第12話 サイレントサヨナラ
第12話 サイレントサヨナラ
四回裏、河上顕真の執念のタイムリーヒットで五対五の同点に追いついてから、試合は息を呑むような緊迫した投手戦へと突入していた。
だが、それは誰もが予想し得なかった、マウンド上の一人の少年による完全なる支配だった。
五回、六回、そして最終の七回表。宮島女学院の精鋭打線は、顕真の前に完全に沈黙していた。
音の届かない世界の中で、顕真の集中力はこのグラウンドの誰よりも研ぎ澄まされていた。手元で急激に手元に食い込む高速スライダーと、打者の手元で伸びるフォーシーム。球種はわずか二種類。しかし、顕真の「眼」は、打者が構えた瞬間のわずかな重心の偏りから、その狙い球を完全に読み取っていた。
パワーだけでねじ伏せるのではない。打者の裏の裏をかき、視覚だけで打席の迷いを読み取るそのピッチングの前に、宮島女学院の精密なデータ野球は完全に機能不全を起こしていた。一人のランナーすら許さない、完璧なサイレント・シャットアウト。
そして――運命の七回裏、東中学校の攻撃。
試合を動かさぬまま、宮島女学院のマウンドに立つ最上もまた、エースの意地と執念だけで腕を振り続けていた。一番の川瀬が鋭い当たりを放つも、外野の決死のジャンピングキャッチに阻まれて外野フライ。続く二番の中村もサードゴロに倒れ、瞬く間に二死走者なし。
試合が延長戦へ突入するかと思われた、その刹那。
「――九番、ピッチャー、河上くん」
ウグイス嬢のコールが夕暮れのグラウンドに響く。バックネット裏で、白石ひなたが汗まみれのスマートフォンを高く掲げた。画面には、彼女の魂の叫びが太い文字で躍っていた。
『顕真、決めてきて!!』
顕真はそれを横目で捉えると、ニカッと不敵に笑い、ヘルメットの鍔を指で弾いた。
一貫して変わらない、左打席。バットを極端に短く持ち、身体を大きく開いたオープンスタンスのまま、顕真はゆっくりとバッターボックスへ足を踏み入れた。
宮島女学院のバッテリーの顔には、凄まじい殺気が宿っていた。
(前打席のタイムリーのデータは入っているわ。インコースを徹底的に抉って、歩かせてでも抑える!)
キャッチャー河野のサインに応じ、最上が最後の力を振り絞って腕を振る。放たれたのは、この日一番の、魂を乗せたインコースの剛直球。
だが、左打席の顕真の「眼」には、その球道がまるでスローモーションのように鮮明に映し出されていた。
(あんたの意地は立派だ。だけどな、短く持ったこのバットの軌道から、俺は一歩も逃げやしねえ)
内角に過酷に食い込んでくる白球。普通の打者なら恐怖で腰が引けるか、詰まって内野ゴロになるコース。
しかし顕真は、踏み込んだ右足の膝を限界まで柔らかく送り込み、脇を極限まで締めて、短く持ったバットを「内側から押し出すよう」に一閃させた。
インパクトの瞬間――顕真の耳には、何の音も届かない。
だが、手のひらを通じて脳へと突き抜けたのは、ボールの重みを一切感じない、完璧に芯を捉えた「無音の手応え」だった。
放たれた白球は、最上の剛速球のエネルギーをすべて斜め前方のベクトルへと変換し、鋭いライナーとなってレフト線へと飛んだ。
宮島女学院のデータシフト。長打を警戒して深く守っていたレフトの遥か手前、誰もいないグリーンの一角へと、白球が激しく弾む。
サヨナラ――。
その確信が、グラウンドの空気を一瞬にして変えた。
顕真は一塁ベースを蹴りながら、三塁ベンチから津波のように溢れ出してくるチームメイトたちの姿を視界に捉えていた。バックネット裏では、ひなたがスマホを放り出して大号泣しながら飛び跳ねている。
二塁ベースを回ったところで、顕真は完全に足を止めた。もはや走る必要はなかった。
もみくちゃにされ、手荒く抱きつかれ、チームメイトたちから次々と頭を叩かれる。耳は聞こえなくとも、彼らの流す汗の熱さ、大地の凄まじい振動が、顕真の全身に「六対五」の勝利を告げていた。
マウンドの上で膝を突き、呆然と立ち尽くす最上。彼女たちの誇る完璧な「データシステム」は、たった一人の、世界のノイズを排除した少年の前に、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
ベンチの奥で、北別府が「フッ」と満足そうに帽子を目深に被り直した。隣で東出監督が「おいおい、本当にサヨナラ勝ちしちゃったよ……」と腰を抜かしている。
「フン……ただのフロック(偶然)じゃねえな」
北別府は腕を組み、歓喜の輪の中心にいる背番号「11」を、鋭い勝負師の眼で見つめた。
「東出。あいつは耳が聞こえないんじゃない。余計な雑音に惑わされず、野球の『本質』だけをハッキングできるんだよ。宮島の小娘どものシステムなんて、あいつの『無音の世界』の前ではただのおままごとだ。……とんでもない怪物を連れてきやがったな、あの娘は」
夕闇がグラウンドを完全に包み込む中、スコアボードに刻まれた「6x」の文字が誇らしげに光っていた。
耳の聞こえないサイレントK。その怪物がもたらした劇的なサヨナラの歓喜は、東中野球部の魂を完全に一つに結びつけた。
データ野球の牙城を崩した少年たちの、本物の「伝説」が、今ここから静かに、しかし圧倒的な熱量を持って加速していく――。




