第29話 穏健派はいま
ある日の午後。
マーガレットと静香は自宅のリビングで、優雅にお茶を飲んでいた。
「静香、今日のケーキは美咲ちゃんのおすすめなのよ。とても美味しいわ」
「……はい」
静香は淡々と返しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば。リズ……おりずに改名して、美咲の弟子になりました」
マーガレットはティーカップを置き、目を輝かせた。
「まあ!さすがは美咲ちゃん。穏健派の切り札をあっさりと手ごまにするなんて」
静香は無表情のまま、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「……お母さま、リズは穏健派の……」
「リズは穏健派の切り札だけれど、元々はヘレンの傘下でしょう?妹は心配しているでしょうね」
マーガレットは少しだけ遠い目をした。
「でも、あの子なら大丈夫よ。美咲ちゃんの元でしっかり励むのです」
静香は無表情のまま、心の中でため息をついた。
(お母さま……美咲に何を……)
◆
その頃、美咲と紺と“おりず”の三人は、ゴムボートで島の周辺を探索していた。
美咲と紺はオールを漕ぎ、おりずはミエールくんミニの操縦担当だ。
「うんうん、バッチリ撮れてる!」
「撮れてるのじゃ!」
美咲と紺は上機嫌。
おりずも嬉しそうに頷いたが、その心には暗い影が差していた。
(おりずへの改名と美咲様への師事……独断で決めてしまったけれど……本当に良かったのだろうか)
その時、スマホが震えた。
それは、マーガレットからのメールだった。
これまで直接メールをもらったことなど一度もない。
"美咲ちゃんの元でしっかり励むのです。"
メッセージを読んだおりずは歓喜のあまり、思わず手に力が入った。
ミエールくんミニは急上昇し、空高く舞い上がり――
急降下して着水。
じゃっぽーん。
「ちょっとおりずさん!もっとそーっとじゃないと魚が逃げちゃうよ!」
「ご、ごめんなさい……!」
(マーガレットさんのことになると取り乱すんだから……)
美咲はすっかりしょぼくれたおりずを見つめ、心の中で決意した。
(おりずさんをもっと喜ばせたい……!)
◆
その翌日。
美咲は出演者特権で、おりずには内緒で“マーガレット直筆サイン入り・マーガレット・オン・ザ・ビーチ”を手に入れていた。
「ジャジャーン!」
美咲は胸を張って差し出した。
「サプライズプレゼント!これをおりずさんに。いつもがんばってくれるから、あたしからの感謝の気持ちだよ!」
「ほーーっ……ほーーっ……!」
おりずは感極まって悶絶、失神寸前だった。
そして、美咲への忠誠心が極限に達した瞬間だった。
◆
その頃、静まりきった部屋の中、ヘレンは机の上の紙を何度も読み返していた。
名前をおりずに変えました。
これからは美咲師匠の家で奉公します。
姉マーガレットからの便りはない。
リズは美咲という娘の毒牙にかかり、洗脳されてしまった。
切り札を失った今、穏健派に未来はない。
「姉は平和的な外交だと言っていたけれど……元より不可能だったのだわ……」
ヘレンは震える手で紙を握りしめた。
「人間側は……悪辣な美咲が頂点として君臨する恐ろしい勢力……」
コンコン、と静寂を打ち消すノックの音がした。
「ヘレン様、例のものをお持ちしました」
「よろしい。そこの一番良い場所に飾りなさい」
運ばれてきたのは、方々手を尽くしてやっと手に入れた
“マーガレット・オン・ザ・ビーチ”の一部を拡大したポートレートだった。
完成品は見つからなかった。
「おおお……なんと麗しいお姿……!」
部屋の中にいる全員が、マーガレットのポートレートの前にひれ伏した。
ヘレンもまた、屈託のない姉の笑顔に心を奪われていた。
(リズがおりずなら……私はおへれと命名されるのだろうか……)
「私がおへれと名乗ったらどう思いますか?」
「おへれ……?」
部屋の中にいた全員が唖然とした。
「もうよい。下がりなさい」
ヘレンは戦う前に、すでに美咲に屈していた。
「お姉さま……私を助けてください……」
「美咲様……おへれだけは……どうかご勘弁を……」
姉妹特権で交渉できないかと、ヘレンはポートレートを拝みながら必死に画策するのだった。
◆
時を同じくして。
過激派の残党一味は、巷で有名な“マーガレット・オン・ザ・ビーチ”の海賊版を作ろうと画策していた。
「タイトルは……マーガレット・オン・ザ・ピーチにしよう」
「ピーチ……?」
「果物の桃だ。ビーチより柔らかい印象だろう?」
「いや、そういう問題では……」
残党たちは真剣な顔で議論を続けていた。
マーガレット・オン・ザ・ピーチはおそらくお蔵入りと成るだろう。




