第13話 夏休み最後の大決戦!? 浴衣と花火と温泉と、暴走する腐女子たち!
夏コミという名の戦場が終わってから、一週間。
ようやく平穏な夏休みを取り戻した――はずだった。
「隆司くん……お願いがあります」
駅前のカフェで、三紀子が両手を合わせて頭を下げた。
その隣では、詩織も同じように深々と頭を下げている。二人の前には、問題集とノートが山積みになっていた。
嫌な予感しかしない。
「……先に聞いておく。何のお願いだ?」
俺、秋月隆司が警戒しながら尋ねると、三紀子は顔を上げ、涙目で叫んだ。
「夏休みの宿題を手伝ってください!」
「やっぱりか!」
思わずテーブルを叩きそうになった。
詩織も勢いよく身を乗り出す。
「違うんだよ、隆司くん! やる気はあったんだって! ただ、夏コミで得た創作意欲が爆発しちゃって!」
「それを世間では、宿題を放置したと言うんだ」
「言葉の刃が鋭い!」
「事実だからな」
俺がため息をつくと、向かいに座っていた杏子が、呆れたように肩をすくめた。
「二人とも、夏休みの宿題は計画的にやるものよ。最終日まで残しておくから、こうなるんでしょ?」
「杏子ちゃん、その正論は今の私たちに効きすぎる!」
三紀子が胸を押さえる。
杏子は自分のバッグから、きれいに整理された問題集を取り出した。
「ちなみに、私はもう終わってるよ。隆司も終わってるんでしょ?」
「ああ。先週のうちにな」
「ううっ……優等生コンビめ!」
詩織が机に突っ伏した。
そこへ、合宿帰りの蓮司がやってきた。日焼けした顔に、いつも通り落ち着いた表情を浮かべている。
「悪い。少し遅れた」
「おかえり、蓮司。合宿はどうだった?」
俺が尋ねると、蓮司は椅子に座りながら短く答えた。
「悪くなかった。後輩たちも少しは成長したな」
「少しは、って?」
「素振り五百本と校庭十周で、音を上げるやつが減った」
「それを成長と呼んでいいのか……?」
俺が苦笑すると、蓮司は平然と水を飲んだ。
そして、テーブルに広がる問題集を見て、事情を察したらしい。
「……宿題か」
「そうなの! 蓮司くんも助けて!」
詩織がすがるような目を向ける。
しかし蓮司は、問題集を一瞥しただけで答えた。
「自業自得だな」
「やだっ……冷たい!」
「事実だろ」
あまりにも容赦のない返答に、俺は思わず笑ってしまった。
すると杏子が、そんな俺の腕を軽くつついた。
「隆司、笑ってないで手伝ってあげなよ。二人とも、本当に終わらなさそうだし」
「まあ、そうだな……」
俺は二人の問題集を確認した。
数学、英語、国語。どれも中途半端に手がついているだけで、残りはかなり多い。
「よし。俺の家で勉強会だ。夕方五時までに全部終わらせるぞ」
「ありがとうございます、隆司先生!」
三紀子が勢いよく頭を下げた。
「ただし、終わったら夏祭りに行く予定だからな。間に合わなかったら置いていく」
「そんな殺生な!」
詩織が叫ぶ。
「大丈夫だよ。ちゃんと集中すれば終わるって」
杏子が笑顔で励ますと、三紀子と詩織は互いに顔を見合わせた。
そして、なぜか二人同時に拳を握った。
「よし……宿題魔王を討伐する!」
「我らの夏を取り戻すんだ!」
「その意気だ。口じゃなくて手を動かせ」
俺の一言で、二人はようやく問題集を開いた。
――もっとも、この時の俺はまだ知らなかった。
宿題を終わらせるだけの一日が、夏休み最大級の騒動へ変わることを。
「お邪魔しまーす!」
俺の部屋に入るなり、三紀子と詩織は興味津々といった様子で室内を見回した。
「相変わらず、余計なものが少ない部屋だね。……なのに、どうしてクローゼットの中身はあんなに濃いの?」
三紀子は感心したように室内を見回したあと、何かを思い出したように隆司のクローゼットへ視線を向けた。
「おい、三紀子。何を思い出した?」
隆司が警戒して尋ねると、三紀子は意味深な笑みを浮かべた。
「えへへ……えへへへ、前に見つけた、あの禁断のコレクションのことだよ」
「忘れろ! あれは忘れろ!」
隆司は慌ててクローゼットの前に立ちはだかった。
詩織が本棚を眺めながら感想を漏らす。
「普通の男子高校生の部屋だからな。珍しいものなんてないぞ」
俺は机の上に問題集を並べた。
「じゃあ、さっそく勉強を――」
「待って」
詩織が、俺の言葉を遮った。
その視線は、クローゼットへ向けられている。
「……その中、何が入ってるの?」
「服だよ」
「本棚の奥は?」
「本だ」
「ベッドの下は?」
「お前たちが調べる場所じゃない!」
俺が止めるより早く、三紀子がクローゼットを開け、詩織が本棚の奥をのぞき込んだ。
「ちょっと待て! 何をしてるんだ!」
「創作者の部屋には、必ず秘密がある……」
三紀子が意味ありげにつぶやいた。
「普段は見せない顔。隠された趣味。そして、誰にも明かせない禁断の嗜好……」
「勝手に俺を物語の主人公にするな!」
しかし、すでに手遅れだった。
詩織が本棚の奥から一冊の同人誌を引っ張り出したのだ。
表紙には、姉と弟らしき人物が描かれている。
「……あれ?」
詩織が表紙をじっと見つめる。
続いて三紀子が、机の引き出しにしまってあったゲームのパッケージを発見した。
「隆司くん……これは?」
「返せええええっ!」
俺が飛びかかるより早く、詩織がタイトルを読み上げた。
「『妹がかわいすぎて、今日も理性が試される件』……?」
「読むな!」
「こっちは『秘密の距離、近すぎる二人』だって!」
「それも読むな!」
騒ぎを聞きつけた美咲が、部屋の入口から顔をのぞかせた。
「お兄ちゃん、何の騒ぎ?」
そして、詩織の手にあるパッケージを見て、不思議そうに首をかしげる。
「……お兄ちゃん、どうして妹が出てくるゲームなの?」
「ち、違う! これは創作の参考資料だ!」
俺は慌てて説明した。
「物語を書くうえで、いろいろな題材を研究するのは大切なんだ!」
「へぇ……創作の参考資料なんだ」
美咲は納得したような、していないような顔で笑った。
一方、三紀子と詩織の目は、別の意味で輝いていた。
「なるほど……」
三紀子が震える声でつぶやく。
「隆司くんの創作の根底には、妹という存在が……!」
「血縁という壁! 許されざる距離! それでも揺れ動く心!」
詩織が両手を広げ、芝居がかった声で続けた。
「禁断の感情を知る男……秋月隆司!」
「違うからな!?」
俺は二人から同人誌とゲームを奪い返し、引き出しの奥へ押し込んだ。
「はい、没収! もう二度と勝手に触るな!」
「えーっ!」
「創作の自由は!?」
「俺のプライバシーはどうなるんだ!」
さらに三紀子が、机の上のノートへ視線を向けた。
「……そのノートは?」
「創作ノートだ。絶対に見るなよ」
「つまり、最重要機密……!」
「見るなって言ってるだろ!」
俺はノートまで回収し、鍵のかかる引き出しにしまった。
美咲は、そんな俺の慌てぶりを見て、くすくす笑った。
「お兄ちゃん、学校ではあんなに落ち着いてるのにね」
「お前まで笑うな!」
「だって、珍しいんだもん」
美咲は楽しそうに目を細めた。
その笑顔を見ていると、言い返す言葉が出てこなくなる。
昔から知っている笑顔。
小さかった美咲が、少しずつ大人びていく。
当たり前のことなのに、最近はその変化に気づくたび、妙に落ち着かない気持ちになる。
「……ほら、勉強するぞ」
俺は誤魔化すように問題集を開いた。
「おにいちゃん?」
「何でもない」
俺は三紀子の前に数学の問題集を置いた。
「まずはここからここまで。間違えたら、最初から説明し直すからな」
「厳しい!」
「さっきの仕返しだ」
三紀子が頬を膨らませる。
その様子を見て、杏子が口元を押さえて笑った。
「隆司、ちょっと楽しそうじゃない?」
「気のせいだ」
「ふふっ。そういうことにしておく」
杏子の笑顔を見た瞬間、俺はなぜか少しだけ目をそらした。
彼女がそれに気づいたかどうかは、分からない。
ただ、杏子はそれ以上何も言わず、詩織の隣に座った。
勉強会は、想像以上に過酷だった。
「三紀子、ここ。さっき説明しただろ」
俺が数学の式を指さすと、三紀子は問題集をのぞき込み、眉を寄せた。
「待って、隆司くん。数字が三つ並ぶと、全部同じ顔に見えるんだけど」
「数字に顔はない!」
「私には見える!」
「見なくていい!」
一方、詩織は英語の問題を前に腕を組んでいた。
杏子が隣からノートを指さす。
「詩織ちゃん、ここは主語が三人称単数だから、動詞に s がつくんだよ」
「なるほど……主語が一人なら恋愛も単純。二人になれば関係が深まり、三人になれば三角関係……」
「どうして英語から恋愛の話になるの!?」
杏子が思わず声を上げた。
「三角関係の英文法……!」
詩織は真剣な顔でうなずく。
「そんな文法はない!」
俺と杏子の声が、きれいに重なった。
詩織は満足そうに笑う。
「いいね、二人とも。息がぴったり!」
「余計なことを言わない!」
杏子の頬が、ほんの少し赤くなった。
俺は気づかないふりをして、三紀子の問題集を指で叩いた。
「ほら、次!」
「隆司くん、鬼!」
「鬼で結構!」
昼を過ぎた頃、ようやく休憩を取ることになった。
「麦茶とゼリーを持ってくる。杏子、手伝ってくれるか?」
俺が立ち上がって尋ねると、杏子は笑顔でうなずいた。
「うん、いいよ」
台所で麦茶を用意し、冷蔵庫からゼリーを取り出す。
杏子は手際よく皿とスプーンを並べた。
「三紀子ちゃんたち、ちゃんと進んでる?」
杏子が尋ねる。
「数学は進んでる。詩織ちゃんの英語は……まあ、うん」
「その間は何なの?」
「察してくれ」
杏子はこらえきれずに笑った。
「隆司も大変だね」
「杏子だって、詩織に振り回されてるだろ」
「まあね。でも、放っておけないんだよ」
杏子はゼリーの皿を持ち上げた。
その横顔は、生徒会で副会長として振る舞う時よりも柔らかい。
「杏子って、面倒見がいいよな」
俺が何気なく言うと、杏子は一瞬、手を止めた。
「……そうかな?」
「そうだろ。いつも周りのことを気にかけてるし」
「隆司だって、そうじゃない?」
「俺が?」
「うん。文句を言いながらも、結局は三紀子ちゃんたちを助けてる」
杏子は、少しだけいたずらっぽく笑った。
「そういうところ、私はいいと思うよ」
「……そうか」
俺は返事に困り、麦茶のピッチャーを持ち直した。
その時、二人の指先がほんの一瞬触れた。
杏子の心臓が、小さく跳ねる。
――こういう時間が、もっと続けばいいのに。
そう思ってしまった自分に、彼女は少しだけ困ったように笑った。
部屋へ戻ると、三紀子と詩織が、何事もなかったかのように座っていた。
だが、机の上に見覚えのあるノートが置かれている。
「……お前たち」
俺は麦茶を置き、低い声で二人を見た。
「それ、どこから出した?」
三紀子が、ぎくりと肩を震わせた。
「えっと……その……」
詩織は、ノートの上に自分の描いたイラストをそっと置いた。
「これは私のラフスケッチ! ノートの中身は見てないよ!」
「じゃあ、どうしてノートを持ってるんだ!」
俺はすぐさまノートを回収した。
幸い、中身は読まれていないらしい。
「まったく……油断も隙もない」
「でも、詩織先輩の絵、ちょっと見てみたいかも」
美咲がイラストをのぞき込んだ。
「わあ、絵が上手!」
「でしょ? これは創作のための練習なんだ」
詩織が得意げに胸を張る。
三紀子も、うんうんとうなずいた。
「二人の間に流れる、言葉にできない信頼……。長年の友情が、いつしか運命の絆へと変わる瞬間……!」
「俺と蓮司を題材にするな!」
「まだ何も言ってないよ?」
「言ってるのと同じだ!」
俺が突っ込むと、蓮司は静かに肩をすくめた。
「放っておけ。相手にすると長くなる」
「お前、慣れすぎだろ……」
その後も勉強は続き、夕方五時。
「終わったああああっ!」
三紀子と詩織が、同時に机へ突っ伏した。
俺は問題集を確認し、ようやくうなずいた。
「よし。全教科、終了だ」
「生き残った……!」
三紀子が感動したように顔を上げる。
「私たち、宿題魔王を倒したんだね……!」
「倒したのは俺の解説だろ」
「隆司くん、今日だけは素直に感謝する!」
「今日だけじゃなく、普段から感謝しろ」
杏子が笑いながら時計を確認した。
「これなら、夏祭りにも間に合うね」
「よし、行くぞ!」
俺が立ち上がると、三紀子と詩織も勢いよく立ち上がった。
宿題は終わった。
だが、二人の暴走まで終わったわけではない。
むしろ、ここからが本番だった。
夕方、駅前で全員が集合した。
白地に淡い花柄の浴衣を着た杏子は、いつもより少し髪をまとめ、涼しげな雰囲気に仕上げていた。
隣に立つ美咲も、柔らかな色合いの浴衣姿だ。髪飾りが揺れるたび、彼女の明るい笑顔がいっそう華やかに見えた。
一方、三紀子と詩織は、動きやすい夏らしい私服。二人とも小さなバッグを持っているが、中にはノートやペンが入っていそうだ。
「お待たせ、隆司!」
杏子が手を振った。
「……おう」
俺は返事をしたものの、一瞬だけ言葉に詰まった。
いつもの制服姿とは違う。
浴衣の裾を気にしながら歩く杏子は、普段より大人びて見えた。
「どうしたの、隆司?」
杏子が不思議そうに尋ねる。
「いや……似合ってるな、と思って」
「え?」
「その浴衣。白地に花柄って、杏子らしいな」
言った直後、妙に恥ずかしくなった。
俺が視線をそらすと、杏子の頬がほんのり赤く染まった。
「……ありがと。隆司にそう言ってもらえると、嬉しい」
杏子は照れくさそうに笑った。
その言葉を聞いて、俺はなぜか返事に困ってしまう。
「はいはい! 初手から青春イベント発生!」
詩織が両手で顔を覆い、わざとらしく天を仰いだ。
「浴衣の花柄を褒める男! 照れる乙女! 夏祭りの夕暮れ! 恋愛イベントの王道ルートじゃん!」
「詩織、黙れ」
杏子が赤い顔のまま睨むと、詩織はますます楽しそうに笑った。
「さらに妹ヒロインが加わって、物語は複雑な三角関係へ――」
「勝手に物語を作るな!」
俺が止めると、美咲がスマホを取り出した。
「ねえ、おにいちゃん。せっかくだから、みんなで写真を撮ろうよ!」
「いいね。撮ろう!」
杏子も嬉しそうに賛成した。
蓮司がスマホを構え、六人が提灯を背景に並ぶ。
「三紀子、もう少しそっちに寄れ」
俺が指示すると、三紀子はなぜか俺と杏子の位置を見比べた。
「隆司くん、もうちょっと杏子ちゃんの方に寄って!」
「何でだよ」
「画角の問題!」
「絶対に違うだろ!」
「いいから、早く!」
三紀子に押され、俺は杏子の隣へ少しだけ移動した。
肩が触れそうな距離。
杏子は一瞬息をのんだが、すぐに笑顔を作った。
「……これでいい?」
「ああ」
蓮司がシャッターを切る。
六人の笑顔が、一枚の写真に収まった。
その中で、杏子はほんの少しだけ、隆司の方へ顔を向けていた。
「よし、次は食べ歩き!」
詩織の宣言で、俺たちは屋台へ向かった。
焼きそば、たこ焼き、かき氷、りんご飴。
美咲は屋台を見つけるたびに目を輝かせ、杏子はそんな美咲を気にかけながら、自分も楽しそうに笑っていた。
「杏子先輩、あのりんご飴、おいしそうですね!」
美咲が屋台を指さす。
「本当だね。あとで買いに行こうか」
「はい!」
二人のやり取りを見て、俺は自然と頬を緩めた。
美咲が楽しそうにしている。
それだけで、俺も嬉しくなる。
すると突然、詩織がチョコバナナを俺の目の前に差し出した。
「隆司、あーん」
「……何してるんだ?」
俺が警戒すると、詩織はにっこり笑った。
「食べさせてあげようと思って。こういうのって、恋人同士の定番じゃん?」
「俺たちは恋人じゃない!」
「じゃあ、杏子ちゃんならいいの?」
「は?」
杏子が、ぴくりと反応した。
「な、何で私が出てくるの!」
「だって、さっき浴衣を褒められて嬉しそうだったし?」
「詩織ちゃん!」
杏子の顔が赤くなる。
三紀子はその光景を見て、何かを確信したように胸を押さえた。
「なるほど……夏祭りという舞台装置が、登場人物の心の奥に隠された感情を暴き出している……!」
「勝手に解説するな!」
さらに詩織が、美咲の方へチョコバナナを向けた。
「じゃあ、美咲ちゃんも同じポーズで――」
「やめろ!」
俺は思わず大声を上げた。
周囲の客が一斉にこちらを見る。
「……す、すみません!」
慌てて頭を下げる俺を見て、美咲はきょとんとしたあと、くすくす笑った。
「お兄ちゃん、そんなに慌てなくてもいいのに」
「お前は気にしなくていい!」
「えー?」
三紀子と詩織は、互いに顔を見合わせた。
「今の反応……」
「禁断の感情が表層へ……!」
「違うからな!」
俺は二人を追い払うように歩き出した。
その後も、金魚すくいで蓮司が妙に本気を出したり、三紀子が射的の景品を「運命の象徴」と呼んだりと、騒ぎは絶えなかった。
夜が深まるにつれ、祭りの空気は少しずつ落ち着いていく。
俺たちは人混みを離れ、花火がよく見える静かな場所へ向かった。
最初の花火が夜空に咲いた。
大きな音が響き、色とりどりの光が闇を染める。
「わあ……綺麗!」
美咲が目を輝かせた。
その隣で、杏子も静かに夜空を見上げていた。
俺は、杏子の横顔をちらりと見た。
「隆司?」
杏子が気づいて、こちらを向く。
「どうしたの?」
「いや……今日、来てよかったなと思って」
「……うん。私も」
杏子は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「また、こうしてみんなで出かけたいね」
「ああ。また行こう」
その返事だけで、杏子の表情が柔らかくなった。
――本当は、みんなと一緒じゃなくて。
いつか隆司と二人きりで出かけられたら。
そんな願いを胸にしまい、杏子は再び夜空を見上げた。
その瞬間、詩織が大きな声を上げた。
「見て見て! 今の花火、二人の運命を象徴するような形だった!」
「どの二人だよ!」
俺の突っ込みに、全員が笑った。
……やっぱり、こいつらがいると感傷に浸る暇もない。
それでも、この夏がもう少しだけ続けばいいと、俺は思った。
翌日。
俺はノートパソコンの画面を見ながら、満足げにうなずいた。
夏休みの最後に、六人で一泊旅行をする。
昨日の夏祭りで盛り上がった勢いのまま、そんな話が持ち上がったのだ。
条件は、六人で泊まれること。自然が豊かで、川遊びやバーベキューができること。
検索を続けることしばらく。
山あいにあるペンションが見つかった。
川釣り体験、バーベキュー設備、手持ち花火ができる場所。しかも、素泊まりプランで六人が泊まれる日程が五日後に空いている。
「ここなら、いろいろ楽しめそうだな」
俺がサイトを確認していると、敷地の近くに乗馬体験ができる施設があることに気づいた。
「……乗馬か」
せっかくの旅行だ。普段できないことをやってみるのも悪くない。
その日の午後、俺は三紀子と詩織を連れて、必要な買い出しに出かけた。
「まずは花火とバーベキュー用品だな」
俺が買い物リストを確認すると、詩織がすぐに手を挙げた。
「その前に、同人誌ショップへ行こう!」
「行かない」
「創作の参考資料が必要なの!」
「参考資料なら家にあるだろ!」
「新しい刺激が必要なの!」
「旅行の準備をしろ!」
俺は二人をホームセンターへ連行した。
ところが、花火売り場に着いた途端、二人の目が輝き始めた。
「見て、三紀子ちゃん! 線香花火!」
詩織が小さな箱を持ち上げる。
三紀子は真剣な顔でうなずいた。
「儚さの象徴……。短い火花の中に、切なく燃え上がる運命の物語が!」
「普通に花火を楽しめ!」
「隆司くん、これは創作のための研究なんだよ!」
「その言い訳、便利すぎるだろ!」
結局、花火を選ぶだけで予想以上の時間がかかった。
「あ、ホームセンターって少ないけど水着もあるんだねぇ」
詩織は水着の売っている場所へ走っていき、一着持ってきてあてがってから、水着を元の場所に戻して戻って来た。
さらに詩織は、俺の前に回り込むと、妙に胸を張った。
「ねえ、隆司くん。私の放漫ボディーって、どう思う?」
「……は?」
「ほら、旅行だし、自然の中だし! 開放的な気分になるじゃん?」
「意味が分からん……ってか胸を両手で持ち上げるな!」
「ちょっとくらい見ても――」
「買い物に集中しろ」
俺が即座に返すと、詩織は頬を膨らませた。
「つれないなぁ!」
「お前の話に付き合う方が疲れるんだよ!」
三紀子が腕を組み、深刻そうにうなずく。
「なるほど……視線をそらすことで、意識していないと主張する高度な心理戦……!」
「違う!」
買い出しの途中で休憩に入った俺は、スマホでペンションのサイトを再確認した。
すると、杏子からメッセージが届いた。
『旅行の準備、進んでる?』
俺はすぐに返信する。
『順調だ。乗馬体験もできそうだから、申し込もうか迷ってる』
少しして、返事が届いた。
『乗馬!? 私もやってみたい!』
文章の最後には、馬の絵文字がついている。
俺は思わず笑った。
『じゃあ、追加しておく』
『ありがとう、隆司! 楽しみだね!』
画面を見つめながら、俺は旅行がますます楽しみになった。
向かいに座る三紀子が、俺の顔をじっと見つめる。
「……杏子ちゃんとのメッセージ?」
「そうだけど」
「顔が緩んでる」
「緩んでない!」
詩織が身を乗り出し、にやりと笑った。
「旅行先で何かが起こる予感……!」
「起こらないからな!」
その夜、家に帰ると、美咲が俺の部屋を訪ねてきた。
「おにいちゃん、旅行の準備してる?」
「ああ。あと必要なものを確認するだけだ」
美咲は少し嬉しそうに笑った。
「そういえば、杏子先輩が水着を一緒に選んでくれたんだ。かわいいのが見つかったよ」
「……そうか」
「杏子先輩も、旅行を楽しみにしてるみたい」
「そりゃよかった」
俺はなるべく自然に返事をした。
けれど、美咲の口から杏子の名前が出るたび、胸の奥に小さな何かが残る。
杏子と一緒に過ごす時間は楽しい。
もっと一緒にいたいとも思う。
それなのに、美咲のことも気になる自分がいる。
兄として当然のことだ。
そう考えれば、何もおかしくない。
――本当に、それだけなのだろうか。
俺はその疑問を振り払うように、旅行バッグのファスナーを閉めた。
旅行当日。
駅前には、六人分の荷物が山のように積まれていた。
着替え、タオル、洗面用具、花火、バーベキュー用品、飲み物を入れたクーラーボックス。
「……本当に一泊旅行の荷物か、これ?」
俺が呆れると、三紀子が胸を張った。
「備えあれば憂いなし!」
「お前の荷物、半分以上が創作関係だろ!」
「旅行先でひらめきが降りてきた時、すぐ形にできるようにね!」
詩織も大きくうなずいた。
「創作者はいつだって戦場にいるの!」
「その戦場に、どうして同人誌を持ってきてるんだ……」
蓮司は何も言わず、荷物の一部を持ち上げた。
「半分持ってやるよ」
「助かる、蓮司」
「気にするな」
電車に乗ると、俺たちは向かい合わせの席に座った。
移動時間はおよそ二時間。その後、バスで一時間近く移動し、最後は三十分ほど歩く予定だ。
俺は、三紀子と詩織を交互に見た。
「いいか、二人とも。旅行先では変なことを言うな。特に、人前で俺たちを題材にした妄想を披露するな」
「えー?」
詩織が不満そうに口を尖らせた。
「約束できるか?」
「……努力はする」
「それは約束じゃない!」
詩織はバッグから一冊の本を取り出した。
「ところで、移動中にこれを読もうと思って」
「おい、それは――!」
俺が取り上げようとした瞬間、本が宙を舞った。
ひらり。
本は通路を越え、杏子の膝の上に落ちた。
「……え?」
杏子が表紙を見つめた。
そこには、男性二人が意味深な雰囲気で抱き合うイラストが描かれている。
一瞬、時間が止まった。
「……三紀子、詩織」
俺が低い声で二人の名前を呼ぶと、二人は同時に背筋を伸ばした。
「はい」
「すみません」
杏子は少し困ったように本を持ち上げ、隣の空いている席へ置いた。
「……これ、二人の本?」
「そ、そうです……」
三紀子が小さく答えた。
俺はすぐに本を回収し、バッグの奥へ押し込んだ。
「だから、持ってくるなって言っただろ!」
「創作意欲が抑えられなかったんだよ!」
「抑えろ!」
蓮司は窓の外を眺めながら、静かに忠告した。
「次は、乗り過ごさないようにしろよな」
「分かってる!って、この局面で冷静だな蓮司」
「いじられてるの隆司だからな」
……そのはずだった。
三紀子と詩織が「山間の秘境で育まれる二人の絆」などと話し始めたせいで、俺たちは危うく降車駅を逃しかけた。
「次だ! 降りるぞ!」
「えっ、もう!?」
「誰のせいだと思ってる!」
全員で慌てて荷物をまとめ、ホームへ降りた。
その後のバス移動も、二人の妄想を止めるのに苦労した。
ようやく最寄りの停留所に到着すると、俺たちは山道を三十分ほど歩いた。
木々の間から川のせせらぎが聞こえ、街中よりもずっと涼しい空気が肌を撫でる。
「わあ……すごく気持ちいいね!」
美咲が両腕を伸ばした。
「だな」
俺も大きく息を吸い込んだ。
「おにいちゃん、楽しみ?」
美咲が隣を歩きながら尋ねる。
「ああ。みんなで来られてよかった」
「私も!」
美咲は嬉しそうに笑った。
その少し後ろでは、杏子が二人の様子を見つめていた。
昔からの兄妹だからこその自然な距離。
そこに自分が入る余地は、どれくらいあるのだろう。
杏子は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
今は旅行を楽しもう。
そう自分に言い聞かせながら。
ようやく目的のペンションに到着した。
木造の建物は緑に囲まれ、すぐそばには澄んだ川が流れている。庭にはバーベキュー設備があり、少し離れた場所には釣りができる区画も見えた。
「これは当たりだな」
俺が感心していると、管理人さんが笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。長旅で疲れましたよね。荷物を置いたら、ゆっくりしていくといいですよ」
部屋割りは、俺と蓮司、三紀子と詩織、美咲と杏子の三部屋。
荷物を置いた俺たちは、さっそく川辺を散策することにした。
「冷たっ!」
美咲が川の水に手をつけ、楽しそうに声を上げた。
杏子も隣で水をすくい、指先にかける。
「本当だ。気持ちいいね!」
「杏子先輩、こっちも冷たいですよ!」
美咲が水を飛ばすと、杏子は驚いた顔をしてから、笑いながら水を返した。
二人の笑い声が、川のせせらぎに混ざった。
「楽しそうだな」
蓮司が隣に立った。
「ああ」
「お前も、たまには何も考えずに楽しめ」
「何も考えてないって」
「そうか?」
蓮司はそれ以上追及せず、川の向こうを眺めた。
夕方になると、管理人さんが思いがけない提案をしてくれた。
「よかったら、夕食はこちらで用意しましょうか。学生さんへの思い出に今日はサービスします」
「えっ、いいんですか?」
美咲が驚くと、管理人さんは嬉しそうにうなずいた。
「もちろん。昔は料理の仕事をしていまして。せっかくだから、うちの料理もぜひ楽しんでいってほしいものです」
テーブルに並んだのは、ジビエ料理。
鹿肉のロースト、赤ワイン煮込み、鹿肉ソーセージのパスタ、新鮮な野菜のサラダ。
さらに、食後には濃厚なカスタードプリンまで用意されていた。
「……すごい」
杏子の目が輝いた。
彼女はローストを一口食べると、真剣な顔で味わった。
「外側は香ばしいのに、中は柔らかいね。ソースもお肉の味を消してないし、赤ワイン煮込みはコクがあるのに重すぎない」
杏子の感想は、まるで料理番組の解説のようだった。
「パスタもいいね。ソーセージの旨みがしっかり出てるし、このサラダがさっぱりしてるから、お肉の後でも食べやすい!」
「杏子、すごく楽しそうだな」
俺が笑うと、杏子は顔を上げた。
「だって、おいしいんだもん! 隆司も食べてみて」
「分かった、分かった。そんなに勧めなくても食べるって」
「ふふっ。なら、よかった」
杏子は嬉しそうに笑った。
俺が自分と同じものを食べて、おいしいと言ってくれる。それだけのことが、彼女には妙に嬉しかった。
食後のプリンは、口に入れた瞬間に濃厚な甘みが広がった。
「……うまっ」
俺が思わず声を漏らすと、三紀子と詩織もプリンに夢中になった。
「これは……創作の手が止まるほどの美味……」
「甘さの奥に広がる深いコク……まさに、運命のプリン……」
「普通に褒めろ!」
俺の突っ込みに、全員が笑った。
食後のお茶を飲みながら、管理人さんが料理について説明してくれた。
「鹿肉は、狩猟免許を持っている知人から仕入れたものなんです。昔の仕事の経験が、今も役に立っています」
「ごちそうさまでした。本当においしかったです」
俺が頭を下げると、管理人さんは嬉しそうに笑った。
その後、温泉に入るためのタオルと浴衣を受け取った。
「温泉は男女別になっています。間には仕切りがあるけれど、声は少し聞こえるから、騒ぎすぎないように」
俺は、三紀子と詩織を見た。
二人はなぜか意味ありげに微笑んでいた。
「……何だ、その顔は」
三紀子が、さも当然というように答える。
「温泉といえば、心の距離が縮まるイベントの宝庫だからね」
「何のイベントだ!」
詩織が楽しそうに付け加えた。
「裸同士の付き合いに恋愛相談、秘密の告白、そして運命のすれ違い!」
「普通に温泉に入れ!」
――この時、管理人さんの忠告をもっと真剣に受け止めておくべきだった。
温泉は、木の香りが漂う落ち着いた造りだった。
露天風呂からは山の緑が見え、夜風が心地よく吹き抜けている。
俺と蓮司は、ゆっくり湯船につかった。
「……これはいいな」
俺が息を吐くと、蓮司も小さくうなずいた。
「合宿の疲れも抜けそうだ」
しばらく静かな時間が流れた。
ところが、仕切りの向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。
「ねえ、杏子ちゃん。正直に答えて」
三紀子の声だ。
「隆司くんのこと、どう思ってるの?」
俺は湯船の中で固まった。
「……何で温泉に入ってまで、その話をするの!」
杏子の声が返ってくる。
蓮司は俺をちらりと見た。
「聞こえてるな」
「聞こえてるよ……!」
俺は声を潜めた。
仕切りの向こうでは、詩織が勢いよく話を続けていた。
「だって、夏祭りで浴衣を褒められた時、杏子ちゃん、顔が真っ赤だったじゃん!」
「急に褒められたら、誰だって驚くでしょ!」
「じゃあ、隆司に褒められて嬉しかったんだ?」
「……っ!」
一瞬の沈黙。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「今、否定しなかったね?」
三紀子が、勝ち誇ったような声を上げた。
「ちょっと、三紀子ちゃん!」
杏子の抗議もむなしく、詩織がさらに踏み込む。
「杏子ちゃんは、隆司のことが好きなんだね?」
「……好き、だけど」
小さな声が聞こえた。
俺は思わず息を止めた。
「えっ、今、好きって言った!?」
三紀子の声が跳ね上がる。
「声が大きい!」
「これは歴史的瞬間……!」
「そういう意味で言ったんじゃなくて……!」
「じゃあ、どういう意味?」
詩織が追及する。
「……もう! 二人とも、いい加減にして!」
直後、バシャッと大きな水音が響いた。
「ちょっと、詩織ちゃん! 押さないで!」
「ごめん! でも、今のは聞き逃せないって!」
俺は頭を抱えた。
「……あいつら、何をやってるんだ」
蓮司は平然と湯船に浸かっていた。
「止めに行くか?」
「全裸で行けるわけないだろ!」
「それもそうか」
蓮司の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
さらに、詩織が別の話題を持ち出した。
「ねえ、隆司くんって美咲ちゃんのことになると、すぐに慌てるよね?」
俺は再び固まった。
「詩織ちゃん、それは本人にしか分からないことでしょ!」
杏子の声が、今度は少し強くなった。
「家族を大切にするのは、悪いことじゃないもの」
その言葉には、先ほどまでの照れた様子とは違う響きがあった。
俺は湯船の縁に手を置いた。
杏子は、俺のことをどう思っているのだろう。
そして俺は、何をそんなに気にしているのだろう。
「……隆司」
蓮司が静かに呼んだ。
「何だ?」
「考えすぎるな」
「……分かってる」
「ならいい」
連司は色々と察してくれるいいやつだ。
その時、仕切りの向こうから、三紀子が何かを思いついたような声を上げた。
「そうだ! 男女合同の恋愛心理テストをしよう!」
「やらない!」
杏子の即答が響いた。
詩織が、わざとらしく声を張る。
「じゃあ、向こうにいる隆司くんに聞いてみようよ! 隆司くーん! 聞こえてるー?」
「聞こえてる! 聞こえてるからやめろ!」
俺は思わず叫んだ。
仕切りの向こうが、ぴたりと静まった。
そして次の瞬間。
「やっぱり聞こえてた!」
三紀子の声が響く。
「どこまで聞いてたの、隆司くん!?」
詩織まで参戦した。
「答える義務はない!」
「ということは、全部聞いてたんだね!」
「どうしてそうなる!」
笑い声が重なり、杏子の悲鳴が響いた。
「もう、二人とも! いい加減にして!」
再び大きな水音がした。
「何が起きた!?」
俺が思わず立ち上がりかけると、蓮司が肩を押さえた。
「落ち着け。転んだだけだろ」
「いや、でも……」
「お前が行ったら、余計に騒ぎになる」
「……それもそうだな」
俺は湯船に座り直した。
すると、今度は管理人さんの声が聞こえてきた。
「皆さん、のぼせないように気をつけてくださいね」
「は、はい!」
三人の返事が、見事にそろった。
その数分後、ようやく温泉から上がることになった。
脱衣所を出ると、三紀子と詩織は何事もなかったかのように待っていた。
杏子は少し頬を赤くしたまま、俺の方を見た。
「……隆司」
「ん?」
「さっきの話、変なふうに受け取らないでよ」
「……何の話だ?」
俺は、あえてそう答えた。
杏子は一瞬だけ目を見開いたあと、ほっとしたように笑った。
「……ううん。何でもない」
俺は聞かなかったことにした。
本当は、聞こえていた。
けれど、今ここで何かを聞き返すことが正しいのか、分からなかった。
杏子が俺の前を歩いていく。
その背中を見ながら、俺は胸の奥に残った言葉を、そっと押し込めた。
――好き、だけど。
あの声が、いつまでも耳から離れなかった。
温泉から戻ると、俺たちは花火の準備を始めた。
管理人さんに確認したところ、庭の指定された場所なら手持ち花火を楽しんでもいいとのことだった。
俺はバケツに水を張り、花火を並べた。
「よし、準備完了」
「待ってました!」
三紀子と詩織が、勢いよく花火セットを開ける。
「まずは線香花火から!」
三紀子が一本取り出し、真剣な顔で見つめた。
「儚く散る火花……。その一瞬に込められた、二人の想い……!」
「花火を普通に楽しめ!」
俺が突っ込むと、詩織は線香花火を持ち上げた。
「隆司くん、線香花火って、最後まで火を落とさずにいられたら願いがかなうって言うじゃん?」
「そうなのか?」
「うん。だから、願い事をしようよ」
杏子も線香花火を手に取った。
火をつけると、小さな火花がぱちぱちと弾けた。
杏子は目を閉じる。
――隆司と、もう少し近づけますように。
その願いを口にすることはできなかった。
火花が揺れ、今にも落ちそうになる。
「杏子、危ないぞ」
隆司の声がした。
杏子が目を開けると、俺が少し離れたところから心配そうに見ていた。
「……大丈夫。ありがとう」
「火傷するなよ」
「うん」
たったそれだけの会話。
それなのに、杏子の胸は温かくなった。
一方、三紀子と詩織は、線香花火を見つめながら別の世界へ旅立っていた。
「見て、三紀子ちゃん! 二つの火花が近づいている……!」
「片方が揺らいでいる……! もう片方は、その火が消えないように見守っている……!」
「これは友情を超えた魂の共鳴!」
「だから何でそうなるんだ!」
俺が叫ぶと、蓮司が小さく笑った。
「いつも通りだな」
「ああ。いつも通りすぎる」
その後は、噴き出す花火も楽しんだ。
美咲は何度も歓声を上げ、杏子と一緒に写真を撮っていた。
「杏子先輩、見てください! すごく綺麗!」
「本当だね、美咲ちゃん!」
二人が並んで笑う。
その光景を見ていると、俺は不思議な気持ちになった。
美咲が楽しそうなら、それでいい。
杏子が笑ってくれるのも、嬉しい。
なのに、二人が並んでいるのを見ていると、胸の奥が少しだけざわつく。
「隆司?」
杏子が俺の隣へやってきた。
「どうしたの? ぼーっとして」
「……いや。何でもない」
「本当に?」
「ああ……ただ、今年は楽しい夏休みだなと思ってな」
杏子は少しだけ俺の顔を見つめ、それから笑った。
「そうだね。三紀子ちゃんに詩織ちゃんも加わって去年よりも騒がしくて」
彼女は俺の隣に立ち、夜空を見上げた。
肩が触れそうで、触れない距離。
言葉にすれば、何かが変わってしまいそうだった。
だから俺たちは、しばらく何も言わずに花火を見ていた。
「隆司」
杏子が静かに呼ぶ。
「ん?」
「今日は、楽しかったね」
「ああ。最高だった」
「また来ようね」
「そうだな」
杏子は笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
この時間を、失いたくない。
けれど、失いたくないものが増えるほど、いつか何かを選ばなければならない時が来るのかもしれない。
そんな予感が、胸の奥に小さく残った。
翌朝。
「……本当に乗るの?」
三紀子が、馬を見上げながら固まっていた。
「乗馬体験をするって決めたのは、お前たちだろ」
俺が呆れると、三紀子は馬から目を離さずに答えた。
「そうだけど! 実物を見ると迫力がすごいんだけど!」
詩織も、少し距離を取りながら馬を見つめている。
「思ったより大きいね……。しかも、こっちを見てる」
「馬なんだから、見るだろ」
俺が突っ込むと、杏子が苦笑した。
「大丈夫。係の人がついてくれるから」
そう言う杏子自身も、少し緊張しているようだった。
一方、美咲は目を輝かせていた。
「わあ、かわいい!」
「美咲ちゃん、怖くないの?」
杏子が尋ねると、美咲は少しだけ考えてから答えた。
「ちょっと怖いです。でも、乗ってみたい!」
「……よし。私も頑張ろう」
杏子は小さく拳を握った。
係員の説明を受け、俺たちは順番に馬へ乗った。
蓮司は落ち着いた様子で姿勢を整え、俺も何とか馬にまたがる。
一方、三紀子は馬が歩き出した瞬間、肩に力を入れすぎていた。
「ちょ、ちょっと待って! 動いた!」
「動くための動物だからな!」
「心の準備が!」
「乗る前にしておけ!」
詩織は、馬の上で妙なポーズを取ろうとして係員に注意されていた。
「詩織さん、両手は手綱を持ってくださいね」
「はーい……」
ゆっくりと馬が歩き始める。
最初は緊張していた杏子も、少しずつ表情が和らいだ。
「……あ、楽しいかも!」
杏子が声を上げる。
俺は隣から笑いかけた。
「杏子、いい感じだな」
「うん! 隆司も、思ったより上手だね」
「まあな」
「少し得意そう」
「少しくらい、いいだろ」
杏子は楽しそうに笑った。
乗馬を終える頃には、三紀子も詩織もすっかり笑顔になっていた。
「最初は怖かったけど、楽しかった!」
三紀子が胸を張る。
「馬って、想像以上に優しいんだね」
詩織も満足そうにうなずいた。
「次はもう少し余裕を持って乗りたいな」
杏子がそう言うと、美咲が元気よくうなずいた。
「また乗りたいですね、杏子先輩!」
「うん、また来ようね!」
二人の笑顔を見ながら、俺は思った。
旅行に来てよかった。
普段の学校生活では見られない、みんなの表情がある。
この時間が、いつまでも続けばいい。
そう思う一方で、俺は少しずつ変わっていく自分の気持ちに、まだ名前をつけられずにいた。
乗馬体験を終えた俺たちは、ペンションで釣り竿を借り、管理された釣り場へ向かった。
釣り場のそばには、水遊びができる浅瀬もある。
「よし、今日は釣るぞ」
俺と蓮司は、すっかり釣りに集中していた。
しばらくすると、女子たちが水着に着替えて戻ってきた。
最初に目に入ったのは、美咲だった。
淡い水色を基調にした、爽やかなデザインの水着。肩には薄手の羽織りをかけ、髪は水辺で遊びやすいようにまとめている。
いつもより少し大人びた雰囲気がありながら、笑顔はいつもの美咲らしい。
「おにいちゃん、見て! 水、すごくきれいだよ!」
美咲は浅瀬を指さし、楽しそうに手を振った。
「ああ、きれいだな。足元に気をつけろよ」
「はーい!」
元気よく返事をする美咲を見て、俺は自然と笑った。
続いて、杏子が水辺へやってきた。
落ち着いた花柄の水着に、軽やかなパレオを合わせた夏らしい装い。普段はきちんとした印象の杏子だが、今日は少し柔らかく、リラックスした雰囲気に見える。
髪をまとめたことで、いつもより表情がはっきり見えた。
杏子は水の冷たさを確かめるように、そっと足先を浅瀬へ入れた。
「わっ、思ったより冷たい!」
驚いて笑う杏子の姿に、俺は一瞬、言葉を失った。
「……どうしたの、隆司?」
杏子が不思議そうにこちらを向く。
「いや。夏らしくて、いいんじゃないか」
「……そ、そう?」
杏子は頬を赤くして、少しだけ視線をそらした。
「ありがと」
その短い返事を聞いて、俺も何となく照れくさくなった。
すると、後ろから詩織の声が飛んできた。
「はいはい! 今、何かが起きました!」
詩織は白と紺を基調にしたスポーティーな水着姿で、肩にタオルをかけている。動きやすさを重視した格好なのに、本人の堂々とした振る舞いのせいか、やけに存在感があった。
隣の三紀子は、紺色のシンプルなスクール水着を着て、腕を組んでいる。
「夏の水辺……。普段とは違う装い……。そして、思わず目を向けてしまう心の動き……!」
「普通に水遊びをしろ!」
俺が突っ込むと、詩織は楽しそうに笑った。
「隆司くん、私たちの水着はどう?」
「似合ってるんじゃないか。動きやすそうだし」
俺が無難に答えると、詩織はわざと大げさに肩を落とした。
「えーっ! もっとこう、感想があるでしょ!」
「じゃあ、言わせてもらうが、なんでスク水なんだ?そして何を求めてるんだよ!」
「『夏の太陽に負けない華やかさだ!』とか!」
「自分で言うな!」
三紀子が、深刻そうにうなずいた。
「なるほど……褒め言葉の不足が、物語の進展を阻んでいる……」
「阻んでない!」
蓮司は釣り竿を持ち直し、淡々と告げた。
「二人とも、遊ぶなら向こうで遊べ。ここは釣り場だ」
「蓮司くん、冷静すぎない!?」
詩織が抗議する。
「魚は待ってくれない」
「名言っぽく言っても、釣りの話だからね!」
三紀子と詩織は笑いながら浅瀬へ向かった。
二人は水をすくい、互いにかけ合い始める。
「三紀子ちゃん、反撃!」
「甘い! これが運命の水しぶき!」
「ただの水だろ!」
俺が呆れていると、杏子と美咲も水遊びに加わった。
「杏子先輩、こっちですよ!」
美咲が手を振る。
「待って、美咲ちゃん!」
杏子が笑いながら追いかける。
水面に日差しが反射し、四人の笑い声が山あいに響いた。
俺は釣り竿を持ったまま、その光景を眺めた。
楽しそうだ。
本当に、楽しそうだ。
美咲はいつの間にか、こんなに成長した。
昔は俺の後ろをついてくるだけだったのに、今は自分で選び、自分の世界を広げている。
そのことが嬉しい。
……なのに。
「隆司?」
杏子が、少し離れた場所からこちらを見ていた。
目が合うと、彼女は微笑み、軽く手を振った。
俺も手を振り返す。
それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
「おにいちゃん! 釣れてる?」
美咲が近づいてきて、俺の釣り竿をのぞき込んだ。
「ああ、まだ小さいのが一匹だけだ」
「見せて!」
美咲は興味津々で魚を見つめた。
「わあ、かわいい!」
「釣られた魚にかわいいは、少し失礼だろ」
「そうかな?」
美咲が笑う。
俺もつられて笑った。
その時、少し離れたところにいた杏子が、二人を見つめていた。
羨ましい、と思った。
でも、それを認めるのは、少しだけ怖かった。
自分が隆司の隣に立ちたいと願うことは、わがままなのだろうか。
杏子は水面を見つめ、そっと息を吐いた。
今は、まだ。
そう思いながら、再び笑顔を作った。
昼過ぎ。
釣った魚を持ち帰り、俺たちはバーベキューの準備を始めた。
蓮司が手際よく炭を整え、俺が網を用意する。杏子と美咲は野菜を洗い、三紀子と詩織は食材を並べていた。
「よし、焼くぞ!」
俺が肉を網に乗せると、三紀子が真剣な顔で立ち上がった。
「待って! お肉の配置には意味があるの!」
「……何の意味だよ」
「火の通り方、色合い、そして物語の構図!」
「肉に物語の構図を求めるな!」
詩織は串に野菜を刺しながら、うんうんとうなずいた。
「焼き上がるまでの時間は、二人の関係が深まる時間……」
「食べ物を前にしても妄想か!」
「創作意欲は止められないんだよ!」
「少しは止めろ!」
そんなやり取りをしながら、俺たちは食材を焼き始めた。
川で釣った魚も、塩を振って網の上へ。
香ばしい匂いが広がり、全員の顔が自然とほころんだ。
「おいしい!」
美咲が焼き魚を食べ、嬉しそうに笑った。
「本当だね。自分たちで釣った魚って、特別おいしく感じる」
杏子も満足そうにうなずいた。
「野菜もいい焼き加減だよ。隆司、そっちのお肉、もう食べられそう?」
「ああ、ちょうど焼けたところだ。ほら」
俺が皿に取り分けると、杏子は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう」
「熱いから気をつけろよ」
「うん」
何気ないやり取り。
けれど杏子は、その一つひとつを大切に感じていた。
隆司が自分を気にかけてくれる。
名前を呼んでくれる。
隣で笑ってくれる。
それだけで、今日一日が特別なものになる。
でも、それだけで満足してしまっていいのだろうか。
いつか、自分の気持ちを伝えたい。
そんな思いが、少しずつ大きくなっていた。
「杏子先輩、どうしました?」
美咲が不思議そうに顔をのぞき込む。
「ううん、何でもないよ」
杏子は笑って、美咲の皿に野菜を取り分けた。
「美咲ちゃん、お肉ももう一枚食べる?」
「はい!」
その後も、バーベキューは大盛り上がりだった。
三紀子が焼き野菜を「運命の出会い」と呼び、詩織が焼きマシュマロを「甘く溶け合う二つの魂」と表現し、蓮司が無言で追加の炭を運ぶ。
俺は、そんな仲間たちを見回した。
騒がしくて、面倒で、でも一緒にいると楽しい。
夏コミも、夏祭りも、温泉も、乗馬も、釣りも。
どれも、きっと忘れられない思い出になる。
「隆司」
蓮司が隣に座った。
「いい旅行になったな」
「ああ。本当に」
蓮司は少しだけ俺の顔を見た。
「……お前、最近、考え込むことが増えたな」
「そうか?」
「昔からの付き合いだからな。分かる」
俺は返事に迷った。
蓮司にだけは、何かを隠し通せない気がする。
けれど、自分でも整理できていない気持ちを、どう説明すればいいのだろう。
「……自分でも、よく分からないんだ」
俺は小さくつぶやいた。
「大事なものが増えると、どうしていいか分からなくなることって、あるだろ」
蓮司はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「大切にしたいなら、逃げずに考えろ。答えを急ぐ必要はないが、考えることまでやめるな」
「……ああ」
その言葉は、胸の奥に残った。
バーベキューが終わる頃には、空が夕焼けに染まっていた。
俺たちは片づけを済ませ、ペンションの庭で少しだけ休憩した。
美咲と杏子は、並んで夕空を眺めている。
三紀子と詩織は、今日の出来事を振り返りながら、また何かを妄想していた。
蓮司は静かに笑い、俺はその光景を見つめていた。
楽しい。
本当に、楽しい。
だからこそ、この時間が終わることを少しだけ寂しく感じる。
夏休みは、もうすぐ終わる。
学校が始まれば、またいつもの日常に戻る。
でも、俺たちはきっと、少しずつ変わっていく。
美咲も。
杏子も。
そして、俺自身も。
「おにいちゃん!」
美咲が振り向いた。
「また、みんなで旅行に来ようね!」
「ああ。約束だ」
俺は笑って答えた。
その隣で、杏子も小さくうなずいた。
「……うん。また来たいね」
夕日が、杏子の横顔を赤く染めていた。
その表情を見て、俺はふと思った。
もし、いつか。
杏子が俺に伝えたいことを口にしたら、俺はどんな顔をするのだろう。
そして、美咲が俺の知らない誰かと手をつなぎ、笑い合う日が来たら。
俺は、本当に心から祝福できるのだろうか。
答えは、まだ出ない。
けれど、その問いを胸の奥にしまったまま、何事もなかったように過ごすことは、もうできない気がした。
「隆司?」
杏子が俺を呼んだ。
「どうしたの?」
「……いや。何でもない」
俺は笑った。
杏子も、少しだけ寂しそうに笑い返した。
その時、背後から三紀子と詩織の声が響いた。
「聞いた!? 今の沈黙!」
「言葉にできない想い! 揺れる心! これは次なる恋愛大事件の予兆……!」
「お前たち、最後までそれか!」
俺たちは笑った。
いつものように、騒がしく。
いつものように、楽しく。
けれど、夏休み最後の夕焼けの下で、俺たちの心には、それぞれ、まだ言葉にできない想いが残っていた。
杏子の、伝えられない恋心。
美咲を大切に思う、俺自身にも説明できない感情。
そして、これから先、変わっていくかもしれない六人の関係。
――この夏が終わった時、俺たちは今までと同じ関係でいられるのだろうか。
答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、この夏の思い出が、俺たちの心に深く刻まれたということだった。
そして、その思い出の先に待っているものが、決して楽しいことばかりではないとしても。
俺たちはきっと、また笑いながら前へ進んでいく。
夏休み最後の大決戦は、こうして幕を閉じた。
――けれど、恋と妄想と、俺たちの騒がしい日常は、まだまだ終わらない。




