一話 変わり始めた日常
マンションのドアを開けた瞬間、
「いつもの生活の匂いがふっと鼻をくすぐった」──その“いつも通り”が、逆に胸の奥をざわつかせた。
(……落ち着け。まずは状況整理だ)
靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。
だが、体の奥では、さっきの白い空間の残滓がまだ脈打っている。
白。文字。宣告。
“世界は分断され、均されます”。
“次に太陽が真東から昇るとき、所属を分けます”。
そして、自分に与えられた“運命入力(Fate Enter)”。
電車内で他の乗客も同じ現象を見ていた。
つまり、幻覚ではない。
世界のほうが変わり始めている。
リビングの静けさが、逆に不気味だった。
冷蔵庫の低い駆動音すら、妙に大きく聞こえる。
壁掛け時計の秒針が、いつもより遅く進んでいるように感じた。
「……テレビだ」
リモコンを押すと、画面にはすでに赤い速報帯が走っていた。
《速報:全国で“白い空間”を見たという報告が相次ぐ》
心臓が跳ねる。
アナウンサーの声は震えていないが、言葉の選び方が明らかに“未知の事態”を示していた。
SNSの投稿が次々と映し出される。
《白い空間で文字見たんだが》
《世界が分断ってどういうこと?》
《春分の日に何か起きるってマジ?》
《加護ってスキル?ゲーム?》
(やっぱり……全国規模か)
喉が乾き、水を飲もうとした手が震えた。
タブレットを開き、検索ワードを次々と打ち込む。
【白い空間 文字 現象】
【太陽 真東 所属】
【加護 春分】
検索結果は爆発的に増えており、数時間前まで存在しなかった“白界”という単語が、すでにトレンドのトップにある。
まとめサイト、動画配信者の緊急配信、専門家のコメント。
そのどれもが断片的で、しかし共通点だけは揃っていた。
● 白い空間に飛ばされた
● 多言語で同じ内容の文字
● “所属”“加護”という単語
● 春分の日に何かが起きる
(……俺だけじゃない)
テレビでは大学教授が慎重に語っていた。
「集団幻覚の可能性もありますが、全国的かつ同時多発的である点から……未知の現象の可能性も」
教授の声は冷静だが、目の奥は揺れていた。
タブレットをスクロールしていると、ある投稿が目に刺さる。
《“権能”って出た人いる?》
息が止まった。
スレッドを開くと、匿名の書き込みが並ぶ。
《俺は“視界跳躍”》
《“接触爆破”ってなんだよ怖すぎ》
《“思考加速”って出たんだが……》
(……いた。権能をもらった人が)
胸の奥が冷たくなる。
自分だけが特別ではない。
だが、他にも“力を持つ者”がいるという事実は、安心ではなく不気味さを増幅させた。
(これ……世界はどうなるんだ?)
テレビでは街頭インタビューが流れていた。
「所属って、国が変わるってこと?」
「加護ってスキルみたいなもん?」
「春分の日って明後日ですよね……怖いです」
宮本は思わず音量を下げた。
情報が多すぎて、頭が追いつかない。
(所属……加護……権能……)
そして、あの言葉。
『世界は分断され、均されます』
均すとは、差をなくすこと。
だが、それは“平等”ではなく、“強制的な均一化”かもしれない。
(国? 人種? 能力? それとも……運命?)
考えれば考えるほど霧が濃くなる。
そのとき、タブレットに新しい通知が表示された。
《【速報】政府、緊急会見へ。白い空間現象について言及か》
「……政府まで動いたか」
テレビをつけ直すと、官邸前の中継映像。
アナウンサーが緊張した声で伝える。
「政府は本日午後九時より、今回の“白い空間現象”について緊急会見を行うと発表しました」
(これは……もう“事件”じゃない。“世界規模の変化”だ)
胸の奥で、再び“カチリ”と音がした気がした。
視界の端に、薄いウィンドウが浮かぶ。
【Fate Enter:入力待機中】
【対象:任意】
【効果:運命の一部を書き換える】
「……やめろ、今は」
宮本は目を閉じ、深呼吸した。
だがウィンドウは消えない。
(考えたら出てくるだけじゃなくて、勝手に出てくるしすぐに消えない......なんなんだ)
部屋の空気が重くなる。
テレビでは、先ほどの白い空間についての速報が繰り返し流れていた。
確認できた限り、現在地も国籍も関係なく、すべての人が同じ白い空間に入り、同じ意味の文字を見たという。
断定はできないが、集団催眠の可能性は低いらしい。
情報が不足しており、何が本当に起こりうるのか判断できないこと、そしてこの混乱に乗じた詐欺が増える恐れがあるため注意するよう呼びかけていた。
(……やっぱり、全国規模どころじゃない)
他に情報がないか探す。
検索サイトのトピックスには、目を疑うような記事がこの一時間で急増していた。
米国では刑務所の壁が突然破壊され、脱走者が多数発生。
中国では“巨人”の目撃情報。
フランスでは“空を飛ぶ人間”が撮影されたという投稿が拡散されている。
普段ならデマとして片付けられるような話が、今日は妙に現実味を帯びて見えた。
(……世界中で“異常”が起きている?)
『白い空間』『文字』で検索すると、SNSや動画サイトが大量にヒットした。
同じような文字の考察動画や投稿が並ぶ中、ひとつだけ気になる動画があった。
『twice white』
20代後半ほどに見えるアメリカの白人女性が、スケッチブックを手に英語で説明している動画だ。
和訳字幕をオンにして最初から見直す。
言いたいことは理解できた。
彼女は断言していた──白い空間の文字は“未来に必ず起こる出来事”だと。
分断とは、海に限定され、船や飛行機、ドローンやミサイルが他国の領海・領空に入れなくなること。
均されるとは、人口に対して食料や資源が不足する国には、それぞれが得られる“洞窟”が地上に発生すること。
試練とは、同じ大地を踏む人類が滅びず、次の段階へ進めるかどうかを試されること。
そして“平和への道しるべ”。
領土問題の係争地はすべて無人となり、誰も侵入も上陸もできなくなる。
双方が和解した場合のみ領土として認められ、行き来が可能になる。
新たな侵略を始めた場合、その指示者および支持した者は加護を失い、三日後に命を落とす。
明後日の春分に、これらすべてが起こる──と。
さらに“所属”についても語られていた。
どの国に所属するかを決められる現象が起こる。
米国では、南米からの移民がそれぞれの国へ転送される。
国籍を持つ者は、陸路でつながっている場合に限り戻ることができる。
(……わかる。言っていることはわかるが……複雑すぎる)
動画を一時停止し、深く息を吐く。
もしこの通りなら、日本は──
海に囲まれ、食料も資源も自給できない国は──
ほぼすべてが不足する可能性が高い。
(本当に……こんなことが起こるのか?)
胸の奥がじわりと冷えていく。
白い空間で見た文字が、頭の裏側で再び浮かび上がった気がした。
外の車の音が遠く、まるで別世界の出来事のようだ。
──そのとき。
マンションの外から、救急車のサイレンが響いた。
普段なら気にも留めない音が、今日は胸を締めつける。
続いて、廊下を走る足音。
誰かが慌てて階段を降りていく。
(まさか……白い空間の影響か?)
テレビの速報が更新される。
《全国で軽度のパニック状態が発生》
《“加護”を名乗る人物が駅で騒動》
《SNSで“所属の予兆”とされる現象が拡散》
(……もう始まってるのか?)
胸がざわつく。
春分の日まで、あと二日。
政府会見まで、あと一時間。
世界が変わる前夜のような静けさが、部屋を満たしていた。
その静けさの中で、Fate Enter のウィンドウだけが、微かに脈動していた。
まるで──
“お前の番だ”
と告げるように。




