第32話 美咲の手作りワッペン
紺の活躍でミエールくんミニの事故は収まりましたが、
その一件は穏健派・強硬派・番組スタッフの間に、思わぬ波紋を広げていきます。
穏健派本部の応接室では、静香とマーガレットが優雅にお茶を飲んでいた。
「ミエール2.0が事故を起こしました。紺が迅速に対処しました」
静香が淡々と報告する。
「大事にならずに済んだのね?」
「はい」
「さすがは紺ちゃんね」
マーガレットは満足げに頷いた。
紺が危機一髪で回避したように見えたあの一件は、実は瞬時に危険を察知し、
神通力でミエールくんミニを撃墜していたのだった。
「でも、ヘレンは早とちりが過ぎたようですね」
「ヘレン叔母様は迂闊です」
「これ、ああ見えても私の妹なのですよ」
マーガレットはため息をついた。
「ヘレンには一度、釘を刺しておくとして……他に何か手はないかしら」
静香は少し考えた。
「そうだわ。ディレクターにヘレンの面倒を見させましょう」
「彼ならばヘレンを操れるはずだわ」
「お母様?」
「私には考えがあるのです」
マーガレットはにやりと笑った。
◆
第1スタジオの片隅では、ヘレンが美咲に説教されていた。
「安全対策は基本中の基本なんだから、わかった?」
「はい、わかりました」
「もう、ちゃんと聞いてるの?」
「はい」
ヘレンは何ともふやけきった表情をしていた。
説教とは名ばかりで、ヘレンにとっては至福の時間だった。
美咲の張り上げる声で振動する空気が、
自分の肌をやんわりと撫でるのが心地よい。
ヘレンは美咲の横に立つおりずの胸元をぼんやりと眺めていた。
(私も……あれがほしい)
おりずは、美咲お手製の「おりず」と書かれたワッペンを胸に付けていた。
外で迷子にならないようにとの美咲の配慮だったが、
武闘派として知られる彼女には必要ない代物だった。
しかし、おりずはそのワッペンをたいそう気に入り、
外出時には常時付けていたのだった。
「わ、わかりました……」
「ミエール安全対策特別顧問の私が、責任を……」
実際にはそんな役職は存在しないが、
美咲の前では見栄を張りたい。
「責任を持って対処致します。ですから……」
「ですから何?」
「ですから、そ、その……私にも美咲ちゃん手作りのワッペンを……」
「ほしいの?」
「は、はい……」
美咲は呆れたようにため息をついた。
「もう、ヘレンさんったら。本当は全然反省してないでしょ」
「そ、そんな……」
「もういいわ。ワッペンあげればいいんでしょ」
「お願いします!」
ヘレンは深々と頭を下げた。
◆
収録を終え、美咲たちは強硬ビルを後にした。
玄関ロビーで、静香の父とすれ違った。
「お父さんこんにちは。これからお仕事ですか?」
「私たちは今日は終わりです。お先に失礼します」
美咲は軽く挨拶を交わし、去っていった。
◆
静香の父は、美咲の傍らにいた女性を見て目を細めた。
胸元には「おりず」と書かれたふざけたワッペン。
(あれは……穏健派のリズに似ていた。しかし、まさかな。
リズがここに来るはずがない)
「社長、お帰りなさいませ。例の物を入手しておきました」
「うむ。ごくろう……」
秘書が差し出したのは、『マーガレット・オン・ザ・ビーチ』だった。
「まったく、私に無断でこんなものを作るとはけしからんよ。ははは……」
と言いつつ、後でじっくり妻の艶姿を見るのを楽しみにしていた。
「ところで、玄関ロビーで穏健派のリズに似た女性に会ったよ」
「ああ、それならリズで間違いありません。
もっとも最近では“おりず”と名乗っていますがね」
「は?どういうことだね?」
「詳しくは知りませんが、なんでも美咲ちゃんに弟子入りしたという話です」
「そ、そんなばかな……」
穏健派のリズが美咲に弟子入りなど、考えられない話だった。
「まさかヘレンは来てないだろうな」
「ええ、ときどきいらっしゃってますよ。
先ほども美咲ちゃんにこってり絞られていましたがね」
「美咲ちゃんがヘレンに説教だって?ますます意味不明だ」
父は頭を抱えた。
「だいたいここは強硬ビル、私のビルだ。
マーガレットといい、ヘレン、リズといい……
いつからここは穏健派の巣窟になったというのだ」
「せめてヘレンは出入り禁止にしろ。
あの女はマーガレットの実の妹だが、中身はとんでもないぞ」
「それが、その……ディレクターが熱心にヘレン様を起用していて」
「な、何だと?あのインチキクリエーターめ!」
「推薦したのはマーガレット様だという話です」
「何だと……?」
『マーガレット・オン・ザ・ビーチ』を小脇に抱えながら、
静香の父は恐れ慄いた。
何かが音を立てて壊れようとしていた。
◆
ヘレンは自室の机の上に、そっとワッペンを置いた。
しばらく静かに見つめ、指先で縁をなぞりながら物思いにふける。
やがて、おもむろに立ち上がり、鏡の前へ。
ワッペンを胸元にそっと当ててみる。
その瞬間、多幸感で背筋に震えが走った。
(美咲様に……支配されている……)
そう感じた途端、喜びが胸の奥から込み上げ、ヘレンは小さく震えた。
「誰かいますか?」
控えていた部下が入ってくる。
「ヘレン様、何用でございますか?」
ヘレンは慌ててワッペンを外し、机の上に戻した。
「これと同じものを、大至急で作ってちょうだい」
部下は困惑する。
「ですが製造部はミエール2.0に全力投入しておりまして……」
「でしたら優先度は第2で構いません。
なるべく速やかに、と伝えてください」
「かしこまりました……」
部下が去ると、ヘレンは机の引き出しを開け、
ワッペンを丁寧に布で包んで収納した。
(本物は観賞用として大事に保存……
着用するのは模造品で十分……)
ヘレンはにんまりと笑った。
(これで毎日、美咲様の支配を感じられる……)
深く深く幸せをかみしめながら、机の引き出しをそっと閉める音が、静かに部屋に響いた。
元はと言えば、ヘレンは美咲による精神支配を警戒していたのですが、
今では自ら進んで支配を深めようとしています。
姉のマーガレットはそんな妹を気にかけ、
静香と父はヘレンの異常性をすでに見抜いています。




