第16話 深淵の魔球
第16話 深淵の魔球
二回表、牛田中学校の攻撃。
零対零の緊迫した空気の中、バッターボックスには牛田中の四番・センターの進藤が、長いバットを悠然と構えて立っていた。ぎらつく真夏の太陽を背に、公式戦の修羅場をいくつも潜り抜けてきた主砲の圧倒的な威圧感が、マウンドの顕真へと向けられる。
だが、背番号「1」を背負う河上顕真の瞳は、どこまでも冷徹だった。
(四番打者……あんたなら、俺の『新しい引き出し』の実験台にちょうどいい)
音が聞こえない静寂の世界の中で、顕真はセットポジションから、北別府コーチとの地獄の特訓で鍛え上げた強靭な下半身を、深く、深く沈み込ませた。
顕真の左腕が、まるで時速百三十キロを超える剛直球を投げる時と全く同じ、猛烈な回転のスピードで振り抜かれた。
打席の進藤の脳細胞が、前打席の残像から本能的に「インハイの直球が来た!」と判断し、鋭くバットを始動させる。
――しかし、次の瞬間、進藤の視界の中で、白球が一瞬だけ空中で静止したかのような奇妙な錯覚が起きた。
「……な、にっ!? 球が、来ない!?」
腕の猛烈な振りに反して、球速だけが極端に落とされた、ベースの上で大きく縦に割れるカーブ。地獄の投げ込みによって掴んだ、驚異的な指先の感覚がもたらした完全な「緩急」の罠だった。
進藤の分厚い身体が、完全に前へと泳ぎかける。その刹那、白球はホームベースの手前で鋭くブレーキをかけながら、進藤の胸元へと鋭く食い込んできた。
ただ緩いだけのカーブではない。下半身の体重が完全にボールに乗った、極限の回転数を誇る「重い」縦のカーブだ。
バットの根元が白球を捉えた瞬間、顕真の足の裏には、鈍く、重い振動だけが伝わってきた。
進藤の力自慢の腕力をもってしても、顕真の投球が持つ「球質の重さ」には抗えなかった。完全に芯を外されて打ち上がった打球は、力なく真夏の空へと舞い上がる。
サードの茂木亮吾が、一歩も動かずにその場でがっちりとグラブを掲げて捕球した。四番・進藤、絶望の表情のままサードフライに倒れる。
「嘘だろ、進藤がタイミングを完璧に外された……」
牛田中のベンチ裏、次の登板に備えて肩を温めていた控えのエース織田の顔から、一気に余裕が消え失せた。
怪物の独壇場は止まらない。
続く五番・塩見に対しては、初球にアウトローへの完璧な剛直球を見せつけた後、再び全く同じ腕の振りから、今度は手元で急激に沈む高速スライダーを投げ込む。塩見は直球の軌道に完全に目が慣らされており、ベースの手前で急激に変化したボールに手が出ず、見逃し三振。二死。
さらに六番・レフトの大友。前打席で超ファインプレーを見せた男は、その勢いのまま、顕真の直球にしがみつくようにファウルで粘り気を見せてきた。
だが、その執念すらも、顕真の冷徹な「眼」の裏をかくことはできない。
四球目。顕真が投じたのは、この日一番のキレを見せる高速スライダーだった。直球だと思って踏み込んだ大友のバットは、完全に外角へと逃げるボールの軌道に空を切り、三振。
捕手の野村勝哉がミットをパンッと鳴らし、スリーアウトチェンジを告げた。
「よし! ナイスピッチング顕真! 二イニング連続の完璧な封じ込めだ!!」
マウンドから戻ってくる顕真の背中を、野村が嬉しそうに叩く。
バックネット裏では、ひなたがノートに『縦のカーブ、完璧!』と誇らしげに書き込み、顕真に向けて親指をグッと突き立てていた。
東中ベンチの奥、北別府コーチが不敵にニヤリと笑う。
「フン……教えた通り、見事な緩急だ。あの腕の振りと球速のギャップをやられたら、打者の脳の計算は一瞬で狂う。……さあ野手陣、顕真がこれだけ完璧にリズムを作ってくれたんだ。二回裏、そろそろあの先発の中岡をマウンドから引き摺り下ろして、牛田の本命、エースの織田を引っ張り出そうじゃねえか!」
「おぅ!! 任せてください!」
二回裏、東中学校の反撃の攻撃は、七番の川田宗則から始まる。
顕真の放った「無音の緩急」によって、試合の流れは完全に東中学校へと傾いていた。強豪の分厚い壁を真っ二つにぶち破る、猛烈な反撃の導火線が、真夏のグラウンドで今まさに激しく燃え上がろうとしていた――。




