ヴァルゼンの谷
お読みいただき、ありがとうございます。
今話から男爵領での現地調査が始まります。
男爵様のお人柄に少し触れる回でございます。
どうぞお楽しみくださいませ。
王都の南門を出たのは朝早くだった。
俺は商人風の旅装に着替えていた。
リリィも地味な茶色の旅着で、小間使いの体裁をとっていた。
二頭立ての軽い荷馬車を借りた。
荷台には反物と乾物の樽を積んだ。
商人の体裁を整えるためだ。
街道は乾いていた。
前夜の雨はもう石畳から消えていた。
馬車の車輪が単調な音を刻んでいた。
リリィは助手席で背筋を伸ばしていた。
「ご主人様」
「ん」
「商人らしくお願いいたします」
「分かっている」
「左様でございますか」
何も信じていない声だった。
俺は手綱を持ち直した。
街道は昼前に低い丘を越えた。
午後、男爵領ヴァルゼンの境界を示す石碑が現れた。
その先は緑の谷地が広がっていた。
谷の両側に低い山が連なっている。
南の山肌に銀鉱山の坑口らしい黒い口が三つほど見えた。
馬車が谷を下っていく。
風に若い麦の匂いが混じっていた。
リリィが目を細めた。
「思いのほか豊かでございますね」
「ああ」
俺は手綱を緩めた。
夕刻、男爵領の主邑ヴァルゼン町に到着した。
◇◇◇
町の中央通りに「鈴の音亭」という小さな宿屋があった。
商人風の身なりのまま、二人で一部屋を借りた。
夕食は宿の食堂で簡単に済ませた。
夜は早めに床に就いた。
翌朝。
俺たちは馬車を出して、男爵邸の見える丘の麓へ回した。
男爵邸は質素な石造りだった。
二階建て。屋根は赤褐色の瓦。
派手な装飾はなかった。
だが、生垣の薔薇は丁寧に手入れされていた。
俺は街道の少し離れた木陰に馬車を止めた。
リリィに目で合図した。
リリィが小さく頷いた。
リリィが小間使いの体裁のまま邸の門前へ歩いて行った。
俺は馬車の陰から眺めた。
門前の生垣の前で白髪の老人が剪定鋏を動かしていた。
老執事の身なり。古いが手入れの行き届いた黒の上着。
リリィが老人の数歩手前で足を止めた。
「ご無礼をお許しくださいませ」
老人が顔を上げた。
剪定鋏を持った手はそのままだった。
目だけが動いた。
リリィの足元から、顔まで一度ずつ。
「どちらのお遣いの方でいらっしゃいますか」
声は穏やかだった。
だが丁寧な距離を含んでいた。
「いえ、お遣いではございません」
リリィが軽く目を伏せた。
「主人の供で王都から旅をしてまいりました。主人はこの町の織物商と話がございまして、私だけ昼餉までお暇をいただきまして」
リリィが街道の方をそっと片手で示した。
「ご無礼を承知で、井戸をお貸しいただければと存じまして」
老人がもう一度リリィの様子を見た。
旅装の埃。空の水筒。
「……町の中にも井戸はございますが」
「丘の上のお邸があまりにお綺麗でございましたので」
「……」
「お屋敷の方々を煩わせるつもりはございません。裏の井戸で結構でございます」
老人がしばらく黙っていた。
それから、剪定鋏を生垣の枝にそっと預けた。
「裏口にございます。お一人で行かれてください」
「ありがとうございます」
リリィが軽く一礼した。
だが、その場をすぐには離れなかった。
老人の手元の薔薇に目を移した。
「立派な薔薇でいらっしゃいますね」
老人が剪定鋏を持ち直した。
返事はなかった。
「私の祖母も、薔薇を育てておりました」
「……ほう」
「枝の整え方がよく似ていらっしゃいます」
老人の手がわずかに緩んだ。
「こちらは御家のお薔薇でございますか」
「先代の奥様がお植えになったものでございます」
「お母君様の」
「左様でございます」
「それを、毎日」
「もう四十年になります」
老人の声が少しだけ柔らかくなった。
「ご主人様がお小さい頃は、ご自身で水をお運びになりまして」
「お母君のお薔薇でございますからね」
「左様でございます」
リリィが薔薇の根元の土に目をやった。
「土の状態までよく行き届いておいででございますね」
「ご主人様がお目をお通しになりますので」
「ご当主様ご自身が」
「ええ。お忙しい中、毎朝生垣の前に必ず」
老人がまた剪定鋏を動かし始めた。
俺は馬車の陰でわずかに角度を変えた。
(——男爵が毎朝、母君の薔薇を)
「お忙しいご様子で」
「銀鉱山のことでいろいろございまして」
「まあ」
「お休みの日も少のうございます」
リリィが少し目を伏せた。
「お体に障られませぬよう」
「ご主人様もよく承知でございます。年に何度か、山の宿で湯治をなさいますので」
「お一人で」
「左様でございます。ご当主様は人がおりますとお休みになれぬご性分で」
「お疲れのお時にお一人で湯にお入りになるのはよろしゅうございますね」
「ええ。今度も、五日後からのご予定でございます」
(——五日後)
リリィが小さく頷いた。
「お一人で湯にお入りになるのが、よほどお好きなのでございますね」
「……それだけでもございませんで」
老人が剪定鋏の柄を指で撫でた。
「あちらの女将の母君が長く臥せっておられまして、ご主人様がお薬代を密かにお出しになっております。湯治のついでに、お見舞いにも」
「まあ」
「銀鉱山の坑夫の家にも、三年前に流行り病が出ました折、王都から医師を半年ほど雇われまして」
「ええ」
「あまりご自身ではお仰せにならないお方でございますので」
(——温泉宿)
リリィがゆっくり目を伏せた。
「お優しいお方でいらっしゃいますね」
「左様でございます」
短い沈黙があった。
老人が剪定鋏を取り直した。
リリィが軽く頭を下げた。
「お引き止めしてしまい、申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ」
「失礼ながら、お名前をお伺いしてもよろしゅうございますか」
「ガラッドと申します」
「ありがとうございます。リリィと申します」
「お気をつけて」
リリィが裏口の方へ歩いて行った。
老人がまた剪定鋏を動かし始めた。
俺は馬車の陰に身を寄せ直した。
(——五日後、温泉宿)
(——張り込みのタイミングが見えた)
(——男爵が温泉宿に通う理由は、慈善の可能性もある)
(——現場を見る)
しばらくして、リリィが裏口から戻ってきた。
水筒を二つ提げていた。
リリィが馬車の助手席に乗り込んだ。
「ガラッドさんとおっしゃる方でございました。ご当主様への忠義の篤いお方で」
俺は手綱を持ち直した。
「ああ」
「五日後から、温泉宿にお一人でおいでになるそうでございます。お見舞いも兼ねて、と」
「お見舞いも、か」
「左様でございます」
俺は手綱を緩めた。
(——……話を聞く限りでは、悪い男ではないようだ)
馬車が動き出した。
朝の光が町並みに長く伸びていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話、ザインとリリィの張り込みが始まります。
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