第14話 怪物の初陣
第14話 怪物の初陣
ウゥゥゥゥゥン――。
広島の抜けるような青空に、公式戦の開幕を告げるサイレンの長い振動が響き渡った。
広島県中学校軟式野球大会、第一回戦。
東中学校野球部のマウンドには、鋭い眼光を宿した背番号「1」、河上顕真が堂々と君臨していた。
バックネット裏では、白石ひなたが新しいスコアブックを胸にきつく抱きしめ、祈るような目でマウンドを見つめている。ベンチの最前列では、北別府が腕を組み、冷徹な視線をグラウンドへと注いでいた。
対戦相手は、県内屈指の重量打線と、絶対的なエース織田を筆頭とする分厚い投手陣を擁する強豪・牛田中学校だ。
審判のプレイボールを告げる声は、顕真の耳には届かない。だが、牛田中の一番打者・安藤がバットを鋭く構えた瞬間、顕真の世界は、あの夜のスタジアムの地鳴りをも内包した、究極の「サイレント・ゾーン」へと突入した。
(親父……見ててくれ。俺の本当の野球は、ここから始まる)
あの夜、プロのマウンドで泥にまみれて吼えた父親の背中。それを超えるため、北別府の地獄の特訓で下半身を徹底的にいじめ抜いてきた。真夏の陽射しが容赦なく照りつける中、顕真の身体には、一切の迷いのない強靭な軸が完成していた。
一回表、牛田中の攻撃。
顕真は捕手・野村のサインを読み取ると、しなやかに左腕を振り抜いた。
リリースの一瞬、指先がボールの縫い目を強烈に削り取る。
切り裂かれた空気が、透明な暴風となって打者の胸元へと殺到した。
安藤がバットを始動させることすらできない速度。白球が野村のミットのど真ん中へと突き刺さった瞬間、捕手の身体が数センチ後ろへ吹っ飛ぶような強烈な「衝撃の波」が、グラウンドの土を通じて顕真の足裏へと伝わってきた。
打席の安藤の顔から、一瞬にして血の気が引く。審判の右腕が上がり、ストライクが宣告された。
(なっ……何だ今の球、本当に中学生のストレートかよ……!?)
特訓を経た顕真のコントロールは、別次元の精度へと進化していた。寸分の狂いもなくインロー、アウトローへと投げ込まれる剛直球。そして二球目、同じ軌道から打者の手元で急激に視界から消える、切れ味抜群の高速スライダー。
「バッターアウト! 三振!」
安藤は一度もまともなスイングをさせてもらえないまま、唖然としてベンチへ引き下がった。
顕真の無双は、そこから始まった。
続く二番の中崎、三番の主砲・下深川に対しても、ストレートと高速スライダーの二種類だけで、完璧にそのタイミングを外していく。
野村のミットが白球を捕らえるたび、ベンチ裏まで響くような乾いた衝撃波が走り、牛田中のベンチは徐々に静まり返っていった。
わずか九球。一人の走者も出さず、圧巻の三者連続空振り三振。
圧倒的なピッチングに、東中ナインの士気は最高潮へと達した。
「よし! ナイスピッチング顕真! 今度は俺たちの番だ!!」
ベンチに戻る顕真の肩を、野村がガシガシと力強く叩く。顕真は不敵に唇を吊り上げ、これからバットを持って打席に向かう四番・野村の背中を、静かな視線で見送った。
一回裏、東中学校の攻撃。
牛田中の先発・中岡もまた、強力な控え投手陣が後ろに控えているからこそ、初回からエンジン全開で牙を剥いてきた。
しかし、顕真が作った最高の流れに乗る東中打線は、その剛球を一切恐れなかった。
一番の川瀬が初球の甘いカッターを叩き、三遊間を真っ二つに破るレフト前ヒットで出塁。激しいガッツポーズがベンチを揺らす。続く二番の中村が、外野を警戒する守備陣の逆を突くライト前への巧みなヒットを放ち、ノーアウト一、二塁。
グラウンドのボルテージが跳ね上がる中、三番の茂木が泥臭く一塁線へ完璧な送りバントを決め、一死二、三塁とチャンスを拡大した。
そして――迎えるは、四番、キャッチャー・野村勝哉。
牛田中のバッテリーは、顕真のあの神がかったピッチングを目の当たりにし、尋常ではないプレッシャーに押し潰されかけていた。「一点でもやれば、あのサイレントKから点をもぎ取ることなど不可能に近い」――その絶望感が、先発・中岡の指先をわずかに狂わせる。
打席の野村が、ギラギラとした勝負師の眼光でバットを構えた。
「おい一年坊主、お前があれだけのピッチングを見せてくれたんだ。四番の俺が、ここで打たなきゃ男じゃねえだろ!」
中岡が投じた、勝負のインコース直球。
野村の分厚い肉体から、地を這うような獰猛なスイングが解き放たれた。
バットの芯が白球を完璧に捉えた瞬間、張り詰めた夏の空気に、乾いた破裂音が響き渡った。
鋭い弾道を描いた打球が、前進守備を敷いていた内野陣の頭上をライナーで突き抜けていく。
公式戦の初陣。先制のタイムリーとなるか――。
顕真がその左腕で生み出した勝利への導火線が、今、東中打線の誇る四番のバットによって、爆発的な歓喜へと繋がろうとしていた。




