第19話 顕真、特訓する
第19話 顕真、特訓する
激闘から一夜明けた東中学校のグラウンドには、早朝から一人、黙々と外周を走り込む河上顕真の姿があった。
容赦なく照りつける朝の陽射しが、すでにアスファルトから陽炎を立ち上がらせている。
顕真の耳に、激しいセミの声は届かない。聞こえるのは、自身の肺が激しく伸縮する規則正しい振動と、身体の奥で刻まれる、限界に近い心拍のビートだけだった。
(……まだだ。まだ足りない)
脳裏に焼き付いて離れないのは、あの牛田十戦の最終回のマウンドだ。
スタミナが底を突き、指先から感覚が消え、直球も高速スライダーも完全に威力を失っていた。仲間たちの執念の守備がなければ、間違いなくあの場でサヨナラ負けを喫していた。
怪物と煽られながらも、最後は仲間に縋るしかなかった己の不甲斐なさ。その強烈な悔しさとプライドの飢えだけが、今の顕真を突き動かす唯一の原動力だった。
「おい、河上! ペースが落ちてるぞ!」
視界の端で、大きな影が並走してきた。
見上げると、キャプテンであり四番の野村勝哉が、汗だくになりながら顕真の顔を覗き込んでいた。野村は自分の練習が始まる前だというのに、顕真の朝練に当然のように付き合っているのだ。
野村は顕真の前に回り込むと、自らの首をトントンと叩き、それからグラウンドのマウンドを指差した。
『へばってマウンドを降りる面は、二度と見たくねえからな』
言葉はなくとも、そのギラギラとした目がそう語っていた。顕真は不敵に唇を吊り上げ、再び加速して野村を置き去りにした。
次の公式戦――第二回戦までは、わずか一週間。
顕真に与えられた課題は、明確だった。球種を増やす必要などない。北別府コーチから叩き込まれた「直球」と、手元で消える「高速スライダー」。この二つの絶対的な武器を、最終回の最後の1球まで同じ球威で投げ切るための、圧倒的なスタミナの構築だ。
走り込みを終えた顕真がブルペンに向かうと、そこにはすでに、腕を組んで待つ北別府コーチと、冷たいスポーツドリンクを用意したひなたの姿があった。
北別府は顕真がマウンドに上がると、無言で彼の左足の踏み込み位置に、白線で一本の線を引いた。
「いいか河上。スタミナってのはな、ただがむしゃらに走ればつくもんじゃねえ。下半身のエネルギーを、どれだけ無駄なくボールに伝えるかだ。疲れてくると踏み込みが外側にブレる。そうなれば肩だけで投げることになり、球威は落ち、スタミナは倍の速度で消費される。この線から、1センチも足をズラすな」
顕真は深く帽子を被り直し、頷いた。
音が聞こえない静寂の世界の中で、顕真は自らの肉体の「軸」だけに意識を集中させる。
一本の白線。そこへ、地獄の走り込みで苛め抜いた左足を、寸分の狂いもなく正確に踏み下ろす。
連動して、しなるように振られる左腕。
パシィィィンッ!!
野村のミットの真芯に、乾いた衝撃波が突き刺さる。スタミナが削られた状態から、下半身のロジカルな使い方によって、再び直球のキレが蘇り始めていた。
ひなたはバックネット裏でその球威を眼で確かめながら、誇らしげに、しかしどこか心配そうに、ストップウォッチを握りしめていた。
ひたすら走り、ひたすら投げる。
爪が割れ、ユニフォームが泥と汗で重くなろうとも、顕真の観察眼は、常に「完璧なフォーム」だけを追い求めていた。もう二度と、あのマウンドで絶望はしない。その執念だけが、真夏の東中グラウンドに、圧倒的な熱量を生み出していた。
そして――一週間の猛特訓が明け、第二回戦の前日。
部室で明日の最終確認をしていた東中ナインの元へ、ひなたが一枚のプリントを持って駆け込んできた。その顔は、いつになく強張っている。
「みんな……次の対戦相手のデータが届いたわ。相手は、シニアリーグの有力選手を多数擁する、私立の雄・黒金中学校」
黒金中。その名を聞いた瞬間、部室の空気が一気に張り詰めた。
ひなたは、顕真の目を真っ直ぐに見つめ、ホワイトボードに相手の「四番・ピッチャー」の名前を書き込んだ。
『黒金中エース・御子柴』
その文字を目にした瞬間、顕真の冷徹な瞳が、初めて大きく揺れ動いた。
周囲の音が聞こえなくなる遥か昔――顕真がかつて所属していた名門シニアで、彼の左腕の前に君臨し、そして、ある「事件」をきっかけに顕真を激しく罵倒して去っていった、かつてのチームメイト。
顕真の冷たい左胸の奥で、かつての因縁が、どす黒い炎を上げて燃え上がり始める。
特訓を経て磨き上げられた、怪物の直球と高速スライダー。
それが迎え撃つは、過去の因縁を背負った、もう一人の天才。
東中学校の第二戦、激動の「因縁対決」の幕が、今ここに、静かに上がろうとしていた――。




