十一話 春分から三日ーー日常の終わりと、新たな選択
春分から三日目。
振替休日が終わり、カレンダー上では“普通の平日”が戻ってきた。
だが、街の空気は明らかに普通ではなかった。
黒い渦は全国で増え続けている。
それでも、昨日までのようなモンスターの溢れ出しは落ち着き、
大阪では自衛隊と加護持ちの協力で“対応可能”という報道が流れていた。
(……とはいえ、完全に安全ってわけじゃないよな)
スーツに袖を通し、ネクタイを締めた。
会社からは「出社不要」の連絡は来ていない。
つまり、行くしかない。
(こんな状況でも会社は動く……か)
マンションを出ると、通勤客はいつもより少なかった。
だが、電車は動いている。
駅のホームには、緊張した顔のサラリーマンや学生が並んでいた。
電車が到着し、乗り込む。
車内は静かで、誰もがスマホでニュースを見ている。
《大阪市内の渦は現在32箇所。封鎖は継続中》
《加護持ちの協力で、モンスターの溢れ出しは抑制》
《政府、渦対策本部を設置》
(……世界は変わったのに、電車は動いて、会社はある。
この“日常”がどれだけ続くんだろうな)
会社の最寄り駅に着き、オフィスビルへ向かう。
エントランスには、いつも通りの受付スタッフがいた。
エレベーターで自分のフロアへ上がり、経理部のフロアに入る。
「宮本さん、おはようございます」
「おはようございます」
上司や同僚たちの顔が揃っている。
誰も転送されていない。
誰も渦に巻き込まれていない。
(……本当に、よかった)
席に着き、パソコンを立ち上げる。
だが、業務を始めてすぐに、内線が鳴った。
「宮本くん、社長室まで来てくれるか」
社長からの呼び出しだった。
(……嫌な予感しかしない)
ノックして入ると、社長は深刻な表情で資料を見つめていた。
「来てくれてありがとう。座ってくれ」
宮本は静かに椅子に座る。
社長は深く息を吐き、言った。
「……輸入が止まった」
「……やはり、ですか」
「うちの製品は国産もあるが、材料の三割は海外からだ。
その物流が、完全にストップした。
船も飛行機も、乗員が転送されてしまってな」
(所属転送……ここにも影響が出たか)
社長は続けた。
「材料の高騰は避けられない。
いや、それ以前に“入ってこない”可能性が高い。
だから……業務を縮小する」
黙って聞くしかなかった。
「経理部は部長がいるし、縮小後の業務は回せる。
そこでだ……」
社長は資料を閉じ、俺を見た。
「退職金を上乗せする。
若い順に、退職者を募集している。
宮本くん……君にも声をかけたい」
静かな言葉だった。
だが、その重さは胸に沈んだ。
(……ついに来たか)
会社は悪くない。
社長も悪くない。
世界が変わったのだ。
ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました。受けます」
社長は目を閉じ、深く頷いた。
「ありがとう。
君のような人材を失うのは痛いが……
今の状況では、会社を守るために必要な判断だ」
「こちらこそ、お世話になりました」
「人事には応じてくれた場合の手配は指示している、寄って確認してほしい」
握手を交わし、社長室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥で何かが“カチリ”と音を立てた気がした。
(……これで、会社員としての俺は終わりか)
だが、不思議と後悔はなかった。
人事部に寄り詳細を確認する。
有給残は使い切るまで在籍扱い、退職金は11年しか在籍していないが役職もあり本来の倍の400万という扱いとなった。
(すぐに生活が干上がることもないか)
席に戻り、必要な書類をまとめる。
部下たちには後で正式に伝えることになる。
(……俺は、これからどうする?)
答えは、すでに決まっていた。
(渦を攻略する。
運命入力の力を、もっと理解する。
そして……生き残る)
そのためには――
(和田佐那……彼女の力が必要だ)
虚実看破。
“視る”ことができる希少な能力。
昼休み。スマホを取り出し、名刺に書かれた番号を押した。
コール音が鳴る。
『はい、和田です』
「宮本です。……話がしたい。
ダンジョン攻略について」
一瞬の沈黙。
だが、すぐに彼女は笑った声で答えた。
『やっとその気になったのね。
いいわ、会いましょう。
あなたには、まだ“見えていないもの”がたくさんある』
「場所は?」
『校庭の渦の近く。仕事終わりに連絡して』
「分かった」
通話を切る。
(……動き出すか)
休憩終わり、上司達に退職の経緯を話す。
上司にはいろいろ助けてもらった恩もある。大卒で入社してきた子の指導もした。
辞めると自分で決めたがかなり後ろ髪を引かれている。
「社長から話は聞いている。自分の意志で辞めると決めたのか?今ならまだ残れる可能性もあるぞ」
「自分で決めました。会社に先がないとは思いません。決めた理由は、自宅の近くに渦ができて、モンスターが溢れ出たんです。私は加護持ちではないですが協力して倒すことができました。いい年ではありますが、ダンジョンに挑戦してみようと考えています」
「……ダンジョンか……平気な顔をしているが、本心では非日常が押し寄せすぎて恐怖しか感じない。仕事で気を紛らわせている」
「はい、わかります。私もモンスターを前にして体が動きませんでした。ご家族が家で待たれているのでしたら不安ですよね」
「ああ、本当にその通りだよ」
横にいた同僚も声をかけてくれた。
「私も辞めることになったんです。宮本さんに一から教えてもらって慣れてきたところだったんですけど、親が心配して実家に帰ってこいと言われまして」
「そうなのか、大阪市内は特に渦が多いからご両親も心配だろう。早く帰って安心してもらいなさい」
「部長、短い間でしたけどありがとうございました。宮本さんもありがとうございました」
「乙部さん、こちらこそ一緒に仕事できてよかったよ、宮本君定時まででいいから引き継ぎ資料を頼む。明日からは有休で出勤しなくていいからな」
そこから定時まで二人で引き継ぎ資料を作成しチェックし合う。
定時過ぎ「最後にもう一度だけみんなに挨拶してから帰ろうか」
「はい、わかりました。なんか寂しいですね、明日からはここに居場所がなくなるのは」
「ああ、そうだな」
二人で挨拶に回る。退職の実感が急に押し寄せてきた。
部署のドア付近で一礼して廊下へ出る。エレベーターに乗ってエントランスを出る。二人とも無言のままだった。
「最後にですけど、約二年間ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
「それでは、お元気で」「乙部もな、またな」「はい、またどこかで会えたら」
彼女と別れいつもの地下鉄へ向かう。寂しい気持ちを押し込めるようにスーツの上着を脱ぎ、鞄にしまう。
もう、会社員としての自分は終わった。
これからは――
運命を入力し、渦を攻略する側の人間になる。
俺は静かに会社を後にした。
外の空は、春とは思えないほど重く曇っていた。
まるで、これから始まる“新しい世界”を暗示するように。




