一人目
クラムチャウダーみたいなはなし。
冬だった。とても寒い。僕はその日、ちょっとだけ緊張した面もちで自分の教室へと向かっていた。指先が微かに震える。ぎゅっと拳を握りしめれば、手のひらの温度が冷たい指先にじわじわと電線するようだった。少し暖かい。
本当は持ち込みを禁止されているはずの音楽プレイヤーを堂々と開いて時間を確認することができるのは、今が夕方の四時半過ぎで、廊下に僕以外の人物が一人もいないからだった。
ここは二階、三年生のフロア。部活動はもうほとんどの人が引退していて、その空間は魚のいない水槽みたいに妙に閑散としていた。携帯電話で時間を確認すると、予定の時刻よりも十分早く来てしまったことがわかった。教室の前に用意されていた椅子に腰をかける。はあ、とため息をつけば、室内なのに白い息が出た。
数分そのままじっとしていると、自分がどこか遠くの異空間に放り出されたような気分になった。誰も誰もいない廊下に、ぽつんと座る、僕。夕日がきらきらと窓から差し込んでくる様子が、僕には異世界の住人から放たれるビーム光線に思えた。とても恐ろしい。
男の子なら誰しもが一度は、悪の組織から地球を守る戦隊ヒーローにあこがれるものである。僕もそれの例外ではなかった。もっとも、中学三年生となった今では、戦隊ヒーローはおろか悪の組織なんてどこにも存在しないのだ(或いは、存在したとしても自分が住まう日常とは乖離したどこか別の世界の話)だとわかりきっているので、くだらない幻想に浸ることはもうほとんどない。しかし意味のない思い出に浸ることはたまにある。その日だって、僕は利き手である右手で鉄砲の形を作り、夕日の差し込む窓の方へ狙いを定めて、「ばあん」とつぶやいてみたりした。その時、きっとどこかで、小さな世界が悪の組織から救われたのだ。きっと、日常とはそういうものであるのだと思う。
そんな風にして定刻になるのを待っていると、不意に教室のドアがガラリと音をたてて開いた。中から出てきたのは、同じクラスの女の子だった。少し疲れた様子の彼女は、椅子に座る僕の姿を発見すると、やはり疲れたような笑みを浮かべながら「次、どうぞ」と小さく言った。僕は軽く頷いて、腰を浮かせた。
だけどやっぱりまだ心の準備ができてなくて、教室に入れない。なんたって僕の人生を左右される紙が渡されるのだ。僕はさっさとその場から去ろうとする女の子に、「ねえ」と声をかけた。確か、花村さんだったっけな。相手の名前を頭に浮かべながら、僕は言葉をつづけた。
「あのさ、どうだった?」
「どう、って?」
「その……成績。上がってた?」
「ああ……ええとね、上がったのもあったし、下がったのもあった」
「それって……」
「うん。プラマイゼロ」
花村さんは苦く笑って、「それじゃあ、頑張って」と片手を振り、夕日のなかに背中を消した。そうか、下がった教科もあるのか……この時期になっても下げられるとは。僕は、いい加減腹を括ろうと思い、思い切って教室の扉を開けた。失礼します、を言うのを忘れていたことに、その瞬間気づいた。だけどタイミング的に今いうのもおかしな話だろうなと思って、無言で頭をぺこんと下げるだけにした。
「おう。早かったな」
「あ……すみません。早くつきすぎちゃって」
「ふうん。いいことだな」
座れよ、と促されて、僕は椅子に座った。教室の中で僕のことを招いたのは、担任である杉浦先生だった。一度に何人もの生徒の話を聞ける、という特技から、ニックネームは摂政。僕は摂政の正面で、そわそわと体を落ち着きなく動かした。
「今日、寒かったか?」
「あ、はい……冬ですから」
「へえ、そっか」
摂政はもう五十代半ばの、言ってしまえばおじさんである。禿げあがった額は見ているだけでも寒々しい。親しみやすい性格だからか、みんな摂政の頭のことを散々からかうけれど、彼は苦々しく笑って「お前らもいつかはこうなるんだよ」というだけだった。
「楠木……おお、あった。これか」
摂政は黄色いファイルから白い紙を取り出し、僕の前に出した。僕は、心臓がひやりと捕まれるような感覚に陥ったが、それもすぐに忘れてその紙を凝視した。
「お前、よく頑張ったな」
摂政はにやりといたずらっぽく笑って、頬杖をつきながら僕を労った。
僕は、その紙に書かれている数字を一つ一つ確かめるように見ながら、固まった心臓が熱でじわじわと溶かされるような、そんな感覚に身を委ねていた。
「よ……よかった」
思わず安堵の息が漏れる。僕は、にこにこ笑いを浮かべることが制御できず、その紙を見ながら口角が上がるのを自覚していた。
一般的にみると、その紙――否、僕の通知表は決してすごく良いほうだというわけではない。中の中か、よくて中の上。しかし、ここまでくるのに僕は、死ぬほどキツイといっても過言ではない努力を重ねてきたのだ。例え3の数字がまばらにあったとしても、去年の僕からしたら2がないだけ褒めてほしい、というくらいのものだ。それどころか、得意の数学ではきっちり5をとっているではないか。これは凄い進歩だと自分でも思う。
「どうだ、進学、できそうか?」
それを聞くのは本来先生である摂政ではなく生徒である僕の方なのだろうけれど、僕は事情が事情だ。「はい」と笑みを浮かべながら通知表にもう一度目をやる。よかった……言われていた内申点をクリアしている。これなら進学が許してもらえる。
「そうか、それならよかった。じゃあ、お前の成績で行ける高校なんだけど……」
摂政はいくつかパンフレットを出して、僕の成績で行ける高校を教えてくれた。学力がどう、とかだけじゃなくて、僕には高校と名のつく場所といだけで、どれもすごく魅力的に思えた。
「お前、将来やりたいこととかある?」
「え……?」
「もしあるなら、専門分野に特化した授業をしてくれる高校とかもあるけど」
摂政はそう言いながらいくつかのパンフレットをピックアップする。農業、工業、鉄道、看護、福祉、調理……種類は豊富にたくさんあるようだった。
「いや……今のところは考えていないです」
「そうか。じゃあ、普通高校でいいな?」
普通。その響きが少し引っかかったが、僕は「はい」とだけうなずいておいた。どこでもいい。高校に行けるなら、どこでもいい。
「じゃあ、そうだな……こことかどうだ?」
摂政はそのあと、色んな高校のパンフレットをとっかえひっかえに出して、あれこれ僕に教えてくれた。僕は、そのすべてが新鮮に思えて、とにかくうれしかった。
「ありがとうございました」
「おう。気を付けて帰れよ」
摂政は僕との面談が終わると、胸ポケットから煙草を出した。たぶん、これから吸うのだろう。僕がまじまじとそのパッケージを見つめていると、彼は苦笑いをした後に「ほかの先生に言うなよ」といった。そうか、校内は禁煙か。
「わかりました。さようなら」
「はい、さようなら」
まるで先生と生徒だなと思って、そうか、その通りなのだ、自分と摂政は先生と生徒なのだったと思い当たる。僕は、もらったばかりの通知表を鞄のなかに仕舞いながら、誰もいない廊下を歩いた。夕日はすでに沈んで、悪の組織ももういなくなっているようだった。
*
きい、と古びた音が鳴って、木でできた柵を押した。庭に入り、五メートルほど行ったところに玄関がある。もちろんこれは木製ではない。チャイムを押さずに玄関のドアを開けられるのは、ここが僕の家、だからだろうか。それはまだ微妙なところだ。
「ただいま」
自分としては、本当に小さな声でつぶやいたつもりだったのだ。マフラーを緩めながら靴を脱ぐと、どたどたどた!という忙しい足音が聞こえてくる。やがて訪れるであろう衝撃に身構えながら、僕は室内に足を踏み入れ――
「お帰り!悠斗お兄ちゃん!」
「お帰りー!」
「お帰りお帰り遊んで!」
「ただいま……みんな、頼むから離れてくれ」
僕がそう言うと、三歳ほどの小さな子供が三人、僕の両足と胸から飛びのいた。男の子が二人に、女の子が一人。みんな輝くばかりの笑顔を浮かべている。なにがそんなに楽しいのだろうか。小さな子供は気楽でいいよな、と僕は少し思った。
「お外寒かった?」
「うん、寒かったよ」
「学校楽しかったー?」
「うん、楽しかった」
「遊んでー!」
「わかったわかった、わかったからさ」
一人一人の問いかけに苦笑を浮かべながら答える。おかっぱ頭の女の子が、なにやらうずうずとした様子で僕の方を見上げてきたので、抱っこをしてあげた。普段なら絶対にしないサービスも、今日の僕ならできた。
「あっ、おいずるいぞ!お兄ちゃん僕も!」
「僕も僕も!」
「お前らは僕を潰す気なのか」
そう言いながらも、なんとか背中に一人、胸にもう一人を抱えてやると、幼い子供たち三人は興奮したような声を出した。こんなことで喜んでくれるなら、もっとやってあげてもよかったな、と思った。だから、これからはちょくちょく、一週間に一度くらい、やってあげよう。
「ただいま、帰りました」
一番奥の広い部屋の扉を開ける。中からはクリームシチューの良い匂いが香っていた。ヒーターがきいていて、とても暖かい。中央に設置されている大きな机には、既に二人ほどの学生が座り、雑誌を読んだりゲームをしたりしていた。
「あら、お帰り悠斗君」
「京子さん、ただいま」
「今日はご機嫌みたいね」
僕に引っ付いて離れようとしないちびっ子たちを見て、京子さんはふふふと上品に笑った。
佐々木京子さん。この家の管理者である佐々木雄二さんの奥さんで、現在四十六歳。らしい。しかしまだ三十代半ばあたりにしか見えない。
「ああ……そうみたいですね、って言っても、こいつらは毎日ご機嫌ですよ」
「違うわよ」
「え?」
「悠斗君が、ご機嫌みたいね、ってこと」
京子さんがそう言って柔らかく笑うものだから、僕は少しうつむいてしまった。そんなに顔に出ていただろうか。十五歳にもなって、これはちょっと恥ずかしいぞ。
ごはん、すぐ用意するからね、と言って、京子さんはパタパタとキッチンへ向かった。ちびっ子たちをようやく引きはがして、椅子に座ってため息をつく。その際に二人の学生がちらりとこちらに目をやったが、気にしないことにした。僕は彼らとあまり仲が良くない。お互いがお互いに干渉しあうことを嫌うこの場所で、それは当たり前のことなのかもしれない。
だってここは、身寄りのない子供たちが集められる児童養護施設なのだから。みんな、なにかしらの事情があってここにいる。もちろん僕も。僕はまだここにきて一年と少ししかたっていないけれど、ここにいる子供はみんな、どこか人間不信で、近寄ると鋭い牙を向けられる。だから、お互いにあまり干渉はし合わないのだ。それが、お互いのためだから。
先ほどの小さな三人組も、両親に捨てられ、身寄りがないところを保護されここにやってきたのだ。しかしそれは幸運なことに(と、言うべきなのだろうか、この場合)彼らがまだ物心つく前の本当に幼いころだったらしく、なんとか傷にはなっていないようだった。たぶん。僕は他人の気持ちが読めるわけではないので、あの三人の真意がわかるわけではないけれど、でも、そうであってほしいな、とは思う。
去年の夏に、僕の両親は他界した。二人が乗っていた車が事故にあったのだ。雪が降っていたのに、車なんて走らせたからいけないんだ。僕はその際に、ここに引き取られた。すごく悲しくて、もしかして自分はもうだめなんじゃないか、もう立ち直れないんじゃないかと思っていたけど、案外早く立ち直れてしまった。そんな自分を、少しだけ軽蔑して、憎んだ。
三人の小学生が無言で部屋に入ってきては、やはり無言で椅子に腰をかける。色のない空間だ。みんな、どこに自分の色を捨ててきてしまったのだろう。そう思って、僕は自分の手のひらをきゅっと握った。京子さんがキャベツのスープを運んできてくれた。その水面にうつった自分の瞳に、生命の暖かさを感じられなかった。どうしてだろう。ちょっとだけ悲しかった。
僕の右隣に、僕と同い年の女の子が腰をかけた。この子はつい先月ここへ来たばかりだ。両手首に包帯を巻いている。前髪が長くて、その表情はよく伺えないから、僕は彼女という人物がよくわからなかった。でも、彼女は食事の席では決まって僕の隣に座る。まるでそこが定位置なのだというように。ほかの席がどんなに空いていても、僕の隣に座る。これはどういうことだろう。
「雄二さんそろそろ帰ってくる頃かしら。みんな、ちょっと待っててね」
京子さんのその一言に、返事をする人はいなかった。この施設でのルールは「食事は全員そろって食べる」である。そのため、ここの主である雄二さんもそろわないと、食事を食べることはできない。
僕は学生鞄のチャックをあけて、中から通知表を取り出した。雄二さんが帰ってきたら、すぐ渡せるようにしておきたかったのだ。それを見た京子さんが「あら」と小さく声をあげて、少しそわそわしながら僕に言った。
「悠斗君、どうだった?その、成績……」
「ああ……クリアしました。一応」
「! そう!よかったわねえ。雄二さんも喜ぶわ。頑張ってたものね、悠斗君」
「あ、いえ……そんな」
僕は少し照れ笑いを浮かべて答えた。クリアした、とは内申点の数のことである。最低でも三十三はこさないと高校を受けさせない、と言われてしまったのだ。僕は去年両親が他界してから数か月まともに学校に行っていなかったので、これは結構な難易度だった。基礎がわからないと応用問題ができない。その分勉強をしなくてはならない。努力の甲斐あってか、僕の成績は三十三ぴったりだった。二年生のときは欠席のせいで提出物もろくに出さずに二十四をとってしまったので、巻き返すのは本当に大変だった。もしかしたら、先生方はそのことを配慮して成績をつけてくれたのかもしれない。そうだとしたら、とてもありがたいことだ。
京子さんはパタパタとまたどこかへ行ってしまった。料理の準備がまだあるのだろうか。僕は、なんとなく瞼を閉じて、深く呼吸を吸ってみた。
中学二年生のときまで、付き合っていた彼女がいた。同じバスケ部の、かわいらしい女の子だった。メールで告白されて、僕自身もなんとなく彼女のことが気になっていたし、付き合うことにした。週末には二人でどこかへ出かけたり、二日に一度のペースで何気ないメールを交わしたり、一緒に下校したり、それだけで充分だった。充分幸せだった。
両親が亡くなって、僕は携帯電話を解約した。この家にお世話になるのに、そんな余計なお金までかけるのは身勝手なことだと思ったからだ。高校生になってアルバイトができるようになったら、自分で買おう、と思っていた。
必然的に、彼女との連絡手段はなくなった。
「悠斗君、あのね、携帯解約したんだよね? じゃあさ、私さみしいし、これからもっとたくさん会おうよ」
彼女は僕にそう言ってくれた。多分、気を使ってくれていたんだと思う。今ふと思えば、心優しい良い子だった。いつもにこにこ笑っていて、なにも言わなくても僕が辛いときはそばにいてくれた。あんな子と、今度はいつ巡り合えるのだろうか。もしかしたらもう、僕は彼女以上の女の子とは巡り合えないかもしれない。
だけど当時の僕は、そうだね、それができたらそうしようね、と彼女の言葉に対してあいまいに言葉を濁した。言い訳をすれば、まだ両親が亡くなって間もないころだったから、情緒が不安定だった。でも、結果的に僕は彼女の好意を拒絶するようなことをしてしまったのだ。
「悠斗君、今度さ、一緒に映画見に行こうよ。チケット二つもらったの。お兄ちゃんのバイト先の人がタダでくれたんだよ」
明らかに嘘だということが僕にはわかった。僕だけにはわかった。彼女は嘘をつくとき、決まって制服のスカートをちょっとだけつまむ。その日も、右手の人差し指と親指はスカートの裾をとらえていた。
僕は、彼女にそんな思いをさせてしまったことに対して申し訳ない、という気持ちよりも、彼女に映画代をおごってもらう自分のことを酷く惨めで恥ずかしいと思った。顔に熱が集中するのがわかった。少し低い声で顔をそらし、「僕はいいよ」と呟いたときの、彼女のあの悲しそうな顔が忘れられない。
「そんなこと言わないで、一緒に行こうよ」
「いいって。そんな暇ないんだ」
彼女は泣きそうな顔になっていた。ねえ、どうしてよ、と僕の服の袖をつかんできたので、思わずそれを振り払ってしまった。そのまま大股で自分の教室に向かい、何食わぬ顔で授業を受けた。心の中は、彼女に対する罪悪感で満ちていた。
授業が終わり、昼休み。彼女に謝りに行こうと思い、僕は席を立った。
その時、ふと同じクラスの男子から手紙を渡された。ルーズリーフの切れ端を折っただけの、簡単な手紙だ。誰からの手紙なのかを聞く前に、その男子生徒は去っていってしまった。
ルーズリーフを開くと、ピンクのかわいらしい文字で、「別れよう」とだけ書いてあった。誰に言われなくても、それが彼女のものだということはすぐにわかった。そして、すぐにわかってしまう自分が不思議だと思った。それほど彼女に依存していたのだろうか。そうだとしたら、すごく滑稽だ。
僕は、次の日から学校を休んだ。
「お帰り!雄二おとうさん!」
ちびっこたちの元気な声で、僕はハッと我にかえった。雄二さんが帰ってきたらしい。机に向かって各々がやりたいことをしていた学生たちも、雑誌やゲーム機を一度置き、きちんと机に向き直った。もちろん僕も。隣で両腕が包帯に巻かれた彼女も、しゃんと背中を伸ばしていた。
「ただいま」
雄二さんはちびっこたちを持ち上げながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべてリビングルームの扉を開いた。体格がもともとがっしりしているため、三歳前後の子供三人くらいならば楽々持ち上げられるようだった。僕とは大違いだ。
雄二さんが脱いだスーツの上着を、京子さんが箪笥に仕舞う。二人が椅子に座り、いただきますを言うと、それを合図にしたように全員が箸を持ち上げる。今日のメニューはオムライスだった。多分ちびっこたちのリクエストだろう。ふんわりした卵が口のなかで溶けて、少しだけ甘いような錯覚がした。
「悠斗、お前、成績どうだった?」
「え……っ」
突然言われて、僕はどきりと心臓がびっくりするのを感じた。目線こそこちらを向いていないが、ほかの子供たちの意識が僕に集中しているのがわかった。なんとも居心地が悪い。
「え……っと。三十三、でした」
「そうか!それはよかったなあ。ええと、通知表見せてみろ」
「はい……」
おずおずと通知表を差し出すと、雄二さんはそれを見ながら嬉しそうに目を細めた。本当の父親じゃないのに、こんなに喜んでくれるなんて、雄二さんはやはり慈愛に満ちた大人なのだろう。
「これなら高校に出しても恥ずかしくないな。うん、よくやったよ、お前」
「どうも……」
この成績なら、そこそこのレベルの高校へ行ける。雄二さんは勉学に関してはとても厳しい人なので、そこそこのレベルがないと決して進学を許してはくれなかった。
「茜は?お前の学校も今日、返されたんだろう」
雄二さんがそう言うと、隣で女の子がびくんと肩を震わせた。なににおびえているのだろうか。彼女は前髪を垂らしたまま俯いて、ぎゅっと拳を握りしめていた。
「……わたし、は」
「うん」
「その……出席、日数……」
「ああ……そうか、そうだったな、うん」
雄二さんは隣の彼女の少ない言葉からすべてを理解したらしく、うんうんと頷いた。僕にはなにがなんだかよくわからなかったけど、たぶん、出席日数が足りないんだろうなと思った。
ちらりと横に目をやると、意外なことに彼女もこちらを横目でみていた。初めて目があう。不健康なクマができた細い目だった。視力はあまりよくなさそうだ。僕はとっさに目をそらしたが、その時彼女の瞳の奥に、絶望が燦燦と燃えていた気がして、恐ろしくなった。この子は華奢なその矮躯のどこに、負の感情を押し込めているのだろう。心だろうか。だとしたら、きっと彼女の心はもうずたずただ。
食事の最中の会話は、ちびっ子三人と雄二さん京子さんが主に成り立たせている。他の小中学生は僕を含めめったに口を開かない。家族、というものを目指したこの空間で、それを真っ向から否定しているようだった。自分にかかわるな、と怒鳴り散らしているようにも感じられる。僕も、他人から見たらそう見えているのだろうか。
*
食事が終わって、風呂に入り、自分の洗濯物は自分で洗う。それから二人一組の部屋に戻って勉強をする。シェアしている相手は今風呂に行っているので、室内には僕一人しかいなかった。
一年生の頃は、こうやってテスト前に部屋で勉強をしていると、母親が暖かい飲み物を淹れてきてくれた。でも、今はもう、それもない。それは、僕のせいなのだろうか。いいや、違う。きっと違う。僕のせいじゃない。でも、両親が死んだという世の中の不公平を、僕が悪い、と思い込むことで、少しは楽になるのも事実だった。形のないものに対してどうしようもない憤怒を浮かべるよりも、処理しがたい自己嫌悪に陥るほうが、よっぽどましだった。
「俺、もう寝たいんだけど」
「え?」
背後から声がしたので振り向くと、同じ部屋の中学二年生の男の子がタオルで頭をがしがしとふきながら、濁った瞳をこちらに向けていた。恨み辛みは感じられないが、僕に対する好意も微塵も感じられない。そんな目をしていた。
「あ、そう……早いね」
「うん。明日、朝練だから」
「へえ……わかった」
僕は勉強道具をまとめて部屋を出た。同室の彼が就寝するというのに、明かりをつけて作業するというのは、やはり申し訳がない。それに、運動部の朝練の辛さというものを、僕は知っている。だから、大人しく部屋を出ることにしたのだ。
リビングルームの扉を開けると、京子さんと雄二さんがなにやら話をしているようだった。二人は、僕の存在に気が付くと、少しだけ気まずそうにその場を去った。何の話をしていたのだろう。気にならないでもないが、詮索しようとも思わなかった。
誰もいない室内は一人で勉強をするにはうってつけだったが、少しだけ寂しいような気がした。昼間ならちびっこたちが走り回ったりしてるのにな、と考えて、あの子たちはもう眠っているのだろうかと考えた。時刻は夜の九時半。多分、もう寝ているだろう。良い夢をみれているといい。夢のなかでくらい、幸せになってくれているといい。そう思った。
しばらく勉強をしていると、不意にリビングルームの扉が開いた。僕は少しだけ顔を上げて誰が来たのかを確認する。
「あ……っ」
そこにいたのは、やはり両腕に包帯を巻いた女の子だった。しかし、お風呂上りだからなのか、前髪を上げていた。僕の存在に気が付くと、急いで前髪を下して、恥ずかしそうにうつむき、そのまま冷蔵庫まで一直線に向かった。麦茶をいれて、その場で飲み干す。
「……前髪」
「へ?」
「あ、いや……なんでもない」
しまった。無意識のうちに言葉を発してしまっていた。僕の悪い癖である。女の子は怪訝そうにこちらを除いた後、前髪を指先でいじった。なんとなく沈黙が気まずかったので、僕は会話を続けてみることにした。
「前髪、上げてたほうがいいよ。長いと、視力も落ちるし」
「え……その……」
女の子はびっくりしたようにしつつも、そうかな、と小さくつぶやいた。この子の名前はなんだったけな、とちょっと考えて、そうだ、アカネだ、アカネと雄二さんが言っていたではないか、と思い出す。初対面で下の名前を呼ぶのはもしかして失礼なのかもしれないが、僕は彼女の名字を知らなかった。
「アカネ……さん?はさ、どうしてここに来たの」
「え……っ」
「や、言いたくないならいいよ、ごめん」
多分、答えてくれないだろうな、と思った。僕自身も、沈黙が気まずくてなんとなく聞いてみただけだったので、返答に期待はしていなかった。シャーペンを握り直し、参考書と向き合う。しかし彼女は小さな声で、震える声で僕に言った。
「ええと……わたし、親に、見捨てられて……」
「え?」
捨てられる、でなく、見捨てられる?
どういうことだろうか。
「わたし、学校に行ってもいじめられて、居場所が無くて、リストカットばっかりして、あ、頭もそんなによくないし、運動も、できない、し、かわいくないし、だから、その、だから……」
僕は、なるほど、と頷いた。少女アカネの肩が小刻みに震えている。泣いているのだろうか。僕は他人の涙に疎い。というか、感情に疎いのだ。今君は、悲しんでいる?それとも、悔やんでいる?わからなかった。
「……じゃあさ、君は、どうしていつも僕の隣に座るの?」
「え?」
「ごはんのときとかに。他にもたくさん席あいてたりするじゃん」
僕のその一言に、彼女は当惑したような顔をした。前髪の隙間から除く瞳が焦りを見せている。僕は、じっと彼女の答えを待った。時計の針の音だけが、やけに大きく室内に響いていた。
「その……悠斗君、はさ」
初めて名前を呼んでもらった。僕は彼女の名前を知らなかったのに、彼女は僕の名前を知っているようだった。まるで修学旅行の記念写真のようにその関係は一方的だった。いつのまにか撮られていて、自分はこんな顔をしていたのか、とびっくりする。今の僕は、たぶん、写真のなかの僕のような顔をしているだろう。
「なんというか……カテゴリーがない、というか」
「なに?カテゴリー?」
「う、うん……未分類って、いうのかな……だから、わたしも、近づいていけたの。わたしみたいに、なんの取り柄がないやつでも、受け入れてうれるような、気が……」
徐々に声は小さくなっていき、最後に、ごめんなさい。と少女は謝る。僕は、彼女の言葉に少し不思議な気持ちになった。心、というあやふやな概念が、ふわふわと宙に浮いている。やがて、なにがおかしいのか自分でもよくわからないが、くつくつと笑いだしてしまった。おかしい。面白い。とても愉快だ。少女はそんな僕を、ポカン、とした表情で見つめていた。
「なにがおかしいの」
「いや……ごめん、そうだなあ、そんなこと言われるとは」
僕はシャーペンを机の上に投げてぐっと背中を伸ばした。骨がぱきぱきと鳴る。久しぶりにこんなに笑ったからだろうか。慣れないことはするもんじゃない。だけど、こういうのならば慣れてもいい。そう思った。
「そうだね、うん、僕はさ、両親がいないんだよ」
「え……」
「亡くなったんだ。去年の夏に」
「……そう」
少女はちょっとだけ眉を顰めたようだった。しかし、なにも聞いてこない。どうして亡くなったの、とか、深く詮索はしないようだった。いや、ここにいる子供は全員、そういう質なようなのだけれど。
「だから来る者は拒まないよ。去る者も追わないけど」
「……そっか」
「ひとりぼっちだからね」
君もそうだろう?という意味を込めて、そう言ってみた。しかし少女はなにも言わない。麦茶のコップを片付けて、なにか思いつめたような顔をしている。
「あの……わたし、うまくいかないの」
「なにが?」
「その……全部」
僕は首を傾げて説明を要求した。
「なにをやっても、だめなの……とろくて、全然、勉強も運動も、全部……」
「ああ……そう」
「どうすれば、いいのかなぁ」
少女は懇願するように僕を見た。少しだけたじろぐ。そんなこと言われても僕にはなにもできない。彼女はそれを、わかっているのだろうか。わかって聞いているのだろうか。だとしたら、自問自答も甚だしい。
「べつに、その答えは僕にはわからないよ。多分、きみにしかわからない。そうだろう。違う?」
僕がそう言うと、少女はうつむいたまま、そうだね、そうだよね、と二回ほどつぶやいて、ごめんなさい、と謝った。僕はなにか、謝られなければならないようなことをされたのだろか。
「じゃあ、わたしもう寝るね。邪魔してごめんなさい。頑張って」
「あ……おやすみ」
少女はそそくさとその場を後にした。ここの施設にいる子供と、こんなに中身のある会話をしたのは、初めてのような気がする。少し新鮮だった。
彼女も、良い夢をみれるといいな、と思いながら、僕は数学の参考書ともう一度向き直った。人生における悩み事も障害も、因数分解ができればいいのに。そう思いながら、問題を解いた。
*
次の日。学校から帰ると、京子さんに呼び出された。雄二さんもいた。なんですか、と聞くと、僕に貰い手がきている、といきなり言われた。なんだかその言い方だと僕は犬か猫みたいですね、というと、京子さんは怪訝そうな顔をした。
「あなたにとっても悪い話じゃないと思うわ。悠斗君、あのね、相手の方は悠斗くんのお母さんの遠い親戚にあたる方で――」
京子さんがなにか言っていたけれど、僕の耳には届いていなかった。そうか、やっと馴染んできたここからも、僕はいなくならなければならないのか……いや、馴染む?そもそも、その言葉自体が間違いだろう。僕の家はここじゃない。僕の家はここじゃないどこかだ。でも、どこにもない。だとしたら、僕は本当に必要な存在なのだろうか。
黙ったままの僕に雄二さんが「大丈夫か?」と声をかけた。大丈夫です、わかりました、荷物まとめておきますね、とあっさり言ってみせると、二人は驚いたような顔をした。自分たちから話を切り出したのに、変な人たちだな、と思った。でも、今はそんなこともどうでもよかった。会ったこともない人たちのもとへ預けられる。中々のスリルだ。相手の人たちは、どうして僕を貰おうとしてくれたのだろうか。もしかして、世間体?そう考えて、自虐的に笑った。
「さみしいわあ、悠斗君がいなくなるなんて」
京子さんが言うと、雄二さんが「自分の居場所を見つけたんだ。良いことじゃないか」と笑った。だったらここは僕の居場所じゃなかったんですね、と僕は心のなかで毒づいた。そんな自分を心底嫌なヤツだと思った。どうしてかはわからないけれど、涙がこぼれそうだったので、宿題やってきますと嘘をついて部屋に逃げた。
同室の男の子はやはりまだ帰っていなかった。部活だろうか。もう少し彼とも話をすればよかった。なにが好きなのだろう、サッカー部のようだったけど、ポジションはどこだったのだろう、好きな食べ物は?一期一会という四字熟語が、頭のなかでさみしそうに泣いている気がした。
同室の彼だけじゃない。中学一年生のあの女の子だって。いつもなんの雑誌を読んでいたのだろう。一度でいいから、あの凝った髪型をほめてあげればよかった。それから、同じく一年生のあの男の子も。いつも一生懸命ゲームをしていたけれど、なんのカセットをやっていたのだろう。僕もここに来る前はゲーマーだったから、ひょっとしたら話が合うかもしれなかったのに。あの小学生たちだって、それに、あのちびっこたちとももう少し遊んであげていれば。
僕は後悔ばかりだ。どうしてこう、うまく生きられないのだろう。昨日の少女アカネの言葉が頭をよぎった。なにをやってもだめなの、と彼女は言っていた。そうだね、人生、八割がダメになって腐った思い出になるんだ。
さっきの京子さんの話によると、僕はこの町から離れなくちゃならなくなるようだ。ああ、いやだな、と思った。学校の友達もこの町での思い出も何もかも、おいていかなくてはいけない。そんなの嫌だ。
そう言えば、付き合っていた彼女が前に言っていたことがある。悠斗君と出会えてよかった。素敵な思い出になる。今思えばあの時の彼女の台詞は、僕たちの行く末を暗示しているようなものだった。思い出、という言葉ほど、過去にとらわれているものはない。
もっとたくさんの人と話をしていればよかった。面談で僕に順番を促してくれた花村さんとも、担任教師の摂政とも、部活動の友達とも、後輩とも、好きだった彼女とも。
*
その日の夕飯の席で雄二さんが「悠斗はあと一週間でいなくなる」と施設のみんなに告げた。みんなは少しだけ驚いたように僕を見た後、興味なさそうに視線を夕飯に戻していた。だけど僕は悲しいと思った。ここから離れることを、少しでも名残惜しいと思った。そう思えただけで幸せだと思った。
「悠斗おにいちゃん」
僕を呼ぶ声が聞こえたのでそちらを見ると、椅子に座る僕の足に抱き着いてべそをかく、小さな女の子がいた。どうしたの、と声をかけると、行かないで、と小さくつぶやき項垂れた。子供は子供なりに、別れ、というものを理解しているんだな、と思った。僕は、そんな彼女の小さな頭を、ぽんぽん、と撫でてあげた。ごめんね、と謝ると、その子は嗚咽を交えて肩を震わせた。こんなに幼いうちから、泣きじゃくることをせずに嗚咽ができるなんて。僕は、すごく複雑な気分になった。
次の日学校に行って摂政に事情を話すと、すごく残念そうな顔をしてくれた。
「本当なのか。なにもこの時期にそんなことしなくても……」
「いえ、いつまでもあの場所に甘えるわけにいきませんから」
「そうか……お前は、それでいいんだな?」
「はい。もちろんです」
「わかった。上にも報告しておく」
ありがとうございます。僕は頭を下げてから職員室を後にする。冬場の学校は異様に寒い。特に暖房のついていない廊下は、息が白くなるほどだ。
「おい、楠木!」
苗字を呼ばれて、振り向く。するとそこには、親指をたてた摂政が、にかりといたずらっぽく笑って――
「グッドラック」
僕は目頭が熱くなるのを感じたが、そのまま黙ってうなずき、歩を進めた。
摂政とも、もう少し話をしてみたかった。あの先生はきっと、普通の大人の何倍も何十倍も、世界を広く見ている。子供の可能性というものを知っている。だからこそ僕たちのことを理解してくれている。僕がほしかった言葉を、頑張れ、でも、大丈夫か?でもなく、一番ほしかった言葉を。「幸運を祈る」とただ暖かく見守ってくれた。摂政は、本当に良い先生だった。
「あ……」
ばったり、とはまさにこのこと。人があまりいない渡り廊下で、彼女と出くわしてしまった。これは神様のいたずらだろうか。だとしたら、たちが悪いのやら良いのやら。
彼女は気まずそうに顔をそらし、僕の横を通り抜けた。胸に理科の教科書を抱えているあたりから、次の授業は理科室で実験なのだろうと推測できる。僕は数秒ためらって、「ねえ」と彼女に声をかけた。驚いたように振り向く彼女。多分、少し前の僕なら、こんな大胆なことはできなかった。これは、成長?それとも、シチュエーションが僕にそうさせているのだろうか。
「な、なに?」
「僕さ、転校することになったんだ」
「え……?」
「あのさ」
僕はちょっとだけ姿勢を直した。もともと猫背だったから、僕のその少しの誠意が彼女に伝わったかわからない。
「ずっと言いたかったんだけど……去年は、色々ごめん。傷つけてごめん、せっかくの好意を拒絶するような真似してごめん」
言い終わっても、彼女から反応はない。僕は少し気まずくなって、「それじゃあ」と彼女に背を向けた。すると「待って!」と引き留められる。
「私のほうこそ……ごめん! あっ……」
力みすぎた彼女の声は校舎に響いてこだました。恥ずかしそうに両手で口元を抑える彼女。変わってないな。僕が好きだったころの彼女と、全然変わっていない。僕は知らずのうちに吹き出していた。彼女も笑った。やはり以前と変わらない、愛らしくてどこか優しい笑みだった。
出発の日。僕の荷物は先に車で新しい家に送ってもらい、僕は母方の遠縁であるという優しそうなおじさんと話をしていた。ご夫婦で、子供もできず五十を越し、さみしくなってきていたらしい。なので僕のことは大歓迎だと、好きにくつろいでくれと言ってくれた。優しそうな人たちでよかったと思った。
「高校は、あっちで一緒に探そう。いいね?」
「はい。あの……」
「ん?」
「よろしく、お願いします……」
僕が消え入るような声で言うと、おじさんは柔らかく笑って僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪型に気を使うほうではないが、さすがに乱された髪は手櫛でもとに戻した。
「君は優しい子だね。でも、そんなに怯えなくていい。人と接することに、そんなに怯えなくていいんだ。誰も君を、ひとりにはしないよ」
目から鱗が出てきそうだった。僕は、はい、と頷いて、それから、残りの荷物を取りに自分の部屋へ戻る。残りの荷物といっても、あとはもう小さな鞄くらいしかない。それを背負って、僕はこの施設から出ていくのだ。
「あ……」
部屋には同室の男の子がいた。音楽プレイヤーを耳にかけている。僕は、邪魔にならないようにと荷物をそっととって……
「あ、あのさ」
話しかけてみた。男の子は僕の視線が自分に向いていることに気づいたのか、少し驚いたような顔をしたあとにイヤホンをはずし、「なに?」と首を傾げた。
「その……サッカー、頑張ってね」
それくらいしか言えない自分が憎らしい。しかし、もうこれで最後だ。泣いても笑っても、最後なのだ。
それじゃあ、と言って部屋を去ろうとすると、背後から呟くような声が聞こえた。
「お前も、頑張れ」
声の主が少し笑っているような気がしたのは、気のせいだろうか。いや、きっと気のせいじゃない。そう思おう。そう思うことできっと、僕のなかでなにかが変わる。
施設から出るときに一通りみんなには声をかけていった。どの子も驚いたような顔をしていたけれど、頑張ってね、元気でね、とぽつぽつ言ってくれた。
ちびっこたちは泣きじゃくって大変だった。僕は、また遊びにくるから、と頭を撫でてやって、玄関を出た。おじさんが車にもたれかかり、僕を待っていた。行こうか、と言われ、はい、と頷く。おじさんが車に入り、僕も助手席のドアをあけた、その時だった。
「ゆ――悠斗くん!」
はっ、とした。振り向くと、少女アカネが立っていた。僕は凄く驚いた。名前を呼ばれたことに、ではない。あれだけ長かった少女の前髪が、きっちりと瞼の上あたりで――切りそろえられていたのだ。包帯も巻いていない。傷だらけの手首が露わになっている。
「ど、どうしたの?その髪……」
「わたし、わたし強くなるよ!だから悠斗くんも――」
「強くって……」
予想外だ。僕は困ったような笑みを浮かべた。ああ、しかし、面白い。この町での出来事は、心底愉快で痛快で、滑稽で荒唐無稽で――
「―――楽しかったなぁ」
呟くと、少女アカネは涙でぐしゃぐしゃの顔を嬉しそうにほころばせた。なにが彼女をこんなにさせているのだろう。僕との別れだろうか? いや、きっと違う。彼女は、昔の彼女との決別に成功したのだ。そこに自分が関与できた。これはきっと、とてもうれしい思い出だ。過去に固執しているのではない、未来を望む姿勢なのだ。
「ありがとう。僕も強くなるよ」
「うん」
「いつかこの町に帰ってきたら、きっと笑っていられるようになるから」
「うん、うん……」
「だから君も――どうか笑顔を忘れないで」
「うん……!」
僕とアカネは堅い握手をかわした。施設内から京子さんと雄二さんが出てきて、そんな僕たちを見て泣いていた。僕はここが好きだった。雄二さんに「ここは僕の居場所でしたか?」と聞くと、雄二さんは首を縦に振った後、「だから、なにかあったらいつでも戻ってこい」と答えてくれた。
辛いことがあるたびに、この町で過ごしたことを思い出そう。たくさんのあたたかい思い出たちが、きっと僕を励ましてくれる。次に住む町では、どんな出会いが待っているのだろうか。僕は、自分の胸にむかってピストルの形をつくり、横で車を運転するおじさんに聞こえない程度の小さな声で「ばあん」と呟いた。その時きっと、どこかの弱虫な十五歳がいなくなった。




