第1話
春だった。
桜が満開に咲き誇った山の麓。
その山から流れる川は透明で一つの濁りも感じさせない美しさがある。鏡のように桜の木々を反射させ、:明白は美しさに息を呑んだ。
まるで天国だと思った。
川に沿って歩いていると、川にかけられた橋に一人の青年が立っていることに気がついた。
その青年は無造作に髪を流していて、顔はよく見えない。
ただ、明白にはその青年が良くないことをするのではないかと考えていた。そして、その通りになった。
青年は迷うことなく川に足を一歩踏み出し、落ちた。
水しぶきが上がる。
明白は走り出していた。
青年はなにか重りをつけているのか、川底に沈んでいた。
澄んだ川でなければ見失っていた。
手を引くと驚いた顔で青年はこちらを見た。
虚ろで、視線が重ならない。
驚いたせいで口の中に残っていた空気が泡となって吐き出され、青年は激しく咳き込む。
危険だ。
そう思った明白は、強引に抱きかかえて川岸へと向かった。
青年の足には大きな石が紐でくくりつけられていた。
それを一つずつ取ってやる間、青年はずっと空を見ていた。
「名前は?」
「ない」
「ないことはないだろう?」
「……思い出したくもない」
「そうか」
明白は「うーん」と腕を組んで考えた。
そのとき、桜の木が一つ目に入る。たまたまだった。
たくさんの桜の花びらの中に、まだ蕾のままでいる桜があったのだ。
「桜……いや、これだと女の子っぽくなるね。:春蕾。どう? 君の名は春蕾」
「……それも女の子っぽくない?」
そういった彼と目があったのは、そのときが初めてだった。この川のように澄んだ目をしていた。
──綺麗だ。
明白が恋をしたのは、そのときだった。




