第13話 巨人の背中
第13話 巨人の背中
宮島女学院との激闘を、狙い澄ました劇的なサヨナラ打で制してから、数日後。
河上顕真は、白石ひなたに伴われ、夜の帳が下りた広島湾岸スタジアムのスタンド最前列に身を置いていた。
球場を埋め尽くす三万人超の超満員。プロ野球『ライジングドラゴンズ』の深紅のユニフォームを着たファンたちが、メガホンを狂ったように打ち鳴らし、熱狂の中で声を枯らしている。
完全なろう者である顕真の世界には、その地鳴りのような応援歌も、割れんばかりの歓声の嵐も、一滴の音としては届かない。
だが――届いていた。
ドサドサドサドサ、と、スタンドのコンクリートが、プラスチックの座席が、スタジアムを囲む夜の空気そのものが、猛烈な重低音となって震えている。三万人の人間の執念と興奮が、巨大な「物理的な振動の波」となって、顕真の足の裏から背骨、そして皮膚の細胞一つ一つへとダイレクトに突き抜けていたのだ。
(……これが、プロ野球のグラウンドか。中学のそれとは、空気の質量がまるで違う)
顕真は、肌を刺すような圧倒的なプレッシャーに、思わず身震いをした。
隣のひなたは、興奮で頬を紅潮させながら、息を呑んでマウンドを見つめている。彼女の持つスマートフォンの画面には、ただ一言、太い文字でこう打たれていた。
『もうすぐ、お父さんが出るよ』
その瞬間、スタジアムの振動が、本日最高潮の爆発を迎えた。
巨大な電光掲示板に、鋭くその名が刻まれる。
『ピッチャー・河上』
リリーフカーに乗ることなく、自らの足で外野ブルペンからマウンドへと走ってくる、背番号「66」の男。
愛媛の独立リーグでボロボロになり、月給十数万の極貧生活に耐えながら、三十代後半にしてついに一軍の切符をもぎ取った不屈のサウスポー――河上顕真の父親、河上達也だった。
マウンドに上がった父親の背中は、顕真の目には、夜空を背負う巨大な巨人のように映った。
試合は八回表、一点リードの二死一、三塁。一打逆転の修羅場。バッターボックスには、他球団から恐れられる外国人パワーヒッターが、不気味な質量を放って立っている。
球審のプレイのジェスチャーとともに、父親が始動した。
全盛期のような百五十キロの剛速球は、もうあの身体には残っていない。だが、父親の左腕から放たれる白球には、泥にまみれた男の「執念」が、これでもかと凝縮されていた。
インコースを過酷に抉るツーシーム。打者の手元で鋭角に変化するカットボール。
球が捕手のミットに収まるたび、凄まじい衝撃の波が地響きとなってスタンドの顕真の足裏を抜けていく。
フルカウント、運命の六球目。
父親は、全身の骨が軋むような泥臭いフォームから、この日一番の、インハイの胸元へとホップするフォーシームを投げ込んだ。打者の巨体が強烈にのけぞり、バットが空を切る。
空振り三振。スリーアウトチェンジ。
その瞬間、スタジアム全体が爆発したように激しく揺れた。ファンたちが一斉に飛び跳ね、その振動で顕真の身体が宙に浮くかのような錯覚を覚える。
マウンドの上で、父親は天に向かって、顔の筋肉をこれでもかと引きつらせながら吼えていた。
顕真は、その父親の「叫び」を、耳ではなく胸の奥の魂で完全に受け取っていた。鳥肌が止まらない。体中の血が沸騰していくのを感じた。
すると、マウンドを降りようとした父親が、ふと足を止め、三塁側スタンドの最前列――顕真のいる方向へと正確に視線を向けた。
そして、父親はニカッと不敵に笑うと、顕真に向けて左の拳を、グッと力強く突き出したのだ。
『俺はここまで来たぞ。顕真、お前はいつ、このマウンドへ上がってくる?』
言葉の要らない、男と男の約束。
顕真の瞳に、静かで、しかし決して消えない青い炎のような闘志が宿った。
彼はひなたのスマートフォンをひったくるように受け取ると、目にも留まらぬ速さで画面に文字を叩きつけ、彼女の目の前に突き出した。
『ひなた。俺は、あそこに行く。あの親父の背中をぶち抜いて、俺が本物の怪物になってやる』
画面を見たひなたは、その文字から溢れ出す凄まじい気迫に一瞬だけ圧倒されたが、すぐに自身の涙を強く拭うと、顕真の目を真っ直ぐに見つめ返し、力強く頷いた。彼女の手が、顕真の手を、微かに震えながらも固く握りしめていた。
プロの圧倒的な熱量に触れ、少年の魂は、ただの中学野球の枠を完全に踏み越えた。
翌日。夕闇が迫る東中学校のグラウンドには、これまでとは次元の違う殺気を放ってマウンドに立つ顕真の姿があった。
「甘えんな河上! プロの打者は今のコース、一発でライトスタンドへ放り込むぞ!」
ベンチ前で腕を組む北別府の、容赦ない罵声がグラウンドに飛び交う。顕真はそれに応じるように、不敵な笑みを浮かべながら、さらに深くプレートを踏みしめた。
父親の背中という、最高の燃料。そして北別府という、プロの基準を知る鬼の存在。
耳の聞こえないサイレントKが、真の怪物の産声をあげるための、地獄のような特訓の日々が、今ここから静かに幕を開けるのだった――。




