鴉の翼の油灯
お読みいただき、ありがとうございます。
今話は情報屋との対話の回です。
少し短めですが、どうぞお楽しみくださいませ。
朝の路地裏。
王都の旧市街。昨夜の雨で石畳がまだ湿っていた。
リリィは路地の向かいの茶店に残してきた。
俺は鴉の翼亭の重い扉を押した。
蝶番がわずかに軋んだ。
中は薄暗かった。
煙草の匂いと麦芽の発酵臭。前夜の客の残り香が床と壁に染み込んでいた。
朝の客は数えるほどしかいない。窓側に老いた職人が一人、酒杯を傾けていた。
奥の角席。
イーゴルが油灯の下で新聞を広げていた。
「探偵さんよ」
新聞から目を上げずに声だけが寄越された。
「久しぶりだな」
俺は向かいに腰を下ろした。
「ヴァルムント侯爵家の家令、ヘルマン・キース。動きを洗ってくれ」
イーゴルが新聞をたたんだ。
「ヘルマン・キースか」
煙草に火を点けた。煙が油灯の周りに薄く揺れた。
「最近、月に三度は男爵領に出入りしてる。公的な用件はない。会ってるのは男爵本人じゃねえ」
俺は黙って続きを待った。
「銀鉱山の管理人と温泉宿の主人だ」
(——銀鉱山の管理人)
(——温泉宿の主人)
(——男爵本人ではない)
イーゴルが煙草の灰を皿に落とした。
「銀鉱山だが、男爵家の収入の四割を占めてる。最近、変な噂が出てる。枯渇の話だ。鉱脈がもうすぐ尽きるってな」
「噂の出元は」
「ヴァルムント侯爵領の鉱山技師らしい」
俺は懐から一枚の地図を取り出した。
油灯の下に広げる。
男爵領の輪郭を指でなぞった。
イーゴルが煙を吐いた。
「深いぜ、これは」
(——形が見えてきた)
(——だが、誰の手かはまだ見えない)
イーゴルがもう一本煙草を取り出した。
「探偵さんよ。最近、王都の各所で変な紋章を着けた連中が目撃されてる。商人風、貴族の家令風、神官風——職業を超えてだ」
「紋章の形は」
「蛇と剣を交差させた紋章。指輪、ペンダント、刺繍——形は色々だが、模様は同じだ」
俺は手を止めた。
(——あの紋章がここでも)
(——後で確かめる)
俺は地図を畳んだ。
「ありがたい。続けて洗ってくれ」
「深入りするなよ、探偵さんよ」
「ご忠告、感謝する」
イーゴルが新聞をまた広げた。
俺は鴉の翼亭を出た。
朝の光が路地に薄く差していた。
向かいの茶店からリリィが出てきた。
◇◇◇
俺たちは辻馬車を拾った。
馬車が石畳の上を走り出した。
馬車の中は薄暗かった。
窓の縁に朝の光が揺れていた。
リリィが膝の上に小さな手帳を載せた。
「ご主人様、ご報告を伺っても」
俺は煙管を取り出した。
火は点けなかった。
「ヴァルムント侯爵家の家令ヘルマン・キース。月に三度、男爵領に通っている」
「会っているのは銀鉱山の管理人と温泉宿の主人。男爵本人ではない」
リリィが手帳に羽根ペンを走らせた。
「銀鉱山は男爵家の収入の四割を占めている。最近、枯渇の噂が流れているらしい。出元は侯爵領の鉱山技師だ」
リリィの羽根ペンが止まった。
「もうひとつ」
「はい」
「最近、王都で蛇と剣を交差させた紋章を着けた者が複数目撃されている。商人風、貴族の家令風、神官風——職業を跨いでだ」
リリィの瞼がわずかに動いた。
「……あの紋章でございますね」
「ああ」
「私からも、ご報告がございます」
リリィが手帳のページを繰った。
「昨日、お申し付けの件をお調べしてまいりました。蛇と剣の紋章につきまして」
俺は煙管を口の端に咥えた。
「古い貴族の紋章帳にはございませんでした。神殿の聖印帳にもございません」
「では」
「比較的新しい紋章である可能性が高うございます」
(——歴史が浅い)
(——だが、王都の各所に手の者を置いている)
リリィが手帳を閉じた。
「ご主人様、次は」
俺は窓の外に目をやった。
朝の市場が遠ざかっていく。
(——家令の動き)
(——銀鉱山の枯渇の噂)
(——蛇と剣の紋章)
(——だが、男爵領を見ないことには、何も言えない)
俺は煙管を懐に戻した。
「明日から、男爵領だ」
「お供いたします」
馬車が石畳の上を進んでいった。
朝の光が窓の縁に揺れていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話、ザインとリリィは男爵領へ向かいます。
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