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二人目

東京に上京してきてよかったことと言えば、家から出て徒歩五分以内の場所に必ずといっていいほどコンビニがある、ということくらいだ。それ以外は、もう最悪。空気は汚いし水道水はカルキの匂いがするし、なにより人が多くて困る。田舎では鬱陶しいくらいに深かったご近所同士の付き合いも、今では恋しいくらいである。

 

一日の仕事に疲れてテレビをつけると、今日も日本は大忙しだったようだ。強盗窃盗殺人誘拐、エンタメ政治外交経済。私は、ふっ、とメディアリテラシーという言葉を頭に思い浮かべた。マスメディアに流されず正しい情報を得て、自分の意見をしっかりと持つという姿勢は、案外自分の国に対する無関心から成るのかもしれないな、と思った。今の私がそうであるように。

 

冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを開け、一気に飲み干して「ぷはっ」と息をついた。今日も一日ご苦労だったぞ、私。明日も精々生き延びろ。そう考えていると、なんだか自分が可笑しな人のようで、ちょっとだけ笑えた。ああ、私はいつから、こんな人になったんだっけな。都会にきてずいぶん変わってしまったようだ。

 

そもそも田舎者の私が何故上京してきたのかと言うと、中学の頃からの知り合い・梨夏子が絡んでくる。田中梨夏子という名前のその女は、私にとっては目の上のたんこぶのようなもので、正直言って非常に鬱陶しい存在だ。

彼女とはかれこれもう二十年の付き合いになる。私が四歳の頃に隣の大きな家に引っ越してきたのが彼女だった。梨夏子はフランス人形のように愛らしい顔の造形をした病弱な少女で、家が隣という繋がりがある私をいつも頼ってきた。小学校にあがって朝、登校するときもいつも、私のランドセルにしがみついたきた。

 

邪魔だから、離れてよ。当時小学校一年生だった私は、なにに怯えているのかいつもビクビクしている梨夏子にイラついて、そう声をかけた。しかし彼女はいつも「だって」と言っては俯くだけ。今思えば、私の眉間に刻まれた深い皺は、彼女のせいなんじゃないかと思うくらいだ。いや、きっとそうだ。そうに違いない。私は、しんと静まり返った部屋で、はあ、とため息をついた。

 

梨夏子はいつも男の子にちやほやされていた。それに反比例して、私はいつも男の子に鬱陶しく思われていた。私がいるせいで梨夏子に近寄れないのだ、と男の子たちは決まって口々にそう言う。そんなことを言われても、私だって好きで彼女と一緒にいるわけではなかったのだ。それなのにそんな言われようをするなんて。私は小学校高学年にもなると、梨夏子のことを意図的に避けるようになっていた。


「ねえまうちゃん。どうしてわたしを避けるの?」

 

まうちゃん、というのは私のあだ名だ。梨夏子限定の私のあだ名。本当は真央、というのが私の名前だけど、初対面で名前を名乗るときに私は少し風邪をひいていて、鼻声で「まう!」と名乗ったんだと思う。おまけに呂律の回らない子供だったらしいから、梨夏子にはますます「まう」と伝わってしまったのだろう。今思えば、なんておバカな子供だったんだろうか、私は。

 

なにはともあれ、小学校六年生のときに、梨夏子は至極さみしそうに私に聞いてきた。私は、ちょっとだけ気まずくて顔をそらし、「べつに」とそっけなく答えた。多分、それが精いっぱいだったのだろう。小学生のキャパシティなんて、まだまだ小さい小さい。

 

中学に上がると、梨夏子はさらに男の子にモテた。元々愛らしかった顔立ちが、更に磨きをかけて可憐な乙女へと成長していた。だから彼女は私以外に友達がいなかった。女子には必然的に敵対視されてしまうのだ。可愛くて弱弱しくて、男子の庇護欲をそそる梨夏子は、女子から相当疎まれていたと思う。

 

私は自分の顔があまり良い方だとは思わない。顔をしかめるほど悪い、というわけでもないが、自分が男だったらこんな中途半端な女とは付き合いたくはないな、と思う顔立ちだ。だから、男の子にはモテなかった。

 

勉強は梨夏子より私のほうができた。運動だって私のほうができた。ただ一つ、顔立ちが整っているかいないかの違いで、ほかの全ては意味を成さなくなる。世の中って不公平だよなぁ、と使い古された台詞を改めてつぶやく毎日が、私の中学生時代だった。くしくもそんな無気力に、青春は擦り減っていったのである。


 

しかしそんな梨夏子の呪縛からも高校に入学するのを機に放たれた。彼女は東京の方へ引っ越しをする、と言った。お父さんのお仕事の都合で、もうここにはいられないの。とすごくさみしそうに言っていた。私は微塵も寂しくなかったけど、それでも、元気でね、とだけ言ってやると、梨夏子は泣きじゃくって私に抱き着いてきた。

 

それから地元の大学に通い、順風満帆に日々は過ぎていった。梨夏子がいなくなってから私は、数回男性から告白されるようになった。もしかして、横に絶対的なあの子を連れて歩いていたから、私の存在は男子から見てひどくかすんでいたのかもしれない。元々薄い顔立ちをしているのに、私は中学のときまでどんなに矮小な存在だったのだろう。

 

大学で同じサークルの男の子と付き合うことになった。頭が良くて優しくて、とても良い人だった。私は彼が大好きだった。

 

しかしそんな幸せが溢れる日常にも終わりは訪れるのだ。

 

数年ぶりにかかってきた電話の先では、梨夏子が泣きじゃくりながら私に言った――わるいおとこのひとにだまされた!



「ごめん、別れよっか」

 

私は彼にそう告げて、できるだけ明るい笑顔を作るように努めた。彼は突然の別れに困惑しているようで、「どういうこと?」と私に説明を追及してきたが、私は「それじゃあね」と言って、なにも説明しなかった。いや、説明したくなかったのだ。口にするだけでも腹が立つ。まさか――まさかあの女のせいで私がこんなことになるなんて。私はため息をつきながら、ビートルズの「Hey Jude」を口ずさんだ。その日は久しぶりに、少しだけ泣いた。悲しいのではない、悔しいのだ。

 

私はなんだかんだで昔から梨夏子に甘かった。小学校の図工の授業で彼女が絵具を忘れたと言っては自分のを差し出してかわりに怒られてあげた。中学で理科の実験道具であるフラスコを割ってしまったといえばかわりに片付けて後始末をしてあげた。梨夏子は家事全般ができないため、箒塵取りも満足に扱えない。だから私がなんでもやってあげた。仕方ないなあ面倒くさいなあしょうがないなあ。それが私の口癖だった。

 

梨夏子はその日、電話口で嗚咽しながら私に言った。助けてまうちゃん。まうちゃん助けて。わたしもうだめかもしれないの。赤ちゃんが、赤ちゃんができたんだよ。でもね、わたし、ひとりで育てなきゃ!

 

私には途切れ途切れのその言葉だけで理解ができた。ああ、そうか、こいつは悪い男にだまされて子供を孕み、その末捨てられて途方に暮れている、と。そういうことか。


「落ち着いて。ご両親には?ちゃんと言ったの?」


「だ、だめだよ。言ったら、怒られちゃうもん!」


「怒られちゃうってそんなの……当たり前じゃない。私があんたの親だったとしても、そりゃ怒るよ」


「ま、まうちゃん助けて」

 

それから三十分くらいあれよこれよと会話を続けて、私は結局彼女に負けた。東京にきて彼女の子育てを少しずつ手伝う。そう約束して電話を切ったのだった。



 

そして時は今に戻る。私は梨夏子と零歳の娘が住むアパートから徒歩で二十分ほどの距離の場所にマンションを借りた。二日に一度ほどのペースで彼女の家に顔をだし、なにか用事があれば手伝ってやる。彼女の両親にも一緒に頭を下げて謝ってやった。零歳の娘の名前はさくらといって、このさくらちゃんが梨夏子に似てまたかわいらしい。DNAって、デオキシリボ核酸ってすごい。

 

私は大学に通っていた頃となんらかわらない日々を送っていた。朝がきたら会社に行って夜がきたら家に帰る。また朝がきたら会社に行って夜がきたら家に帰る。ぐるぐるぐるぐる。それの繰り返し。重んじられすぎたルーチンワークみたいに廻る廻る。

 

学生の頃と違う点といえば、友人を作ることが極端に難しくなった、という点だ。元々社交的な性格ではない私は、会社でもなかなか打ち解けないでいた。そんな仕事での鬱憤を晴らす趣味や特技もこれといってないし、愚痴をこぼせる友達もいない。私は今案外、限界にきているのかもしれない。

 

だからその日は眠る。明日を夢みて私は眠った。



 

東京にきて、朝起きるのが以前よりも憂鬱になった。一日が始まる。一日が、始まってしまう。そう思うとどうしようもない吐き気がこみあげてきた。朝食は摂らずに家を出て、満員電車に揺られながら会社へ向かう。軽い素材でできたはずの女性用スーツが、鉄の鎧のように重く感じるのを自覚しながら、低めのハイヒールの音を鳴らして出社する。おはようございます、と呟きながら自分のデスクへ向かってPCを開く。

 

カタカタカタカタ。キーボードを打鍵し続けるだけの単純なお仕事。たまに上司のところへ書類を提出しに行って、また打鍵する。


「篠原さん、こっちもよろしく」

 

了承をする前にさっさと置かれていってしまう書類に目を通し、ため息をつきながらまた打鍵する。カタカタカタカタ。もう何時間こうしているのだろうか。いつになったら終わりはやってくるのだろうか。周りではしゃぐほかの女性社員が「お昼行こうよ」という会話をし始めたらそこでようやく私も一旦手を止める。デスクの引き出しから軽食を取り出しそれを食べる。小食な方ではないが、なぜか会社にいると食欲がわかない。食べてもすぐに吐き出しそうになる。東京にきて私の体重はなんと四キロも減った。

 

楽しいことなどなにもない。嫌になってくる毎日は私の背中に重くのしかかる。父や母から「そっちではうまくやっているのか」と電話がくるたびに「うん、大丈夫」と答える自分が酷く惨めだ。なにがどう大丈夫なんだ。友達はいない仕事に遣り甲斐は感じない。この泥沼のような状況のどこを取ったらどう大丈夫だといえるのか、教えてほしい。


「あ、あの」

 

と。不意に声をかけられて上を向く。するとそこには、今年の春入社してきたばかりの新人くんが立っていた。今年の春。さくらちゃんが生まれた四月である。今はもう空気の冷たい十一月にもなったが、この新人くんは今だ会社に打ち解けていないと以前女性社員たちが噂していたのを思い出す。少年のようなあどけない顔立ちは女ウケしそうだが、私はあまりこういう甘ったるい顔立ち好みではない。田中梨夏子を重ねてしまうからだ。


「なあに?えっと……豊口くん」

 

名前を思い出せてよかったなあと思いながらそう聞くと、豊口くんは一枚の書類を私に差し出して「これ、どこに出せばいいかわからなくて」ともごもご喋った。私はそれを受け取り、ああ、と声をもらす。


「これならね、第二倉庫の備品ケースに張り付けておいてくれれば良いんだけど……わかる?」


「あ、えっと……」


「うん。じゃあ私がやっとくから」

 

書類を受け取り軽食を机の上に置いて歩き出す。すると豊口くんが後ろから追いかけてくる。待ってください、と言われたので足を止めると、豊口くんは困ったように言った。


「えっとその……じ、自分で」


「はっきり喋って」


「は、はい! 自分でやります!」

 

私はちょっとだけ驚いて目を丸くした。この子がこんなに大きな声を出しているのなんて初めて聞いた。私がぽかんとしているのを見て察したのか、豊口くんは「す、すみません」と謝ってうつむいた。


「ふ……ふふ」


「え?」


「ふふふふふ」


「し、篠原先輩?」


「行こうか、豊口くん」


「は……はい!」

 

豊口くんは子犬のように人懐っこい笑みを見せて私についてきた。そういえば私、入社して初めてこんなに素直に笑ったなぁ。上司に見せる作り笑いならもう慣れてしまっていたけれど、誰かと話して笑うなんてそんなの、めったになかった。というか皆無だった。


「篠原先輩って変わってますね」


「え?そう?」


「はい……俺、今までもっと気難しい人だと思ってました」


「ああ。そうかもね。私も、私みたいなのが同じ会社にいたら、そう感じると思う」


「でも、他の先輩たちより、素敵だと思います」


「え?」


「いつも一生懸命仕事に打ち込んで、さぼったりテキトーにやったりせずに丁寧に丁寧に一つずつ片付けていって……ああ、この人は凄い人だなぁ、って思いましたもん」

 

豊口くんの笑顔が私に向けられる。この子、こんなに饒舌だったっけ?ああ、いや、それよりも、私のことをこんなにちゃんと、見てくれていた人がいたのか……にわかに信じがたい。周りの人はいつも自分のことばかりで、私になんか目もくれなくて、そのくせ自分の都合が悪くなると全部全部私に押し付けてきて……


「私は……素敵なんかじゃないよ」


「え?」


「ただ、言われたことをやってるだけだもん。そこには一切の遣り甲斐も情熱も注いでいない。こんなに渇いた仕事の仕方をする人間が、素敵なはずがないよ」

 

私がそう言うと、豊口くんはちょっと困ったような顔をした。当惑しているようにも見える。少し意地悪を言ってしまったかもしれない。年上の上司にこんなことを言われたら、誰しもが困って口をつぐんでしまうだろう。


「それでも、言われたことをやれる人間って、そうそういないと思いますよ」


「え?」


「嫌なことでも辛いことでも、文句を言わずに黙ってやれる人間って、本当に少ないと思います。だから、篠原先輩は素敵だと思います」 

 

へらりと笑う豊口くん。私は、驚いてなにも言えなかった。いつ以来だろうか。他人からこんなふうに褒められるのは。思えば四歳の頃から褒められるのはいつも梨夏子ばかり。両親だって、梨夏子ちゃんは愛想がよくてかわいい、とか、あんたは無愛想で可愛くない、とかそればっかりで。私は豊口くんの言葉にむずがゆさを感じて、「そ、そうかな」とそっけなく返しておいた。


「先輩、照れてます?」


「照れてないよ」


「嘘だ」


「うるさいな」

 

倉庫に入って段ボールが山積みにされていた場所へ向かい、書類を張り付けて「発注」と書いていたところに赤い丸をつける。よし、これでOK。


「これは商品発注承諾書だから、こうやって段ボールに張り付けておいてね」


「はい」


「ん、じゃあ戻ろうか」


「はい……先輩、お昼まだですよね?」


「え?いや、もう食べたけど」


「え、いつ食べたんですか」


「さっき軽食摂ったもの」


「あんなので栄養賄えると思ってるんですか!?」


「う、うん……ていうか、君、いきなり大きい声出さないでよ、もう」


「ダメですよ先輩、もっとちゃんと食べないと」


「え……うーん、でもね、私、仕事場にいるとあまり食欲が湧かなくて」


「なんでですか?」


「え?」

 

聞かれたのは初めてだった。いや、そもそも私にそんなことを聞くほど親しい人間が職場にはいなかった。じゃあ、なんだ。豊口くんは私にとって親しい人間?さっき初めて喋ったのに?私はなんだかおかしくなって、こみあげてくる笑いを堪えながら口を開いた。


「なんでだろう、そういう場だから、かなあ」


「そういう場って?」


「なんとなくご飯が食べたくなくなるような、場」

 

私がそう言うと、豊口くんはもとからぱっちりしていた瞳をさらに大きくさせた。数秒黙ったかと思うと、「じゃあ」とわずかに口を開いた。


「今からおいしいランチを食べに行きましょう」


「え?今から?誰と誰が?」


「俺と、先輩が」


「ちょっと、それはなぁ……うーん」


「嫌ですか?」


「嫌ってわけじゃないけど……ああ、ていうか、君さあ、そういうのよくないと思うなあ。ちょっと否定したら、こっちが断れなくなるような後ろ向きな言葉出してくるの」


「じゃあ、行きましょうよ」


「えええ……でも、私」


「ちゃんとご飯食べなきゃ、力つきませんって!」


「うわ、ちょっ、腕、引っ張らないでってば!」



 


その日は八時すぎに仕事が終わり、九時頃梨夏子の家に向かっていた。スーパーの袋に果物を提げて、夜の街を歩く。ひゅう、と冷たい風が頬をかすめて、私は思わず身を抱きしめた。


「こんばんはー、梨夏子―」


「あ、まうちゃん!」

 

合鍵をあけて中に入ると、梨夏子がぱたぱたと中からかけてきた。


「さくらちゃんは?」


「寝てる」


「あ。そう」

 

はい、と梨夏子に果物が入ったビニール袋を渡すと、ありがとう!と百点満点の笑顔を向けてきた。べつに、と表情を変えずに言うと、梨夏子はなにかに気が付いたように「あれ?」と首を傾げる。


「まうちゃん、なにか良いことあったの?」


「は?」


「なんか、いつもより柔らかい」


「柔らかいって、なにが?」


「表情が」

 

梨夏子は冷蔵庫に果物を仕舞いながら言った。私は、はてそうかなと頬をつねる。痛い痛い、痛いぞ。


「何にも意識してなかったけど」


「ふふふ。私にはわかるのです、まうちゃんの微妙な表情の変化が」


「なんじゃそれ」

 

確かに私は幼いころから感情を表に出さない子供だった。それゆえに損してきたこともたくさんあった。だけど何故か梨夏子にだけはエスパーみたいに私の気持ちがわかった。辛くて苦しくて押しつぶされちゃいそうなとき、決して表情には出してなかったはずなのに、梨夏子はなぜか必死で私を励ましてきた。どうして伝わったんだろう、と疑問に思う前に、かわいらしい顔立ちをころころと変化させながら私を励ます彼女がなんだか可笑しくて、大笑いしたのを覚えている。


「今日お仕事は?楽しかった?」


「楽しいお仕事なんてあるなら、私とっくに転職してるよ」


「ああ、そっか」


「でも、変な後輩とお昼食べに行ったよ」

 

私が言うと、梨夏子はぱちぱちと大きく目を瞬かせた。数秒黙り込んでから、「びっくりした」と小さくつぶやく。


「まうちゃん、東京来てから全然お友達とか作らなかったのに」


「うん、そうだね。一人もいないかも」


「女の子?」


「え、誰が?」


「だから、そのお友達」


「友達じゃないよ」


「え!?なに、男の子!?」


「違う違う、いや、男の子だけど……あんたが想像してる、そういうのとは違うから」


「じゃあなに?」


「だから後輩だって。あのさ、人の話はちゃんと聞こうね」

 

まるで学校の先生にでもなったみたいにそう言うと、梨夏子は少ししゅんとして「はあい」と言った後、瞬時に表情を変えて「どんな子どんな子」と聞いてきた。なんというか、忙しい子だなあ。


「べつに、普通の子だよ。ああ、でも、今まで物静かだったから、急に饒舌になったのには驚いたかな」


「饒舌?急に?え?なに、わかるように説明してよ」


「書類の提出場所?を教えてあげたら、いきなりランチ行きましょうって言われて、なんか、色々ね」


「えええ!いろいろってなに?え?どんな話?ちょっとちょっとぉ!」


「落ち着いてよ。ていうか、だから、梨夏子の期待にそえられるようなことはなにもないし、世間話しただけだよ……」


「いいなあ、社内恋愛」


「だからただの後輩だって」


「いいや、違うよぉ。その後輩くん、ぜぇったいまうちゃんのこと好きだよ」


「それこそ違うよ。あれは、なんというか、好かれたというよりは……なつかれたというか」


「そ、そんな犬みたいな」


「犬みたいなんだよ、まさしく」


「そうなの?」


「うん。あんたをそのまま男にしたみたい」

 

自分で言っておいて、なかなかしっくりきた。ああ、そうだ、豊口くんは、まさしく男版梨夏子なのだ。あのどこか頼りなさげなところも、かと思ったら急に積極的になるところも、全部全部梨夏子に似ているのだ。


「ふうん、会ってみたいなぁ」


「会っても、面白くないと思うけど」


「顔は?かっこいい?」


「柴犬みたい」


「……柴犬みたいでわたしに似てるって、どういうこと?」

 

梨夏子は少し怒ったような顔をした。しかし私はあえてスルー。ここでいちいち弁明をすると面倒だ、ということをわかっているからだ。


「梨夏子はさ、さくらちゃんが大きくなったら、働くでしょ?いつまでもご両親に援助してもらうわけにはいかないだろうし」


「うん、そうするつもりだよ。一応大学も出てるし、就活がんばるよぉ」


「結婚は?するつもり、ないの?」


「するつもりはあるけど、相手がいないからなぁ」


「ふうん……」

 

言いつつ、梨夏子ならきっと、就職したらすぐに良い人が捕まるだろうなと思った。この顔にこの性格なら、結婚したいという男引く手あまただろう。


「うらやましいなあ」


「? なにが?」


「いや、こっちの話」


「そう?」

 

梨夏子は言いつつ、お酒の入ったアルミ缶を私の前に出してきた。「ありがと」と受け取ると、「今日もお疲れ」と微笑みを返してくれる。

 

この子はいつも、誰に対してでもこの笑みを見せてくれる。差別なく平等に誰にでも接してくれる。だけど私はこの子が苦手だ。それは、もしかしたら単純に恨んでいるからかもしれない。この子さえ、梨夏子さえいなければ私はもっと華のある中学校生活を送れたかもしれない。男の子にだってモテたかもしれない。それに、東京になんて来るはめにならなかった。田舎のあののんびりとした空気に身を溶かして、付き合っていた彼ともしかしたら家庭を持っていたかもしれない。


「梨夏子、あんたさ、さくらちゃんは保育園にでも預けて、もうそろそろ働きに出た方がいいかもよ」


「うえ?なに、どうしたの」


「今思ったの。やっぱりさ、そう、そうしたらさ……私も、田舎に戻って」


「まうちゃん、田舎戻っちゃうの?」


頼りのない瞳をこちらに向ける梨夏子。私は、うん、とだけ小さくかえして、ビールに口をつける。


「なんで?東京じゃダメなの?」


「ダメって、なにがよ」


「まうちゃんが生きるには、適してなかったの?」


「それはさ……うーん、違うよ」


「じゃあ、なに?」


「単純に、嫌いなのよ。この町が」

 

そう言うと、梨夏子は少し驚いたような顔をした後、今度は悲しそうに目をふせた。本当に、ころころころころ表情が変わる子だ。私とは大違い。


「どうして?東京はいいところだよ」


「そうかなぁ、私は、すごく嫌いだよ、その……匂いが」


「匂い?」


「うん。あるでしょ、そういう、なんていうかさ……その町独特の匂いみたいなの」


「ああ……田舎はクラムチャウダーのかおりがする」


「うん。東京は、カルキの匂いがする」


「でも、香りと匂いだよ?」


「は?」


「東京は、そりゃカルキの匂いがするかもしれないけど、でも、幸せの香りもするんだよ」

 

ふふふ、と梨夏子は笑う。私はぽかん、と口を開けて呆けてしまい、なにも言えなかった。言わなかったのかもしれない。本当は、彼女が言っていることは理解できていたのかもしれない。ただ、それを聞くと、自分がこの町を嫌う理由を否定してしまうようで、怖かった。ただ単純に、梨夏子に嫉妬しているだけの自分と真っ向から対峙してしまうのが、酷く恐ろしかったのだ。


「そ、そんなことより、どうなの?梨夏子、仕事探さないの?」


「わたしが仕事始めたら、まうちゃんは?」


「田舎に帰る。そんで、親の居酒屋継ぐ」


「うーん……まうちゃん、ほんとにそれでいいの?」


「なにがよ」


「なんていうかなぁ……まうちゃんを東京に呼んだのはね、そりゃあ、助けてほしかったからでもあるの。でも、それ以上に、なんていうかさあ……」


「ちょっと待ってよ。私は、あんたが困ってるっていうからこっちに来てあげたんだよ?」


「うん……でも、でもね、まうちゃん。わたしは、まうちゃんに人生妥協してほしくなかったの」


「え?ねえ、ちょっと、落ち着こうよ。あのさ、私今、混乱してる。あのさ、え、なに?じゃああんたは、私を妥協させないためにわざわざ子供孕んだの?」


「それは違うよ!ただ……この機会に、まうちゃんが殻を破ってくれればいいなって」


「なに、それ……」


「ごめんまうちゃん……怒った?」


「……呆れた」

 

ため息をついてビールを飲み干すと、梨夏子はしゅんとした顔になってうつむく。そういう甘い顔すれば許してくれるのは、世間のバカな男だけだよ、甘えんな。心のなかで少し毒づいた。

 

ああ、あの子も、そうなのかな。豊口くんも、こういう、梨夏子みたいに可愛い子が少しでも甘い顔したら、すぐ許しちゃうのかな。なんとなく、そう考えてしまった。凄く嫌な想像だった。だから、私は考えることをやめた。嫌な想像はするだけ損だ。


「あんたにもさ」


「へ?」


「あんたにも、きっと、そのうちわかるよ」


「……なにが?」


「不条理が」

 

私は最後にとっておきの意地悪を言ってからコートを羽織り、「それじゃあね」と言って梨夏子の家を出た。外は月が出ていて綺麗だったけれど、田舎の澄んだ空に煌々と光る月光を知っているので、素直に綺麗だとは思えなかった。そんな私を私は少しだけ嫌いになった。



 


次の日職場で、篠原さん、と呼ばれてはっと気が付く。ああ、私、ぼーっとしてた。仕事中なのに。急いで振り向き「な、なんですか?」と恐る恐る聞くと、呆れ顔の上司が「疲れているようだね」と苦く笑って「休憩してらっしゃい」と言った。後輩の女の子たちが、女性特有のあの探るような目で私を見る。ああ、いやだ、逃げ出してしまいたい。家に帰って布団にくるまりたい。私は拳をぎゅっと握りしめ、押し出すような声を出して「はい」と返事をし、デスクルームを出た。

 

自販機の前に到着して、財布を机に置き忘れたことに気づいて、大きなため息をついた。どうして、こう、うまくいかないのだろう。やっぱり東京にきていいことなんて一つもなかった。

 

都会が一望できる、とまではいかないけれど、そこそこに眺めのいい場所に設置されていた黒のソファにゆったりと腰をかけて、目をつむった。ダメだなあ、私。ダメダメだ。どうしてこんなにうまくいかないのだろう。なんだか涙が溢れそうになって、慌てて目元をこすった。しかし、ため息はとまらない。ため息の大量生産だ。はあ。はあ。はあ。はあ。あーあ。最終的にこぼれるのは、そんなふうな嘆きのつぶやきだった。


「あれ?先輩、なにしてるんですか?」

 

不意に声をかけられて、ああ、豊口くんか、と声の主の顔を頭上に浮かべる。瞼を開けると、そこにはやはり豊口くんが立っていた。不思議そうにこちらを覗き込んでいる。私は、「休憩中」と苦く笑って、力のないピースをつくってみせた。


「休憩って……ふうん」


「なんだよ。そういう君は?」


「休憩中です」

 

そう言って片手に持っていたお茶を上げる豊口くん。私の隣にぼすんっと座り、しばらく無言。


「外回り?」


「はい、そうです」


「ふうん、お疲れ」


「先輩は?」


「私は……ちょっと、ぼーっとしちゃって」


「え?珍しいですね」


「うん……そうなんだよね」

 

ガラス張りの向こうに広がる東京の街並みは、今日も今日とて人で溢れていた。みんな、制服やスーツを堅苦しそうに着こなして、生き辛そうに歩いている。私も、そうなのかな。私も、生き辛そうに見えるのかな。たとえば、そう、梨夏子から見た私は、窮屈そうな女に見えているのかな。


「私、今、揺れているんだ」


「なににですか?」


「実家に帰ろうと思う」

 

私が言うと、豊口くんは口をむすんで黙り込んだ。私も彼も、正面を見ながら話をしているため、お互いの表情は伺えない。見えるのは、全身鏡のように普段の自分の姿を映す、東京の街。


「どうして、ですか?」


「え?」


「どうして、戻ろうと?」


「ああ……その、こっちに来たのはね、もともと、中学時代の友達が悪い男にだまされて子供孕んじゃってさ。それで、それの手伝いってことで、子供がある程度育つまでは一緒にいてあげようと思ってて」


「へえ……そうだったんですか」


「うん。私がいなきゃ、あの子、ひとりぼっちだからさ」

 

私が言うと、豊口くんは「へえ」とか「そっかぁ」とか「はぁん」とか、なにかを悶々と考えるように唸っていた。なにを考えているのだろう。私のことをお人よしだとでも思ったのだろうか。だとしたらそれは間違った解釈だ。


「それじゃあ、先輩は田舎に戻ったら、なにをするつもりなんですか?」


「うん。両親の居酒屋でも継ごうかなって」


「へえ……」


「私、この街があんまり好きじゃなかったの。どころか、すごく嫌いだった。なんていうのかなぁ、うーん……冷蔵庫のなかに、閉じ込められているみたいで」


「面白いですね、そのたとえ」


「ちょっと、私、真面目なんだけどなぁ、今……」


「ああ、すみません」

 

豊口くんは薄く笑った後、「えーと」と頬をかいて、それから初期の頃と同じようにもごもごと口ごもりながら「俺は」と言った。


「俺は、先輩に田舎に戻ってほしくないです」


「どうして?」


「先輩は、心配しなくても、ちゃんとここで輝いていますよ」

 

私はびっくりして瞳をぱちぱちと瞬かせた。豊口くんは恥ずかしそうに頬を朱に染めて、私の目をまっすぐに見た。


「すいません、キザですかね?」


「い、いや……ていうか、ごめんね。いまいち理解に苦しむなぁ」


「ああ、そうですよね……あのですね、俺、たぶんみなさん知っての通りというか……人付き合いとか、苦手なんですよね」

 

この子が入社してきたときのことを思い出す。朝礼会で、皺ひとつないスーツをぎこちなく身にまといながら名前を名乗っていたあの日のことを。ごにょごにょと覇気のない喋りをした後に、へらりと草食動物のように笑っていた。


「だから、その、失礼かもしれないけど……先輩に似たものかんじて、勝手に親近感とか覚えてたりしたんですよね」


「ああ……まあ、私も孤立してるからね」


「それで、この間勇気を出して話しかけてみたときに、気づいたんです」


「なにに?」

 

豊口くんは優しく笑った。なんだろう、この、すべてを受け入れてくれるようなおおらかな笑みは。人間はどうしたらこういうふうに笑えるのだろう。


「先輩は、たぶん、都会で人に埋もれるのが怖いんじゃないですか?」


「え?」


「都会は人が多いから、自分がどんどん埋もれてかすんでいってしまうようで、怖い。違いますか?俺はそうでした」

 

豊口くんはガラスの向こうの世界に視線を戻した。だから私もそちらを見た。ぐるぐるぐるぐる。廻る廻る人の波。ああ、そうか、そうだったのか。私は、あれに埋もれるのがただ単純に怖かった。だから梨夏子に嫉妬していた。決して埋もれることのない輝きをもったあの子に嫉妬していた。バカだ私。この上なく恥ずかしい。豊口くんの方をみると、彼はまだガラスの向こうを見つめていた。ごめん、と小さくつぶやくと、彼はやっとこちらを向いた。


「なんで謝るんですか?」


「……バカな女って思ったでしょ?くだらないって、つまらないって、そう思ったでしょ?」

 

豊口くんはびっくりしたような顔をした後、「まさか!」と言って快活に笑った。うつむく私の頭をぽんぽんと数回撫でて、「そんなことないですよ」と優しく言った。


「さっき言ったじゃないですか。俺もそうだったって」


「でも……」


「みんなそうなんですよ。みんなみんな、きっとそうなんです。先輩のお友達の方だって、きっとそうです」


「梨夏子が?」

 

私は首を傾げて彼を見た。豊口くんは、「そうです」と頷くと、ふたをあけていないペットボトルを私にくれた。


「それでも飲んで、ゆっくり考えてみてください。使い古された台詞かもしれないけど、でも、それでもやっぱり俺は思うんです。“この世に特別な人間なんていない”って」


言われた瞬間、どこかの糸がぷつんと切れたように、ほろり、と涙がこぼれた。最初は一粒。次に二粒。ほろほろと涙はとまらない。ああ、なんだろうか、このどうしようもない安心感は。ずっとずっと欲しくてたまらなかった言葉を、やっともらえた。そんな感覚がした。小さい頃に遊園地で母親とはぐれて、人ごみのなかを泣きながら歩き回ったことがある。やっと再会できたときに感じた、あの抑えきれない安堵感と、愛しさ。それと同じ感覚が、今私を包んでいる。


「私……そうか、私……」


「先輩は大丈夫です。先輩はまだ大丈夫です。それでももし、本当にダメになりそうだったら、そのお友達にでも相談すればいいじゃないですか。どうせ先輩もそのお友達も、ひとりぼっちなんでしょう?」

 

豊口くんは悪戯に笑った。意地悪な笑みだったけれど、でも、どこか優しい。

 

そうか、梨夏子は私に、もしかしたらこういうことを教えたかったのかもしれない。私は自分の殻にこもりすぎた。外の世界というものを知らずに外の世界を嫌っていた。でも、それじゃダメなんだ。私は、誰よりも孤独を嫌っていたくせに、誰よりも人を遠ざけていた。それじゃ、ダメなんだ。


「豊口くんには……」


「え?」


「豊口くんには、ダメなの?相談とかしちゃ」

 

私が言うと、豊口くんは少し驚いた顔をした後、「相談料とりますよ」と笑った。だから私も笑った。ああ、私はまだ、大丈夫だ。こういうふうに笑っていられるうちは、こういうふうに一緒に笑ってくれる人がいるうちは、まだ大丈夫。


「豊口くん」

 

背筋を伸ばして彼に向き合う。心が少し暖かい。東京にきて初めて感じる暖かさ――いや、そんなことはないはずだ。目をそらしていただけで、きっと、こういうふとした愛おしさは、たくさん転がっていたのだ。

 

だから、これからはちゃんと向き合おう。

 

不条理にも、不公平にも、理不尽にだってなんだって。その分たくさんの幸せの香りをかごう。


「本当にありがとう。これからもよろしくね」

 


帰りに梨夏子にケーキでも買って行こう。田舎の両親にはなんと連絡をしようか。元々頑としてでも店を継がせたいというわけでもなかったから、きっと快く了承してくれるだろう。

 

いつか梨夏子に豊口くんを紹介しよう。三人でケーキでも食べながら他愛もない話をしよう。そうやって、ひとりぼっち、ふたりぼっち、さんにんぼっち。いつしかよにんごにんと人数が増えて、賑やかになればいいと思った。

 

そんな人数のなかでも埋もれず笑っていられる自信が、今の私にはあるのだから。


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