、少しずつ受け入れようとしていた。
答えが出るのは、まだ先のことだろう。
けれど、今日という一日が、三人の関係を少しだけ変えたことは確かだった。
やがて、校内に最後の片づけを促す放送が流れた。
生徒たちの笑い声が遠ざかり、教室の明かりがひとつずつ消えていく。
楽しかった時間にも、終わりは来る。
けれど、そこで生まれた思い出や、気づいてしまった気持ちまで消えるわけではない。
隆司たちは、文化祭で得たものを胸に、それぞれの帰り道へと歩き出した。
こうして文化祭は幕を閉じた。




