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沈黙する構図

第二章第2話をお届けします。

よろしくお願いいたします。


夜が更けていた。


暗室の窓は閉まっていた。外の街の音は、もう聞こえなくなっていた。


赤い灯りが四方の壁を半分だけ染めていた。乾いた化学薬品の匂いが、鼻の奥にわずかに残っていた。


リリィがランプを高く掲げていた。光の角度を、俺の手元にちょうど落とせるように。


机の上に写真が二枚並んでいた。


温泉宿の二階の一室。男爵と侍女。同じ瞬間を別の角度から撮ったもの。


俺は拡大鏡を写真の上に置いた。


光源の位置。


(——窓からの月明かりと室内の燭台、両者の角度に矛盾なし)


影の落ち方。


(——男爵の背後の影、侍女の腰の影、光源と整合)


窓枠の歪み。


(——カメラの位置から見た自然な歪み)


時間をかけて、構図の隅から隅まで検めた。


写真を裏返して紙質を見た。


(——印画の粒子に不審なし)


(——化学反応の斑点に不審なし)


俺は拡大鏡をもう一度、表に当てた。


二人の指先まで目で辿った。


(——男爵の指は開いている)


(——侍女の指は頭を抱え込んでいる)


(——抱擁ではない)


(——だが、抱擁の構図には見える)


不審な点はひとつも見つからなかった。


(——何も出ない)


椅子の背もたれが、ぎし、と音を立てた。


懐から葉巻を取り出して咥えた。


火は点けなかった。


「痕跡が、ない」


俺は拡大鏡を置いた。


リリィの手がわずかに下がった。光が机からそれた。


「お見立て違いで、ございますか」


「いや」


「光源、影、紙質、薬品反応——どれも自然だ」


「合成では、ない」


「本物の場面、ということに」


「ああ」


葉巻を咥え直した。


「だが、本物の場面が写っている、というだけのことだ」


「と、いいますと」


写真の中の男爵は戸惑った顔をしていた。


侍女は頭を下げかけていた。


「あの瞬間、二人が抱擁の構図に収まっていたのは確かだ」


「だが、その構図にどういう意味があったかは、写真には写らない」


リリィが写真に目を戻した。


「不貞であった可能性も、不貞でなかった可能性も、この写真からは消えない」


短い沈黙。


リリィがランプを持ち直した。


「では、ご主人様のなさるのは」


俺は写真をしばらく眺めていた。


「明日、依頼者に情報提供者のことをもう少し伺う」


「畏まりました」


俺は葉巻を懐に戻した。


写真を封筒に戻した。


リリィがランプを絞った。


赤い灯がわずかに揺れた。


外で、遅い馬車が一台、石畳の上を遠ざかっていった。


◇◇◇


翌日の昼下がり。


王都中層街の高級カフェ「ロザリア」。


赤煉瓦の壁、磨き上げられた木の床。窓越しに、午後の街路が見える。


店内には商人風の中年が二人、別のテーブルで低く話していた。


老婦人がひとり、新聞を広げていた。


リリィは入口寄りの席で紅茶を頼んでいた。お茶を飲む若い女性の体裁。


イレーネは奥の席で先に待っていた。


濃紺のドレス。首元の古い真珠。座っていても背筋は伸びていた。


机の上のコーヒーカップは、半分減っていた。


俺は会釈して向かいに腰を下ろした。


「お時間を頂戴して、恐縮でございます」


「いいえ」


イレーネはカップを両手で包んでいた。事務所で見せた仕草と同じだった。


俺は本題を急がなかった。


ウェイターが注文を取りに来た。


「コーヒーを、一杯」


「畏まりました」


カップが置かれるまでに、しばらくの間があった。


その間、俺たちは何も話さなかった。


外で馬車が一台、石畳を過ぎていった。


イレーネがカップに口をつけた。


俺は片手で取っ手を握ったが、口をつけなかった。


「昨晩、お預かりしたお写真を検めさせていただきました」


イレーネがカップから目を上げた。


「光源、影、紙質、薬品反応——どれも自然でございました」


「合成も、後からの加工も、痕跡はございません」


「お写真は、本物の場面を写したものでございます」


イレーネの瞼が、ゆっくりと伏せられた。


「……では、やはり、夫は」


声に震えはなかった。ただ、息が半ばで止まりかけていた。


「奥様」


「はい」


「そう申し上げているのでは、ございません」


イレーネが目を上げた。


「お写真が本物であるということと、写された場面が奥様のお考えの通りであるということは、別の話でございます」


俺はカップをわずかに傾けた。


「お写真をもう一度、思い起こしていただきたいのですが」


「あの構図、男爵様とお相手の女性は、抱き合っているように見えます」


「ですが、男爵様のお手は、開かれたままでした」


「相手の腰には、回されておりません」


「写真からは、二人がどう向き合っていたかまでは、分かりません」


イレーネの指先が机の縁に触れた。


しばらくの間、彼女は何も言わなかった。


「……仰る通りでございます」


「現状、お写真からだけでは、不貞の場面ともそうでない場面とも申し上げられない、というのが私の見立てでございます」


「では、ザイン様は、これから」


「お写真を奥様にお渡しになった方は、その瞬間にその場にいらっしゃったはずでございます」


「現場の目撃者、ということになります」


「その方にお会いしたい」


イレーネがしばらく、考えるように視線を落とした。


「……写真のご提供者のことでございますね」


「左様でございます」


「お差し支えなければ、お聞かせ願えますか」


イレーネがカップを両手で包んだ。


カップの中のコーヒーの表面に、わずかな波紋が立った。


それから、低い声で、


「……ヴァルムント侯爵家の家令でございます」


(——名前が出た)


俺は表情を動かさなかった。


「ヘルマン・キース、と申される方」


(——なぜ侯爵家の家令が男爵夫人へ)


「ヘルマン氏が、貴方様に、直接お渡しに」


「いえ」


イレーネの指先が、机の縁を軽く叩いた。


「私の侍女にお渡しになったと、伺いました」


「私はヘルマン氏に、直接お会いしておりません」


俺はカップに口をつけた。


苦かった。冷えてはいなかった。


◇◇◇


俺はカップをテーブルに戻した。


「奥様ご自身のことも、少し伺ってよろしいでしょうか」


イレーネが頷いた。


「ヴァルゼン男爵様とは、十五年でいらっしゃいますね」


「ええ」


「ロウシュタイン伯爵家からのご降嫁、と」


「次女として、参りました」


「ご持参金は」


イレーネの眉がわずかに動いた。


「……金貨、四千枚でございます」


(——四千)


(——男爵領の年収の半年分)


「ご主人様とのご関係は」


イレーネの視線がテーブルの一点に落ちた。カップの取っ手の内側の影。


「淡白ではございました」


「ですが、不仲ではありません」


俺は無言で頷いた。


(——夫を信じているように見える)


(——だが、写真も信じているように見える)


(——矛盾を抱えている)


外で子どもの声が通りを横切っていった。


商人風の二人組が立ち上がって出て行った。


老婦人が新聞のページをめくった。


しばらくの沈黙が続いた。


それから、イレーネが、ゆっくりと目を上げた。


「ザイン様。先日、ご相談に上がりました際、申し上げなかったことがございます」


俺は黙って待った。


「お写真の包みには、お手紙も入っておりました」


声がわずかに低くなった。


「ヴァルムント侯爵閣下から、私宛のお手紙でございます」


「お差し支えなければ、文面の要旨を」


イレーネが、目を伏せたまま、


「『夫人の名誉を、案じる立場として、事実をお伝え申し上げる必要を、感じております』と」


(——『夫人の名誉を案じる』という言い回し)


俺は短く息を吐いた。


(——貴族男性が男爵夫人に書く言葉ではない)


しばらくの沈黙があった。


イレーネがゆっくりと、カップから両手を離した。


机の縁に片手を添えた。


それから初めて、目を伏せた。


俺は何も訊かなかった。


外の街の音が、急に遠くに聞こえた。


カフェの中の別の客の話し声も、いつの間にか止んでいた。


イレーネのコーヒーは、ほとんど減っていなかった。


◇◇◇


カフェを出た。


午後の光が、石畳を白く照らしていた。


店を出るまでに、イレーネはもう一度、深く頭を下げた。


俺はそれに、同じように応えた。


通りをしばらく歩いた。


路地の角で、リリィが待っていた。


「ご主人様、何が、お分かりに」


「分からないことが、増えた」


「お得意で、ございますね」


「分からないままで、いい」


「左様でございますか」


リリィの声には微かに、笑いの色があった。


俺は懐から煙管を取り出して、咥えた。


火は点けなかった。


(——侯爵家の家令)


(——侯爵から夫人宛の手紙)


(——『夫人の名誉を案じる』という言い回し)


(——金貨四千枚の持参金)


(——矛盾はない)


(——だが、まだ形にならない)


「リリィ」


「はい」


「明日、情報屋に行く」


「お供いたします」


「情報屋とは、俺一人で会う」


「それでは、外で別の聞き込みを」


「頼む」


リリィが静かに頷いた。


午後の風が、煙管の先をわずかに撫でていった。


俺は煙管を懐に戻した。


お読みいただきありがとうございました。

引き続きよろしくお願いいたします。


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