暖炉の灰と新しい手紙
こんばんは。第五話です。
第一章「公爵令嬢ヴィオラの依頼」、本日完結いたします。
ヴィオラの事件の終わり——そして、次の予兆。
よろしければ、最後の一話を、お楽しみください。
数日後の昼。
事務所。
ヴィオラが訪ねてきた。
きちんとした昼の装い。淡い水色のドレス。白いショール。銀髪を綺麗に結い上げ、耳元に小さな真珠のイヤリング。
あの夜までの彼女とは別人のようだ。
俺はソファを示した。
リリィがコーヒーを差し出した。
「美味しいです、相変わらず」
「ヴィオラ様にお喜びいただけて、光栄でございます」
リリィは丁寧にお辞儀をして、控え位置に下がった。
俺は机から綴じ書類を取り出し、ヴィオラに渡した。
「全ての記録です。報告書、行動記録、写真、契約書の写し」
「全部、私に」
「ええ。控えは、私の手元には残しません」
ヴィオラは書類を膝の上に乗せ、しばらく黙っていた。
それから顔を上げた。
「燃やしては、いただけませんか」
「ご自分で、どうぞ」
俺は暖炉に火を起こした。
ヴィオラは写真の束をひとつ手に取り、しばらく見つめてから火に投じた。
紙が音を立てて燃えた。
カイルとエマリアの顔が灰になって消えた。
報告書も契約書も、最後の一枚まで、彼女自身の手で焼いた。
ヴィオラは長く息を吐いた。
「これで、終わりました」
「ええ」
「ザイン様」
「はい」
「ありがとうございました」
ヴィオラは深く頭を下げた。
「貴方がいてくださらなければ、私は半年悩んだまま、十年でも二十年でも悩んでいたかもしれません」
「いえ」
「いいえ、ザイン様」
ヴィオラは顔を上げた。
「私が、私で決めるのを、待っていてくださいました」
俺は何も答えなかった。
ヴィオラはほんの少し俯いて、それから静かに笑った。
ヴィオラはハンカチを膝に置いた。
「ザイン様」
「はい」
「ひとつだけお訊きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ、この仕事をなさっているのですか」
俺はしばらく答えなかった。
ソファの背に寄りかかった。
「かつて、一人」
「はい」
「救えなかった人がいる」
ヴィオラの瞳が揺れた。
「だから今、目の前の人を救うのです」
ヴィオラの目から涙が一筋流れた。
それは悲しみの涙ではなかった。
ヴィオラはハンカチで目元を押さえた。
俺はリリィに目で合図し、新しいコーヒーを淹れさせた。
ヴィオラは二杯目のコーヒーを飲み終わってから、ハンドバッグから小さな革袋を取り出した。
机の上に置いた。
中で金属が密に擦れる音がした。
「お約束のご報酬でございます」
「お早いですね」
「両親がすぐにお持ちするようにと」
「ありがたく頂戴いたします」
俺は革袋に手を伸ばした。
ヴィオラの指先が革袋の端に、まだ残っていた。
俺の指が彼女の指に触れた。
ほんの、一瞬。
ヴィオラは手を引いた。頬がほんの少し赤い。
俺は革袋を引き取った。
ずっしりと重い。
(——金貨三百枚)
「では、また新しい縁を結ばれた時に、お祝いに来てください」
ヴィオラが立ち上がった。
ドアの前で振り返った。
「ザイン様」
「はい」
「お元気で」
「貴方も、お元気で」
ヴィオラは深く頭を下げ、事務所を出て行った。
ドアが閉まる。
馬車の音が遠ざかる。
静寂。
俺はソファに崩れ落ちた。
タイを緩める。シャツのボタンを一つ外す。
「リリィ」
「はい」
「重さは」
リリィは振り返らなかった。空のカップを盆に乗せている。
「お約束通り、金貨三百枚」
「三百」
「侯爵令息の不貞でございますから」
俺は片手で目を覆った。
家賃。生活費。リリィの給料。今月の調査経費。
差し引いて、手元に残るのは二百四十枚ほど。
——ふた月ぶりにいい数字だ。
リリィは盆を流しへ運んだ。
俺は天井を見上げ、目を閉じた。
◇◇◇
一週間が過ぎた。
朝の光が窓から差し込んでいた。
俺はソファでうとうとしていた。
机の上には、空のビール瓶が三本。
その隣に、ビールの空き缶が四つ。
灰皿の代わりにしている小皿には、葉巻の吸殻も二つ。
(——金貨三百枚で、しばらくは優雅にやれる)
(——だが、優雅は退屈だ)
「ご主人様」
リリィの声が台所から。
「ん」
「お手紙でございます」
俺は片目を開けた。
リリィが封筒を机の上に置いた。
封蝋の色は赤。
紋章は見覚えがない。
「どなたから」
「ヴァルゼン男爵夫人、と」
俺は起き上がった。
封をゆっくり切った。
中の羊皮紙。整った筆跡。短い文面。
『探偵殿』
『夫の不貞の調査をお願いしたく、ご連絡を差し上げます』
『私の手元には、すでに不貞の証拠がございます』
『つきましては、来週の半ば、貴事務所にお伺いいたしたく』
『ご都合のほどを、お聞かせくださいませ』
『——ヴァルゼン男爵夫人より』
俺は目を止めた。
「リリィ」
「はい」
「お前も、読め」
リリィが手紙を取り、目を走らせる。
しばらく、無言。
「……特異でございますね」
「だな」
(——証拠があるなら、俺の仕事はもうないはずだ)
(——にもかかわらず、調査の依頼)
「お受けになりますか」
「察しがつかない依頼は面白い」
リリィが小さく頷いた。
「受ける、と返事しておけ。来週の半ば、待つ、と」
「畏まりました」
リリィは封筒と羊皮紙を丁寧に揃え、机の引き出しにしまった。
俺はソファに沈み直した。
「リリィ、ビールを」
「朝でございます」
「いいから」
「もう三本、お空けでございます」
「四本目だ」
「お体に障りますよ」
「働いていない身体ほど、丈夫だ」
「ご主人様」
「ん」
「お働きどきでございます」
リリィがビールのグラスを置いた。
それが彼女なりの合図だった。
俺はグラスを口に運んだ。
苦い。冷たい。よく冷えていた。
朝の光が机の上の空き瓶の影を、長く伸ばしていた。
看板の『探偵』の文字が、薄く、外から浮かんで見える。
異国の言葉。誰も知らない言葉。
それでいい。
俺はグラスをテーブルに置いた。
——次の物語が始まる。
第一章「公爵令嬢ヴィオラの依頼」、お読みいただきありがとうございました。
ザインの本職は、浮気調査の探偵ですが——
次の依頼者の手元には、「すでに証拠がある」という、ねじれた一通の手紙が。
第二章「男爵夫人の依頼」は、十話完結の予定です。
更新は鋭意進めて参りますので、ブックマーク・評価をいただけると、たいへん励みになります。
それでは、また次の物語で。
ザインとリリィの事務所で、お会いしましょう。




