表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
河上顕真物語  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/21

第18話 限界

第18話 限界


 七回裏、牛田中学校の最後の攻撃。

 スコアは一対〇。東中学校がわずかに一分をリードしている。

 だが、マウンドの河上顕真の身体は、すでに限界を迎えていた。先ほどの先制のホームイン――あの猛烈な激走とキャッチャーとの激突が、顕真の残されたスタミナを完全に刈り取っていた。

 マウンドを踏みしめる足が、わずかに震える。

 投じた直球フォーシームも、手元で曲がる高速スライダーも、明らかに本来の球威を失っていた。

 強豪・牛田中が、その隙を逃すはずもなかった。

 鋭い連打とフォアボールにより、瞬く間にノーアウト満塁のコンディションが作り上げられる。

 一打サヨナラ。最悪の絶体絶命のピンチ。

 バックネット裏でスコアブックを握るひなたの手が、恐怖で小刻みに震えていた。

 しかし、顕真の瞳から、あの冷徹な光は消え失せてはいなかった。

(スタミナが切れたなら、切れたなりの戦い方がある。三振が取れないなら……バックを信じて、打たせて取るだけだ)

 音が聞こえないサイレント・ゾーンの中で、顕真は一つ、深く息を吐き、内野陣に向けてグッと親指を立ててみせた。「守備を頼む」――その無言のメッセージに、サードの茂木、ショートの川瀬が力強く頷く。

 バッターボックスには、牛田中の五番・塩見。

 顕真は、あえて球速を落とした直球をインコース低めへと投げ込んだ。球威がないと見た塩見が、色めき立ってバットを強振する。

 だが、それは顕真の計算通りだった。コントロールだけは乱れていない。

 芯を外された打球が、激しい勢いでマウンドの顕真の足元へと転がった。鋭いピッチャーゴロ。

 顕真は倒れ込みそうになる身体を強靭な体幹で支え、グラブを差し出して白球を捕球した。迷わず、ホームベースへ向かってスナップスローを放つ。

 捕手・野村のミットにボールが収まり、突入してきた三塁走者がフォースアウト。まず、執念の1アウト。

 なおも一死満塁。続く打者は、前打席で悔しい三振を喫している六番の大友。

 大友は初球から、球威の落ちたスライダーを獰猛に引っ張ってきた。強烈な破裂音とともに打ち上がった打球は、ライト後方への浅いフライとなった。

 ライトが後退しながら、これをがっちりと捕球して2アウト。

 その瞬間、牛田中の三塁走者・四番の進藤が、一塁走者の激走に呼応するようにサードベースを蹴り、ホームへと猛然と突っ込んできた。同点を狙う、執念のタッチアップ。

「バックホームッ!!」

 野村の絶叫と同時に、ライトからの正確無比なレーザービームがホームへ突き刺さる。

 進藤の巨体が滑り込むよりわずかに早く、野村のグラブが進藤の太ももを厳しくタッチした。

 審判の両腕が、グラウンドを切り裂くように横に広がる。「アウトッ!!」

 いや、審判の動きは違った。進藤はホームを踏めず、サードへと引き返している。ライトの凄まじい好返球を見て、進藤はスタートを切りながらも、決死のブレーキをかけて三塁へと戻ったのだ。

 二死満塁。タッチアップを完璧に阻止し、ついにツーアウトまで漕ぎ着けた。

 あと一人。

 打席には、七番打者。

 顕真の肩は、すでに悲鳴を上げていた。直球の球速は百二十キロ台まで落ち込んでいる。打者の目には、完全にその軌道が見切られていた。初球、二球目と、小細工なしの直球を連続でファウルされ、簡単に追い込まれる。

(次だ……次の一球で、すべてを決める)

 顕真は、捕手・野村のサインに深く頷いた。

 セットポジションから、残されたすべての力を下半身へと集約させる。

 顕真の左腕が、この日一番の鋭さで振り抜かれた。

 打者の脳が、その猛烈な腕の振りに「最後もインハイの直球だ!」と同調し、完璧なタイミングでバットを始動させる。

 ――しかし、白球は来ない。

 それは、直球と全く同じフォームから放たれた、極限までスピードを抜いた「縦のカーブ」だった。進藤を絶望させた、あの緩急の罠。

 打者のバットが、完全に空を切った。その遥か後方で、白球が大きな弧を描いて野村のミットへと吸い込まれていく。

 バシィィィンッ!

 音が聞こえない顕真の世界の真ん中で、球審の右腕が、これ以上ないほど激しく天へと突き上げられた。

 ゲームセット。

 その瞬間、顕真のサイレント・ゾーンに、鮮烈な「光」と「色彩」が弾けた。

 マウンドへと怒涛の勢いで駆け寄ってくる野村、川瀬、中村、茂木。ベンチから飛び出してくる仲間たちの、狂喜乱舞する笑顔。バックネット裏で、スコアブックを放り投げて涙を流しているひなたの姿。

 そしてベンチの奥で、小さく、だが確かに満足そうに頷いた北別府コーチの顔。

 一対〇。東中学校、堂々の第一回戦突破。

 耳の聞こえない大怪物・河上顕真の、伝説の幕開けを告げる無音の歓喜が、真夏のグラウンドをどこまでも熱く、美しく包み込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ