三人目
男の子が嫌い。自分自身の内側の、深い深いところに眠っていたその感情に気が付いたのは、中学三年生の時だった。正確に言うと、男の子が怖い、といった方が正確なのかもしれない。私はある日突然、目の当りにしてしまったのだ。異性というものの残酷さを。
「残酷って、なにが?」
母が不思議そうに私に聞いた。コーヒーが入ったマグカップをふうふうと吐息でさましながら、首を傾げている。思春期の娘の意味不明な発言に、少なからず怪訝を覚えているのだろう。
「あのね、お母さん……私ね、わかっちゃったの」
私の声は少し震えていたようで、母が「ちょっと、なに泣いてるの」と慌てて背中をさすってくれた。目頭が熱くて、どうしようもなく苦しくて、私は嗚咽して泣いた。
「わかっちゃったって、なにが?」
「男の子ってね、男の子って……女の子に順位つけてるんだよ」
あれはつい一週間前のことだった。都会にしては珍しく雪が降り、私は寒い身を抱きしめながら放課後の学校に向かっていた。受験生なのに、受験勉強用のノートを忘れてしまっていたのだ。既に部としての活動を引退している三年生のいない部活動の集団が、走り込みをしたり、あるいはボールをまわしてパス練習をしたりと忙しく動き回っていた。
早くノートをとって、家に帰ろう。私は自然に小走りになって教室へ向かっていた。
「……あれ?」
階段を上って、ふと気が付く。私のクラスにまだ灯りがともっていた。おかしいな、と思いながらも教室のドアを開けようとすると、中から数人の男の子の声が聞こえてきた。
中にいた男の子たちは、学年の女の子たちで誰が可愛いか、を話していた。あと、誰が不細工か、も。それらは全て上っ面の、あくまで顔立ちしか見ていない見解で物を言っていたため、私は凄く複雑な気持ちになった。それに、彼らに可愛いと賞賛される女の子は、大体がスカートを短くしてワイシャツのボタンをたくさんあけて、いつでも鏡のなかの自分を眺めているような子たちばかりで、なんだかなあ、とやるせない。
でも、不細工だと貶される女の子のなかには、心優しく人柄の良い子がたくさんいた。もちろん、可愛いといわれる女の子のなかにもそういった子はたくさんいたのだが、私はその差にものすごく絶望的な気分になった。
要は、たぶん、男の子って女の子の顔しか見てないんだろう。
可愛い子がなにか良いことをすれば好きになる。でもそうでない子が良いことをしても見向きもしない。私は瞬時にそれを悟った。
世の中って結局、顔だ。残酷なことにも、それが結論で結果論なのだ。
私は教室の扉をあける勇気がなくて、その日はそのまま家に帰った。胸にもやもやとした嫌なつっかかりを秘めたまま一週間を過ごした。
でも、もしかしたら私の思い違いなのかもしれない。男の子のなかにだって、人柄をちゃんと見てくれる子が、いるかもしれない。そう思って少し観察してみたりしたけど、するだけ無駄だった。世の中って一目瞭然。接する相手が変わればみんな態度がころっと変わる。多分それは、本人たちも無意識で、悪気はないんだろうと思う。でも私は昔から、他人の無意識という名の範疇に敏感だった。その人個人の性格や性質が露わになる一瞬の瞬間を、これでもかというくらい凝視して心にとどめてしまう。なんと嫌な人間なのだろうか、私は。そんな私を私は大嫌いだった。
「ううーん、あのねえ、七海。七海の周りの男の子はさ、思春期だから、仕方のないことなのかもよ」
「つまり、どういうこと?」
「可愛い女の子にでれでれしちゃう時期なのよ。お母さんのときも、そうだったし」
「べつに、それが悪いことだとは言わないよ。でもね、でも、私が嫌なのは、なんていうかなぁ……すごく形容しずらいんだけどさぁ」
「そうそう、思春期ってそういうものだよ。言葉に表しにくいなにかが、心のなかでぐるぐる渦巻いて、暴れて、どうしようもない」
「うんうん、そうなの。あのね、なんていうか……私はさ、べつにね、そういうのがいやなんじゃないの。可愛い女の子に現を抜かしちゃうのはさ、自然の摂理?ん?違う?生物の本能的な内面思考というかさ、そういうのだと思うし」
「難しい言葉。いつそんなのならったのよ」
私は母の言葉をあえて無視して話を続けた。炬燵のなかにいれた両足をおりまげて、体育座りをするようにしながら、「ああ、もう、あのねえ」と呟く。
「だからねつまり、不公平だと思うの。可愛い子がなにかしたら滅茶苦茶褒められる。でも、そうでない子がしてもそこまで注目されない」
「あのさ、七海、それって嫉妬?」
「そんなんじゃないよ。そんなんじゃないけどさぁ……」
「うんうん、そうだね。でも、確かにそれはそうかも。世の中って、どうしようもなく不公平よね」
「うん……大体の人はさ、そういう、不公平とか、不条理とかから目をそらして、自分なりの生き方を見つけられるじゃない?でもさ、私……」
「七海は不器用だもんねえ、昔っから」
「そう……そうなの」
私は炬燵の毛布に顔をうずめた。ある程度の熱を持ったそれは、あたたかくて、気持ちが良い。すっかり冷えてしまった私の気持ちを、じわりじわりと溶かしてくれるようだった。
「私ね、こういう言い方したらあれかもしれないけど……弱い人代表なの」
「弱い人代表?」
なにそれ、と母が首を傾げる。本当に不思議そうな表情だった。
「世界だと規模が大きいから……日本全国の弱い人たちを代表して、物を申すの」
「なにそれ」
母がさっきと同じことを言って、今度はぶっと吹き出した。真面目に言っているのに笑われて少し気分を悪くした私は、「真剣なんだけど」と頬を膨らませた。すると母は今だ少し笑いながらも「ああ、ごめんごめん」と私に向き直った。
「それで、弱い人代表の七海は、全国の強い人になにを物申すの?」
「そうそう、それそれ。私はさ……強い人の嫌なところが、ありありと見えちゃうっていうか、なんていうか」
「ほう」
「例えばね、点字ブロック」
母が首を傾げる。数秒して「ああ、うん点字ブロックね」と遅れて反応をした。点字、という言葉は日常生活であまり使わないため、頭のなかでそれを想像するのに時間がかかったのだろう。
「よく道とかで見かける黄色のあれはさ、目の見えない人が……つまり視覚障碍者の方が、歩行するときに危なくないようにとりつけられているわけじゃない?」
「うん、そうだね」
「でもさ、最近、それが意味を成さなくなってる気がするの」
私は、つい最近出くわした出来事を頭に思い浮かべながらぽつりぽつりとそれを母に吐き出した。
「この間ね、視覚障害者の方を見かけたの。点字ブロックと、ほら、あの……杖?みたいなのを頼りにしながら、すごく不安定に歩いてて」
「うんうん」
「でもね、その人が頼りにして歩いてた点字ブロックの上には、自転車が止められててさ。その人、困っちゃって。必死で杖で自転車をつつくんだけど、たぶん、自分がつついてるものがなんなのか、わからなかったんだろうね。その場から固まって動けなくなっちゃってさ」
「へえ……」
「私、その時すごく腹が立ったの。点字ブロックって、全国どこでもあって、私たちは見慣れちゃってるわけじゃない?だから、みんな、それの意義について深く考えなくなっちゃってるわけなんだよね。ていうか、誰のために、どういう目的で取り付けられているのか、忘れちゃってる。そういうの、よくないと思うんだ」
「それは確かに、よくないねえ」
母は真面目な顔をして頷いた。コーヒーを一口飲んで、「確かに確かに」と二、三度つぶやく。
「だから私、自転車どけてその人に言ってあげたの。あなたの行く手を遮っていたのは自転車ですよ。本当に、ごめんなさい、って」
「どうして七海が謝るのよ」
「誰かが謝らなきゃダメだって思ったの」
私は壁にかけられていた電子時計を見た。時刻は夜の十一時半。受験生なんだから勉強しなくちゃいけないのかもしれないが、どうにも腹の虫がおさまらなくて、私は言葉を続けた。
「そしたらね、その人、諦めたように背中を向けてどこかへ行っちゃったんだよ。なんか、私、見捨てられたみたいで、悲しかった」
「見捨てられたって、あんたが悪いわけでもないし……」
「あの人は、たぶん、全部諦めてたんだと思うの」
母はしばらく何かを考えたような顔をしていたが、それ以上はなにも言ってこなかった。ただ黙って私の話を聞いていた。
「あのさ、そういう視覚障害者の方とかって、なんていうか……公民の教書に載ってた言葉そのまま使うなら、社会的弱者、っていわれるじゃない?」
「うーん、なんだか差別を感じるなあ」
「そうだよね。だから、私もなんだかいやだった」
公民の教科書で障害者の方を「社会的弱者」と表現されているのを見たとき、なんとなく肩を落とした。私のちっぽけな正義感が、わずかな抵抗を見せたのだ。
「で、その社会的弱者を支えたりするのが社会福祉なわけだけど……最近はさ、社会福祉って、そういう職業に就いてる人以外は関係ない、みたいな、そういうかんじになってない?」
「つまり?」
「だからさ、自分はべつにそういう職業に就いていないから、関係ない、みたいな」
「それはつまりになってないなぁ」
母はくすりと笑った。私のことを諭すような笑顔だったが、私はうまく伝わらないことがもどかしくて「えっとね、だからぁ」と口ごもる。
「うんうん、大丈夫わかるよ。七海は、社会全体で支えあう姿勢が見えないのが、嫌なわけよね」
「そうなの!」
私は少し笑顔になった。母が物わかりの良い人で助かった。
「だってさ、人間ひとりじゃ生きていけないんだよ」
ひとりぼっちじゃ、生きていけないのに。どしてみんな、それがわからないんだろう。
「多分、みんなわかってるふりをしてるのよ」
「え?」
私は母の言葉に目を丸くした。言っている意味がよくわからなかったのだ。
「だからねえ、みんな、うわべの言葉だけではすごく立派なことを言えるものじゃない?ある程度、小学校の勉強して、中学出て、大人なんてもっとそう。高校卒業して大学行って、人生経験だけは豊富になっていくの。でも、そんななかでも大事なことを見失っている人はたくさんいてね。頭がどんなに良い人でも、そういう根本的な人間性が出来上がっていない人なんて、世の中に腐るほどいるわ」
「根本的な、人間性?」
「そう。だから、それが七海の言う支えあいや助け合いね。でも、そういうことの意味を知るなら、辞書で引けばいいだけじゃない?支えあう、とか、助け合う、とかひけばさ、ある程度の意味は理解できる。これが、上っ面の認識ね」
「うんうん」
「でも、それらの根本的な意味とかさ、あとは、理由とか。秩序とか、循環とか。日常生活で目を凝らせばわかるようなものを、理解できている人って本当に少ないの。理解して、行動に移せる人なんてもっと少ない」
「例えば?」
「例えば、だから、七海が自転車をどけてあげたのは、すごく立派よ」
でもね、と母は言う。凄く優しい笑みだった。
「みんなそれができないの。自分がしなくても誰かがやってくれると思ってるから、或いは、助けられる人を助けない、という行為が、悪いことだと思っていないの。害をおよばさない分には、どんなに困っている人がいたところで、助けないのは悪いことじゃないって」
「そんなの……酷いよ。だって、助けられるのに助けないって」
「そう。それは凄く悪いことなんだよ。なのに、誰もそれに気が付かないの。なんでだと思う?」
私はしばらく考えた。どうしてだろう。個人個人の考え方の問題か?考えてもわからなかったので、無言で母の目を覗くと、「あのね」と諭すような口調で言われた。
「日本が、そういうふうになっちゃってるのよ。悲しいことにね」
頭を、がーんと殴られた気分になった。そうか、そういうことか……私は妙に納得して、こくんこくんと二度うなずいた。
「そうだね……うん、そうかも」
「うん。これは、もう、国全体の問題よね」
「じゃあさ」
私は涙目になりながら言った。どうしてだろう、悔しくて仕方がない。悲しくて苦しくて、胸が痛い。
「国を変えるには、どうしたらいいの?」
「これはまた、大きな問題だねえ」
母は困ったように苦笑した。小さな子供をあやすように、私の頭をぽんぽんと撫でて、そうだなあ、と呟く。
「国を変えるんじゃなくて、七海が変わらなければいいんだよ」
「私が?」
「うん。七海がね、ちゃんと、軸のある考えを持ってさ、人生に立ち向かえば、たぶん、何かが変わるよ」
「なにかって?」
「それはなあ、ちょっと」
母はからりと笑った。すべてを知っているような笑みだった。まだ内緒。四十代の顔に十代のいたずらっぽい笑みを浮かべて、そういった。
「話を戻すけどさ、七海は男の子嫌い?」
「嫌いよ。大嫌い」
「それは、どうして?」
「女の子の外面しか見ていないから。内面を見ないで、邪見にしたりするから」
「でも、七海。それも一種の差別なのよ?」
母にそう言われて、私ははっと目を見開く。
「七海も、男の子っていう分類だけで全部決めつけて、色眼鏡で見ちゃってるわけじゃない?同じよ。たぶんさ、七海は、その視覚障害者の方に、他の人と同じような、支えあう姿勢のない人間だと思われて、いやだったんじゃない?」
「……そう、なのかな」
「きっとそうよ。だから、それと同じね。男の子ってだけで決めつけるのはよくない。みんなね、男とか女とか、そういうのの以前に、人間なのよ。わかる?一人の人間なの。個人であり、個々であり、各々であり各自なの。だからさ、ダメよ、男の子とかってひとくくりにして、頭ごなしに決めつけたら」
「……う、ん」
私は素直にこくんと頷いた。母はそんな私の頭を優しく撫でてくれた。
「大丈夫よ。きっとそのうち、みんなわかってくれるわ。よく言うじゃない。美人は三日で飽きるけど、ってやつ」
「ああ……そうだね」
「それに、あなたは綺麗よ」
母がそんなことを言うのがとても意外で、私は目を丸くした。べつに胸を張って言うことではないが、私は自分の顔がすごく良いほうだとは思わない。中の中といったところだろうか。悲観的に見ればもっと下?とにかく、他人に褒められるような顔立ちはしていないと思う。
「どうして?私、べつに特別綺麗なわけでもないよ」
「ただ単に、顔の造形が整ってるってだけが綺麗ってわけじゃないわよ」
「どういう意味?じゃあ、どこが整ってれば綺麗なの?」
「心よ」
母は瞼を閉じてしばらく黙った。眠ってしまったのかと思うくらいに微動だにしなかった。そのうちゆっくりと瞼をあけて、柔らかく微笑む。
「いい?きっとこれから、今みたいなことはたくさんあると思うわ。顔立ちが綺麗な人と比べられたりとか、することもあると思うの。悲しいことに、それが摂理だからね」
でも、と母は言う。
「どんなに顔立ちが綺麗な人でも、心が醜く荒んでいたら、それは真実に綺麗とは言わないの」
「……うん」
「あなたはそんな人にならないでね」
ならないよ、と私は言った。なぜだろう、それだけは即答できたのだ。
「お母さん、私ね」
「ん?」
「いつか、いつかそういう誰かの役に立てればいいなって思うの。まだ、はっきりとはわからないけれど、いつか」
「そう」
母は笑った。眠たそうな瞳がこちらを向く。気が付けばもう十二時をまわっていた。
「じゃあ、なりなさい。あなたなら大丈夫よ」
「本当?本当にそう思う?」
「ええ」
母は言った。自信たっぷりな笑顔だった。
「だって、あなたはひとりじゃないもの」
みんなに支えられているんだよ。
私はごしごしと瞼をこすった。不思議ともう、涙は出なかった。




