赤い封蝋
第二章「男爵夫人イレーネの依頼」が始まります。
ヴィオラ嬢の事件のあと、ザインの事務所に、赤い封蝋の手紙が届きました。
証拠を持つ依頼者が、調査を望む。
矛盾した依頼から、第二章は始まります。
10話完結の政治推理ミステリです。
よろしくお付き合いください。
朝の光が、半ば閉じたカーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。
天井の梁の節が、いつもより滲んで見えた。
机の縁に灰が薄く積もっていた。空のビール瓶が三本転がっていた。葉巻の吸殻が二つ。
俺はソファで仰向けに寝ていた。シャツのボタンは半分外れ、タイは緩んだまま。
ヴィオラ嬢の案件で金貨三百枚。家賃と生活費とリリィの給料を引いて、二百四十枚ほど手元に残った。普通の家なら、一年は喰える額だった。
天井のシミの数なら、もうとっくに数え終わっていた。
「ご主人様」
台所からリリィの声がした。
「ん」
「お忘れではございませんね」
「忘れていない」
「左様でございますか」
何も信じていない声だった。
俺は薄目を開けた。窓の桟に当たる光の角度で、約束まで、あと一刻ほどだと知れた。
リリィが机の引き出しを開けた。中から一通の封筒を取り出して、机の中央に置いた。
赤い封蝋。整った筆跡。封蝋の縁が、わずかに欠けていた。一週間前に、俺が一度開けた跡だ。
「ご返事は、お送り済みでございます」
「『お時間きっかりに、お待ちしております』、と」
「俺がそんなご大層な台詞を、言った覚えは、ない」
「足りておりませんでしたので、私の方で整えました」
俺は溜息をついて、上半身を起こした。背筋がぱきぱきと音を立てた。
「察しがつかないご依頼者だ」
「察しがつかないお客様だからこそ、お引き受けになったのではございませんか」
「だな」
リリィは盆の上に空き瓶を一本ずつ乗せていった。手つきに、急ぎはなかった。
「ビールのせいかと存じますが」
「何が」
「お忘れになりかけたことが、でございます」
「リリィ」
「はい」
「お前は、いつから、説教するメイドになった」
「最初から、でございます」
◇◇◇
俺はソファから立ち上がり、壁の鏡の前に立った。
シャツのボタンを留めた。一つ。二つ。三つ。
タイを締め直した。
髪を整えた。
鏡の中の男が変わった。
ソファに沈んでいた男ではなく、客の前に出る男になった。
棚には感謝状の束。もう、いくつ並んでいるのか覚えていない。
机の上の手紙の文面は、簡潔だった。
『夫の不貞の調査を、お願いしたく』
『私の手元には、すでに、不貞の証拠がございます』
証拠を持つ依頼者が、調査を望む。
矛盾している。
リリィが机を拭き終え、雑巾を畳んだ。
ノックの音が、三回。
控えめだが、迷いのない打ち方だった。
◇◇◇
「ヴァルゼン男爵夫人、ご来訪です」
「お通しして」
部屋に、香りが先に入ってきた。
派手ではない、控えめな香水。
それから、彼女が入ってきた。
黒髪をきっちりと結い上げ、乱れた髪は一本もない。濃紺のドレスは喪服の一歩手前の色。装飾は首元の真珠だけだった。
その真珠は、新しい品ではなかった。
俺は立ち上がり、軽く頭を下げた。
(——首元の真珠は、ロウシュタイン家の系統)
(——薬指の指輪に、ヴァルゼン家の紋章)
(——背筋の伸び方、踵を踏まずに歩く所作。伯爵家の躾だ)
「ロウシュタイン伯爵家のご出身、ヴァルゼン男爵夫人で、いらっしゃいますね」
女性の指先が、ほんの僅か動いた。
「お見立ての通り」
声を抑えた声だった。
「お掛けください」
「失礼いたします」
イレーネはソファに腰を下ろした。背筋は、座っても伸びたままだった。
膝の上で組まれた指先が震えていた。
リリィがコーヒーを差し出した。湯気が立った。
イレーネは両手でカップを包んだ。指の震えは、温度の中に消えた。
俺は彼女の正面に座った。
「失礼ながら、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「ここのことは、どなたから」
「ある方の、ご紹介で」
それ以上、彼女は語らなかった。
俺もそれ以上は訊かなかった。
仕事の半分は、待つことだ。
◇◇◇
しばらくの沈黙のあと、イレーネはハンドバッグから二枚の写真を取り出した。
机に置くまでに、一度、ハンドバッグの中で位置を整えた。それから、ゆっくりと、机の中央に置いた。
写真は、温泉宿の二階の部屋を、窓越しに撮ったものだった。
中年の男が、若い女と、抱き合っていた。
「夫の、不貞の証拠でございます」
イレーネの声は低かった。「不貞」と発するときに、口の動きが、一瞬、止まった。
俺は写真をしばらく見た。
二枚目を、一枚目の隣に並べた。
同じ瞬間を、別の角度から撮ったものだった。
(——外で、長く待たなければ、撮れない構図だ)
(——偶然の決定的瞬間とは、思えない)
「どなたから、ご提供を」
イレーネの指先が、机の縁を叩いた。人差し指で、三度。
「……あるお家の、お遣いの方から」
「お遣いの方、ですか」
俺は反復した。
(——名前を、出さない)
(——なぜ、出せないのか)
俺は写真の一枚目を持ち上げた。
「夫人ご自身は、ご主人様のお動きを、お調べでしたか」
「いえ。私からは、何も」
「ご主人様が温泉宿にお出かけになる日程を、ご存じだったのは、どなたでしょう」
イレーネの指先が、また、机を叩いた。今度は、四度。
短い沈黙。
「……夫の、近い者しか、存じ上げないはずでございます」
俺は写真をテーブルに戻した。
(——男爵の予定を、撮影者は知っていた)
(——情報の出元は、家の中。あるいは、家の中に手を伸ばした、外の者か)
イレーネが、初めて、俺の目をまっすぐに見た。
「ザイン様」
「はい」
「お調べいただきたいのは、ただ一つでございます」
「離縁するかどうかは、私が決めます」
「証拠の真偽だけを、はっきりさせてくださいませ」
声に震えはなかった。
俺はカップを置いた。
「貴方の縁を、私が、解きます」
◇◇◇
俺は引き出しから羊皮紙を取り出した。
『探偵業務委託契約書』
「条件を、口頭で申し上げます」
「第一契約。調査契約でございます」
「内容は、写真と状況の真偽確認」
「着手金、金貨五十枚。即金。失敗成功を問わず、お支払いいただきます」
「真偽が判明し、追加のご依頼が必要となった折には、改めてご相談を」
イレーネは頷いた。
「畏まりました」
俺は契約条件を書き加えた。
イレーネがペンを取った。
ペンを握る手は、もう震えていなかった。
イレーネ・ヴァルゼン。
整った字だった。
イレーネはハンドバッグから革袋を取り出し、机の上に置いた。中で金属が密に擦れる音がした。
「お約束の、着手金でございます」
俺は袋に手を伸ばした。
「ありがたく頂戴いたします」
「私は、調査の結果が判明するまで、実家ロウシュタイン伯爵家の王都別邸に滞在いたします」
「畏まりました。経過は、適宜ご報告いたします」
イレーネはもう一度、深く頭を下げた。
ドアが閉まった。
馬車の音が、石畳を遠ざかっていった。
香水の名残だけが、ソファの座面に、しばらく残った。
◇◇◇
俺はソファに沈み直した。
リリィは机の上のカップを片付けていた。一つずつ、丁寧に、盆の上に乗せていた。
何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
湯を沸かす音と、外の街路の音だけが、しばらく続いた。
リリィが最後のカップを盆に乗せた。
それから、こちらを見ずに、口を開いた。
「ご主人様」
「ん」
「あの奥様、ご紹介の出元も、写真の出元も、お明かしになりませんでしたね」
「ああ」
「お一人でお見えになり、お一人でお帰りになりました」
「ああ」
リリィは、こちらを見ないまま、盆を流しへ運んだ。
俺は天井を見上げた。
イレーネは伯爵家の出だった。侍女も護衛もつけず、独りで男爵家の不貞の話を運んできた。
紹介の出元も、写真の出元も、明かさなかった。
撮影者は男爵の予定を知っていた。
手元にはすでに証拠があった。それでも、調査を望んだ。
(——一つひとつは、おかしくない)
(——だが、引っかかる)
机の上の革袋が、視界の端に映った。指の腹に、まだ、金貨の重みが残っていた。
家賃。生活費。リリィの給料。今月の調査経費。
差し引いて、利益は、ほとんど残らない。
それでも、引き受けた。
理由を、自分でも、まだ、整理していない。
◇◇◇
「リリィ」
「はい」
「今夜、暗室を使う」
「畏まりました」
「写真を、もう一度、見直したい」
「ランプを、ご用意しておきます」
「それから、奥様の方に、もう一度お時間をいただきたい」
「ご連絡を、お入れしておきます」
「頼んだ」
リリィが、ようやく振り返った。
「お供、いたします」
「ああ」
◇◇◇
朝の光が、机の上の革袋の影を、長く伸ばしていた。
看板の『探偵』の文字が、外から薄く浮かんで見えた。
異国の言葉。誰も知らない言葉。
それでいい。
俺はソファの背もたれに沈んだ。
——次の物語が、始まる。
お読みいただきありがとうございました。
第二章は10話完結の予定です。
次話「沈黙する構図」は、深夜の暗室から始まります。
引き続きよろしくお願いいたします。




