第三話 それは花街の隠語です
甲高い声が広間を裂き、リゼットが人垣を掻き分けて飛び出してきた。
頬が紅潮し、扇を握る手が白くなっている。
「殿下、いけません!姉は、姉は殿下を謀っておりますわ!」
「……何の話だ」
「そのドレスの色は、下品な色なのです!そんな色を纏って殿下に近づくなど、はしたない、みっともない、恥知らずな真似です!」
「……リゼット、下がりなさい」
「下がりませんわ!だって殿下がご存じないのですもの。教えて差し上げなくては」
リゼットは扇を畳み、勝ち誇ったように胸を張った。
そして、この国で最も高貴な方々が居並ぶ大広間の中央で、彼女は高らかに言い放った。
「――その色の名前は、ドスケベ人妻ランジェリーパープルと申しますのよ!」
楽団の奏者が弓を落とした。
給仕が盆を取り落とし、グラスが割れた。
老婦人たちが一斉に扇を開き、若い令嬢たちは顔を真っ赤にして俯いた。
ある伯爵は口に含んだ酒を噴き、隣の侯爵夫人が目を覆った。
リゼットだけが、きょとんとしていた。
「……あら?みなさま、ご存じない?最先端の流行語ですのよ。平民街ではみんな使って――」
「リゼット嬢。その言葉の意味を、貴女は正確に理解しているか」
殿下が彼女を遮った。
「え、ええ。人妻が閨で着る下着の色、という――」
「違いますよ」
先ほどの老婦人が杖を突き、ゆっくりと前へ出てくる。
「それは花街の隠語です」
「……え?」
リゼットの笑みが止まった。
「まっとうな染物屋も、仕立屋も、商人も使いません。少なくとも、良家の令嬢が夜会で口にする言葉ではありませんね」
老婦人はリゼットを見つめた。
「どなたから、その言葉を教わったのです?」
「そ、それは……」
「答えられぬか」
リゼットの顔から、さっと血の気が引いた。
「ならば、こちらから聞こう。ヴィクトール・ドラン子爵子息。前へ出よ」
人垣の後ろで、若い男が肩を跳ねさせた。
「殿下、それは、その、私は」
「王都東区の賭場と花街に、月に六度。うち四度、女連れ。近衛の巡回記録に残っている」
「同伴者は、淡い金髪の若い令嬢だったそうだな」
ざわ、と大広間が揺れると、リゼットの膝が崩れた。
「ち、違います……わたくしは、ただ……ヴィクトール様が、平民の流行を教えてくださると……」
「リゼット!」
継母のマルグリットが飛び出してきた。
「娘は騙されたのです!あの女です、殿下!エルヴィラが娘を陥れたのです!あの子は屋敷の隅で怪しげな薬を煮て、鍋から悪臭を出して、家の名を汚して――」
「悪臭とは、貝を煮る工程のことか?三百年途絶えた王家の染めを再現する工程を、そう呼ぶのか」
「そ、それは……」
「それと、ヴァレンティア伯爵夫人。貴女にはもう一つ聞きたいことがある」
殿下は侍従から一枚の書付を受け取った。
「先月、王都の商業組合にヴァレンティア工房と附属地所の譲渡申請が出されている。売却先はドラン子爵家」
「……」
「工房の所有者として記されているエルヴィラ本人の署名もある」
「私は、署名しておりません」
「そうだろうな」
父が人垣の中から出てきた。
「どういうことだ、マルグリット。私は工房を売るなど聞いていないぞ」
「あなた、それは……どうせ使いもしない古い小屋ですもの。リゼットとヴィクトール様の将来のために少しくらい――」
「母様の工房です」
私は初めて、継母を正面から見た。
「あれは、母の遺言で私が相続したものです」
「なによ。結婚もしない娘が、いつまでも伯爵家にぶら下がって――」
「伯爵。亡きソフィア夫人の遺言状は王立公証院にも保管されている。工房と附属地所はエルヴィラ嬢の所有だ。他人が勝手に売れるものではない」
「マルグリット……お前……」
父の顔が青ざめたかと思うと、やがてその色は赤黒く、怒りに変わっていく。
私は、静かにその光景を眺めていた。
七年間、私が何度言っても父は工房を見に来なかった。
母の帳面を見せても「女の道楽だ」と鼻で笑った。
今こうして怒っているのは、娘のためではない。
王太子の前で恥をかいたからだ。
それでもいい……母の工房は、守られた。
「エルヴィラ。もう一つ、確かめたいことがある。……この七年、貴女は誰の助けも借りずに、あれを続けたのか」
「侍女が、貝の殻を割るのを手伝ってくれました」
「それだけか」
「はい」
殿下はしばらく私を見つめ、それから広間を振り返った。
「王太子リンヴィス・レイ・アルデシアの名において、宣する」
大広間の全員が、彼へ視線を向けた。
「ヴァレンティア伯爵令嬢エルヴィラは、王家の失われた染色『宵闇』を再現した。よって彼女に、王室御用染師の位を授ける。工房は王室の保護下に置き、何人たりとも干渉を許さぬ」
どよめきが広がる。
「加えて、私は彼女に求婚する」
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